17.過去からの日常へ

「…謝るぐらいなら、最初からするんじゃない。と、言うだけ無駄か」


 虫の声すら聞こえなくなった静謐な夜であった。炎の盛る音も、鉄のぶつかり合う音も、叫びも、全てが事の終わりを告げるように消えてしまった。

 頭上には月、夜を彩るように柔らかい光が俺と清美を照らす。

 両手で抱きしめたか細く今にも折れそうな清美の体から、暖かいぬくもりを感じる。

 そのぬくもりが俺の手からゆっくりと沁みるように伝わり、映画を上映するように俺の脳裏に風景を映し出す。

 それは、俺が知る由もない一人の女の記憶。遠い日に王として国を治めんとした、過去を曲げられなかった愚者の記憶。


―――――汚らわしいからこそ、それは間違いである。


 女は思い、それを行った。かつて自分を苦しめた記憶。それは呪いとなって、彼女を生涯縛り付ける。

 正しいと思っていた。正しいと信じていた。きっと誰もが正しく在れると思っていた。

 女は言う、彼の悪逆の王が布いたものは間違いである。それが誰を幸せになど出きるものか。我欲が為に国を変るなど正しい訳がない。

 正さなければいけない。何をしたとしても。その姿が醜悪であったとしても。その行為が、取り返しのつかないものだとしても。


―――――汚らわしいからこそ、それは間違いでなければならない。


 燃やし、断ち、律した。全ては平穏への布石であると。

 自ら平穏を打ち破るものになるとも知らず。望まれ王となった自分が正しく在らねばならぬと、女は非道を行った。

 手段は問わず、正道もいかず、律す意味を履き違えたまま、女は進み続けた。

 そして、ある日ふと自らを省みた。


―――――汚らわしいからこそ、私は間違えであった。


 そうして見えたものは、自らが嫌悪し、倒さんとすべき父と同じ道を歩む自分姿だった。

 悪逆はそこにあり、汚濁はその身に受け継がれていた。

 何てことはない話であった。

 女の行いは、慣れ親しまれた壁画を崩し、新たな絵を上から描こうとしたものであったのだから。

 たとえその壁画の出自が罪深きものの手で生まれたとして、その地に根付いたのであれば文化であったのだ。それは奪われるべきものではなかったのだ。無碍にしていいものではなかったのだ。

 それでも、女は止まれなかった。間違いであると認めたとして、己が行いを正せるものがどれだけいるだろうか。

 女の意思は金剛石よりも固く、黒曜石よりも黒く輝くものであった。

 女は止まらない。その最後の瞬間まで、女としての病に倒れるまで、止まる事はなかった。

 女は今際の思う、そうまでして自分は何を得たかったのか。


―――――汚らわしいからこそ、私は自分の居場所を美しくしたかった。


 生まれてから、王になるまで女は激流に流され続けていた。留まりたくとも、流れは止まらない。だから必死に抗った。

 そうして、女は国に迎え入れられた。望み居場所を与えられた。ここにいるべきとされた。それは、純粋な喜びであった。

 だから、美しいものであってほしかった。あの父であった男を忘れられるほどに。

 それが始まりの意志であった。そして女は、死ぬまでの間意志を貫いたのだ。


「愚かな話だ」


 脳裏に写されていた映像が途切れ、俺は思わずそう口にしていた。

 その行動は悪であったのだろう。その行動は愚かであったのだろう。

 それでも、


「少しだけだが、分かるよあんたの気持ち。手前の間違いは、すぐに正せるものではない。過去があり、それが今に続いているんだ。何もかもを許せる人間なんていてたまるものかよ」


