第02話 冷凍庫の少女

〈冷凍庫〉の中から120もの死体と、その中で一人こんこんと眠り続ける有居理紅が発見されたのは、今からほんの2か月前のことだ。

 誰もが滅多なことでは驚かない時代だけど、さすがにこれは話題になった。

 その有居理紅が僕たちの学校へ転校してくる。それも僕のクラスに。

 典型的な、物語のはじまりって感じがする。

 今さら物語なんてはじまるはずがないのに。


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 学校が近づいてくると、霧川は僕と繋いでいた手をそっと離した。

 そのまま僕の目も見ずに遠ざかり、登校してくる生徒たちの群れに上手に紛れる。

 霧川は、学校では僕と接することがほぼ一切ない。

「一人で過ごしてるナノを見るのが好きなの。キミってもともとそういう人だったわけだから。その部分は残しておかないとね」

 そんな、よくわからない説明を受けたことがある。

 学校での霧川は【学園一の美少女】という恥ずかしい役割に徹するが好きなのだ。

 僕だってどちらかというと、遠くからたまに見かける霧川のほうが好きだ。

 昇降口で靴を履き替え、保健室に向かう。

 毎朝、授業の前に薬をもらう必要がある。その薬を飲まないと、なんだか自分が安定しないのだ。


 薄暗い廊下を歩く。木造の校舎。窓枠から見えるのは無機質な人工都市。

【無機質な人工都市】っていうのは、なかなか馬鹿みたいなフレーズで気に入っている。

 古い板張りの廊下がきしむ。保健室の扉も木製だ。ノックすると、「どうぞ」と女性の声で返答があった。

 中を覗く。養護教諭の梅森うめもりマミ先生とクラスメイトの三鳥川みどりかわ集介しゅうすけの姿が視界に飛び込んできた。

 梅森先生はベッドに腰かけていて、集介はシャツを着ている途中だった。

 ちょっとだけあやしい空気が漂っている。

「あら、おはよう荻野くん」

 梅森先生が僕を見てにっこりした。ボリュームのある金色のボブヘアと黒いピアスが同時に揺れる。とても清潔そうな白衣が目に痛い。

 僕はまだ薬を飲んでいないので、何もかもがあやふやな状態だ。

「珍しいね、荻野。風邪でも引いたの」と集介が上着に袖を通しながら言った。

「珍しくないよ。毎朝ここに来てる」

「なんだ。珍しいのは僕のほうか」

「三鳥川くんはちょっと胸が苦しいということで、ここに来たのよ」聞いてもいないのに梅森先生が説明する。「どうして苦しいんだっけ? 恋?」

「だったらいいけど」集介は薄く笑った。

 三鳥川集介は痩せていて背が高く、体が弱くて顔がきれいだ。おもに女性から、とても人気がある。

「大丈夫なの?」と僕は聞いた。

「さあね。さっきよりは随分ましな気がする。でも、たぶん病気だろうね」集介は僕の肩に手を置いた。指が長くて大きな手だ。鳥がとまったような存在感がある。「この時期に病気になるなんて、我ながらタイミングが良い」

「そうだね」と僕は答えた。重い病気というものは、僕にはリアリティがない。


 梅森先生に許可を得て、棚から緑色の錠剤を取り出した。

 水もなしに飲む。

 この薬が効いているあいだだけ、僕は「自分にも輪郭がある」という幻想に溺れることができる。

 なにしろ僕の詳細はほとんど何も決まっていない。性別すら本当にはわからないのだ。その時々で変化してしまう。

「そろそろ授業が始まるんじゃない?」先生がベッドのシーツを直しながら言った。

 僕と集介は一緒に保健室を出て、並んで教室に向かう。

「まともに授業なんてできるのかな」と集介が言った。

「どうして?」

「有居理紅が来るからだよ」霧川と同じようなことを言う。「荻野は、有居理紅のことをどう思ってる?」

「どうだろう」僕は少し考えた。「たぶん好きだよ」


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 ぴったり120体の屍と、ぴったり1体の有居理紅が、〈冷凍庫〉で発見されたのが2か月前。

〈冷凍庫〉といっても、それはもちろん食糧を保存するための箱のことじゃない。

〈冷凍庫〉は単なる俗称であって、たとえば学校の試験で正解をもらうためには、もう少し長い名前を書く必要がある。しかもそれすら正式名称ではない。さらに長い、親玉のような名前が背後に控えているのだ。誰もそんな小難しい名前は使いたがらないけれど。

〈冷凍庫〉は、すべての人類を冷凍睡眠させるという馬鹿げた計画ための施設だ。

 僕たちは近い将来、ひとり残らず凍りついてしまう。

 とても陳腐な話だと思う。


 なぜ世界がこのような事態に陥ったのかを説明するには、長い物語を必要とする。そしてその物語は終わってしまった。全貌を知る者もない。きっとその物語の主要人物たちが、何か大きな、取り返しのつかない失敗をしたのだと思う。

 今わかっているのは、というより確実に決定しているのは、100パーセントの致死率を誇る死のウイルスが、20年以内にこの世界に蔓延するということ。

 そのウイルスから逃れるため、人類は自分たちを冷凍睡眠させて、すべてを未来に託すことにした……。って、ほんとうに安っぽいフィクションみたいな世界観だ。だけど厳然たる事実として、僕たちはそんな安っぽい世界に暮らしている。

