第07話 冒険の朝
日曜日の朝。理紅との約束の日だ。
僕は早起きをしてサンドイッチを作った。
このあと二人で、世界を支配するシステムから逃亡するのだ。
きっと僕たちは物語の登場人物のように考えが浅い。
5時ぴったりにチャイムが鳴る。
ドアを開けると有居理紅が立っていた。
「おはよう」理紅は奥歯まではっきり見えるような大あくびをする。「5時って言ったのどっちだっけ? ナノだよね?」
「君だよ」
「そう? 何でもっと遅い時間にしなかったかなあ」
理紅は光沢のある水色の髪を右手でくしゃくしゃにした。黒いパーカーにデニムのミニスカート。鞄ひとつ持ってなくて、とても逃亡者といったふうには見えない。ポケットに両手を突っ込んだまま、僕の手もとをのぞき込む。
「朝ご飯を作っていたの?」
「それと、お弁当」
「今日はなんとなく女の子っぽいな、きみ」そう言って理紅は少年っぽく笑う。「でもおいしそう。全部サンドイッチ?」
「そう。これがいま食べるぶん」
「私のパンは耳を落とすように」
テーブルを挟んで食事をしながら、僕たちは運命からの逃避についての会議を開く。
「何を持って行く?」理紅は友達の家にでも行くみたいに言う。
「何をって……きみは何も持ってないじゃないか」
「うちには役に立つようなものがないからね」
「僕の家にだってないよ」
「猫、飼ってるんだ?」
観葉植物の鉢から尻尾をわずかばかり出している猫を、理紅はめざとく発見する。
「何ていう名前? ベーコン?」
「そんなわけないでしょ」
「わかった、肉汁だ」
「怖いことばっかり言わないでよ。この猫に名前はないんだ」
「名無し?」理紅は少し怪訝そうな顔をした。「じゃあ何て呼んでるの?」
「猫」
「人間」
「え?」
「って呼ぶようなものだよ。君のことを」
「そんな冷たいニュアンスじゃないよ」
「いーや、可哀想だ。私が名前を付けても良い?」
「名前は付けないんだってば」
「うーん。双子、っていう名前はどう?」
「1匹しかいないよ」
「もう1匹をさがしてるっていうストーリーを含んでるんだよ。名前に」
「名前もいらないし、ストーリーもいらない」
「味気ないなあ」
「味もいらない」
「淡泊なやつ。にしても、猫を飼ってるだなんて、普段から猫をかぶっている君らしい選択だな」
「猫をかぶってなんかいないよ。どっちかというと君のほうだろ、それ」
「まあ、どっちもどっちか」理紅はにやりと笑う。「逃避行の話をしよう。そうそう、何を持って行くか、だったね」
「保存食とか、かなあ」
「彼女はどうするの」と理紅が言う。
「彼女って?」僕は少しどきっとする。
「猫」
「ああ……彼女じゃなくて彼だよ。そうだね、彼もつれていくことになる」
「覚悟が足りないな」
「覚悟?」
「そう。覚悟だ」理紅はティーカップを口に当てたまま僕を睨む。「私たちは世界を運用するシステムから逃げ切ろうとしてるんだよ。そんな過酷な旅に猫を連れて行くって? その猫だって可哀想だと思わない?」
「ここに置いてけぼりにするほうが可哀想でしょ。餌も食べられないし、飢え死にするしかない」
「そうだ! これから動物園に行こう」
理紅が唐突に提案する。
「動物園?」
「そこに猫を捨てるんだ」
「いやだ」
「動物園に捨てれば殺されることはないよ。凍りつくまで、面倒を見てくれる」
「そうは思えない」
「あのね」理紅は言い含めるような口調になる。「君は私と約束したんだよ。世界の最後を見届けるって。猫なんて、そんなものが近くにいたら世界は破滅しないよ。猫にはそういう力がある。どんな状況に陥っても自分ひとりだけ、しれっと生き残るようなさ。そんなずる賢い目をしてる。断言するよ。猫の近くにいたら、世界は滅ばない」
僕は不覚にも少し感動してしまった。こんなにも乱暴な言い分を堂々と振り回せる人間が存在していることに。そのせいで「猫にそんな力はないよ……」とか弱々しい言葉を返すことしかできなかった。
僕たちは結局、かごに猫を入れて動物園に出かけることになった。
猫をそこに捨てるつもりは、僕にはさらさらなかったけれど。
理紅は軽く踊るような足取りで歩いた。そんな歩き方の人間を見たことがなかったから、僕は少し見とれてしまう。どことなく音楽的なものを感じさせる歩き方だ。
動物園は僕たちの住んでいる場所からはすこし離れた区画にある。
通路を長々と歩いて、エレベータでやや深い階層に降りた。
そこからまた歩く。
照明の切れているブロックがまた増えている。
世界は着実に崩壊に向かっているのだ。
ほとんど無言で僕たちは歩いた。
無言というか、理紅はふらふら歩きながら、ふにゃふにゃした鼻歌を歌っている。
理紅の歩くリズムが変だから、僕は何度も足がもつれそうになった。
大きな駅で電車に乗っても、理紅の鼻歌は止まない。
乗客が僕たちをちらちら見ながら、ひそひそ話をしている。理紅が鼻歌を歌っているせいだろう……と最初は考えたけど、それは思い違いだと途中で気づいた。
有居理紅の顔と名前を知らない人間なんていないのだ。
この世界で最も衝撃的なエピソードにまみれた有名人なのだから。
すっかり忘れていた。
電車は走り続け、いくつもの駅を通過する。
僕たちを動物園に運んでいる。
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