第06話 考えてはいけないこと

 有居理紅と不思議な約束をしたあと、僕の心に何らかの変化があったかというと、やっぱり何もなかった。


 家に帰ると、僕は飼い猫のために缶詰を開け、観葉植物に水をやった。宿題を片づけ、模型を少しだけさわり、眠くなったので、ソファでうとうとする。

 しばらくすると玄関のチャイムが鳴った。

 霧川だった。

「おじゃまします」霧川は手提げとは別に小さなバスケットを持っていた。「勉強を教えてもらおうと思って」

「だったら帰り道で別れる必要はなかったのに」

「理紅も一緒に来そうだったから、わざわざいったん帰ったの。高度な戦術でしょ」

「理紅を気に入ったのかと思ってた」

「気に入ってるよ。仲良くなれそう。でも、それとこれとは話が別だよ。はい、おみやげ」

 霧川はバスケットを僕に渡す。サンドイッチが詰まっている。

「僕は晩ご飯は食べないんだ」

「知ってる。でも私が作ったんだよ。おいしいよ。あ、ディディエ、こんばんは」

 霧川はしゃがみこんで猫の喉を撫でた。猫は甘えた声を出す。

 ディディエというのは霧川が勝手につけた名前だ。僕は猫に名前をつけていない。

「いいな、ひとり暮らしって」僕の家に来ると必ず言うおきまりのセリフを、霧川はまた言った。「いいな、お金の心配もないなんて」

「いずれ返さなきゃいけないお金だよ。あ、でもみんな凍るから返さなくても良いのかな」

 サンドイッチを食べながら、霧川に数学を教える。10分もすると彼女が飽きてきたのがわかった。でも気づかないふりをする。

「ナノ、つかれた」

 45分後、ついに霧川が根をあげた。彼女にしては頑張ったほうだと思う。

「紅茶でも飲む?」

「あとでね」

 霧川が右手を僕の首に回してきた。そのまま顔を近づけて、キスをする。霧川の左手は僕の後頭部の髪を握りしめていた。それは霧川の癖だ。

「はあ……」

 唇を離して、うっとりした目つきで霧川は僕を見る。甘い匂いが僕のなかに残った。彼女の左手は、まだ僕の髪をひと束つかんだままだ。

「今日は男の子なの、女の子なの」と霧川が言う。

「わからない。薬がきれそうで……」

「つづき、する?」

「……やめとく」

「ここでやめられる人って、そうとう珍しいと思うな」

 霧川はちょっと怒った顔で、僕のおでこをつついた。

「そうなのかな」

「たぶんね」霧川は僕を正面から抱きしめる。とても柔らかい。「でも、しばらくこうしてていい?」

「不安なの?」

「たまにこうしないと……考えてはいけないことを考えてしまいそうだから」

 霧川の声がだんだんか細くなっていく。

「家で何かあったの?」

「何も。ただ、お母さんが風邪を引いていたから、私がご飯をつくったの。弟たちのぶんも全部。そのあと少し疲れて、ソファで10分くらいうたた寝をした。そして目が醒めたら、とても悲しい気持ちになっていたの」