 愚かな女に同情を覚えるのは、自分の中に拭い難い過去があったからだろう。

 そして、俺の抱きしめる少女もまた、同じであるのだと俺は理解していた。


「そう、人は何もかもを許せないわ」


 感情のこもらない声で、清美が言葉を口にする。

 炎は無くなった。それでも清美は元には戻っていないようだ。

 当然だ、なにせ清美自体の問題は何も解決していない。街が燃える事はなくなった、今ある結果はそれだけなのだから。

 だから、


「そうだな。でも許して認めて曲げて妥協して、そうでもしなけりゃ他人となんて生きてはいけない。全部は許せなくとも、折り合いは付けねばならんだろうよ」


 俺は清美と話そう。元より、それが俺の目的だ。


「でも、それはつらい事よ。いつかは破綻するわ。私のように」

「度合いだよ。全部我慢しろと言う訳ではない。本当にキツイなら言葉にすべきなんだ」


 そうだ、それこそが最善であったのだ。最善であるべきで、


「言葉は万能ではないわ。通じる事で、消えるものもある。通じたからって、変わるものでもない。変わらなかったわ、何を言っても、何をしても。私はイングランドあっちでも日本こっちでも、同じだったわ。視線も言葉も変わらない」


 清美のとって最良を得ることの出ないものであったのだ。

 以前に清美が愚痴を漏らした事を思い出す。だから、感情のこもらないというのに清美の言葉は重く感じた。


「だから私は向けられるものを統一したかった。そうして、自分を見つけて、欲を見せ付ける事を盾としたわ。楽しかった、そして嬉しかった。居場所ができたから。どんな形でもいい、足を止め腰を下ろせる場所が私は欲しかった」


 脳裏に消えたはずの映像が映る。清美とメアリー一世の姿が重なり合う。生まれ変わりかどうかは分からないが、根底にあるものはきっと変わらないのだろうと思った。


「けれども、居場所を見つけても、すぐに壊れて、あるいは壊してしまったわ。私は自分だけを愛する事が出来なかったから。挙句、自分の行いが間違っているって気がついていた。他人を道連れになんて出来なかった。可愛い女の子が好きだったから、一緒に地獄へ落ちてなんて、言えなかった」


 女は自身が幸福になれぬと理解してしまっていたのだ。若き考えかもしれない、思慮の足りぬ諦めかもしれない。けれども、その考えを否定するには皆、女の歩んできた十数年を知らなすぎた。

 俺も、きっと他の誰にも否定できない肯定を清美は自身の中に持っていた。

 生まれ変わりかどうかは分からないが、清美とメアリー一世の根底にあるものはきっと変わらないのだろうと思った。

 そして、


「幸福である必要はない。一人で生きる事は寂しいけれど、誰も道連れにしないのなら、それだけが唯一の幸福として受け止められるわ。けれど、地獄に落ちずに済むかもしれない場所を見つけてしまった」


 変わらないからこそ、清美は燃やそうとした。自分の居場所を奪おうとする者を。


「家に来てから、楽しかったか?」

「ええ、楽しかった。沈むよりも浮こうと、地獄よりも天国を目指そうなんて思うようになれるなんてね。自分が変わらなくても、それを認めてもらえて、自然に生きていける事がどれだけ美しい事か。それを与えてくれたのが、毛嫌いしていた男だなんて、皮肉なものよね」

「男だ女だなんて関係ないだろうさ。俺が女だったとしても、結果は同じだ。お前は…竜胆清美という女は、幸せになるって事を視野に入れて生きてこなかったんだ。自分でそれを変えることが出来ただけで、俺がどうこうした訳じゃない」

「違うわ」


 その言葉は否定であった。けれども、その言葉を口にした女の顔は、


「違うのよ、義之」


 喜びをかみ締めるように儚く微笑んでいた。


「最初は、すごい馬鹿がいると思ったわ。静流に刺されて、それでも刺した相手を気遣ってしまうような馬鹿。この人の近くで過ごしたらどうなるのかって思った。実際に残って過ごしたらとても楽しくて、私以上に不器用な人間を始めて見たわ」

