第09話 プロローグ (1)


 □■■■


 何かを本気で信じると僕たちは笑われてしまう。

 何も信じていないふりをしたって見抜かれる。

 だから僕たちは何も信じない。


 朝の食卓の場面から始まる物語は多い。この物語もそうだ。

 いくつもの朝のうちの、どれかひとつの朝。

 食卓で母が新聞を読み、キッチンで父がスクランブルエッグを焼いている。

 なんだか唐突な光景。昨日までは、父と母の役割は逆だったはずだ。


 僕は大昔に観た映画のことを思い出す。男の子と女の子の人格が入れ替わってしまう映画。もつれあって石段を転げ落ちた衝撃で、ふたりの中身が入れ替わってしまうのだ。

 恐ろしいストーリーだと思う。

 人の肉体と魂は、どれくらいの強固さで結びついているのだろう。

 どれくらいの衝撃で入れ替わってしまうのだろう。


 たとえば大きな地震があったりした場合、僕たちの魂はいったん肉体から放り出され、空中でごちゃごちゃに入れ替わってから、元の肉体とはべつの肉体に戻されているのかもしれない。

 誰も気づいていないだけで。

 人の肉体と魂は、そうやって定期的にシャッフルされているのだとしたら。僕たちの会話がいつまで経っても噛み合わないのって、そういう理由なのだとしたら。


 これから語られるのは、人格の入れ替わりに関する物語ではない。

 父と母のあいだに本当は何があったのかについても僕は知らない。

 しかも、この答えは永遠にわからなくなった。

 通学途中で僕の人生が終焉を迎えたからだ。


 遅刻しかけていた僕は急ぎ足で角を曲がり、出会い頭に見知らぬ女の子と正面衝突した。女の子は全力疾走だった。ぶつかる直前に一瞬見たかぎりでは、制服姿で、食パンをくわえていた。

 そんな馬鹿な。

 と思った。

 食パンをくわえて全力疾走で通学する女子高生だなんて。

 そんな馬鹿な。

 二度思った。

 その次によぎったのは、ぶつかった衝撃があまりに強すぎることについて。

 お互いの魂が入れ替わってしまう!

 と恐怖したのだ。

 それだったらまだ良かった。

 結果はもっと残酷だった。

 僕の魂と入れ替わったのは、女の子がくわえていた食パンの魂だったのだ。

 僕の肉体には食パンの魂が宿り、

 食パンには僕の魂が宿った。

 心が食パンになってしまった僕の肉体は、その後68年の人生をとくに何の問題もなく全うした。

 いっぽう、体が食パンになってしまった僕(すなわちこれを語っている僕の意識)は、ただの食パンとして、その場で女の子にぺろりと平らげられてしまった。


 お・し・ま・い


 1・人は性格が食パンでも生きていける

 2・可愛い女の子が一度地面に落ちた食パンを躊躇なく食べてしまうことだってある


 ふたつ同時に証明終了。

 僕は死んだ。

 女の子に食べられて。

 悪くない終わり方だと思う。ハッピーエンドと言っても良い。

 それから幾度かの転生を経て再び高校生となった僕は、またしても学校に遅刻しそうになっている。

 ご存じだろうか。人が学校や会社に遅刻してしまうメカニズムは、じつはいまだに解明されていない。

 といっても、何か原因がある場合、たとえば寝坊であるとか、忘れ物を取りに帰ったであるとか、産気づいた見知らぬ女性に付き添って病院へ行ったであるとか、そういった正当な理由のあるものは、僕に言わせれば本物の遅刻ではない。

