第08話 動物園

 ほんものの動物たちがひしめく動物園。

 前回ここに来たのは父と母がまだ家にいた頃だから、3年以上も前のことだ。


 動物園は入り組んだ迷路のような造りだ。ファンタジー小説の地下牢のように。通路の両側が無機質なガラス張りの個室になっていて、さまざまな動物が、つがいで、原則一組ずつ公開されていた。

 それが延々と続く。

 人影はまばらだ。

 僕たちは順路のマークに沿って歩き、ガラスの向こうに佇むキリンや象をながめてまわった。

 こういった動物たちのほとんどは、映像や書物の中か、この動物園にしか存在しない。僕のように猫を飼っている人間も今では珍しいのだ。伝説の方舟のようなものがあるとしたら、この動物園は丸ごと収められるに違いない。

 園内のシアターでは、動物たちが自然のなかで暮らしていた時代の映像を観ることができた。ネットにいくらでも転がっているような内容で、新鮮味はなく。音量と画面の大きさ以外に価値はない。

 僕と理紅と僕の猫は、暗い館内の大きなスクリーンでその映像を観た。

 テナガザルが、ジンベイザメが、コウテイペンギンが、オオハクチョウが、プレーリードッグが、ブチハイエナが、ホオジロムササビが、ミズラモグラが、アフリカライオンが、自然のなかで生きている。

 かつて人間や動物たちは、こうして厳しい自然のなかで生きていた。

 そのことを忘れてしまってはいけないのだろうか?


「この時代の人間は生きてて楽しかったのかな」

 隣に座っている理紅が小声で言った。独りごとかもしれないと思ったけど、一応返事をする。

「古いフィクションの中の人間たちは、いまの人間、つまり僕たちよりも感情の起伏が確実に大きいとは思う。それが『楽しい』につながるかどうかは、正直言ってわからないけど」

「昔って、壁や天井に映し出されたものじゃなくって、本物の青い空がどこまでも広がっていたんだよね。それってどんな気分だったと思う?」

「僕たちはじつは大きな球体の上に住んでいて、天井の向こうには空があって、その向こうにはたくさんの星があって……という話を、ちょっとまえに霧川にしたんだけど、信じてもらえなかったよ」

「その話、私も実感としてはないな」

「僕だってないよ。でも、そんな嘘を教えられる理由もない。外の世界は存在した。昔の映画や小説や、その他もろもろの膨大な創作を観ればわかる。僕たちを騙すためだけに、あんなものつくれやしないよ」

「宇宙から宇宙人がやってきて、地球の軍隊と戦争をしたりするやつね。ほのぼのするよね。ああいうを観ると、昔の人たちにとっても、宇宙ってファンタジーだったんじゃないかと思うときがあるけどな」

「時代によるんじゃない? 人類が地下に逃げ込む直前の時代には、宇宙の研究もそれなりに進んでいたらしいけどね」


 僕たちはシアターを出た。

 休憩スペースでサンドイッチを食べることにする。

 食事の準備をしながら、理紅はまださっきの会話を続けている。

「逆にいま私たちが住んでいる場所ってさ、昔の人から見たら、物語の中にしか存在しないような世界なんだよね?」

「うん。とても省略された世界だと思う」

 そのことを僕以外の人間が指摘するところを初めて見たので、少し驚く。

 と同時に「やっぱり」とも思う。

 やっぱり、有居理紅はこの世界に疑念を持っている。

 僕と同じように。

「このチキンを作っている区画とか」サンドイッチを口の中でもごもごしながら理紅は言う。「スポーツの試合を行う区画、ゴミを処理する区画、植物を育てている区画、人間が住む区画、人間を冷凍して安置する区画……というふうに、すべてがきれいに区切られているなんて、昔の人には想像もつかないだろうね」

「昔だって同じだよ。髪を切る区画でサッカーをする人はいなかった。ただ、すべての機能をこれほど狭い場所に押し込めて、大きな破綻をきたしていないというのが珍しいだけで」

「でも昔の世界と比べると、私たちの世界って、色々なものをたくさん、ばっさり、簡略化しているんだよね?」

「いちばん大きな省略は人間の感情だと思う。昔の人間のままだったら、何の疑問も反抗心も持たずに、こんなに狭いところで長い時間生活することはできなかったはずだよ」

「誰かがコントロールしているのかな。私たちの感情を」

「薬とか何かで?」

「遺伝子操作とかね。人間じたいを作り変えているとか」

「それこそフィクションの中ではありがちな話だけど」

「でもそれだったら、かつて地上で作られた映画とか本とか、昔の資料を残しておいて、自由に閲覧できるようにしているのはおかしいよね。だって、私たち民衆が、世界の仕組みに疑いを持つきっかけになるかもしれないでしょ?」

