第三夜

「ちはー、っと光さんだけですか?」

「やぁ、昨日は大変だったね」

 放課後の情報部室。部員になったわけでも、何か相談をすると呼び出されたわけでもないのに大翔の足は自然と部室に向いていた。光の無事を確認しておきたかったし、尊臣が昨日どこにいたのか、そしてあの少女について何かわかったのか。聞きたいことはいくらでもある。

「光さんはあの後夢の中に残ってたんですか?」

「いや、君が脱出してからすぐ僕も目が覚めたよ」

「あの、肩は」

 大翔は気になっていたことを最初に問いかける。光は昨日二度もカベサーダに押し倒された。奴が大翔にしたように押さえつけるときに光の両肩を爪がえぐったに違いない。

「大丈夫。すぐ助けてもらったからね。全身の筋肉痛の方が辛いくらいさ」

「それならいいんですけど」

 光の声が十分に明るいのを聞いて、大翔は安心したように定位置になっているパイプ椅子を引いた。ほどなくして静かな廊下を踏み鳴らす音が聞こえてくる。こんな校内の一番隅に追い出された情報部の部室に来る人間は少ない。その上、こんな足音がデカい人間となれば一人しか残らない。

「おーい、おるんか?」

「揃っているよ。もう少し静かに歩いてくれ。精密機器もあるんだぞ」

「悪いの。ちょっと確認したいことがあったんじゃ」

 扉を勢いよく開けて部室に入ってきた尊臣を見て、とがめるように光は言う。しかし、尊臣には少しも届いていないようで、軽く謝るように手刀を切っただけですぐにパイプ椅子に座り込んだ。

「自分ら、昨日の夜はどうじゃった?」

「見ての通り、なんとか生き残ったよ」

「そういう橋下こそどこにいたんだ? あれだけ探し回ったのに結局見つからなかったし」

 光と大翔が口々に答えたのを聞いて、尊臣は少しだけ黙った後、珍しくその巨体に似合わない小さな声で語りかけるように話しはじめた。

「昨日、ワシは夢を見んかった」

「見なかった?」

「あぁ、じゃからてっきり終わったもんと思っとったんじゃが」

 尊臣は二人の顔を見る。大翔は黙って首を横に振った。光も同じだ。

「どうやらそんな簡単にはいかんみたいじゃのお」

「尊臣は夢は見なかったか?」

「あ? あぁ、特に覚えとらんぞ」

 そうか、と大翔は考え込むように口元に手を当てた。自分が見た悪夢はたまたまだったのだろうか。昨夜の夢の中で久しぶりに自分の中学校の風景を見て、それで記憶の底からあんなものを掘り出してきてしまったのだ。

「どうしたんだい?」

「いや、実は俺もさっき授業中居眠りしちゃって。あの夢は見なかったんです」

「昼間には見ない夢。橋下は昨日何時に寝たんだい?」

「あぁ、昨日は疲れて九時前に寝てしもうてな」

「小学生かよ」

「授業中に寝とる奴が言うか!」

 距離があるから平気だと思っていた大翔に尊臣にげんこつが飛んでくる。巨体についた片腕を思い切り伸ばした先についたげんこつは大翔の想像を超えて頭の上に振ってくる。なんというかズルいという単語が最初に浮かんできた。

 体格がいいということはそれだけで人より優れている。しかもそれが目に見えてわかる。それだけで恐れたり敬ったりするには十分過ぎる理由になる。

「そうすると見なかった、と。うーん、なるほど」

 大翔が頭をさすっていると光が尊臣の言葉を呪文のように何度も繰り返していた。

「何か気になることでも」

「いや、まだよくわからないな」

「しかし、すまんな。ワシから誘っておいて自分ら助けに行けんとはな」

 今しがた攻撃を加えておいてどの口が言うのか。

 大翔を殴るためだけに立ち上がった尊臣は満足したようでもう一度自分の椅子に座りなおした。ここまできて大翔はなぜ自分がこう易々やすやすと尊臣にげんこつを落とされてしまうのかにようやく気がつく。別に大翔の言動が尊臣を刺激するからというわけではない。

 大翔の口が滑るのは別に尊臣だけというわけではない。千早にも軽口を叩いてはよく怒られているし、今日も居眠りをして真由に頭をはたかれた。

 大翔は外からの攻撃に対してかなり受身である。それはカベサーダに対しても同じだ。それがどれほど危険なことか、大翔は完全には認識できていない。

「ま、なんとかなったんだし気にするなよ」

「少し危なかったけどね」

「奴とやったんか!?」

 尊臣が驚いて机に前かがみになって大翔の顔を覗きこんだ。それだけで食われてしまうような気分がする。これがいても絶対的な勝利が得られない。カベサーダの恐怖を一番煽っているのはもしかするとこの男かもしれない。

「途中で助けが入ったからね」

「助け? そうかそれはよかったが」

 そもそも無事でなければ大翔も光もここにはいない。そんなことは頭のいい尊臣にはすぐにわかるはずのことだった。だからこうして冗談めかして二人は話ができるというのに。焦っている顔を見て、大翔は少しだけ安堵した。

 尊臣だって死ぬのは怖いのだ。光ももちろんそうだ。大翔も同じように恐怖を覚えている。だからこうしてチームを組んで力を合わせ、策をひねってなんとかあの恐怖の怪物から逃げようとしているのだ。