 遅刻に似た別の何か。カニとカニかまぼこぐらい別の何かだ。

 どっちもおいしいけど。

 本物の遅刻というのは、

「いつも通りの時間に起きて、いつも通りの時間に出発し、何の事件も起こらず、信号がすべて青だったりするのに、なぜかいつも通りの時間に到着できない」

 というような事象を指す。

 ねーよそんなん。という向きもあるだろう。あるよふつうに。と答えるしかない。

 あるよふつうに。年に7回から12回ぐらいある。

 昨日は8時に学校に着いたのだから、今日も8時に着くはずだ。と油断していると、何のアクシデントもないのに8時20分に着いたりする。8時34分のときもある。9時8分のときもある。15時27分……なんてことはさすがにない。さすがにそれは何らかの原因がある。つまり本物の遅刻ではない。

 このように、時間は安物の時計みたいに勝手に狂ってしまうものなのだ。

 僕が毎日少しずつ失っている時間はどこへいくのだろう。

 あとでまとめて返してほしい。

 僕は遅刻はしたくない。

 学校へと急ぐ。早歩きで。

 空は白けた感じに曇っていた。数匹の天使が高いところを旋回している。

 時刻を確認すると、午前8時52分。順調に遅れている。

 普段通りであれば1時限目の授業が始まっている頃。

 水曜日なので古文だ。

 古文の吉野淳三先生は、まだ還暦前のはずなのに102歳ぐらいに見える爺さんだ。そっとタイミングを見計らって教室に侵入するのはたやすい。出欠も授業の最後にしかとらない。したがって今日の僕の遅刻は、遅刻あつかいにならない可能性が高い。

 普段通りであれば。

 今日は古文の授業は行われない。

 なにせ今日は運動会なのだ。

 うんどうかい。

 間抜けな響き。

 僕は遅刻しそうなのに、一歩も走らず学校に向かう。

 またあの女の子が僕を食べてくれないかな、とか考えている。

 あれからずっと。



 ■□■■



 運動会。

 正式にはもっと長くてかしこまった名前だったと思うけど、誰もそんな呼び方はしない。

 運動会は悲しいくらいに運動会だ。

 うちの学校は体育祭という言い方はしない。

 体育祭というのもまた間抜けな名称だ。体育、プラス、祭り。

 似た構造の言葉を考えるとすれば、「ハンバーグカレー」じゃないかな。

 リレーだとか。騎馬戦だとか。大玉転がしだとか。棒倒しだとか……。

 まともな神経ではやってられない。

 そもそも僕は走ることが大嫌いだ。

 走らなくて良いのだったら一生走りたくないくらい。

「走るの遅いんだろ?」と思われそうだけど、べつに遅くない。

 速くもない。

 たとえば6人で走ったら僕はいつも3着か4着だ。運が良くて2着。1着とか6着には絶対にならない。

 走るのが苦手だから走りたくないんじゃない。

 僕の走っている姿を誰にも見られたくないのだ。

 僕の走っている姿は、ものすごく変なんじゃないかと思うからだ。

【変なんじゃないか?】が、走る僕にまとわりついて離れない。

 気持ち悪い表情を浮かべているんじゃないか。

 がに股なんじゃないか。

 内股なんじゃないか。

 腕の振り方が世にも奇妙なんじゃないか。

 走るフォームを笑われたことは、じつは一度もない。指摘されたこともない。だから完全な思い過ごしだと思う。頭ではわかっている。

 それなのに、走り出すとすぐに【変なんじゃないか?】が影みたいに僕にぴったりついてくる。僕を追い越すときもある。【変なんじゃないか?】の後ろ姿。そんなもの僕は追いたくない。

 だから僕は「運動会に遅刻しそう」という程度の理由では走らない。

 といって、運動会を欠席する覚悟もない。

 ゆっくり歩いて学校に向かう。そして運動会に遅刻する。自分の出番には走る。強烈な【変なんじゃないか?】にさいなまれる。走り終えたあと、視力をなくすくらいに落ち込む。

