第四夜

 鳴り響くアラームを止めて、大翔はベッドから這い出した。別に遅刻するほどではない。もう部活をやめて一年近くになるというのに、まだゆっくりと朝をベッドで迎えることに慣れていなかった。今頃キッチンに立つ晴美も今日は起きてこないと安心していることだろう。

 もしかすると、こうやって生き永らえていられるのは他人より早起きが身に付いているおかげなのかもしれない。あと一時間、いや三〇分長く寝ていたら大翔はもうこの場所で血にまみれて死んでいたことだろう。

「あいつ、何であんなところに」

 大翔が考えたところでわかるはずもない。大翔自身、あの夢の世界に入り込んだ理由がわからないのだ。入らないで済む方法があるのなら、なんだってやっている。

 ふと、千早の様子が気になった。昨日学校に来ていなかったのは、もしかしてこの夢が原因なのかもしれない。目が覚める直前に千早も脱出していたような気がするが、本当に無事だっただろうか。

 考えれば考えるほど、答えは遠のいていく。我慢しきれなくなった大翔は枕元のスマホを手に取り、アドレスを探る。

 まだ朝早い時間だとか、本当に体調を崩しているかもしれないとかそういう考えはどこかに散ってしまっていた。コール音が鳴り始めたらもう後には引けない。

『おかけになった電話番号は現在……』

 大翔の全身に電流が走った。

「嘘だろ」

 昨日夢の世界で見たのは間違いなく千早だった。一年程度の付き合いとはいえ、クラスメイトを、堂本千早を見間違えるようなことはない。あの後、千早は、嫌な想像が頭を巡る。

「ちっ」

 思わず大翔は舌打ちをした。千早にではない。昨夜に千早よりも先に目が覚めた自分にだ。あの状況ならカベサーダに押さえつけられても肩の傷程度で済んだはずだ。なら千早の安全を確保してから夢から抜け出せばよかったのに。

 そんなことを思ったところで夢から覚める方法がわからないのと同じように夢の中に居座る方法もわからない。よく我慢した方ですらある。

 自分にいらだったまま、大翔はハンガーに掛けてあった制服をとり、急いで着替えを済ませる。思い出せる限りの教科書をカバンに詰めて部屋を飛び出した。

 部屋の前に立っていた晴美とちょうど鉢合わせになる。

「あ、おはよう。ちょうど今起こしに行こうと思って」

「ゴメン。もう行く。ちゃんと朝は何か買って食べるから」

「え? 何かあったの?」

 驚いたように返した晴美に答えもせず、大翔は階段を駆け降りて、そのまま玄関を飛び出した。

 走りながら手に持ったスマホでまたアドレスを探す。今度は千早ではなく、真由の方だった。

「早島、ちょっといいか?」

「何よ、こんな朝っぱらから」

「どうせ朝練でもう起きてただろ。ちょっと聞きたいんだが」

 電話越しにも伝わってくる真由の眠そうな声を無視して、大翔は話を続けた。部活をやっているんだから早起きなものだと勝手に考えていたが、真由と大翔では朝練に対する意識が違うらしい。今日の昼には何かおごってやらないといけなくなりそうだ。

「堂本の家ってどこにあるか知ってるか?」

「へぇ、ふぅん」

 大翔の質問に真由は何かを察したというように相槌を打つ。まるで獲物を見つけた肉食獣が舌なめずりをしているような欲望に思考を支配されたような返事だった。

「いいから。知ってるのか? 知らないなら切るぞ」

「自分こそ中学一緒だったのに知らないんだ」

 そんなもの知るわけがない。中学生なんてものはちょっと仲のいい男女がいればそれだけで話の種に困らなくなる生物なのだ。それがわかっていながらわざわざ話題を提供してやる理由もない。

 大翔は千早に家の場所など聞いたことはないし、千早も同じく大翔の家の場所なんて知らないだろう。

「そんなに心配になるなら、もっと早く聞けばいいのに」

 にやけ顔が目に浮かぶような声。真由はことさらに焦らすように適当な相槌あいづちを返していく。どんな恨みがあるのかは知らないが、家を飛び出してきたというのに行き場所を見失ってしまった大翔には面倒すぎる。

「もう切るぞ」

「あぁ、わかったって。高校から本屋に出る通りを行って、信号を左に……」

 中学が一緒なのだから、家はそれほど遠くはない。考えてみればすぐにわかることだった。真由も聞いただけで実際に行ったことは一度しかないという話で、説明は完全ではなかったが、家に近い大翔の方は十分理解できた。

「わかった。ありがとう」

 まだ何かを言おうとしていた真由の言葉を聞かずに電話を切った。大翔は来た道を引き返し、真由の言っていた道へと向かった。

「大体この辺りか」

 言われたとおりに高校から本屋に向かう通りを進み、目印として言われた小さな診療所の角を曲がり、大翔は通りの中に進んでいく。集合団地からは少し外れた辺り、千早の家は曽祖父母の代からこの土地に住んでいると聞いたはずだ。

 大翔の家より一回り大きな家の高い塀を巡りながら、一つ一つ表札を確かめていく。三軒目の表札に堂本の文字を見つけた。

 白い漆喰しっくいの高い塀。その上に見えるのは日本家屋の黒い瓦屋根。周りと比べても一回りは長い時間この土地に建っているように見えた。

「さて、と」

 表札の下のインターホンに伸ばした手が止まる。うっすらと汗をかきながらここまで走ってきた大翔の体が止まって、冷たい朝の空気が肺を通じて脳を冷却した。なんでこんなところまできてしまったのか。ただ心配なだけで、連絡がつかないだけで勢いのままにここまで来るほどのことだっただろうか。

「あぁ、もう」

 まだ犬の散歩も通らない堂本家の前で大翔は三度もその場に円を書くように回った。その時間は長くはなかったが、大翔にはずいぶんと悩んだように思える。失礼じゃないだろうか、逆に朝から男が尋ねてきて不安にさせないだろうか。

「電話に出ないあいつが悪いんだよ」

 意を決してインターホンに手を伸ばすと、すぐに答えが返ってくる。

「はい、どちらさまでしょうか?」

「あ、朝早くにすみません。俺、堂本、千早さんのクラスメイトで」

「クラスメイト?」

 不思議そうな声。千早の母だろうか。当然だ。こんな朝、しかも平日にいきなり男が訪ねてきて不思議でないことがない。追い返されてもおかしくない状況で、怒っていない声色なのが救いだった。

「あ、はい。神代って言います」

「神代くん」

 向こう側で千早の母が大翔の名前を繰り返す。

「神代くん!?」

 さらにその後ろ側から今度は千早の大声が大翔の耳に届いた。

 インターホン越しにバタバタと慌しい足音が鳴り、それが聞こえなくなると閉まった塀の向こう側で引き戸が開く音がする。カラコロと下駄の歯が石の上を走る音が大翔の方へと近づいてきて、大翔の背丈を優に越える大きな杉の門が開かれた。

「どうしたの、神代くん!」

「あ、あぁ、おはよう」

 門の隙間から顔を出した千早は大翔の顔を見て叫んだ。昨日は学校を欠席していたし、昨夜の一件で相当悪くなっているだろうと思っていた大翔は千早のあまりの元気さに困惑してしまう。