 それなのに大翔はカベサーダの攻撃を受けてしまってもいいと思ってしまう。それで誰かが助かるのであれば。

「おや、どうやら英雄の来訪らしいね」

 今度は廊下に規則的な軽い音が鳴っている。ほとんど誰も近寄らないこの情報部室では側の廊下を通る足音がよく聞こえる。尊臣とは違って体重も軽いし、走ってもいない。落ち着いた性格の小柄な体格とわかった。

「なんじゃ、英雄って?」

「すぐにわかるよ」

 尊臣の疑問に光が適当に答えた。大翔は昨日の英雄、という存在には覚えがある。ただ昨日会った少女はせいぜい中学生。小学生でも成長が早い子ならあのくらいでもおかしくないと思っていたのだが。

 狭いせいで一つしかない情報部室の扉が開く。三人の視線はその先に集中する。男三人の好奇の目を受けてもなお、仁王立ちして動かない少女が腕組みをして立っていた。

「どうも、昨夜振りですね、仁坊じんぼう先輩」

「先輩!?」

 大翔は驚いて、あいさつした光の顔を見た。表情からはその真意は読み取れないが、どうもブラックジョークという感じでもない。

「下足箱に文とはずいぶんと古風なことをする。して要件は何だ? 恋文にしては味気ないし、果たし状にしては淡白だ」

 息が詰まるような話し方。そういえば夢の中でもこんな調子だった。歳が上だというのなら少しは納得できるかも、と大翔は考えて、やはり花盛りの女子高生にはあまりにも不釣合ふつりあいだと思い直した。

 答えが返ってこないこといらだちを覚えたのか、仁坊と呼ばれた少女はゆっくりと情報部室の中に歩を進めてくる。

「一応感謝状のつもりだったんだけどなぁ」

 僕は文章を書くのが苦手でね、と光は涼しい顔で降参ですというように両手を挙げた。

「なに感想を漏らしてるんですか。何か理解してもらえてないですけど?」

「どうした? それで私と戦うのは貴様か?」

 仁坊は三人の顔を順番に見た後、当然のように尊臣に視線を合わせた。この中で誰が一番強いかと聞かれれば、間違いなく尊臣だ。それは見比べるだけで簡単にわかる。

「おいおい、助けてもらった割りにはずいぶん怒らせおったな」

「なんで怒ってるのかこっちにはわからねぇよ」

「僕の顔を見ても僕は知らないよ」

 大翔と尊臣の顔が向いたのを見て、光は小さな声で答える。下足箱に入れたという光の手紙にはいったいどんなことが書いてあったというのか。読んでみたいようなそうではないような。

「貴様ら! 私に向かって話をせんか!」

 仁坊が叫ぶ。狭い上に物が少ない部室ではそれだけでそこらじゅうに声が反射してうるさいといったらない。

「あ、えっと、昨日」

「昨日? 何だ?」

 大翔が状況を説明しようとするが、鋭く刺さった視線に声が止まる。座っている大翔と比べてもそれほど変わらない目線だというのに、対峙している大翔は尊臣と向かい合うよりもよっぽど恐怖を感じていた。

 彼女の目は尊臣よりもむしろカベサーダの方に近い。狩人が獲物を見る眼だ、と大翔は背筋を凍らせる。

「まぁあまり怒らないでくださいよ、乃愛のあ先輩」

「え?」

 恐怖に口が固まった大翔の隣で、そろそろ頃合いか、と光が口を開いた。

 今なんて言った? 乃愛? 誰が? この部室にいるのは現在四人。そのうち三人が男だ。ついでにいえば偽名でも使っていない限りは男三人の名前は既に割れている。推理してやる必要もない。

 大翔が光から横に顔を曲げると、その方向には入ってきたときと同じ勇ましい仁王立ちのまま、顔を真っ赤に染め上げた仁坊が固まっていた。その姿は不動明王ふどうみょうおうに似たり。

「貴様! 何故、その名前を知っている!」

「少し調べればわかりますよ。情報というのは生まれ落ちたときから世界を巡る旅人ですから」

「何言うとるんじゃ、こいつ」

 光の言葉に尊臣が溜息をつく。今朝から準備していました、と言われても納得できそうな決め台詞は、やはり現実世界には少し大仰で聞いているこちらが恥ずかしくなってくる。昨夜は乃愛から言われた言葉にあんなに淡白な返しをしたというのに、意趣返いしゅがえしのつもりだったのだろうか。

「バカな! 教師にも、その、こちらからの要請で学生名簿への記載もやめてもらっているはずだ。後輩が知る術など」

 要請といいつつ脅したな、と大翔は真っ赤になった乃愛の焦る顔を見て理解する。

 この状況にあって一人だけノリがいいというか、光の大仰な表現についていっている。この人もやっていることのスケールが大翔とは一回り違うらしい。

 見た目からして畏怖の対象の尊臣、そして教師を脅す乃愛、そしてそれを手玉にとるようにからかう光に囲まれて、大翔はせいぜい少し足が速いだけの一般生徒だ。

 できることなら今すぐここから逃れたいと思うが、唯一の入り口は乃愛が塞いでいて通れそうもない。

「私の秘密を知られたからには、殺すしかっ」

 両手を握り、乃愛は眼前に拳を掲げた。拳闘けんとうの構え。なるほど、これが昨日の膝蹴りの正体か、と大翔は納得した。たとえテレビで何度か見ていたとしても、格闘技に覚えのない大翔や光がいざ何かと戦うとなればまずやることは武器を手に入れることだ。それを彼女はしなかった。必要なかったのだ。

