あなたのいない世界で
灰谷魚
第01話 何かが欠けている
この物語はすでに終わっている。
あらゆるイベントが完了したあとの空虚さを噛みしめながら、僕たちは表面上これまでと同じように過ごしている。皿を洗ったり、靴紐を結んだり、学校に通ったりしながら。
何の予感もないし、
何の期待もない。
朝が来るたび、僕はベッドの上で自分を起動させるための呪文を唱える。
「僕には決定的な何かが欠けている。つまり、僕には決定的な何かができる」
ほんの一瞬、鳥の影みたいに通り過ぎていく陶酔。そんなものが必要なのだ。今の僕には。
たぶん。
ベッドの上に体を起こすと、さっきまで見ていた夢の残骸が周囲にちらちら舞っていた。たくさんのかわいい女の子が登場する夢。僕が見るのはそんな夢ばかりだ。
今朝見た夢にも、とびきりきれいな女の子が登場した。その子は積み上げられた死体のてっぺんに横たわっていた。
辺りは暗く、音楽のようなものが幽かに聴こえていたのを覚えている。もしかすると僕が見たのはエンドロールだったのかもしれない。百体を超える青褪めた屍。その頂上で眠る女の子だけが蜂蜜色に輝いていた。彼女の髪は温かそうで、胸は呼吸によってゆっくり上下していた。見つめるだけで胸が苦しくなるような光景だ。
ひょっとすると僕は劣情を催していたのかもしれない。
目が覚めたとき、少し残念な思いがした。
でも、夢と現実を区別する必要なんてあるのだろうか?
どちらの世界の僕も、僕の意思でしか動かないし、どちらの世界の僕も、心拍数は同じだ。
●
○
○
通学路を歩く。いつもと同じ時間に、いつもと同じ場所で、クラスメイトの
20億回は繰り返されたイベント。新鮮味はまるでない。いつも僕はまっすぐな通路から現れ、霧川はのたうち回った蛇みたいな通路から現れる。
いつだって、のたうち回っているのは僕のほうなのに。
霧川は僕を見つけると笑顔になった。小走りに近づいてくる。「ごつーん」とわざわざ声に出して、僕に肩をぶつける。霧川は小さなあごを少しだけ上向きにして、「ナノ」と言った。ペットを呼ぶみたいな言い方で。
ナノというのは、ちょっと変わっているけど、僕の名前。
この世界にたったひとつしか存在しない、貴重な名前だ。
「おはよ。今日も会えたね」
霧川は涼しい声で僕に挨拶をした。いつもと同じに。僕は何もかも満たされたような気分になり、同時にひどいむなしさに押しつぶされそうになる。【学年一の美少女】で【僕の幼なじみ】の霧川ルルナ。都合よく僕のそばに配置された女の子。まるで誰かの妄想みたいだ。
そもそも毎朝同じように出くわすのだから、「おはよう」なんて単純な挨拶は省略するほうが文明的だ。すでに人類は、何かを省略することでしか発展できなくなってしまったのだから。
もちろん、そんな屁理屈を霧川に言ったりはしない。かわりに、20億回目の「おはよう」を言う。うんざりした気分だ。
といっても、この世界の時間はループしているわけじゃない。前回と同じ行動を取らなければならないという決まりもない。
なのに僕はいつもと同じように挨拶を返してしまう。
もうずいぶん前から、自分の行動に変化をつけることに意味を見いだせなくなってしまった。
終わった物語にはどうせ何も響かない。
蝶の羽ばたきは、世界にエフェクトを及ぼす機能をずいぶん前に失ってしまったのだ。
「いよいよ今日だね」
霧川が急にそんなことを言う。霧川の周囲の空気は、いつもきらきらして見える。霧川のスカートは一歩ごとに律動的に揺れていて、輝かしい膝が現れては消えるのを繰り返している。
「今日も通常通りの授業だったはずだけど」
「通常は通常よ。でも通常通りにいくはずないでしょ」
「学校に爆弾でも仕掛けたの」
「そうね、もし私が爆弾を持ってたら学校かピーナッツバター工場に仕掛けるでしょうね」
霧川はピーナッツバターと、それを製造する人々を憎悪しているのだ。