 きっとこんなことを繰り返して僕は大人になり、死んでいくのだ。何の進歩もないままに。


 通学路が終わりかけている。

 曲がり角にさしかかった。

 いつかの朝、食パン女子にぶつかった場所。

 今思うと夢みたいな話だけど、それはいつかの僕に、現実に起こったことなのだ。


 緊張しながら角を曲がりきる。

 視界に見知らぬ女の子が出現した。


 といっても、5メートルぐらい先。しかも後ろ姿だ。おそらく食パンもくわえていないだろう。

 女の子は僕の学校の制服を着ている。

 すなわち、彼女も遅刻している。


 女の子が赤信号で止まったので追いついた。少し離れて横に並ぶ。可愛い子なんじゃないか、という予感があった。ちらりと横顔を見る。ほぼ同時に彼女も首だけをこちらに動かした。長い髪が頬にかかる。

 可愛い。

 とか思うまもなく彼女の口が開かれた。

「これからどうする?」

 これからどうする?

「運動会のことですか?」と僕はとっさに返す。敬語で。女の子のネクタイがえんじ色なので上級生とわかったのだ。先輩だ。

「うんどうかい?」と先輩は怪訝そうに目を細めた。「運動をする会のほう?」

「運動をする会のほうです」

 ヘンな人だ。とわかったので僕は目をそらして正面を見た。早く信号青になれ、と思う。運動しないほうの運動会って何だ?

 どきどきしてきた。

 先輩はお構いなしに話し続ける。

「このまま、その、運動会とやらに出る? それとも出ない? それとも私と……」そこまで言って、先輩は急に何かを思いついたように言い直した。「おかえりなさい、あなた。お風呂にする? 私にする? それとも、ご・は・ん?」

 ものすごくお腹が減っている人なのだろうか。

 先輩がにっこり満面の笑みを浮かべているのを左頬のあたりに感じる。

 無視することにする。


「力が、欲しいか……?」


 信じられないくらいおかしなことを言い出した。冷や汗が出てくる。全力で走って学校に向かい、遅れてすみませんでしたと気持ちよく頭を下げ、運動会に出席し、力いっぱい運動に取り組もう。

 そんな健全な精神が急速に僕の中に育ちはじめる。

「冗談だよ」と急に力の抜けた先輩の声。とても信頼できる人間のように錯覚させるトーン。だけど僕はそっちを見ない。これは詐欺師のやり方だ。見たが最後、

「お前を食べるためだよ!」とか「お前も蝋人形にしてやろうか!」とか「私このパイ嫌いなのよね」とか言われるに決まっているのだ。


「占いって信じる?」


 ほらきた。

 変なこと言ってる。僕は身を固くする。沈黙を大切に抱え込む。祖父から譲り受けた年代物の腕時計みたいに、大切に、大切に。

 唯一の問題があるとすれば、僕は祖父からそんなものは譲り受けていないということだ。

「私、占いができるんだよ。けっこう当たるって評判なんだ。そうだ、きみを占ってあげようか」

 無視。

「まずはきみの心の中をのぞいてみよう。うーん……うん、うん。見えてきた見えてきた……なんだこれ? ヤマタノオロチ? 違った、都こんぶだ」

 無視無視。

「どうやらきみは、今日の運動会には参加したくないと考えているみたいだね」

 無視無視無視。

「といって、きみは運動が苦手なわけじゃない。そうだね、6人で走った場合、だいたい3着か4着。幸運が味方して2着になったこともある。でも間違っても1着とか6着にはならない。そんなところだね」

 脈拍が上がる。

「それなのに、きみは走ることに苦手意識がある。恐怖すら感じている。自分の走る姿を誰にも見られたくないと思っている。どうしてだろうね。その理由までは、私にはわからないな」

 僕は思わず先輩のほうを見てしまう。

 何か言おうとしたけれど、口がぱくぱく動くだけで音にならない。

 僕は僕の秘密を誰かに言い当ててほしかったのかもしれない。

 今までずっと。

 そんなことまで思う。

 ようやく声になった僕の「どうして」という言葉は、おそらくこの世の誰の耳にも届かずに空中で分解した。

「お前を食べるためだよ」

 と先輩は微笑む。どこかで鈍い墜落音。おそらく天使が撃たれた。

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