 武とは自らの四肢に武器を宿すこと。そんな言葉を聞いたのはどこでだったか。

「困りますね。僕を殺すとこのパソコンからネットの海に先輩の本名が放流されてしまうのですが」

「的確に脅してるよ、この人」

 感心するのは目の前の乃愛に気が引けて、大翔は呆れるように息をついた。

 カベサーダと対峙するには少し頼りないと思っていたが、対人間にはこれほど強力な力があったとは。人は見かけによらない、というのは多少言いすぎかもしれないが。

「貴様ぁ!」

「とりあえず落ち着いて、拳を開いて、僕らの話を聞いていただけますか?」

 光は掌で一つだけ空いている大翔の向かいのパイプ椅子を示した。乃愛は不審そうに大翔たちの顔を睨みつけながら、しかし人質代わりの自分の名前をバラされたくはないらしく言われたとおりに席に着く。

 そんなに強く睨まれても大翔は何もできないし、事情すら完全には飲み込めていないのだからやめてほしいところだ。

「それで、貴様らの要求はなんだ?」

 可愛すぎる名前からは想像もつかないほどの気迫を込めて、乃愛が大翔を見据えて言い放った。さっきからずっと今すぐこの場から離れたいと大翔は願っているのだが、蛇ににらまれた蛙と同じく、乃愛に睨まれた大翔は動けない。

 ついでに言えば、さっきから何か言え、といわんばかりに光が大翔の脇腹を肘で小突いている。昨日の礼を言おうとした続きをしろ、ということなのだろうが、この状況で簡単にそんなことが言えるなら、悩む必要もない。さっき頼りないなんて思ったバチでも当たっただろうかと大翔は苦笑いを浮かべた。

「えっと、昨日、夢の中で、会いましたよね?」

 途切れ途切れの声で大翔が言葉を搾り出す。頭の中はめちゃくちゃに荒らされていて、言葉を選ぶ余裕もない。

「貴様は何を言っている?」

 そうなれば当然のように伝わるものも伝わらない。このように哀れみすら含む蔑みの眼で睨み返されるだけだ。

「あ、えっと、だから昨日夢の中でカベサーダ、怪物に襲われているところを助けてもらって」

「怪物。確かにそんな夢を見たが。貴様、何故私の夢の内容を知っている!」

 乃愛の視線が今度は光に向く。自分の名前が知られているのと同じように何か探られたと思っているようだ。大翔の説明にもならない説明は状況を悪化させているだけだが、とにかく自分から乃愛の視線が逸れて大翔はほっと胸を撫で下ろした。

「まぁ、そんなに怒らないで。どうですか、僕らの顔に見覚えは?」

 大翔はあんなにもビビって声も絶え絶えだったというのに、光は落ち着いた声で乃愛に質問を返す。

 乃愛は薄く微笑む光の顔に眼光を鋭くしながらも大翔と光の顔をじっと見つめて顔をしかめた。

「確かに、私の記憶と貴様らの顔は一致する。しかし、私は貴様らと会うのは初めてのはずだ。その夢の中というのを除いては」

「あぁ、説明すると長くなるのですが」

 光はそう前置きして今大翔たちが直面している事態について説明した。カベサーダのこと、夢の中で複数人の意識が混在していること、そして夢の中で死んだ人間が現実世界でも死んでいること。

 乃愛が途中で怒り出さないかと大翔はハラハラしながら事のなりゆきを見守っていたが、乃愛は光の話を遮ることなく黙って聞いていた。

「にわかには信じがたいが、確かに私が見ている夢と酷似している」

 光の話を聞き終えて、乃愛は率直な感想を漏らした。普通に聞けばただの妄言か何かの勧誘と思われるのが関の山だ。

 ただ乃愛の場合は実際に体験しているはずだ。あの恐怖が渦を巻いて自分たちを飲み込もうとしてくるあの夢の世界を。

「先輩はあの夢のことおかしいと思わなかったんですか?」

「怪物に襲われる夢など見慣れている。たいていは膝を入れれば倒れていく」

 おいおい、と男三人は乾いた笑いを漏らす。こちらは三人がかりで逃げ惑いながらなんとか生き延びた。見捨てたと言っていい人間だっている。それをこの自分たちより幼くすら見える先輩は飄々ひょうひょうと生き延びてきたのだ。

「ワシが殴っても平気な奴じゃぞ」

「それを、膝って」

 自分たちとは違う夢を見ていたのではないか、と大翔は疑いたくなった。だが、昨夜廊下に追い込まれた大翔と光に襲い掛かるカベサーダを乃愛が膝の一撃で仕留めたのを大翔は確かに見た。夢の世界にいながら、あれほど夢のようだと思ったこともない。

「の、仁坊先輩は気鋭の女子キック選手だからね」

「自分はほんまにどこから情報を仕入れとるんじゃ」

「僕は別に違法なことをしてるわけじゃないよ。知っているのは誰でも調べれば手に入る情報だけさ」

 不審な目で大翔たちは光を見つめてみるが、光はその仕入れ先を話すつもりはないらしい。

「それにしたってなんで奴は先輩の膝だけで簡単に倒れたんだ?」

「そうじゃな。格闘家じゃろうがワシが武器持ってぶん殴るより強いってこたなかろう」

 大翔が見たときも乃愛の一撃に気だのけいだのと呼ばれるような不思議な力は見当たらなかった。不意打ちではあったものの、跳躍力を乗せたムエタイ式の膝蹴りがカベサーダのあごを捉えていただけだったはずだ。