「清美、お前…」


 清美の瞳に生気が戻り始める。目覚めは近い、きっと飾らないままの言葉を交わせるのもあと少しの間なのだろう。


「その不器用な人間は、他人を拒絶しようとするのに他人を思う心を忘れられなくて、他人に関わりたくないのに受け入れてしまう。変わり者だったわ、私以上の変わり者」


 散々な言われ様だというのに、止める気にも眉をしかめる気にもなれない。

 なにせ、


「その変わり者が刺した人間を許し、刺された原因を許したとき、私は自分自身が許された気がしたの。許すことが出来る人間は少ないわ。だから嬉しかった。それが勘違いだったとしても、嬉しいと思い、自分を預けてみたいと思った」


 清美は自らの武勇を語るかのように饒舌に、思わず微笑んでしまいそうになるほど楽しそうに俺の事を話すのだから。


「預けてみて分かったわ、その変わり者は、許す事なんてしてなかったって。最初から、何一つ悪くなんて思っていなかったのよ。刺された事も、女が勝手に住み着いた事も、何一つ咎める気なんてなかったんだわ」

「馬鹿が、そんな訳があるか。…俺はただ、面白い方に向かって生きているだけだ」

「ええ、義之にとって面白い方に…気に入るほうに、ね」


 何もかもが見透かされいる気分だった。俺は清美を理解し、清美は俺を理解していた。気味の悪い話だ、自分でも分かりかねる心の内を把握している人間がいるなんて。

 さらに気味が悪いのは、それに不快感を覚えない事だろう。認めざるを得ない、清美との日々を、萩や九音と過ごした時間が大切であったことを。


「最初から許される必要がなかった。それがどれほど居心地がよかった事か。義之の家にずっと居ようとさえ思ったわ。そんな事を考えていたら、同じように家に女を連れ込んでは住まわせ始めて、気がつけば三人も…ハーレムを築こうとでもしていたのかしら?」

「人聞きの悪い事をいうな。俺は自分の意思で集めたわけじゃない。勝手に住み着きやがってからに、迷惑この上ない」

「そうね、でも義之も楽しんでいたでしょう? 私は楽しかった。あの家での出来事が、何もかも楽しくて嬉しくて、ずっと居続けたいと思った。だから、許せなかった。義之がいなくなれば全部終わりだから」


 考えてもみれば、我が家に居る三人は本当に奇妙な集まりであった。清美の言うとおり、俺が居なくなれば、それっきりになってしまうだろう。


「何かに呼ばれた気がして、夢心地で戻ってみれば、義之が刀を突きつけられて、気がつけば頭は真っ白。敵と定めた女を燃やそうとして、義之に迷惑かけて、今なお夢の中。目が覚めれば私は何も覚えてないわ。これほど無責任な事があるのかしら。これほど無責任な女を義之は許してくれるのかしら」


 その問いは誰にかけられたものだったのだろうか。俺であったのかもしれない、清美自身であったのかもしれない、あるいは問いかけですらなかったのかもしれない。


「許すさ」


 けれども、俺は答えよう。清美が行った事を罪と思わなかったとしても、清美が欲しい言葉を。

 そして、


「悪かったな」


 俺からも言わなければいけない事がある。


「お前に黙って色々進めちまった。危ないと思っていたからな、手出ししてほしくなかった。俺の勝手な行動に僅かでも危険がある以上、お前達を近づけたくなかった。その結果がこれだ。お前が癇癪を起こしたとは言え、俺が原因の一端を担う以上、お前を嫌う理由にはならん」

「本当に馬鹿な人ね。義之が謝る理由にはならないわ。だって、それは義之の優しさじゃない」


 優しさ。ああそうだ、それは俺の優しさや思いやりだったに違いない。

 だとしても、それが正しく作用していないならば間違いなのだ。


「だとしても、伝わらなければ意味はない。他人を思っての行動は善であるが、それが相互関係でないのなら独善だ。与え続けるだけの人生など、間違っている。与え続けたもの、与え続けられたもの、どちらも報われる事はないだろう。俺はお前に話すべきだった。例え、お前が着いて来ると言うのが分かっていてもだ。面倒を避けて通ったからこその事態だ。ふん、まったくもって情けない話だ」