「そういう実験だったりして。箱庭のような世界に僕たちを放り込んで観察している、僕たちよりもっと大きな存在があるとか。ああ、こういうストーリーもどこかで見たな」

「それか、この世界は誰かが見ている夢なのかもしれない。私たちは、誰かの夢の登場人物にすぎないの。これもどこかにありそうだけど」

「目が醒めたら、忘れられてしまうような? たしかに、そんな結末もいくつか見たことがある。どれもあまりできの良いものじゃなかったけど……」

 理紅が「夢」という言葉を発したことに僕は気づいていた。

 やっぱり、理紅も眠っているあいだに夢を見るんだ。

 僕以外にも夢を見ることができる人がいたなんて……。

「あっ、こんなのはどう?」理紅が弾んだ声をあげる。「私たちと、映像の中の昔の人間たちとは、似てるけど、じつは元からぜんぜん別の種族なの」

「あ、おもしろそう」

「そのあとが思いつかないんだけど」

「ここはゲームの中の世界で、僕たちは誰かがプレイしているゲームのキャラクターだとか」

「それはありがちじゃない?」


 僕たちはよく喋り、よく食べた。議論の内容には実がなかったけれど、サンドイッチのチキンは食べごたえがあった。動物園の中で動物の肉を食べるというのも、地上時代のような野蛮さが感じられて楽しい。

 周囲の白い壁には、サバンナ、深海、北極といった、とりとめもない映像が、とりとめもなく映し出されている。

 僕たちにとっては、どれもこれもファンタジーだ。


「ここに猫を捨てるのは、やめにしよう」と理紅が宣言した。「とても生きていけそうにない」

「最初からそう言ってるでしょ」

「私、動物園に来るの初めてだったんだよ」理紅は少し微笑む。「こんな寂しいところだとは知らなかった」

「もう帰る?」

「そうだな。だいたい、逃げるといっても何から逃げればいいのか」

「今さら?」僕は少し笑ってしまう。「まあ、誰かに追ってきてもらわないと、逃げようもないよね」

「誰が追いかけてくるんだろう」

「世界が終わるところを僕たちに見られたら困る人たち……?」

 つぶやいた瞬間、僕の頭の中に、はっきりと閃くものがあった。

 理紅もそうだったはずだ。僕と同じ表情をしていたから。

 僕たちは何かに気づいた。

 何に?

 気づいてはいけないものに。



『……死に喘ぐ女のあたらしき血の精緻であるがゆえに衰弱しきった盲目のシステムがあらかじめ埋め込まれた奇跡・悲愴・浮遊・石榴・背骨それぞれの欠損または神経の摩擦と理想的な荒廃に色とりどりの簡素さから不屈の庭に唾棄すべき虚脱であり察知する凡庸の王を唱えよ履歴の誤りと互いの……』



 気がつくと僕たちは知らない場所に立っていた。

 どこまでも続く平面。地面には砂利がごろごろしている。

 砂利なんて滅多に見ない。踏みしめた感触が新鮮だ。

 遠くのほうは靄がかかっているようでよくわからない。

 全体に灰色で、とても寒々しい景色。

 目の前には長方形の鉄のかたまりが突き立ててある。

 6歳児を内部にぴったり収納できそうな程度の大きさだ。

 その鉄のかたまりのいちばん上には、ちょっとしたレバーが取り付けられている。

「何か聞こえなかった?」理紅が聞く。「地獄の底から鳴り響くみたいな声」

「じごくのそこ?」

 言葉の響きが面白くて僕は繰り返してしまう。

「そう。なにか呪文みたいなものを、もの凄い早口で聞かされた気がする。口がちぎれちゃうくらいの早口だった。難しくて意味のわからない言葉を延々と……聞こえなかった?」

「いや、聞こえたよ」僕は周囲を見渡しながら答える。「だいたい理解した」

「うそ。なんて言ってたの、あれ」

「スイッチについての説明だった」

「スイッチ?」

「このレバーのことだよ」

 僕は目の前の鉄のかたまりを指さして言う。

「レバー? レバーなの、これ? というか……それより……ここはどこ?」

「やっとそれを言った」僕は微笑む。「そうだね……ここは狭間というか……僕たちの世界とべつの世界を仕切るカーテンがあるとしたら、ここはたぶん、カーテンレールなんだ」

「わかったような、わからないような」

「わかってるはずだよ。君の体が理解していないだけ。知識を完全に浸透させようとするとき、肉体が最後の障壁になるんだ」

「ますますわからない」

「とにかく、レバーを入れるね?」

「それには賛成。なんだかわからないけど私さっきから、あのレバーを押したくて押したくてたまらないの」

「僕も」

 きっと本能的に。

 僕はレバーの上に手を置いた。その上に理紅が手を重ねる。

 僕たちはレバーを倒す。

 倒しきると、何か小気味よい感触があった。

 それから唐突に、ブチッ、と意識が肉体から切断される。


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