「思ったより、元気そうだな」

「え?」

「いや、無事ならいいんだけどさ」

 無事を通り越して元気すぎる。大翔の方がよっぽど心身ともにボロボロな気分だ。もしかすると昨夜に見た千早は見間違いか本当に夢の中だけの存在だったのかと思えてくる。

「あ、昨日休んだから? まだ本調子じゃないけど、今日は目覚めも良かったし、もう少しかな」

「目覚めが良かった?」

「あ、ううん。なんでもないの」

 目覚めが良かった? あの夢を見て? 大翔はもう何がなんだかわからなくなってくる。真っ暗闇の体育倉庫に隠れ、その扉を破って襲ってきた怪物たちに殺される寸前で逃れるように目を覚ましていったいどこが気持ちよく起きられるだろうかと思う。

「そっか、ならいいんだけど。携帯繋がらないし」

「あ、昨日つけたまま寝落ちしちゃって。今充電中」

 あはは、と照れたように千早は苦笑いを浮かべた。

「でもそれだけでわざわざ家まで来てくれたの?」

「いや、なんていうか、今朝は変な夢見ちまって」

「それって、変な怪物に襲われて、体育倉庫に隠れる夢?」

 何気なく聞いた千早の言葉に、大翔は動揺を隠して口元を結んだ。やっぱり、という声が漏れそうになったのをすんでのところで飲み下す。

 カベサーダのことを知らないのなら、わざわざ不安にさせることはない。嘘をつくことに少しだけ罪悪感を覚えながら、大翔は笑った顔を作って答えた。

「あぁ、そんな感じだった」

「そうなんだ」

 驚いた表情に嘘の雰囲気は微塵みじんもない。千早はいつからあの夢の世界に落とされてしまったのだろうか。昨夜初めてあの世界に誘われたか、誰とも協力せずにあそこに隠れていたのか、大翔のように誰かを犠牲にして生き残ったのか。

 聞きたいことはいくらでもあるが、大翔はぐっと堪えて微笑んだ顔を守った。

「それにしても、その様子だと今日も休みみたいだな」

「え?」

 玄関先で嬉しそうに話していた千早は大翔のことをまじまじと見た後に、自分の姿を確認する。

 セミロングの髪は寝癖がついたままであちらこちらに跳ね回ってまとまらない。服装はひよこ柄の上下のパジャマ。春から夏に変わりつつある季節とはいえ、少し肌寒くないかと心配になる薄着だ。ついでに言えば、足元は一番早く履けそうだったのか、千早の足より二回りは大きな男物の下駄。兄弟がいるという話は聞かないから祖父か父親のものだろう。まったくもって色気の欠片もない。

「あ、えっと。最近ちょっと寝ても疲れが取れない感じがして」

 ぼんやりしているのは大翔の専売特許だと思っていたが、こうして見ると千早もなかなかに抜けているところがある。

「でも今日はちょっと大丈夫な気がしてきたし、明日にはきっと学校にも行けるよ」

 他人事のような言い方が少しだけ大翔のに不安をもたらした。千早がどれほどの時間あの夢の世界にいて、どれほどの恐怖を見てきたのかは大翔にはわからない。ただ目の前にいる千早が、いつも大翔を勇気づけるために真面目な顔をして教科書で大翔の頭を叩く彼女が、疲れた顔で無理をして笑っていることだけは理解できた。

「わかった」

「え、何が?」

「絶対に俺がなんとかしてやるから。もうちょっとゆっくり休んでな」

「どういうこと?」

 きょとんとして首を傾げた千早は大翔の真意は少しも伝わっていないようだった。だが、それでいい。

「じゃ、俺は学校行くから。また体調崩すなよ」

「あ、うん」

 手を振る千早に大翔は恥ずかしそうに小さく手を振り返して、学校に向かって走り出した。

 正義のヒーローにはきっとなれない。だが、千早を助けてやるのに何もヒーローになる必要もない。

 特殊なスーツも、専用の武器も、華麗な必殺技もいらない。

 泥臭く、ボロボロになりながらでもなんとかしてやる。それが大翔のできる数少ない恩返しの選択だった。

 千早が生きていて安心した。それがわかっただけでも朝から走り回った分の成果は十分にあったと言える。大翔は意気揚々とした気分で学食に向かい、カレーパンとカツサンド、それからコーヒー牛乳を受け取って教室に向かった。

 帰宅部には早過ぎる登校で教室にはクラスメイトの姿はどこにもなかった。今学校に来ている生徒ならほとんど部活をやるために来ているはずだからある意味当然のことと言えた。

 大翔は自分の席に着いて買ってきたパンの包装を開ける。遅めの朝食だ。

「やっほー」

 手始めにカツサンドを口に入れたところで教室の扉が豪快に開いた。尊臣かとも思ったが、どうやらそれは違うらしい。

「ねぇ、どうだった?」

 真由だった。陸上部の朝練はまだ続いているはずなのに、さも当然のように教室に現れて誰もいない中を通って大翔の席の前に立った。

「今、メシ食ってんだけど?」

「朝ごはんも食べずに千早のとこに行ったの? 愛だね」

 真由の歌劇団のような囁きに耳を貸さずに大翔は黙々と食べ進める。

「ちょっと、何か言ってよ! 気になって部活早退してきたんだからね」

「ただサボる理由が欲しかっただけだろ」

 コーヒー牛乳をすすりながら大翔は苦い顔で真由の顔を睨んだ。コーヒーが苦いわけではない。ミルクが半分近く入ったコーヒー牛乳は疲れを癒す力がある。

「いいじゃない。昨日は千早のお見舞いで疲れちゃったし」

「お見舞いに疲れる要素なんてないだろ」

 朝から走り回って、アポなしで自宅に押しかけた大翔より大変なお見舞いが世の中に早々あってはたまったものではない。

「そんなことないよ。たとえば風邪をうつしてもらうために、こう」

 と真由が自分の唇に手を当てる。

「チュッ、とね」

「お前なぁ」

「あ、今の嫌って思った? 千早のファーストキスは俺のものだ、とか考えた?」

「考えてない」

 カツサンドを食べ終え、大翔はカレーパンに手を伸ばす。こんなことなら学食の席を借りて食べるべきだったか。いや、それでも真由は大翔を見つけてこうして絡んできそうだ。

「大丈夫だって、唇は奪ってないから」

 キスはしたんじゃねぇか、と叫びたくなるのを堪えて、大翔は無言でパンを食べ進める。下手に返すと危険だ。どうして自分は真由に千早の家の場所なんて聞いてしまったのだろうか。冷静になって考えれば、光辺りなら調べてくれそうなものだ。

「こうちょっと首筋に、ね」

 長くない髪をかき上げて、真由は自分の首筋を指差した。そうしていれば平均よりは可愛く見えなくもないと言えるのに、どうしてそんなに口から言葉が漏れてくるのか。もう少し落ち着けと言いたくもなる。

「そんな詳細な説明はいらん!」

「嘘だ。本当は気になってるくせに」

 気になっていないといえば嘘になるが、だからと言って当の本人からねちっこく説明してほしいものでもない。どんなことがあったのかは知らないが、とにかく千早は無事のようだったし、真由が言うほど過激なことはしていないはずだ。今は平穏に朝食がとりたかった。大翔はもう何日もまともに眠れていないのだから。