 顎が弱点だった可能性は十分ある。人間だって顎を強く撃たれれば脳が揺らされて倒れるし、顎の骨は比較的細く折れやすいにもかかわらず頭に流れる重要な血管が多い場所でもある。しかし、カベサーダが倒れたときを思い出しても顎から地や体液が出ていたということはなかった。

「僕にもそれがわからなかったんでね。こうして調べてお呼びたてさせてもらったってわけだよ」

「そうは言っても、私は普段と何も変わったことはしていないが」

 男二人を相手に勝っている怪物を見て怖気づくことなく攻撃を加える日常ってなんだろう、と大翔は頭を抱えたくなる。果たし状だと思ってこの部室に来て男三人相手にひるむことなく睨みを利かせて入ってくるぐらいだから、乃愛の言葉に嘘はないのだろう。

「じゃあ実際に再現してみるとか?」

 ふと思いついたままを大翔は特に考えもなしに言い出した。大翔としては当然の流れと思って言ったはずだったのだが、聞いていた他の三人は目を丸くして大翔の顔を見ていた。

「じゃあ、君に頼んだよ」

 光はまた大翔の脇腹をつついて小さく頭を下げた。その様子にはまったく誠意が感じられない。むしろ楽しそうにからかっているような風さえある。

「え、俺が受けるんですか!?」

「そりゃそうじゃろ。言い出したんは自分なんじゃし」

 大翔から見て左側、一番耐久力のありそうな尊臣も光の言葉に頷いている。普通に考えたらお前がやるべきだろ、と言ってやりたいところだが、そんなことを言えば乃愛からの膝の前に尊臣のげんこつが飛んでくることになる。なんだかイジめられているような惨めな気分になって、大翔は気合一番立ち上がった。

「よぉし、もうやってやる!」

「よっ、イケメン!」

「光さん、完全に他人事ですよね……」

 古臭い言いまわしではやしたてる光を大翔は光を失った目で見つめ返す。こちらは格闘技の経験などありもしない普通の男子高校生だ。ついでに言えばケンカすらしたことがない。

 中学の陸上をやっていた頃なら少しくらいは鍛えていたものだが、今は成長期にあるはずなのに衰えたのではないかという気さえする。そんな男が軽い調子で引き受けるには相手があまりにも危険すぎる。

「私が蹴ればいいのだな」

「寸止めですよ?」

 立ち上がって膝を上げてウォームアップ始めた乃愛に、大翔は焦って釘を刺す。自分の夢の中の身体能力は現実世界と同じだった。つまり昨夜夢の中でみたのと同じ衝撃が彼女の膝には隠れていると思っていい。

 まともに当たれば死ぬ。カベサーダではなく学校で先輩に蹴り殺されるなんて、まだマシかもしれないと一瞬考えるが、すぐに頭を振って思い直した。

「それではいくぞ」

 狭い情報部室の中で机を動かしてスペースを作った。光と尊臣はパイプ椅子をたたんで部屋の端に並んで立っていた。完全に大翔に逃げ道はない。流れのままに膝蹴りを受けることになってしまっているが、そんなものは避けられるものなら避けて通りたい。一目散に部室から飛び出したっていい。

 危険に身を投じたのはここ数日で一度ではない。それなのに大翔はここではなかなか腹を据えられないでいた。

 何かいい方法はないか。近付いてくる乃愛を感じながら大翔は必死に考える。

 襲われているときと少しも変わらない恐怖が渦巻く部室内。大翔の安住の地はどこに消し飛んでしまったのだろうか。

「少し頭を下げろ。掴めぬだろう」

 背の低い乃愛が大翔の頭を掴むのは難しい。昨夜もカベサーダが光を押し倒していて膝立ちのような格好になっていたからこそ一撃が届いたのだ。実際には乃愛なら飛びかかって組み付きざまに飛び膝蹴りを入れることも可能なのだろうが。

 お辞儀をするような格好で大翔は無防備に乃愛に頭を差し出す。近付いて来た乃愛の太ももが大翔の眼前に迫ってくる。

 こんな近くで女の子の脚を眺めることなんてまずもってない経験だろう。しかし少しも嬉しくない。こんなことをしていたらたちまちどこかから湧いてきた千早に頭をしこたま叩かれるに違いない。

 乃愛の手が大翔の頭にかかる。

 なるほど、これを現実逃避というのか、と大翔は納得して目を閉じた。

「あいつも絶望したのかなぁ」

 すっかり大翔の気分はカベサーダになっていた。頭を掴まれ、大丈夫だと思っていた一撃に死を突きつけられる瞬間。あの狩猟本能だけしか見当たらない謎の生物は何を思っていたのだろうか。

 昨日自分を襲った怪物に今の自分を重ねる。

 膝が伸びてくる感覚が大翔の頭を覚醒させた。

「ちょっと待った!」

 乃愛の膝が大翔の顔の前で止まる。煽られたスカートが大翔の鼻を撫でた。

「なんじゃ諦め悪いのう、神代」

 尊臣が面白くないと文句を言うが、そんなことは聞いていられない。

 そもそもここまで膝が近付けば十分だろう。本当に蹴らせるつもりだとでも言うのか。

「そうじゃなくて、思い出したことがあるんだって!」

 乃愛の拘束から逃れるように頭を振って顔を上げる。逃げられた乃愛が残念そうに口を尖らせているのが本当に怖い。

「へぇ、それでどんな?」

「あからさまに期待してない返事はやめてくださいよ」

「確かに今、昨日とは少し違ったような?」

 乃愛は未だに大翔に膝蹴りを入れられなかったのが残念らしく、自分の両手を見つめながら手を結んでは開いている。ついでに足を振り上げ、蹴りのシミュレーションをするのも止めてもらいたい。もうその必要はなくなったのだから。

