16.光よこい札、野に猪よ

 静寂というよりは森閑という言葉が似合うような静けさであった。

 言葉が出なかった。さも当然と柳の口から出た台詞が、どうしようもなく本気のものであったから。


「まて」

「待たん。責任は取らなあかんからな。ウサギちゃんも限界や。ほんなら、ここらが潮時やろ」


 柳は淡々とした声で喋りながら、静かに自分の持つ二本の刀を下ろす。戦う意思を捨てるかのように、ダラリと下ろされた刀は光の粒子となって消え、


「空の型」


 柳が抜刀の構えを取ると同時に、一振りの刀が主の動作に呼応するように姿を現す。


「響き絶て和泉守兼重。鳴りて無音は、空道羅刹」


 言葉のみが響く中、清美が柳から逃げるように距離をとり、炎の中へと姿を隠す。

 宮本武蔵の逸話に戦わずして勝つというものがあったが、柳の放つ重圧はそれを裏付けるかのように、すべてを圧倒せんと場を支配していく。


「笑えや、不敗。看破不要は我が秘伝。無常『絶空しきいなし』」


 柳が言葉を言い終えると同時に、耳鳴りが起こった。消え入りそうなほどのか細い高音の中に、俺は確かに草木の揺れるざわめきを聞いた。

 奇妙な感覚であった。押しつぶされるような静けさと、消え入りそうなざわめきが混ぜ合わさり、場を飲み込むのではなく、柳が違和感としてその場に点在する感覚。


「逃げおったか。お嬢ちゃんええ感しとるわ」

「柳…お前いったい何を…」

「無の輪、空の型。型を作る事で、一つの行動にのみ傾倒するっちゅう、型から始まるんやなく、型にて終わる、始まりやなく終わりを確定させた逆説の型や。そんでもって、『絶空しきいなし』。概念の敷居を取っ払う…ま、空間を削り取る技言うた方がええやろな。後は言うた通りや。炎も宿炎も関係ない。全部乗り越えて、お嬢ちゃんを削らせてもらうわ」


 淡々と柳は己がこれから行う所業を確定事項として口にする。


「せやから、精々ウチを恨んでや。恨んで生きて、どうしても許せん言うなら生涯をかけてウチを追え。そのまま意気消沈されるなんて御免やからな、いくらでも付きあったるわ。旦那の人生一つ背負う。せやから、かんにんな」

「柳、貴様っ!」

「なんと言われようが無駄や。ウチを止めたきゃ他の解決策を持ってくるんやな。あるいは、ウチを討て。それ以外は却下や」


 駄目だ、柳は止まらない。被害が出る前に清美を仕留める気だ。

 させる訳にはいかない! しかし、手立てがない。現状、柳を止める手段は二つ。柳を物理的に止めるか、代案を出すかである。

 その二つのどちらも、俺にはどうする事も――――。


(違う、手立てはある。否、つくれる! 思考を止めるな! 理解を介さずして、道理なし! されど、道理とてまた一つの選択に過ぎない! ならば、片隅に残った違和感でもいい! 全てをかき集め、可能性を得ろ! 記憶を精査しろ!)