 手応えがないと諦めたのか、真由は口を尖らせて大翔の席から離れていった。ここで居眠りならきっとあの夢は見ないで済むだろう。そうすればまたあの和弘の夢を見るだろうか。

 大翔は食べたパンの包装をまとめて、眠気を振り払うように立ち上がった。


「よう、無事じゃったみたいじゃな」

「それでも最後は破られたよ。危機一髪だった」

 カベサーダの最後の一撃は大翔の肩をすり抜けていった。もしもあと数秒長くあの世界に留まっていれば、命は助かるにしてもかなりのケガを負わされていただろう。

「すまないな。簡単に起床というものには抗えん」

 入り口近くに座っていた乃愛が、大翔に苦い表情で謝る。

「それはしょうがないですよ」

 大翔自身よく耐えたものだ、と思っている。千早の顔を確認したところまでよく我慢できたものだ。守ってやることはできなかったが、千早が生きていることも今朝確認することができた。

 そして一つ心に決めたことがある。

「眠りの時間が短くなればそれだけ生き延びやすくなるわけだ」

「実際に夜遅くまで起きて朝に大量の目覚ましで強引に起きるっていう対策をしていた人間もいるみたいだね」

「していた?」

 光の言葉の端に違和感を覚えて、大翔は繰り返す。しかし、その疑問は乃愛が強く叩いた机の音でかき消された。

「しかし、昨日の奴らは何だったんだ? まるで別の生き物だったぞ」

「さぁの、えらい頭の切れるアタマでもついたかのう」

「全体を統括とうかつする指導者が出てきたということか?」

 嫌な話だな、と乃愛と尊臣が同じように顔をしかめた。ただでさえ身体能力が上の相手をどうにか策を弄して逃げ、倒してきた。そんなわら一本を掴んでここまで生き残ってきたのだ。それをあんな団体で襲われては必ずいつか喉笛を噛み切られるときが来る。

 ただ指導者が出てきたという考え方には大翔は否定的だった。

「むしろ元からいた奴がいて、動き出したんじゃないか?」

 大翔には一つの考えがあった。

「また仮説かい? 聞いてみようか」

「俺たちがあの夢に入って毎日少しずつ変わっていったことがあったと思うんです」

 大翔は最初、色々な場所を一人で歩き回っていた。それが先日、ショッピングモールに落とされ、尊臣とカベサーダに会った。そして次の日にはホテルを回り、モールとそれから学校に繋がる通路を見つけた。

「そして少しずつカベサーダが増えていった」

 最初はほとんど見なかったカベサーダだったが、一匹、二匹と日を追うごとにその数を増やし、昨日にはついに二〇を超える数が大翔たちに襲いかかってきた。そして広い空間を逃げ回っていた大翔たちに残されていたはずのモールへと続く通路は跡形もなく消え去ってしまっていた。

「つまり、俺たちはあの学校に誘い込まれたんじゃないか?」

 学校。もっともカベサーダの数の多いあの空間に人間を引き寄せれば、簡単に食い殺せる。何かの力を使ってカベサーダたちを操れるというのならもっと簡単なことだろう。

「じゃあその指導者の力が及ぶんは学校の中だけっちゅうことか」

「カベサーダを操ることに関しては、そうだと思う」

「他のことならできる、と貴様は思うわけだな」

 それに関しても大翔には気がついたことがあった。

「だって日を追うごとにあの空間は俺たちの対策をしていたから」

 最初の違和感はホテルだった。前夜には物が散らかっていたロビーがきれいに片付けられていた。物で通路を塞ぎ、ホテルにいた人たちがモール側に逃げ出してからだった。通路も細く長いものから塞ぐことのできないように大きく短くなった。

 さらに学校についてからは逆に物が多くなり、扉がどれも歪んで動かせば大きな音を立てた。塞げるような空間はほとんどないのだから、前に言った問題はなくなっている。ただカベサーダを引き寄せることになる罠がそこらじゅうにあるのと同じだ。

 それでも対抗策を見出し、触角の弱点を知った大翔たちにその指導者は強制的にカベサーダをまとめて操り、大翔たちにけしかけた。

「そして機能は学校に俺たちを閉じ込めていた。たぶんカベサーダを操れるのは学校の中だけなんだと思う」

「完全にワシらを狙って殺しに来とるわけか」

「まるで見世物の闘技場だな。古代ローマのようだ」

 吐き気がする、と乃愛は吐き捨てるようにこぼした。逃げ道は塞がれ、人は目の前で死んでいく。生き残る術は逃げ切るか、相手を討ち取るかしか残っていない。

「しかし、そこまでして人間を殺す理由はなんなんじゃろうな」

「それはわからないけど」

 大翔にもまだその理由は見当がついていない。食糧として狙っているのなら食い散らかした死体が残っているのはおかしいはずだ。動くものをとにかく追いかけるというだけならわざわざ探し出した人間を襲うのもおかしい。

 大翔たちは黙って自分の頭の中を探ってみるが、いい答えは少しも思い浮かばない。

 その時、大翔の説明が終わるのを待っていた光がパソコンの画面から顔を離し、椅子を回して大翔の方を向いた。

「僕らのうちの誰かを狙っている、というのはありえないかな?」

「狙っている?」

 理由を探していた三人は神妙な表情で光を見返す。適当なことを言うな、と顔に書いてある尊臣と乃愛を見ても動じないところを見ると、それなりに自信があるようだ。

「神代はモールへの通路が塞がれていた、と言ったね」

「あぁ」

「それはモールとの通路が絶たれたんじゃなく、モールそのものがなくなっている可能性が高いようだね」

 光は背中側にあるパソコンの画面を指差した。まったく動いているところを見たことがない旧式のパソコンの前に立って、光が指差した新型パソコンのモニターを覗き込む。そこには以前も見た巨大ネット掲示板のオカルト板、今大翔たちが直面している夢の世界のスレッドだった。

 勢いは変わらずオカルト板ではトップのペースで書き込みが続いている。リンクが貼られたニュースサイトは被害者の顔や経歴をまとめているものらしい。

 光がゆっくりと過去の書き込みからスクロールをしていく。書き込みの日付は昨日の夜だ。

『今夜こそ死ぬかもしれない。みんな今までありがとうな』

『そんなこと言うなよ。生き残ろうぜ』

『もう寝たくない』

 夜を迎えた絶望感がスレッドの中を渦巻いていた。この時点で彼らの中にカベサーダの弱点、触角に気付いた人間はいなかったようだ。ただこれから来る恐怖と睡魔との戦いの中で必死にもがいている様子が文字からでも伝わってくる。

「そして、こっちが今朝の辺りだ」

 光がスクロールを早めて、少しの間の書き込みを流す。深夜になれば書き込みは極端に減り、とにかく眠らないため雑談をしているものばかりになる。

 そして、書き込み時間が夜の明けた頃だった。

『あの悪夢を見なかった』

『悪夢が終わったぞ! お前ら寝ろ!』

『俺は生き残ったぞおおおおおおお』

 あっという間に書き込みは歓喜の色を帯びた。誰も昨夜に悪夢を見たという書き込みをしていない。お祭り騒ぎという言葉でも言い表せないほどに書き込みの速度は増していた。大翔はその書き込み一つひとつを見逃さないように目を走らせていくが、大量の書き込みの中に夢の中にいたというものはない。