 大翔はそれを見て、確信に至った、としたり顔で言い放った。

「奴ら、カベサーダには触角があったんだ。の、仁坊先輩はそれを掴んで蹴ってたんだ」

 自分にはなく、カベサーダにはついていたもの。昨夜の乃愛はカベサーダの触角を取っ手のように両手で掴んでいた。机や椅子が曲がり、折れるほどに殴りつけても倒れなかったカベサーダを倒した一撃の違いといえばそれしかない。

「そういや虫みたいなんがついとったな」

 記憶力に自信のある尊臣が最初に反応した。

「しかし掴みかかるのにちょうど良かったんだぞ。そんな都合のいいところに弱点があるか?」

「特におかしくはないだろうね。感覚器官は外部に出ていなければ使い物にならない。奴らは目が見えないようだから、触角がその代わりをしていれば急所にもなる」

 人間も同じだ。目、鼻、耳。どれも粘膜や神経があるところながら、外部からの情報を仕入れるために決して守られているとは言えない場所に存在している。人間はそれを急所と呼んでとっさの時に守ろうとするし、浅い傷に見えても深刻な影響を及ぼす。

「もしかして、これで奴らを倒すことができる?」

 逃げるばかりだった夢の世界で一筋の光明こうみょう。弱点さえわかってしまえば仲間がいれば恐れることはないということだ。

「君は奴らを倒すつもりかい?」

 思わず笑みがこぼれた大翔に光は落ち着いた声で聞いた。

「そうすれば助かる人だって増えるじゃないか」

「そうかもしれないが、そうなれば危険に身を晒すことになる。奴らを倒してもまた出てくるかもしれないし、夢から抜けられるわけじゃない。それでも倒す意味はあるかい?」

「それは」

 他の誰かを助けることができる。

 それはもっともらしいようで光には通用しない言い訳だ。自分の身を危険に晒してしまうのなら周りに迷惑をかけるばかりだ。

「私も同感だな」

 二人のやりとりを見ていた乃愛が口を挟んだ。

「まだ確証もないのに生兵法なまびょうほうで挑めば、必ず痛い目を見るぞ」

「それはそうだけど」

「ほんなら今日試したらどうじゃ? 頭数が減るならワシらの安全も確保できる。悪い話ばっかりとちゃうと思うんじゃが」

 演劇の背景の大木のように立ち尽くしていた尊臣がようやく口を開いた。しかも大翔に賛成とは。大翔自身が一番驚いていた。尊臣は必ず反対すると思っていたのだから。

「今日やってみよう。危険なら逃げればいいし、四人揃ったらの話だけど」

「私も同行か。まぁ、貴様らでは少し頼りないし付き合ってやろう」

 堂々と頼りがいのある発言は最上級生らしい風格がある。ただこの場にいる誰よりも小さい童顔の少女でなければ、あるいはもっと頼りにしたいところなのだが。

「それじゃあ、どこか集合場所を決めておこうか」

「どこがええかのう」

「グラウンドはどうだ? あそこなら教室の中からも見えるから誰がいるかわかりやすいし」

 大翔の口からグラウンドという言葉が自然と出てきた。さっき見た和弘の夢のせいだろうか。もう一度あそこに立てば、何かを感じられると思ったのかもしれない。誰も思うところはなかったらしく、集合場所はグラウンドに決まった。

「それでは失礼する」

 長々と話をさせてしまった乃愛はこの後用があるらしく、急いで部室を出て行った。それでも廊下から聞こえる音は小さい。しっかり歩いているらしい。荒っぽいのか真面目なのかよくわからない人だ。

「はぁ、生き残れた」

 乃愛の足音が消えると同時に光は机の上に体を投げ出して大きな息を吐いた。大翔にとっても朝の口癖になりつつある言葉ではあるが、それをこの部室内で聞くことになるとは。

「どうしたんですか」

「君は知らないだろう? あの仁坊先輩は名前を呼ばれることを極端に嫌うんだ」

「それは見てればわかりましたけど」

 名前を知られたくらいで殺す、とまで言うなんて尋常な話ではない。

「だから人質にとる、という案までは出たんだけどね。本当に殺されないか心配だったよ」

「俺なんかよりよっぽど危険なことしてるじゃないですか」

 乃愛と言葉だけでやり合う光は結構かっこいいと思っていた大翔は、いきなり幻想が崩されたようで内心肩を落とした。もし乃愛が怒りに任せて拳を振るうような人間なら大翔も巻き添えを食らっていたことだろう。

「カベサーダ相手にも頼みますよ、先輩」

「善処するよ」

 あの本能だけで動いていそうな怪物にどれほどハッタリが通用するかはわからないが、今日の仕返しも兼ねて大翔は光の脇腹を肘で小突いた。

 それに小さく体をよじりながらも、ぐったりと倒れたまま返事をした光は乃愛とは対照的に少しもアテにならなさそうだ。

 部室を出て、大翔は自分の教室に戻ってきた。別に忘れ物があったわけではないが、なんとなく千早がまた残っていそうな気がして、大翔はゆっくりと戻ってきてしまった。

「まぁ、いないよな」

 最後の授業にもいなかったのだから、いまさらいるはずがない。いたとしたら幽霊か何かと疑うくらいのものだ。昼間に見た和弘の夢のせいで千早のことまで消えてしまうように思ったのかもしれない。