 俺は目を瞑り、小さく深呼吸をする。だが、心は落ち着くことはない。思考が乱れ、呼吸が荒くなる。

 清美が死ぬという状況下で、正常な状態になれる訳などなかったのだ。

 このままでは駄目だという思考がさらに、俺を泥沼へと誘っていく。

 焦りで押しつぶされそうになる中、


「…これは」

「…笛の音、か」


 不意にどこからか笛の音が聞こえてくる。

 その音色はどこかで耳にしたもので、その曲は耳慣れぬが心が洗われる様な美しいものであった。

 不思議と焦りが抜け、心が落ち着きを取り戻す。聞こえてきた笛の音はなんであったのか、気にはなるが今はそれどころではなかった。

 笛の音が聞こえなくなると、俺は再度目を瞑り、呼吸を整える。静かに暗く深い思考の海へと潜って行く感覚。

 暗い海へと潜る中、ふと光を見た気がした。その光は、俺を照らし、どこかへと導こうとしているようであった。

 その光の眩しい事は陽光のごとく、俺はその光に惹かれるようにして、手を伸ばし、


「旦那…なんやそれ?」


 一筋に光明を、俺は確かにその手につかんだのだ。


「これは…」


 俺が手にしたもの、それは見覚えのある黒い腕輪であった。それはユエから預かったもの、修物おさメものと呼ばれる腕輪であった。

 ただ、それは受け取った時と違い眩いばかりの光を放っていた。

 黒いはずの腕輪から光が漏れる。一つ一つの長方形が光っている、そう言った方が早いだろうか。

 幾つもの長方形から漏れる光。以前に俺が思ったとおり、長方形により腕輪は形成されているという考えは正しかったようだ。

 煌々と輝く腕輪、その光景は実に奇妙であった。


修物おさメもの…? なんで旦那が…いや、なんやってええ! 旦那! 使え! 使えるんやろ!?」

「分からん! 受け取ったばかりで、使い方もろくに教えられておらん! ついでに、何が起こるかも未知数――――」


 されどその光は、


「ごちゃごちゃうっさいわ! 何でもええから使え! この状況下、それが最後に残った希望やろが!! 根性見せろや!!」


 最悪の状況下で得た、最後の可能性なのだ。


「大声で喚くな! 是非もないってんだよ! 黙って見ておけ!!」


 その言葉は虚勢であった。清美の前世を当てたときと同じく、五里夢中とでも呼べるような状態であったのだから。

 しかし、それでも心は晴れ渡り、思考は研ぎ澄まされていた。例え霧の中にいようと、希望を探すのであれば、歩き続けることができる。


「情報を精査しろ…ユエの使用条件…酒と月…長方形で作られた腕輪…発現する蝶…合致するものは…」


 思った事を口に出しながら思考を重ねる。口に出した言葉が正しいかどうかも分からないが、どうしかその全てが正解を物語っている気がしていた。

 まるで宙を自由に泳ぐような、浮遊感と高揚感。この感覚は懐かしいものであった。かつて、日本に来る前によく体験していたものだ。

 自分の業からは逃げることが出来ない。今体を支配せんとする感覚にそう告げられている気がしていた。

 ああ、上等だとも。逃げない事で、清美を救えるならいくらでも立ち向かおう。

 そう覚悟を決めた瞬間、


「見えた」


 俺は正解へとたどり着いた。誰に示された訳でもないが、自分の辿り着いた答えこそが唯一無二であると確信していた。

 

「だが、必須品が…いや、ある!」


 俺は後ろポケットに手を突っ込んだ。そこには、ユエから没収したパック焼酎が入っており、俺は迷わずそれを手にし取り出した。

 そして空を見上げる。


「それと…はは、こいつはいい! ユエと月同時に見上げられる!」


 頭上を見上げれば月。そして、その下には鳥居の上で今にも倒れそうなユエがいる。

 俺はそれを確認すると今こそ好機といわんばかりに、


「『月見で一杯』!!」


 パック焼酎にストローを差し、ユエと月を見上げ、一気に焼酎を吸い上げた。


「はぁ!? この場面で何酒あおっとんねん!? バグったんか旦那!?」


 構えを解かずに俺のほうを向き、全力で突っ込みを入れてくる柳。スクール水着でシリアス決めているお前には負けると罵倒してやりたい所だが、


「当たりだ!」


 今は一時でも時間が惜しい。可能性を見出した今、立ち止まっている暇などないのである。

 腕輪からバラバラと長方形…札が剥がれていく。それらは黒く染まったその身を、赤と白に染め上げ、元の形へと戻していく。


「赤と白の絵柄の入った札…花札か!」

「その通りだ! ユエは人により使い方は様々だとか言っていたが、起動方法は役を作る事だったんだろうよ! そして、俺の予想が正しければ…」


 剥がれた幾つもの札から、赤い短冊、青い短冊、酒と月と花、猪、鹿、蝶々が俺の目の前に小気味よい札を叩きつけたような音と共に並べられる。


「やはりそうか! きっちり五点分の札! 月見で一杯と猪鹿蝶は同点。ユエの蝶々はここから来ていたと言う事だ!」

「なんやよう分からんけど、それでどうなんや!? この状況を打破する方法はあるんか!?」

「分からん! だが、方法はある!」

「どっちやねん!」


 自分で言っておいてなんだが、柳の言うとおりどっちだという話であった。

 結論から言えば、俺は現状では手立てを得ていなかった。

 しかし、先ほどから脳裏にある光景が浮かび上がっていたのだ。それは、現在表示されている札の使い方であった。

 結論から言うとイメージなのだ。柳がこじつけや尾ひれをつけてこそ超常だと言っていたが、今まさにそれが必要とされていたのだ。

 俺が力をイメージし、それに合う札を使用する。どうやら、それがこの修物おさメものの使い方らしい。つまり、俺のイメージしだいで、この状況を打破出来るやもしれないという事だ。

 だから俺は、今自分が行うべき事を思い浮かべる。


(今俺がすべき事…それは清美を止めること、あいつを死なせない事だ)


 ならば、清美を止めるために何をすればいい?