「悪い夢でも見た?」

「夢?」その言葉の意味が、霧川には理解できない。「起きたら気分が悪かったの。とても暗い映画を見終わったあとのような気分だった」

「それなら、霧川の気分が落ち着くまで……」

「ルルナって呼んでいいよ。誰も見てないから」

 霧川は、彼女特有の、語尾に甘さの残る発音の仕方で言った。

 霧川のことをルルナと呼びたいという欲望が僕のなかにあるわけじゃない。

 ルルナ、よりも、キリカワ、という響きのほうが好きだ。

 わざわざ本人には言わないけど。

「ルルナ……の、したいようにして良いよ」と僕は言った。

「ありがと」

 霧川は僕の肩に顔を埋めた。僕の顔は霧川の黒い髪で埋まってしまう。

 霧川の体はいつもと同じようにあたたかい。

 霧川はずっと震えていた。


 ●

 ○

 ○


 翌日。

 またいつものように霧川と登校する。

 家が近いはずの有居理紅とは別行動だった。


 有居理紅は2日目にして、学校の中に完全に居場所を確保したようだった。その居場所というのは、ひょっとすると、学校にいる誰の領土よりも広かったかもしれない。

 教室の雰囲気は静かだったけど、僕はなぜか不穏なものを感じてしまった。


 放課後。

 僕は造形部の部室に向かう。すでに吉野先生がいて、何か書き物をしている。

 沼野摩耶の姿は今日もない。

 とても存在感のある女性だから、いないほうが過ごしやすいけど。

 僕は物置から作りかけの模型を出して席に着く。そこで初めて、何となく今日は模型をさわる気分ではないな、と気づいた。

 だから、あまり馴染みのない粘土を取り出して、それを捏ねるでもなく、構想を練るでもなく、ただじっとしていた。僕も吉野先生も声を発さない。

 するといきなり、何の前触れもなく教室のドアが開かれた。

「失礼し……」そこで一瞬、声が止まる。「まーす。わー、静か」

 ドアからクリアな水色の髪の毛をのぞかせているのは、有居理紅だった。

「おっと、荻野ナノくん。ほんとにここにいた」

 理紅が僕を見つけて手を振った。

「何しに来たの?」

「見学。まだどのクラブにするか決めてないから。先生、入ってもいいですか?」

「許可を取る必要はない」

 吉野先生は顔も上げずに応える。

 理紅はそろりそろりと音を立てずに歩いてきて、僕の隣の席に、過剰なくらいそっと座った。

「普通に動きなよ」

「いやいや。なかなか美しい静寂だったから。壊すのがもったいなくて」

「変なの」僕は自分の手もとに視線を戻す。「ここって、オブジェみたいなものをつくるクラブなんだよ。粘土が物置に余ってるけど、使う?」

「あ、いや、けっこう」理紅は手のひらを見せる。「今日は見にきただけだから」

「きっと退屈だよ」

「退屈かどうかは私が決めるよ。ささ、続きをどうぞ」

 理紅は右の手のひらを、今度は差し出すような仕種をした。

 仕方なく僕は粘土を捏ねてみる。

 じっと見られているとやりにくい。と最初は思ったけど、すぐに理紅は僕の作業に興味を失ったようだ。自分の爪をいじったり、鼻歌をうたったり、吉野先生に何回もウインクを送って、完全に黙殺されたりしていた。



  この世をば わが世とぞ思ふ 望月の かけたることも なしと思へば



 いきなり理紅が和歌を暗唱したものだから、僕も、そしておそらく吉野先生も、びっくりして動きを止めてしまった。

「藤原道長」と理紅は付け加える。

「いきなり何?」と僕。

「先生」理紅は僕を無視して吉野先生に言う。「この歌をどう思われますか」

「……下品な歌だ」と先生は断じた。「権力の絶頂にあった道長が、この世はすみずみまで自分のためにあるのではないか、と自賛している歌。だが一方で、そのような状況にある男が、素直にそう詠んだことじたいは、純粋で、まじりけがなく、美しいとさえ言える。子供のいたずらを微笑ましく思う類いの美しさだがね。しかも、本当に道長本人が詠んだ歌だという証拠すらない。おとぎ話の一節のようなものだな」

「ありがとうございました」と理紅は言い、続いて僕に顔に耳打ちした。「荻野くん」

「ナノでいいよ」と僕も小さな声を出す。

「じゃあナノ」

「何?」

「そういうわけだよ」

「何が?」

「この前の約束」吉野先生には聞こえないように、囁き声で理紅は続ける。彼女の髪が僕の頬の上をもぞもぞと動いて、くすぐったかった。「この世界が息絶える瞬間を見るとき、私たちはきっと、そんな気分になれると思うんだ」

「そんな気分って?」

「この世はすみずみまで自分たちのためにある、って気分」

「僕が世界の終わりを見たいと思うのは、そんなおかしなことが目的じゃないんだよ」

「そうなの? 私は昨日の君に、ものすごい野心を感じたんだけど。思い違い?」

「ものすごい思い違い」

「なあんだ」理紅は僕の耳もとから顔を離した。「格好いいと思ったんだけどな。それだったら」

「悪かったね。ご期待に添えなくて」

 日曜の約束は完全になくなったな、と僕は思った。

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