「そんなわけないか」

 記録会で過去最低のタイムを走りきった大翔は他の部員たちよりも少しだけ早く引退を決めた。トラックを走っていると後ろから和弘がついてくるようで自分までフォームを崩してしまったからだった。続ければケガをする。少し陸上から離れてみては、という教師の言に従って、大翔は何も清算できないまま陸上から逃げたのだ。

 その大翔にしつこく声をかけてきたのが三年になって初めて顔を合わせた千早だった。無気力でうつ」ろな表情で教室に座っている大翔を誰もが変わってしまったと恐怖していたところを今と変わらないように丸めた教科書で叩いていた。

 元通りになったとは思わない。今でも大翔は走ることが嫌いだ。だが、千早によって大翔のうちのいくらが救われたのも事実だった。

「さて、帰るか」

 どのくらいの症状かは真由にも聞いていない。明日には学校に来ているだろうか。だとすれば、大翔は今夜も死ぬわけにはいかない。

 和弘にも何もしてやれていないが、千早にも返さないといけない恩がある。


 懐かしい香りで大翔は目を覚ました。いや、正確に言えば眠りに落ちたのだが。チョークの粉が舞っている粉っぽい空気。清潔とはいいがたい共同空間でありながら、どこか落ち着く心地がする。

「また中学校か」

 大翔は教師になったかのように教壇に両手をついて立っていた。しかし誰かに教えられることなど何もない。それを証明するかのように後ろにある黒板にはバツ印の代わりに十字に亀裂が入っていた。

 学級崩壊と呼ぶにはあまりにも物理的過ぎる教室内は昨夜見た景色とたいして変わることなく、物が散乱していて外へ出るにも一苦労ありそうだ。

 とりあえず床が見えるところを踏んでなんとか扉まで辿り着く。途中で折れてしまった机の足を手にとり、しっかりと握った。

 まずはこれで不意打ちの一撃。今までならば頼りなさ過ぎると思っていたが、今夜は別だ。少しでもひるめばその隙に触角をへし折る。その隙さえできてくれればいいというのなら、小回りが利いて取り回しいのいい武器が役に立つ。一人ではかなり不安があるが、なんとかなるはずだ。

 きしむ扉は大翔を外に出すのを嫌がるように固く開くことを拒んでいた。音が鳴ればカベサーダを引き寄せることになるが、今なら少しくらいは気持ちに余裕があった。

「おりゃあ!」

 気合も上乗せして重い扉をこじ開ける。歪んだ扉はレールと擦れて野生動物の断末魔のような声を上げた。

 甲高い音が誰もいない廊下に響く。それが開始の合図のように爪が床を叩く音が聞こえた。

「いきなり来たか」

 昨日までなら息を潜め、物陰に隠れ、こちらにこないでくれと願うことしかできなかった相手。だが、今は違う。手に持った武器と冷静な行動さえできれば戦えない相手ではないはずだ。大翔は手に握った中空の軽いパイプを確認して、廊下に顔を出した。

 全てがうかつな行動に見える。実際に大翔のやっていることは異常だと言えた。心臓を突き刺せばライオンも死ぬと知っていたところで、わざわざ野生のライオンとケンカしにいく人間などまずいない。

「逃げるに越したことはないんだけどな」

 言葉ではそう言いながら、大翔は腹の底からふつふつと湧き上がってくる感情に身を任せている。

 まだカベサーダの姿は見えない。誰かと合流してから相手をしたほうが安全なことは大翔にもわかっていた。ただ大翔にもやりきれない思いはある。多くの人間を見捨ててここまで生き残ってきたという思いは、敵を討つ理由には十分すぎた。目の前にありながら拾い上げることのできなかった命さえある。

 開いた扉の隙間から体をすり抜けさせ、教室内と同じく物が散らかった廊下に出る。教科書を蹴り飛ばし、戦えるだけのスペースを作る。

「来いよ。やってやる」

 自分自身を奮い立たせるように大翔は呟いた。

 乃愛のように格闘の心得があるわけでもなければ、尊臣のように優れた体格を持つわけでもない。光のように頭も回らない。ただ大翔にあるのは衛士や顔も名前も知らない誰かを見捨てたという自己嫌悪だけだ。

 背中の方で爪の音が響く。大翔はすぐさまその音の方へと振り返った。

「来たか?」

 カベサーダは大翔の方に向かってまっすぐ全力で走りこんでくる。床に散らばったものが激しい走りに巻き込まれて方々へと散っていった。

「だりゃあああ!」

 走りこんでくるカベサーダの頭に向かって持っていたパイプを叩きつけた。大きく突き出た額を打ったが、あまり効果はないらしく、カベサーダは構わず大翔に飛びかかろうとする。

「ちっ、なら!」

 早くも少し曲がってしまったパイプをカベサーダの触角に向けて大きく横に薙ぐ。

 カベサーダは頭を低く落として、大翔の一撃を避けた。

 そう、避けたのだ。

 今までどんな攻撃にもプロレスのように避けなかったカベサーダが、大翔の一閃を嫌って身を翻したのだ。その事実が大翔の頭にどれほどの興奮を与えるだろうか。

 殺せる。

 自分が目の前の敵より上に立った瞬間。全身をアドレナリンが高速で巡っていく。目が血走り、全身が血の赤色に染まってきていることを大翔はまったく気がつかない。

 その結論を胸に抱いて、大翔はカベサーダの触手に手を伸ばした。

 脳内麻薬に犯された体は羽のように軽い。頭を下げたカベサーダの触角に指をかけると、折り取るように手首を返した。

「どうだ?」

 この世界でヒーローになれるかもしれないという高揚感が大翔を包んでいた。欲しいのは名声ではない。ただ自分以外の誰も傷つかないで済むかもしれないという期待があった。

 カベサーダは声を上げることはなかった。人が苦しむようなうめき声も悲鳴のような叫びもしなかった。ただ無言のままふらふらと数歩歩いた後、操り人形の糸が切れるようにその場に倒れて動かなくなった。