「これでこのスレッドは終わり。次はたたなかった」

「ということは昨日夢にいた人たちは」

「全員死んだということになるね。書き込みをしていない可能性ももちろんあるけど」

 光の言葉に大翔がうなだれた。大翔は昨夜、少なくとも十人の死体を見た。それ以上にあの学校のどこかで死んでしまった人がいる。あと一日、うまく逃げ延びることができれば、この書き込みとともに笑いあえたかもしれない。

「つまり標的がワシらでなければ昨日でおしまいじゃった、ってことじゃな」

「そういうことになるね」

 二人の言葉はやけに嘘らしい。芝居がかった声が虚しくさえあった。二人とも昨夜で悪夢が終わるだなんて微塵も思っていない。目的が達成されたのなら、あれほどの数のカベサーダが体育倉庫に向かって襲ってくるはずもないのだから。

「人の数が減り、敵はまとまって当たってくるとなれば、逃げるのも一苦労だぞ」

「何か小さなことでもいいから今のうちに対策を考えておきたいね」

 状況は日々悪化している。それでも平静を取繕とりつくろおうとするのは、動揺を隠したいからなのだろうか。ことさらゆっくりと話しはじめた光の頬は引き攣っているようにも見えた。

 尊臣は目を閉じたまま腕を組んで一言も喋らない。何かを考えているような何も考えていないような頭の中は覗けない。

 ただ一人、その中にあって大翔にはもう既に決めてしまっていることがあった。

「それなんだけど、こっちから仕掛けられないか?」

「正気か? 状況は聞いていただろう?」

 誰よりも早く反応したのは乃愛だった。わかりやすいほどの反対。瞳には怒りの色すら帯びていた。

「もうやり過ごせる状況じゃない。だったらこっちから仕掛けて奴らの親玉を倒す。何もおかしなことはないじゃないか」

「それが無謀と呼ばれてもか?」

「逃げ切ることだって無謀なんだ。終わりが見えるほうがいいに決まってる」

「数が多すぎる。こちらが先にやられるだけだよ」

 熱くなってきた二人を諌めるように光が口を挟んだ。ただやはり光も反対のようだった。どれだけ大声を出そうと誰も通らない情報部室とはいえ、緊迫した雰囲気は精神に悪い。大翔の肩に手を当てて落ち着け、と宥めるが、大翔にはまったく効果がない。

「だから親玉を見つけて叩く。夢の持ち主ならそこで終わり。ダメでもバラバラのカベサーダなら倒す術はある」

 大翔の語気が強くなる。もう言ってしまおうかとも考えた。たった一人の、この中にいる誰でもない女の子を助けるためだけに、命を賭けて戦いたいと。バカだって程度はある。今の大翔の頭の中は間違いなく誰にも理解できないことを考えている。

「神代」

 今まで黙っていたままだった尊臣が口を開いた。

「昨日の体育倉庫の中に誰かがおったな。あれの正体は確認したんか?」

「え?」

「そういえば声だけは聞いたね。僕は結局見ていないけど、あの子も助かったのか」

 尊臣がうまく話題を逸らしたことに便乗して光も言葉を続ける。熱くなった大翔と乃愛を静めるのにちょうどいいと思ったのだろう。だが、それは大翔には逆効果というものだ。その少女こそ今の大翔を突き動かしている原動力になっているのだから。

「見たよ。気になったし」

「どんな奴じゃった?」

「堂本。うちのクラスの口うるさい女がいただろ? あいつだったよ」

「そうか」

 組んでいた腕を解き、尊臣は大きな両手を強く打ち合わせた。規格外の力が鳴らす柏手は狭い部室の中に響き渡る。その場にいた誰もが驚き、体を固めた。あの乃愛でさえもだ。

 気合を込めた柏手は議論を止めるだけの力があった。

「よし、ワシはその話乗ったるわ」

「ちょっと待て、橋下。本気で勝ち目があると思っているのか?」

「あるかは知らん。じゃが男っちゅうのは拳を作って戦わんといかんときがある」

 尊臣は立ち上がり、座っている大翔の頭を乱暴に撫でた。二回の往復で大翔の髪は荒れ放題になってしまうが、そんなことよりも賛同者が出たことの方が大翔には嬉しかった。

「なんなんだ、その戦わないといけない時っていうのは」

「女のために体張るんは男の役目じゃろうが」

「私も一応女なのだが」

 違う方向で怒りを強めた乃愛に尊臣は臆することなく今度は大翔の肩を掴んだ。興奮しているのか掴む手の力は強い。まだ完全には治りきっていない肩の傷に響くが、そんなことも言ってはいられない。

「女っちゅうのは、愛した相手っちゅうことじゃろ」

「別に愛とかそんなんじゃ」

 話が逸れて大翔には結構恥ずかしい方向に転がり始めている。この辺りで修正しておかないとひどい状況が待っていそうだ。

「まったく理解に苦しむ。暑苦しい」

「これだから時代遅れのヤンキーは困るよ」

 周囲を、大翔すらも置き去りにして勝手に盛り上がっている尊臣に熱く口角泡を飛ばしていたはずの三人は冷や水をかけられたように静かになった。この展開を尊臣がどこまで予想していたのかはわからないが、四人の考えはカベサーダを倒すということで一致する方向に傾いた。大翔にとってはありがたいはずなのに、それよりも背中を容赦なく叩く手を止めてほしいと思わずにはいられない。

「よっしゃ、千源寺。作戦会議じゃ」

「はいはい。こうなったら付き合うよ」

「まずは敵の大将を見つけるところからか」

 諦めたように光と乃愛は自分の椅子に座りなおし、それに満足したように尊臣もまた巨体を壊れそうなパイプ椅子に預けた。

 光が毎日書き溜めていた立体地図を印刷してきて、それぞれに手渡す。最初は広くて迷うから、と作り始めたはずのものが、閉じ込められた空間では逃げ道を探すためのものになり、今は敵を追い詰めるためにものになっている。

「ここがグラウンドで、昨日逃げた体育倉庫がここ」

「ここが私が最初にいた場所。ここがこやつとの合流地点だ」

「僕はここからで、ここが橋下との合流点だね」

 立体地図と平面地図を見比べながら、それぞれの行動を順番に追体験してみる。地図上で見る学校の内部は本当に狭く、よく逃げ切れたものだと感心してしまう。

「しかしおかしな形をしとるな。今さらじゃが」

「この地図はあくまで僕らの記憶を頼りに作っているからね。多少の違いはあるだろうけど、それにしてもね」

 立体地図と平面地図の両方が必要になるのには理由がある。大翔が夢の中で何度も曲がっては走りぬけた廊下はらせん状に連なって構成されていたと光は考えている。二階の廊下からグラウンドに出るのに階段を一度も使わなかったのはこのせいだ。

 円ではなく正方形の形が何層にも連なったいびつな学校を指で辿るには各階層の平面図が必要不可欠だ。

「そしてここの通路は消えていた」

「とすると、ワシらは全部の場所回ったっちゅうことになるな」

 全員がグラウンドにそろい、走っていった体育倉庫までを指でなぞると確かに誰も見たことのない場所はないように思える。

「開けてない教室はあったはずだけど」

 たった一枚の扉の向こうにその場の長がいることなどあるだろうか。わざわざ姿を見せないのだから、もっと奥まった場所に、強固な守りを敷いて隠れているのが当然のはずなのに。