 不思議なぐらいに言葉が出てくる。取り繕う必要もなく、誤魔化す必要もないからだろう。

 気が楽であった。最初からこうしておけばよかったと思うほどに。けれども、


「その生き方は歪よ」


 清美は全てを理解していた。隠し事の無い人生など有り得ない。

 有り得たとしたら、それは捨て身であり、まっとうに曲がったものなのだ。他人に素直である事と他人に全てを話す事は違うのだから。


「分かってるさ。だから言っただろ、程度の問題なんだよ。少しでいい、素直になって、言葉を交わそうって事だ。多少踏み込むべきなら、踏み込む。そうすれば、今よりは楽に生きれるはずだ」

「語った割には、簡単な事ね」

「そうだとも。だが、それが俺たちは出来なかった。壊れる事を恐れるのは正しいが、逃げればそこで崩壊だ。俺はお前達との暮らしは悪くないと思っている。だから、もう逃げん。お前も、他人を燃やそうとするほど思い詰めるな。何でも言え。言ってくれ。それでお前を嫌うなんざ、俺はしねえよ」

「…本当に馬鹿な人ね」


 清美が俺の胸に頭を預け、両手を背中に回してくる。俺を抱く両手に段々と力がこもっていき、


「不安にさせないで」


 その手が震えている事に俺は気がついた。

 その震えを止めるように俺は清美を強く抱きしめる。


「置いて行かないで」


 一つ一つが、些細なことであった。


「嫌いにならないで」


 誰もが思い、きっと口にできない些細な事であった。


「嘘を吐かないで」


 だからこそ、受け止めなくてはいけない事なのだ。

 清美の言葉が止まる。震えはなおも俺の腕の中で、俺は小さく息を吸い込んだ。


「不安にさせてすまん」

「うん」


 そして答える。それは意思であり、決意であった。


「置いて行って悪かった」

「うん」


 流されるのではなく、自分の意思で受け入れる決意。

 今ある居場所を守ろうとする意思。守りたい者を守ると臆すること無き意思。


「嫌いになんてならん」

「うん」


 その為に、俺は許そう。そうすればほら、


「嘘はこれからも吐く事がある。諦めろ」

「…馬鹿」


 こうやって、笑顔で冗談を言い合える。

 決意は胸に、意思は確かに。それだけあれば、後は他がなんとかしてくれるだろう。与え合うというのは、そういう事なのだろうから。

 問答は終わり、互いに答えは出た。すべてが終わる頃には、清美の震えは納まっていった。俺は清美を抱きしていた腕の片方を清美の頭へ乗せると、優しく撫でた。

 清美が俺の胸から顔を話し、俺を見つめる。目尻には、涙がまだ残っていたが、微笑んでいたのだから、もう大丈夫だろう。

 月明かりの下、抱き合う時間も終わりが近い。理解は得た、互いに許しあう事を分かち合えた。

 だから、夢を見続ける女を起こさなくてはならない。眠った女を起こすなら、キスの一つでもするのがいいだろうが、俺達には合わんだろう。

 俺達には俺達の流儀がある。だから、俺は清美の頭を撫でていた手を振り上げると、


「目を覚ませ、馬鹿女」


 俺は思い切り清美の尻を引っ叩いた。

 月夜に大きく音が響く。まるっきり馬鹿な行いであった。

 けれども、俺達はいつもこうであったのだから仕方ない。

 その証拠に、


「尻引っぱたかれて、いい笑顔で寝てんじゃねえよ」


 清美はいつものように微笑んでいるのだから。

 後は清美が目を覚ませば、それで終わりだ。目を覚ましたら…ああ、そうだ。少しは素直に接しよう。例え清美が俺との話を覚えていなかったとしても、約束は果たすべきなのだから。

 俺はそんな事を考えながら、俺に寄りかかり眠りこける清美を抱き寄せ、静かに微笑むのだった。

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