 それが大翔には逆に不気味だった。

 仇討ちのつもりで戦ったはずなのに、まるでただ道具を壊しただけのような感覚。物足りないなどと言うつもりはないが、あまりのあっけなさと自分の高揚感の落差に大翔は折った触角を倒れたカベサーダの上に投げ捨てた。

 倒した、という慢心が警戒心を鈍らせる。

 倒れた亡骸なきがらを見下ろしていた大翔の前からもう一匹。仲間が殺されたことに怒っているのか、それともただ本能のままに獲物を捉えたと思っているのか。やはり大翔に向かって猛然と飛びかかってくる。

 咄嗟とっさに手元の曲がったパイプを振り回すが、緩く握ったパイプは遠心力に引かれて大翔の手元からするりと逃げていった。勢いのまま振るった拳がカベサーダの顔に当たって大翔の拳に鈍痛が走った。こんなに固かったのかと冷静さを取り戻してきた頭から痛みを排除しようとするが、我慢でなんとかなるものでもない。コンクリートの柱でも殴ったような痛みだ。

 体を強張らせた大翔にもカベサーダは容赦などしてくれるはずもない。強引な接近を簡単に許してしまった大翔はやすやすと両肩を掴まれて、事切れたカベサーダの隣に並ぶように大翔の体が廊下に押し付けられた。

「まだ」

 既に弱点はわかっている。首筋に噛み付こうと顔を近づければ、その瞬間にその触角を折ってやればいい。

 自分の左腕を伸ばそうとして、大翔の肩に鋭い痛みが走った。

「くそっ。だからこいつら、こうやって」

 両肩を掴むカベサーダの両腕。爪がじりじりと大翔の肩に傷をつけていく。肩の付け根を押さえられては腕が満足に動かない。

「何も考えてなさそうなクセして」

 なんとか片腕でも伸ばせれば、と大翔は必死に身をよじる。

 そこに今度は乾いた足音が駆け寄ってきた。

「ちぇあああ!」

 気合とともに伸びてきたのは膝の一撃。

 昨夜に見た再現をするように走った勢いのままに大翔を押さえつけるカベサーダの触角を取った乃愛が、そのまま顔に向かって痛烈な一撃をみまった。

 両の触角を折られたカベサーダはやはり何も発することなく壁際にもたれかかるようにずるずるとその体を折りたたんでいく。それと入れ違うように大翔はゆっくりと立ち上がった。

 肩に触れてみるが、少し傷はできているもののもう痛むというほどではない。倒れて動かなくなったカベサーダを一瞥いちべつしてから腕組みをして仁王立ちしている乃愛に視線を移した。

「助かります」

「無理をするな。仲間が悲しむぞ」

「でも蹴る必要なかったですよね?」

「気分の問題だ。気にするな」

 乃愛はカベサーダの顔にたたきつけた右膝を手で払う。カベサーダの弱点は触角で間違いない。ならば折った時点で勝負は決していたはずだ。それに大翔の方はさっきカベサーダに打ち付けた拳がまだ痛むというのに乃愛の方はあれだけの一撃を入れておいて少しも痛がる様子はない。手で払った膝にも傷らしいものは見えなかった。

 痛くないのだろうか、という疑問の視線を乃愛に投げかけてみるが、彼女の方はなんのことか少しもわからないと言うように小さく首を傾げた。

 それに。乃愛の華麗な膝蹴りを真下から見た大翔の脳裏には何かが映っていたような気がしてならない。

 気がつかなかったことにしておこう、と大翔は前を歩き出した乃愛に続いて廊下を進んでいった。

「いきなり襲いかかられるなんて、それに二匹も」

「私が近くにいてよかったな。貴様死んでいたぞ」

 厳しい口調でいさめる乃愛に、大翔は短くはい、とだけ答えた。仇はとった。少なくとも一匹は自分の手で殺した。それを謝ってしまったら意味がなくなってしまうような気がした。

 大翔の先導で廊下を歩き、乃愛と二人で尊臣たちと約束したグラウンドの方へと向かっていく。廊下に散乱した物の数は昨日と変わった様子はない。ただどこか空気が張り詰めているように感じられた。手には武器。カベサーダの弱点を知り、倒せることも知った。何を恐れることがあるだろう。

 大翔は何度も自分に言い聞かせてみるが、手の震えは止まらなかった。

 静かだった廊下に今度は何かを殴りつける音が届く。

 グラウンドとは逆方向。だが、考えるまでもなく乃愛も大翔も音のする方へと走り始めていた。第六感でも野性の勘でもない。この世界で当然に辿り着く帰結。

「何の騒ぎだ?」

「ここで騒ぎになるのは奴が出た時だけですよ」

 いつか誰かに聞いた言葉を思い出す。簡潔だが、この世界のことをわかりやすく示していた。ただ狭い空間に目的もなく集められた大翔たちがこの夢の中でやらなくてはならないことは、ただカベサーダから逃げ、朝を迎えることだけだ。