「何か忘れているような気がするんだけどね」

「思い出せ、千源寺」

「無茶を言わないでくれよ。毎晩死なないだけで精いっぱいだよ。君のような体力バカじゃあるまいし」

 誰がバカじゃ、と睨んだ尊臣から光が瞬時に視線を逸らす。学ばないというよりは光なりの尊臣に対する仕返しなのかもしれない。部室を取られ、チームに強引に入れられて、迷惑ではないが思うところはあるのだろう。

 尊臣も深く追及することなく、光の答えが出るのを無言で待っていた。

「あ、そうだ。あの時だ」

 しばらくして、ようやく記憶のサルベージが終わった光が一人合点がいったと机を軽く叩いた。

「神代、一昨日奴らに襲われた場所は覚えているかい?」

「え、最初の教室を出た辺りですか?」

 夢の中の学校が自分の中学だと思った大翔がグラウンドの見える教室に向かい、そこから出たところでカベサーダに襲われた。

 そこで大翔は押し倒された光を助けるために机を振るったのだ。バリケードの中からあぶれていた机を掴んで。

「あ、階段のバリケード」

「どうやら僕の記憶は間違ってなさそうだね」

「あのバリケード、一階に行けないようになってましたね」

 大翔たちの行く手を阻んだバリケード。それは確かに一階に続く階段を塞いでいるものだった。ホテルでも通路が塞がれていたので、その時はなんとも思わずただ追い込まれたという事実だけが頭を占めていたが、今なら違う考えが浮かぶ。

 ホテルやモールにはバリケードを作られないようにものがなくなっていたと考えるならば、階段にバリケードが作られたとすれば、翌日、つまり昨夜の夢には机が世界の中から消えているはずだ。それが残っているということはつまり、あれを作ったのは夢の世界の人間である可能性が高い。

「あの先に指導者がいる?」

「可能性は高いだろうね」

 光は一昨日見たバリケードがあった位置を指で示した。この先は地図上は行き止まりになっているが、確かに下り階段が存在した。

「それじゃ、本物の自分の中学じゃとして、何があるんじゃ」

「えっと、一階だから職員室、保健室、校長室辺りかな」

 大翔がまだ古くない記憶を辿りながら置かれていた部屋を一つひとつ挙げていく。

「ほう、校長室」

 その内のひとつに尊臣が反応した。

「なんだよ。普通に学校ならあるだろ、校長室」

「偉そうな奴ならそこにおるかと思うてな」

「さすがに安直過ぎるだろ」

 そんなに簡単なところにいてくれるなら探す手間が省けていいのだが。実際のところはそこにいるかどうかも、そもそも現実と同じように一階の部屋がそこにあるという確証すらない。

「一応配置を書いてみろ」

「あ、はい」

 乃愛に促されるままにシャープペンをとり、手元の地図に一階の部屋を書き込んでいく。

 学校の一階というのは外部の関係者や来賓の相手をする職員室や校長室、応接室。それからグラウンドでのケガにも対応しやすいように保健室。搬入物の多い図書室などがおかれることが多い。大翔の学校もその例に漏れず、どこにでもある普通の配置がなされていた。

「こんな感じ、ですかね」

 とりわけ気になる点もない。少なくとも大翔にはそう見えた。平面図とある程度大きさを合わせて書いた廊下と部屋割りの簡易な地図は日本中を探せばまったく同じものがあっても驚きはしないほどに平凡だ。

 それなのに、光と乃愛は興味深そうに大翔が書いた地図を眺めて、ふむ、と納得したような声を出した。

「意外とその考え、当たっているかもしれんな」

「どういうことですか?」

「まぁ、これを見ろ」

 乃愛が自分の手元にあった地図に大翔と同じように一階を書き込む。その場所は正方形になった廊下の中心。空間が歪んでいなければ一階の部屋があるのを上から見たところ。

「ここが、校長室。そしてその上に廊下が繋がっていて、ここがグラウンドだ」

「そうですね」

 そんなことはさっき確認したばかりだ。いくら大翔でも地図くらいは読める。

「そして昨日見た蜃気楼、あの夢の終わりがグラウンドにこう発生していた」

 きょとんとして理解していない大翔に気付いたのか、乃愛の説明に光補足を入れながら、グラウンドの端に弧を描くように線を入れる。その線は大翔も見た蜃気楼の出ていた場所だ。学校を囲むフェンスの付近にできた夢の終わりを示す蜃気楼。飛び出そうとしても足元に抵抗がなく立つことができない夢の世界の終末地点。

「で、わかったかい?」

「いえ、全然です」

 大翔の答えに今度は尊臣が溜息をついた。もしかしてこの場にいる中でカベサーダの指導者と思われるものの居場所がわかっていないのは自分だけなのかと頭を抱えたくなる。

「自分、弧から円の中心を求める方法はわかるんか?」

「さすがに中学の簡単な数学くらいできるっての」

 あまり数学は得意ではないとはいえ、大翔だって中一の問題くらいはできる。

「えっと、確か適当に弧の上に三点をとって」

 それぞれの二等分線が交わる点がその弧を持つ円の中心点。コンパスなんてものは高校に入って机の引き出しの奥で深い眠りについてしまっているのでフリーハンドの適当な作図ではあるが、大翔としてはなかなかきれいな図形になった。

 その中心点の場所は。

「あ、ここって校長室」

「やっと気付いたんか」

 尊臣がわざとらしく頭を抱えた。バカで悪かったな、と心の中で悪態あくたいをつき、大翔はもう一度、地図の上に自分で書いた中心点を見た。雑な手書きとはいえ大き崩れているということはない。その近くには大翔自身が書いた校長室という文字がやはり雑な字で書かれていた。

「あの夢の学校の中心は高さこそ違えど校長室である可能性が高いと言えるね」

「中心だからそこにいるのか、逆に指導者がいるから世界の範囲が決まっているのかはわからんがな。無策よりは十分な理由だろう」

 中心点が黒丸で描かれた地図をもう一度じっくりと見て、大翔は防衛本能が口に溜めた唾液を飲み下した。

「そんならそのバリケードとやらを壊して、校長室に攻め込んで、親玉ぶっ飛ばして終わりじゃな」

「簡単そうに言うが、こちらは四人だぞ。向こうの数もわかったものではない」

「固まっていれば背後から襲われることはないだろうけど、危険だな」

 攻め込むにはあまりにもこちらは戦力が少なすぎる。少なくとも相手は怪物が二十余り。指導者だって戦えないとは限らない。

「一応聞いておくけど、四人っていうののあと一人は誰だい?」

「あ、光さんは行かないんですか?」

「まぁ、無理強いはできんのう」

「適当なところに隠れていろ。後は貴様の運次第だ」

 戦力が一人減ったとなると、また戦況が厳しくなる。

「あ、えっと、誰も止めてくれないのか?」

「分が悪いのは承知じゃけぇの。好きにせぇや」

 大翔も生きて帰られる保障はない。それにこの作戦の半分以上は大翔のわがままで構成されているのだ。誰かを無理やり連れて行けるほど甘い話ではないのだ。

 一人人数が変わったとはいえ、元から戦力差は圧倒的だ。頭を抱える状況は変わっていない。大翔は尊臣と乃愛と顔を突きあわせながら、どうやってカベサーダの猛攻を振り切るかと頭を捻った。