 力で圧倒すればいいのか。炎を消せばいいのか。それとも他に…。


(いや、どれも違う。恐らく、札は俺が心から欲しなければ答えてくれないだろう)


 偽ってはならない。気取ってもならない。単純に純粋なままの動機でなければ、何も成す事は出来ない。姿を札へと変えた修物おさメものが俺にそう訴えかけてくる。

 俺は思う、ならばと。俺が本当に今すべき事は、俺がしたい事は。


「ああそうだ…言わなくちゃいけない事があったな」


 心が定まり、意思が一本へと絞られる。その瞬間、


「そうか、力を貸してくれるか」


 猪の札が目の前で光り始める。

 俺は清美と言葉を交わさなければいけなかった。そして、それこそが今を乗り切るための唯一の正道であると理解していた。

 猪の札は俺の意思に応えるように、その姿を鎧へと変えていく。

 まだ形の定まらない鎧は、光り輝くと同時に俺を包み込む。

 鎧に飲み込まれ、夢を見た。一頭の野を駆る獣の夢を。

 一直線に止まる事無く、真っ直ぐに進む獣。その姿は雄々しく、野を駆る光景は野に吹く突風の如く。名は必要なく、それゆえ野に放たれたとて、進むことしか能のない愚者。

 いつしかその力尽きたとして、その獣は最後まで進む事を止めないであろう。彼の猪にとって野に立つと走る事は同義であったのだから。

 即ち、その者のを呼ぶに等しきは、


「『野立の猪のだてのしし』」


 野を駆るその姿のみ。

 俺が自らが纏う鎧の名を口にすると、途端に体が軽くなるのを感じた。

 自分では見えないはずなのに、己の纏う鎧の風貌は理解できていた。

 体にピッタリと吸い付くような黒いスーツの上に、体全身を覆うヒーロー物にでも出てきそうな角ばった茶褐色の鎧。

 そして、顔には猪をモチーフにした牙の付いた雄々しきマスク。頑丈さを絵に描いた姿であった。


「おお…なんや、その戦隊ヒーローみたいな鎧は!? 旦那の修物おさメものごっついな! カッコええやんか! そんで、何が出来るんや!?」

「真っ直ぐ進める」


 俺は柳の問いに素直に答えた。マスクの上からだというのに、くっきりと見える柳の顔が鳩が豆鉄砲を食らったようなものに変わる。面白い、非常に面白い表情である。


「ほ…他には?」

「無い」

「嘘やん」

「嘘をついてどうする? この緊急事態に何を言っているんだ貴様は」

「こっちの台詞や! どないすんねん!!」

「どうするもこうするも、進むんだよあいつの所まで」


 俺は清美が炎の中へと消えていった先を指差す。

 柳はそんな俺を怪訝な目で見てきたが、途中で俺の意図に気が付いたようで、表情を引き締め真面目な顔になった。


「本気か?」

「ああ、あいつに色々と言わなけりゃいけない事があってな」

「なんや、言い訳に命かけるっちゅうんか? ほんまもんの阿呆やな。せやけど――――」


 柳は一度言葉を区切ると、構えを崩さずにさらに腰を深く落とし、


「ええわ、気に入った。手助け無用なんて言わんやろ? 精々お節介焼いたるわ!」


 にかっと俺に無邪気な笑みを向ける。


「すまん、恩に着る」

「おう、着とけ着とけ。いくらでも着させたるわ。せやけど、旦那があかんかった時は…」

「分かっている。俺ごとぶった切ってくれ」

「いや、旦那は切らんけどな。雰囲気に飲まれすぎやろ。何ヒーロー気取っとんねん」

「貴様が言うな! 元々はお前がその雰囲気を重視したせいでこうなっているんだろうが!」

「せやったかなー? 覚えとらんわ。ほんなら、帰ってきたらどうだったか話そか。ちゃんと帰って来たってや」


 どうやら柳は俺の緊張をほぐそうとしてくれていた様だ。はっきり言って、そんな必要など毛ほども無かった訳だが、気持ちは受け取っておこう。

 真っ直ぐに清美のいる炎へと体を向ける。宿炎に飲まれればどうなるかは、この目で見てきた。正直助からんだろう。


 だが、


「さあいくぞ。野を駆る猪の如く」


 身に纏う猪は応える。ただ走り抜ければいいと。

 ならば何一つ恐れる必要は無い。俺は、


「柳! サポートを頼む!」


 一直線に走り出すだけだ!