 同情も冷笑もいらない。

 そもそも、この現実を何と比べて安っぽいと感じているのかというと、過去につくられた膨大なフィクションと比較してのことだ。

 僕たちはフィクションを通じてしか過去の世界を知らない。

 そして僕たちにとって【現実の世界】とは、安っぽいこの世界のほかには存在しないのだ。


 そもそも有居理紅は【事件】が起こる以前から名の知れた女の子ではあった。

 天才的な色彩感覚を持つ15歳の画家として。


 天才的な色彩感覚を持つ

 15歳の画家


 ここに【美少女】なんていう恥ずかしいフレーズが組み込まれでもしたら、目も当てられない……と言いたいところだけど、実際に有居理紅は見目麗しい女の子で、美少女なんていう恥ずかしいフレーズの餌食にだって、当然なっている。


 天才的な色彩感覚を持つ

 15歳の美少女画家

 有居理紅


 有居理紅はコンピュータではなく、直接に手でスペースを彩ることを望んだ。直接に。手で。それもペンキやら絵の具といったわざとらしい画材に手をどっぷりと浸して、紙や壁や床や、彼女が彩りたいと望む空白をやたらめったに塗りたくるのだ。

 陶酔しきった3流ピアニストみたいに髪を振り乱して。

 自意識も過剰だし、説明も過剰だし、何より痛々しさが過剰だった。

 しかし大方の予想に反して、あるいは大方の予想した通りに、彼女の絵は「独創的な作風」とか、「時代を切り開く斬新さ」とか、「有居理紅ワールド」みたいな安直な高評価を獲得した。

 僕には絵のことはよくわからない。

 有居理紅の絵もそれほど趣味じゃない。

 ただし彼女が描こうとしている絵、というより彼女が本当は何を描こうとしているのか、という点については興味があった。

 僕にしか見えないと思っていたものが有居理紅にも見えているのではないだろうか。有居理紅の絵を見ているとそう思う。僕たちの頭の中には共通のイメージがある。彼女はそのイメージを、絵を描くことでこの世界に召喚しようとしている。

 そんな確信めいた感覚が僕の中にあった。


 有居理紅はその発言のユニークさでも注目を集めてきた人物だ。

 戦慄を覚えるほど膨大なインタビューや対談を、ごく短い期間に彼女はこなしている。そのときに彼女が放った言葉の残骸は、今でもネット上の端々を浮遊し続けている。


「有居さんにとっての絵画とは?」

「そうですね、林檎だったり飛行機だったりはしません」

「とおっしゃいますと」

「私にとっても絵画は絵画だということです。それ以上でも以下でもありません。いや、それ以上であり、以下ですね。あ、これ、上下でいうより左右で説明したほうが良かったかもしれませんね」

「ええと……どういう意味でしょう」

「私は方向音痴ってことです」


「その唯一無二の色づかいや、あまりに新鮮な構図から、有居さんの絵こそが、いや有居さん絵だけが本物の絵だ、とする評論家もいます。そんな本物の絵のインスピレーションは、いったいどこから得られるものなのでしょう?」

「偽物の絵から」


「絵を描くときの有居さんの手さばきは独特で、外科手術の繊細さにも喩えられますし、単純に暴力的で荒々しいとも言われますね。ご自身ではどうお考えですか」

「そうですね。絵を描くことは一種の実験みたいなもので、当然ながら失敗することもあります。けれど私はプロですから失敗は許されません。その点では手術と同様です。しかし絵の場合、失敗を失敗だと思わないことが、失敗しないためのセオリーです。これは手術の場合には当てはまりません。医者が成功だと言い張っても、患者が死ねばそれは明白な失敗ですからね。以上で絵を描くことと手術とはまったくの別物だと証明できました。次は何でしたっけ。暴力? 暴力と絵は同じ意味です。もちろん嘘です。そんなこと思ってもいません。でも言い切ってしまおうかな。絵は暴力そのものです」


 こういった人を食った言動には反発も多かった。

 しかし、いつだって世間というものは人を食った発言に弱いし、鼻につく奴から目を離せない。

 結局のところ有居理紅は、「世界観」であるとか「一部に狂信的なファンを持つ」といった枕詞を冠されることの多い、「天才的な色彩感覚を持つ15歳の美少女画家」でしかなく、それ以上でも以下でもない。

 そんな有居理紅が、人類でいちばん最初に冷凍されるグループの一員に選ばれた。

 いまから4か月前の話だ。


 そもそも全人類を凍り付かせる計画は、数年をかけて、数百回に分けて行われる予定だった。

 4か月前に第1回目が実行され(つまり有居理紅が凍った回)、今のところまだ第1回目しか実施されておらず(つまり有居理紅が凍った回)、しかもそれは失敗に終わり(つまり有居理紅が凍った回)、そして再開の目処は立っていない。


 世界を司る神にも等しいコンピュータ・システムによって選ばれた第1次冷凍睡眠のメンバーは121名で、その内訳のほとんどが孤独な老人や、治る見込みのない重病人だった。

 一人だけ飛び抜けて若く、健康で、しかも天才的な色彩感覚を持つ画家であり、さらに言うなら15歳の美少女でもある有居理紅の名前は、まるで別のリストから紛れ込んだかのように、ただひたすらに奇異だった。まるで有居理紅以外の120名が、有居理紅という女王の副葬品であるかのように。

 インタビューを受けられるだけ受けていたそれまでとは一転して、彼女はこの件に関して沈黙を貫いた。報道は過熱した。

 しかし事前にいくら盛り上げようとも、最終的に彼女が起こすアクションというのは単に「凍り漬けにされる」というだけのもの。どんなカタルシスももたらされはしない。しかも最終的には世界中の人間が、一人残らず凍るのだ。


 そして今から4か月前。彼女は予定通りに凍りついた。


 そして今から2か月前。彼女は予定外の早さで解凍された。



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