「何かトラップでもしかけたらどうだい?」

 その鼎談ていだんの上から光の提案が降ってくる。

「奴らは大きな音を立てれば集団を乱して襲ってくる。昨日のグラウンドの一件がそうだ。どこかに時間差で大きな音が鳴るような細工をして、そこに奴らをおびき出そう。その間にバリケードを破って侵入する」

「ほう、やるじゃないか」

 行き詰っていた乃愛が光を見上げて、にやりと笑った。悪の総帥のような笑い方が少しばかり恐ろしい。

「乗りかかった船だ。僕も行くよ」

 光はこめかみを掻いてパソコンに向かうと、なにやら計算式を並べて即席トラップの設計を始めた。

「おっしゃ、今日で全部終わらせたるぞ」

「あぁ」

 三人が拳を突き上げたのを見て、光も小さくそれに同調した。

 これほどまでに気合を入れて眠りにつくことなど、一生でもう二度とないかもしれない。試合の前だって寝る時くらいは気持ちを落ち着けて体を休めるようにする。だが、今夜はその就寝がそのまま作戦の実行になる。スタートラインに立つのと同じことなのだ。

 大翔ははやる気持ちをなんとか落ち着けようとしながらベッドに入って、もう三十分は経っただろうか。眠らなくてはと考えれば考えるほど、放課後話し合った今夜の作戦が思い返されて頭が冴えてくる。

「こりゃ遅刻だな」

 これでも学校に遅刻したことはないのだが、初の遅刻が死と隣り合わせの夢の中となれば少しくらいは許してもらいたいものだ。

 今夜で全部を終わらせることができるだろうか。できることなら全員無事で、それから千早には知られることなく。

 ようやく眠気が大翔の周囲を包み始める。

「それじゃ、行くか」

 眠るという行為がもはや休息ではなくなっているが、大翔にあるのは決意だけだった。

 土の匂いがする。石灰の粉が鼻に飛んできたのを大翔は右手で払った。

「お目覚めか。夢の中で寝るやこ器用なことしよるな」

「やっぱり俺が最後か」

 グラウンドで大の字になっていた大翔を三人が見下ろしている。この体は今大翔が目覚める前からここにあったらしい。三人は叩いても揺らしても目覚めない大翔が起きるまで数分待っていたと口々に話した。

 起こした体を反らし、軽く跳ねて体を弛緩する。問題ない。きちんと動く。

「よし、じゃあ行こうか」

「楽しい祭りになるといいが」

「結果が良けりゃ、楽しいじゃろうな」

「もう少し危機感を持ってくれよ」

 それぞれに好き放題を言って、四人は校舎に向かって歩き出した。

 校舎の中は人がまったくいなくなったせいか、妙に静かだった。カベサーダたちは今夜も集団で校長室にいるはずの指導者の命に従いながら、大翔たちの姿を追っているのだろうか。細い廊下の続く一本道ですれ違うことはなかった。

「でもトラップなんてどうやって作るんですか?」

「学校っていうのはそもそも意外と日常非日常の色んなものが集まってくる場所さ」

 廊下を歩きながら様々なものが落ちた廊下や教室で光は時々何かを拾っていた。ただ大きな音を鳴らすというには片手に余る道具だけを持って、いったいどうやって音を立てるというのだろうか。

 廊下を曲がっては音を立てないようにゆっくりと歩いていく。バリケードから十分に離れた教室の中で光を中心にトラップ作りを始めた。

「要はドミノ倒しと同じ要領を使えばいい」

 そう言って、光は手に隠すように持っていたトラップの材料を開いて見せた。

 ミシン糸、モーター、木工ボンド。

 どれも授業で使うもので大翔も見たことがあるものばかりだ。あの廊下には学校にあるべきものが全て投げ出されている。

「最初は小さな崩れでいい。それが少しずつ大きなものを崩して音を立てるんだ」

 モーターに銅線と乾電池ケースを繋ぎ、芯のほうに木工ボンドでミシン糸を巻かれた状態のままくっつける。その糸を引っ張って伸ばし、段ボールの切れ端を三角に折ったものに貼り付けた。

 その上に割れた板を重ね、机の脚を乗せる。机の上には大小さまざまな石や物理の実験で使うパチンコ玉なんかを乗せ、落ちる先にひっくり返した教室の机を置いておく。

「これで糸が巻き切れれば段ボール片が抜けて、机の上に物が落ちて大きな音が鳴るはずだ」

 教科書を入れるための空間が音をやたらと大きく響かせてくれる。小学生の頃、大掃除中にビー玉を投げて遊んでいて怒られたことがあったのを大翔はよく覚えている。

「ミシン糸の正確な長さはわからないが、だいたい五分というところだろう」

 準備が完成し、後はスイッチのないモーターに電気を通すために乾電池をケースに入れるだけだ。

「成功するのか?」

「たぶんね。奴らが寄ってくるかどうかは未知数だけど」

「そんじゃ、一階の階段までできる限り近付くとするかのう」

 ここからなら歩いてもバリケードの近くまではいけるはずだ。ここから初めてこの夢の学校に来た時に大翔たちが入った教室で隠れ、しっかり音が鳴ってカベサーダが音に向かったところでバリケードをどかして校長室になだれ込む。

 何度考えても分の悪い作戦だった。ここまでカベサーダと出会わないことも幸運なはずなのに大翔をやけに不安にさせた。うまくいかなくて当然のことが順調に進んでいるだけで、夢の指導者にこの作戦が見破られていてどこかで大翔たちを一網打尽にしようとしているのではないかという考えが頭をよぎる。

「いいかい? あと一分と少しだ」

 光が拾ってきていたストップウォッチの表示を見ながら呟いた。こんなものもこの学校には落ちている。カベサーダから逃げるのに必死で見落としていたものだ。

「どうした?」

 手元に視線を落としたまま黙り込んだ大翔に乃愛が問いかけた。

「いえ、うまく行き過ぎていると思って」

 大翔の手は震えている。恐怖でも武者震いでもない。目の前にある危機とは別の方向から大翔を脅かしている存在をひしひしと感じてしまうのだ。

「格闘技の試合はな、ローキックが重要なんだ」

「え?」

 唐突に始まった乃愛の話に戸惑う。そんな大翔の様子を無視して乃愛は話を続けていく。

「だが、試合中いくら蹴っても顔色ひとつ変えない相手が出てきたりする。きちんと当たっている手応えはあるのにな。そういうときはどうするか」

「どうするんですか?」

「もっと蹴る。順調ということはそれだけ相手に効果が出ているということだ。気負うな、貴様がやっていることは成功している」

 便りがないのは良い便り、とは少し違うが、とにかく大翔たちの作戦は障害がないのだから成功していると乃愛は言いたいのだろう。そうだ、せっかく問題なく進んでいるのだから悩む必要はないのだ。

 自己暗示をかけるように頭の中に何度も成功の姿を描いて、大翔は手に持った自分の武器、中学の時よく片付けを手伝ったハードルの足を掌に軽く打ちつけた。

「そろそろだ」

 ストップウォッチを見ていた光が小声で言う。この後はじっくり二分、この場所に待機してからバリケードを壊すつもりだ。音を立てずに慎重に事を進める余裕はない。その音を聞きつけてまたカベサーダがこちらにやってくる前に一気に敵の本丸に攻め入る。