「だったら、何が『いよいよ今日』なの?」
「えっ」
「えっ、て何?」
「えっ、えっ」
霧川が立ち止まった。僕も止まらざるを得ない。リードを持たれた犬みたいだ。
「ほんとに何がある日か覚えてないの?」
「ほんとに何がある日か覚えてない」
霧川は5秒ほど黙って僕を見つめ、もったいぶった大げさなまばたきをしてみせた。
「アリーリク」
とっておきの呪文のように霧川は言った。
「アリーリク?」
「アリーリクが来るのって、今日なんだよ」
アリーリク
ありい・りく
霧川が言っているのが人名だということを、僕はようやく思い出す。
有居理紅。
今から2か月前、世界のすみずみにまで轟いた女の子の名前だ。
有居理紅は、この世で最も安全だとされている場所で発見された。そこにあるはずのない大量の死体と共に。その屍の山のてっぺんで。
「忘れてた……」と僕は言う。
「すごいな。自分の名前忘れるのより大変そう」
霧川が僕の髪に気安くさわろうと手を伸ばしたので、僕はそれをやんわり撥ねのける。
「自分の名前なんて、覚えてる日のほうが少ないよ」
「なあに? 反抗期?」
霧川は少し笑って、今度は僕の手を握った。それには素直に従うことにする。
知り尽くした通学路を、かわいい女の子に手を引かれて歩く。これは、心にも体にもとても悪いことのような気がする。僕の成長を妨げる麻薬のような。
霧川のつめたい手のひら。
その感触からは何の情報も読み取れない。
「でもさあ」霧川が急に意地悪そうな声を出した。「ちょっとわくわくしない?」
「しないけど。何で?」
「有居理紅はどんな顔で教室に入ってくるんだと思う?」
「有居理紅の顔で入ってくると思うよ」
「どういう意味?」
「ちゃんと目や耳や鼻があって、それぞれの形や配置が以前と同じ、という意味」
「なにそれ。つまんない答え」
「じゃあ、顔は変わってないけど、身長が2メートルになってる」
「うん……いまいちだね」
「眉毛がない」
「あ、それはちょっとおもしろい」霧川はくすっと笑う。「ちょっとかわいいし」
「眉毛が2メートルというのは?」
「折りたたみ式なのかな」
「呪術的な効果を狙っているのかも」
「性的なアピールとかね。古代文明の」
あれ?
と僕は思う。
有居理紅の名前を思い出した途端、なんだか霧川との会話に新しい展開が生まれている。
このままどうでもいい方向に会話を漂流させたかったけど、霧川はすぐに「それにしても」と話の軌道を修正した。この種の機敏さは、彼女の数多い美点のひとつだ。
「こっちとしても難しいよね」霧川はバッグのなかをまさぐりながら言う。「どういうふうに接すれば良いのかな、有居理紅と」
「むこうの出方しだいだろうね。僕には関係ない話だけど」
「どうしてナノには関係ないの?」
霧川は言いながら僕にクリーム色の瓶を差し出した。中には色とりどりの丸いキャンディがつまっている。歯を磨いたばかりだし、あまり食べる気はしないのだけど、結局手のひらにキャンディを分けてもらう。そうしないと霧川の機嫌が悪くなるからだ。
「僕から有居理紅に話しかけることはないから、関係ないんだ」
キャンディを口に放りながら答える。
「冷たいの」
霧川もキャンディをなめている。その姿がさっと翳る。照明が一部故障しているのだ。以前のように、設備の破損がに修復されることはなくなってしまった。
世界の老朽化が、管理する側の手に余る速度で進んでいる。
「有居理紅のほうから話しかけてきたら、ふつうに話すよ。意地悪なことだって聞かないし」
僕は霧川のほうを見ないで言った。
「ナノって、誰に対してもそうだね」
「まあね。どうせなくなる世界だから」
そう。
この世界は、どうせすぐなくなる。
さて、どのあたりから始めよう。
なにしろすでに終わっているし、あまりにも馬鹿げた物語だ。
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