 一歩走り出すと、驚くことに最初から最大速度で走り出すことが出来た。このまま速度を維持すれば、清美までなんてあっという間と言う所だろう。

 しかし、どうやらそこまで上手くは言ってくれないようであった。


「っ…」


 炎が開き中から清美の姿が現れ、今までのように無表情のまま、されども怯えた様子で俺を指差す。

 それは炎が放たれる合図であった。直接食らえば丸焼きだ、避けねばならない。

 しかし、


「うおおおおっ!!」


 俺は止まらない。野立の猪は目的を果たすまで止まる事はないのだ。

 清美は手を震えさせ、俺へ炎を放つかどうか悩んでいる様子であったが、


「っ!」


 目を見開くと同時に、俺には目視する事も出来ないないような速度で炎を放つ。

 だから俺が炎を放たれたと分かったのは、焼かれた後であった。業火と言うべき威力をもってして身を焼かれる。

 されど、


「効かん!!」


 その程度の炎では野立の猪は止まらない。進む事のみに特化した鎧は、清美の放つ炎程度で焼け朽ちる事は無いのだ。

 炎の中を速度を落としつつも、真っ直ぐに進み続ける俺を見て、


「なん…で…」


 清美は炎の壁の中へと身を隠した。懸命な判断だといえるだろう。絶対に止まらないのなら壁でもなんで作って隠れるしかないのだから。

 清美の逃げ込んだ炎の壁は宿炎だ。触れれば全てを飲み込む大食漢な炎。

 その炎が清美へ向かって突き進む俺へと迫ってくる。自動防衛システムである宿炎は、主へ迫る危機を生かしてはおかない。全てを飲み込み、無に帰そうとするだろう。

 宿炎へと飲み込まれる。だが、


「ぐっ…!」


 それすらも俺を止める脅威には成り得ない。体は火傷をしそうなほど熱を感じ、服が崩れていくような感覚はあるが、まだ野立の猪は止まらない。

 身に纏わりつき、鎧を焼き、飲み込もうとする宿炎をものともせず、俺は真っ直ぐ清美の元へと進んでいく。

 真っ直ぐに清美を目指し進み続け、気が付けば炎の壁の中へと入り込んでいたようだ。

 炎の中に身を投じたのだ、当然のように熱く、服が崩れていく感覚が増していく。現に、鎧は半分近くが消失してしまっているのだろう。

 それでも、


「見つけたぞ…清美…!」


 歩みを止めぬ愚かな猪は、ようやく目的へと辿り着いたのだった。

 ただ、その姿を見た瞬間俺は足を止めそうになった。

 清美は己の体強く抱き、今にも崩れそうなほど弱々しい姿で、苦痛に顔を歪ませていた。

 俺は止まりそうになったが、野立の猪は止まらない。ありがたい事だ、近づいてよいものか、などと馬鹿みたいな事を考える俺を前に進ませてくれる。


「清美!」


 纏わり付く炎の重さに耐えながら、俺は清美に声をかける。

 すると、清美はその表情をさらに沈痛なものへと変え、


「こない…で…っ!」


 搾り出すように、拒絶の意を示す。その意思に応えるように、壁となっていた宿炎が俺の元へ集まってくる。清美は自分を守るものを捨てて、俺を近づけさせないという選択をしたようだ。


「く…そっ…! 嫌われたもんだな…っ!」


 その拒絶の脅威はなんたるものか。野立の猪は清美へと向かうための鎧であったが、その一点特化のものですら焼き尽くさんばかりの炎が俺を襲う。

 服が焼ける感覚を通り越して、身が焼けるのを感じ始める。流石にこれは駄目かも知れないと思い、最悪を想像した所で、


「分かち絶て、無常『絶空しきいなし』」


 柳の声が聞こえ、風のざわめきが俺の目の前で聞こえたかと思うと、前方にあった炎が一瞬で消え失せる。だが、出来た空間をすぐさま周りの炎が食い始める。

 前に進もうにも、宿炎が纏わりつき振り切る事が出来ない。焦りを覚え、我武者羅に手を動かし始めた俺に、


「旦那! 脱いで突っ込め!」


 これが最後のチャンスであると、柳が俺に叫ぶ。

 柳の声が聞こえるが早いか、俺は今まで俺を進ませてくれた野立の猪を脱ぎ捨て、炎をの外へと飛び出した。

 そのまま宙を泳ぐように勢い任せに真っ直ぐに進み、


「流石に…手間がかかり過ぎだ…馬鹿女」


 清美へと抱きついた。

 捕まえた清美を逃がさぬようにと抱きしめると、


「ごめんな…さい」


 そんなか細い声が聞こえ、炎は静かに消えて、清美と俺だけがその場に残された。

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