 トラップを仕掛けた教室から今いるバリケードのすぐ側の教室までは直線の廊下を五本分。学校の廊下一棟分でだいたい五〇メートルとして二五〇メートル。カベサーダの疲れを知らない走りを考えるとそれほど時間はない。

 カン、という金属音が天井から鳴った。それを始まりにしてせきを切ったように机の空洞で増幅された音が豪雨のように響き始めた。

「そうか、この教室の上にあのトラップがあるんだ」

「それにしたってよう響きおるな」

「聞こえないよりはいいさ」

 奴らを誘いやすい、と言った光の声をかき消すように外の廊下から爆音が響く。

 足音だった。特徴的な高い音。カベサーダの足の発達した爪が学校の廊下の床を叩く音。昨夜までなら規則的に小さく鳴るこの音を頼りにして逃げようと聞き耳を立てていた。だが、今夜はその必要もない。

 様子を窺うために少しだけ開けておいた教室の扉の向こう側。数え切れないほどの数のカベサーダが廊下に爪痕を残し、散らばったものを蹴り飛ばして走っていく。目指すは間違いなく最奥の教室。虚しくも机が打ちつけられて悲鳴を上げているだけのあの教室だ。

 走っているだけなのに風が大翔たちの方まで吹いているようだった。止まらないのかと錯覚するようなカベサーダの群れが走り抜けて消えた後も、大翔たちは呆然としてその場に座り込んだままだった。

「奴ら、一階から出てきたのか?」

「待ち伏せされとったっちゅうわけか。敵わんわ」

「だが、それも追い払った。行くぞ」

 はっとしてそれぞれに声を出す。金縛りのように固まった体を言葉の力を借りて奮い立たせた。

「時間がない。さぁ、日常を取り戻そう」

「なんじゃ、一番ノっとるやないか」

 眼鏡の位置を直し、一番に立ち上がった光を見て、尊臣は少しだけ頬を膨らませた。

 一階へ続く階段を塞いでいたバリケードは跡形もなく消えていた。あの数のカベサーダの蹂躙を受けては残骸すらまともに残っていない。爪で角が削れた階段を一段一段、ゆっくりと降りていく。

 夢の中にも関わらず、明るい光がどこでも差し込んでいた教室とは違い、一階の廊下は窓が白いもので覆われて光がほとんど入っていなかった。大翔は武器の先端で窓を覆う白い何かを削り取るように擦ってみるが、高い密度で固まっているのか少し削れただけで薄く光を通している様子は変わらない。

「これ、なんだろ?」

「今さら不思議なことが一つ増えたところで変わりはしないさ」

 光は大翔の疑問に触れることなく、見えない周囲を見ようと目を凝らしている。

 光は気にならないと言ったが、大翔にはこの白く細い何かを新しい変化だと思った。この夢の世界において、現実に存在しないものはカベサーダだけだった。他のものは異質な置かれ方、使われ方をしているものはあっても、現実にも見たことのあるものだったから。

 白い何かを大翔はポケットに入れて、目を闇に慣らす。そして足元に注意しながら四人は廊下を進んで校長室を目指した。

 部屋の役割を現すネームプレートはそのまま貼られていて、校長室を探し当てるのは簡単だった。その前で同時に立ち止まる。この向こう側に敵の、カベサーダの親玉がいる。それを倒して平穏な夜を取り戻す。四人は顔を見合わせて、互いに頷いた。

「行くぞ!」

「ああ!」

 尊臣と大翔の二人が鍵のかかった扉に体当たりを仕掛ける。一度、二度。確かな手応えとともに少しずつ扉が緩んでいるのがわかる。そして三度目の挑戦で蝶つがいが根負けして、扉とともに校長室に押し入った。

「おら、覚悟せい!」

 気勢を上げた尊臣にまだ校長室に残っていたカベサーダが二匹、飛びかかってくる。

「くそ! まだ残っとったんか!」

 一匹は持っていた武器で抑えたものの、隙になった左肩にもう一匹カベサーダの爪が刺さった。学生服から赤く滲んだ痛みに尊臣は気取られることなく、拳をカベサーダに打ち付けた。

「ナメとったらおえんぞ!」

 もう一声。それとともに赤みがかった拳をもう一撃打ち付ける。ひるんだカベサーダの頭から垂れた触角を大翔が掴み、すぐにへし折った。

「さぁ、かかるぞ」

 扉のなくなった校長室の入り口から今度は光と乃愛が室内へ駆け込んでくる。尊臣が武器で押さえ込んだカベサーダに乃愛が膝蹴りとともに触角を折りとった。

「貴様の命運は尽きた。観念しろ」

 乃愛の言葉は校長室の一番奥、ゆったりとした大きな椅子にもたれかかって座っている人影に向けられていた。連れていた二匹のカベサーダが目の前で倒れたのを見てもまったく動じない姿に、薄暗さも相まって大翔には幻のようにさえ思える。

「貴様、ずいぶんと余裕があるな」

 痺れを切らして椅子に座ったままの指導者に乃愛が足を向ける。

「待って。俺が行きます」

 それを大翔が制した。あそこに座っているのが指導者であると同時に大翔の知っている人物の可能性は高い。この中学校を知っていてこの四人のうちの誰か、きっと大翔に恨みを持っているかもしれないのだから。

「おっしゃ、やったらんかい。神代」

「うるさい」

 囃したてる尊臣は勝利を確信しているようだった。それでも不安が拭いきれない大翔は武器を両手でしっかりと握り、一歩ずつ足元の安定を確かめるように進んでいく。

 校長室の椅子。卵を割ったような深い座面と背もたれに沈み込むように座っている指導者の姿がようやく大翔にも見えてくる。

 黒のセーラーに赤のタイを正面で結んでいる。編んだ髪を肩から胸元に流れて先端を無地のゴムでまとめていた。これは大翔の中学の制服だ。この夢の中にいて、この夢を支配している少女。

 瞳を閉じて少しも動かない。大翔が目を凝らして近付いても何の反応も示さない。もう死んでいるのではないかという考えも浮かんでくる。

「あ、れ?」

 その顔を大翔は知っている。

「堂、本?」

 今より少し幼い顔をしているが、間違いなく目の前に座っているのは千早だ。まだ中学を卒業して半年も経たないというのに、こんなに雰囲気が変わったかと思うほど千早は成長している。血の気が引いた顔は白く、薄暗さの中にあって空間に浮かんでいるように見えた。

「どうしたんじゃ?」

 尊臣が大翔に近付こうとして、少し前に聞いた豪雨のような足音が外の廊下に響き始める。

「時間切れか。奴らが来るぞ!」

「扉を立てて抑えるんだ。神代はそいつをどうにかしてくれ」

 倒れた扉を起こして、外れた外枠に引っ掛ける。三人でカベサーダの軍勢にどのくらい堪えられるかは誰にも予想はつかなかった。

「嘘だろ? この夢の元凶がお前なんて」

 大翔の問いかけに瞳を閉じたままの千早は答えない。これが本物のはずがない。昨夜体育倉庫で小さくなっていた千早が本当の千早のはずだ。そんなことは大翔も理解している。ここにいるのは偽物で、大翔が倒すべき仇敵きゅうてきなのだ。

 それでも、千早の姿をしているものに手に持った武器を振るえるかは別の問題だ。割り切って考えられるほど光のような冷静さを持ち合わせてはいないし、攻撃してから考える乃愛のような豪胆さも持ち合わせてはいない。

 大翔の背中で激しくぶつかる音がする。カベサーダの軍勢がトラップを置いた部屋から戻ってきたのだ。校長室の扉はもう大翔が壊してしまった。三人で抑えたところで長く持つようなものではない。

 振るうか。大翔は覚悟を決めて武器を振り上げる。

 白い肌、美しい黒髪、艶かしい首筋。

 これを今から壊す。

「早くしろ、神代!」

 最後にもう一度、と大翔は幼い千早の幻影を見下ろした。贋作がんさくとはいえこれほどの危機にあって、未だに瞳も開かず、微動だにしない。おかしい。彼女の意思はどこにある? 万事休すと諦めるにしてもその面影と潔さの間に大きなズレがある。

 もう一歩、大翔が近付くと、安定のために広く作られた椅子の脚にぶつかった。千早の体が傾いた。

 見下ろした千早の幻影のうなじ。艶かしさと壊れてしまいそうな儚さを持つそれに白く丸いものがついていることに大翔は気がついた。糸でくるまれたそれに何かを確信して大翔は手を伸ばす。

「お前か!」

 千早の首に絡みついたそれを乱暴に握り引き剥がす。存外にあっさりと取れたそれは親指ほどの大きさの繭だった。武器を床に落とし、両手でその中身を探る。中からは蝶のさなぎのような殻に覆われた小さな虫が出てきた。

 こいつが全ての原因か。

 こんな小さな体であれほどの数の怪物を操り、多くの人間を苦しめ、殺した。

 それをこんな程度で終わらせることに大翔はまだ納得はできない。

 それでも。

「これで、終わりだ!」

 虫を摘んだ右手を掲げ、指に力を込める。今まで大翔たちを苦しめた仇はあっけなく大翔の指に押し潰された。

 緑色の体液が大翔の腕に垂れる。それを嫌って大翔は潰した虫の死骸しがいを床に叩き捨てた。

「奴らの様子がおかしいぞ」

 扉を押さえていた手応えが変わって、少しずつ内側の三人が押し始める。明らかに様子がおかしい。カベサーダの勢いが消え、ついに外れていた扉が外側に倒れた。

「やったんじゃな、神代」

「たぶん」

 廊下に倒れたカベサーダの群れ、一階を埋め尽くすほどの数がいながら、どれもピクリとも動かない。頭の触角はどれもしっかりとついているが、やはりさっきの虫がカベサーダを操っていた元凶だったのだろう。

「そうだ、堂本!」

 悪夢の元凶を取り除いたはずの千早の体はまだ少しも動かない。大翔が肩を揺すってみるが、やはり反応はなかった。

「間に合わなかったか」

「縁起でもないこと言わないでください」

 乃愛が大翔の肩に置いた手を反射的に振り払う。

「堂本!」

 白い肌に顔を寄せて大翔は呼びかける。それでも少しも動かない千早の姿を見て、大翔は気がついた。

 この少女はやはり中学時代の千早なのだ。現在の千早ではない。ここは夢の世界。誰かの、たぶん堂本千早の頭の中。大翔の頭の中にあの日のままの和弘がいるように、今より幼さの残る千早がいてもおかしくはない。それとは別に本物の、現在の千早がどこかにいるはずなのだ。

 もしも、千早がいるとしたら。

「あそこか」

 隠れるなら、彼女はあの場所にいるだろう。暗く、狭く、逃げ場もない。ただ助けてもらったことがあるという再びの幸運だけを頼みにして、あの場所で同じように膝を抱えて、小さく丸くなって誰かが来るのを待っているに違いない。

「ちょっと行ってくる」

「行く、ってどこにだい?」

 光の問いかけに答えず、カベサーダの死骸を踏みつけて大翔は一階の廊下を駆けていった。

 グラウンドに続く昇降口を抜けて、さらにまっすぐな廊下をひた走る。

 思い切り走るのは床に落ちたものが邪魔だった。足を置く場所を探していると自然とスピードは出なくなる。千早がそうしているのだろうか。思い切り走ることをやめた大翔にはこのくらいがちょうどいい、と彼女は思っているのかもしれない。

 もう走らなくていい、と。

 それをあんな怪物に追いかけ回されては、大翔だって走らざるをえなくなる。ここ数日でどれほど走ったことだろうか。陸上ならきれいに整地された何もないトラックを走るだけだったが、ホテルで、ショッピングモールで、学校の廊下で。色々な場所を走らされた。

 大翔は足を止めて、それからゆっくりと廊下を歩き始める。目的地はもうすぐそこだった。

 校舎から出ると本来ならまだ続くはずの廊下の代わりに体育倉庫がすぐに置かれている。現実の学校ではありえない構造だが、夢の世界なら存在しうるのだ。

 重く分厚い体育倉庫の扉は昨夜カベサーダに破られたはずだが、やはりきれいに直っていた。その扉に手をかけて、ゆっくりと左右に開いた。

 真っ暗だった倉庫の中に光が差し込んだ。ホコリっぽい空気が外に誘われるように流れ出ていく。光の下に千早の姿はない。当然だ。隠れているところはわかっている。扉を抜けて左側高飛び用のマットの一番上だ。

「堂本?」

 千早のいるはずのマットの上に呼びかける。

「神代くん?」

 少しの間があって、千早の声が返ってきた。

「助けに来たぞ」

 今朝約束したとおり、助けてやると言ったそれを守ったのだ。

「何それ?」

「何、って確かにちょっと似合わねぇけどさ」

 マットから降りてきた千早は少し笑いを堪えながら倉庫の中から出てくる。校長室で見た千早と比べるとやはり少し大人びているように見えた。せいぜい半年ほどの変化だというのに大翔にはその違いがやけに大きく感じられた。

「あいつら、神代くんが倒しちゃったの?」

「そうだよ」

「本当に?」

 言葉では疑っているようで、その瞳にも声にも疑問の色はない。千早にとってはここはただの夢の世界だ。目の前にいる神代大翔は彼女が作り出した幻想に過ぎないと思っている。

「じゃあ、どうして助けてくれたの?」

「それは、俺は実は正義のヒーローだったんだ」

「変なの」

 大翔の答えに千早はくすくすと笑った。大翔もとっさの自分の答えに苦笑いが浮かぶ。

 どうせ千早にとって今の大翔は夢の中の存在だ。どうせなら好きだから、と言ってしまえばよかったのに、大翔にはできなかった。

「でもちょっとかっこいいから許してあげようかな」

 微笑んだ千早に大翔は本心を言わなかったことを少しだけ後悔した。この調子だと現実の千早に向かって言える日は遠くなりそうだった。

「それじゃまた明日、学校でね」

「あぁ、寝坊するなよ」

 手を振る千早に大翔は気恥ずかしそうに控えめに手を振り返した。

 千早の姿が歪む。もう朝が来たのか、大翔はねじれる視界を我慢しながら千早に手を振り続けた。

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