 廊下の角を曲がり、閉めきられた扉を叩くカベサーダの姿を認める。大翔はその頭に向かって持っていた曲がったパイプを思い切り投げつけた。

 赤い瞳が大翔の姿を捉える。扉の向こう側にいる獲物より数メートル先に立っている獲物の方が手っ取り早い。その程度の認識だろう。照準を変えて大翔に向かって駆け込んできた獰猛どうもうな怪物の頭から乃愛がその弱点を引き抜いた。

「はぁ」

 反射的に身構えた両腕を解いて、大翔は溜息をつく。倒せるとわかっていてもあのわかりやすい速度という暴力に簡単に慣れることはできない。さっきのように怒りで高揚でもしていない限り、やはり大翔に戦いは難しいのかもしれない。

 戦う理由がない。そう言った光の気持ちは今の大翔と同じだったのだろう。口ではなんとでも言えるが、実際に戦場に立てば手は震えるし、足はすくむ。呼吸は乱れるし、まばたきは何倍にも増える。

 倒れたカベサーダはどんな気持ちで大翔たちに襲いかかってきているのだろうか。知能はそれほどあるようには見えないが、ただの貧弱な人間という獲物に向かっていき、勝てると思った狩りで命を落とすのはやはりやりきれないのだろうか。

 脅威は去った、それだけ伝えようと固く閉じられた扉に手をかけて、大翔は開くのをやめた。わざわざ恐怖の中に引きずり込む必要はない。外にいるカベサーダをすべて大翔たちで倒してしまえば、この中にいる人は助かるのだ。

 扉から手を離し、音を立てないようにゆっくりと離れた。

「怖いか?」

 またぼんやりとした瞳で倒れたカベサーダを見つめる大翔に、乃愛は優しく問いかける。

「でも、やらないと」

「そう気負うな。今まで逃げ延びてきたのだろう。変わらずそうすればいい」

「でも、明らかに今日は違うんですよね」

 今まで大翔が見聞きした怪物の数はせいぜい二匹。それを乃愛と二人で早々に倒してしまった。それがほんの少し動いただけで三匹目。運が悪いと決め付けるにはあまりにも多すぎる数だった。

「もしかして奴らが増えているんじゃないか、って」

「私に問うな。とにかく他の男どもを見つけることだな」

 校内の異様な雰囲気の正体に大翔は少しずつ気付き始めていた。

 元から壊れたものが散乱していた教室や廊下だったが、歩みを進めていくとそこに何かが通った跡が残されているのだ。人が数人走っていったような跡。それを追いかける爪が廊下に残した傷跡。そしてそれが止まった先にある赤にまみれた亡骸を大翔はいくつか見た。

「また」

 この世界で誰かが死んでいる。自分の視界の外で。和弘が大翔の後ろで倒れたように。名前も知らない誰かが犠牲になっている間だけ、自分たちの安全が保障されている。

「行きましょう」

 死体の横を通り抜け、大翔は先を目指す。いったいこの人たちはどこを目指していたのだろうか。数度曲がっても長々と続く廊下の先には何があったのだろう。

「そうか、あれか」

 大翔は足早に歩を進めて、二つ並んだ小さな入り口、男女分かれたトイレの入り口を見つけた。そして迷うことなく女子トイレを覗き込む。

 と同時に乃愛の拳が大翔の脇腹を襲った。

「痛っ!」

 尊臣よりも容赦のない攻撃。カベサーダでも押し倒す時はもう少し紳士的なものだ。

「貴様、今の状況がわかっているのか?」

「いや、ここがショッピングモールと繋がってて」

 あの細い通路をカベサーダが通れるのかはわからないが、少なくとも大翔はこの狭い通路からカベサーダが出てくるのを見たことがない。

「で、どこに通路があるんだ?」

 大翔を睨み付けたまま、乃愛は静かな声で聞いた。大翔の見た先は何も変わったところはない普通の女子トイレだ。

「ここじゃないのか」

 周りをぐるりと見渡してみる。中学校の構造など、どの棟のどの階でもそれほど大きくは変わらない。夢の世界の構造は歪んでいて今が何階なのかはわからないし、周囲は荒れ放題で場所を把握できそうなものはない。

 延々と続く一本道の上でも似たような女子トイレがいくつ置かれているかわかったものではない。

「そもそもショッピングモールが学校に併設されるわけないだろう」

「の、仁坊先輩はこの中学校から出たことはないんですか?」

「そうだな。ここ最近の夢は全てこの校内であの怪物を蹴り殺す夢ばかりだ」

 毎晩そんな暴力的な夢を見てよく冷静でいられるな、と大翔は頬が引きった。彼女にとってはそれが理想の日々なのだろうか。誰でも自分が正義のヒーローになる夢を見る。それが力の弱いものならなおさらのことだ。それにしたって、あんな強すぎる怪物に毎夜追われていても少しも動じないとなると、さすがに大翔も同意しかねる。

「それはずいぶんと、余裕があるというか」

「いつものことだからな。貴様らの話もこうして話が通じるまで信じていなかったが」

「いつもって」

 乃愛の話を聞いていると、自分まで頭がおかしくなってきたように感じて、大翔はそこで言葉を切った。

 廊下に飛び出すように付けられたネームプレートには男子トイレと女子トイレの文字が並んでいる。

「でもなくなったとしたら、なんで急に通路がなくなったんだ? できた時も急だったけど」

 光と話して、大翔には一つの仮定があった。それは誰かの夢と誰かの夢がどんどん繋がり始めていて、その中で多くの意識を持つ人間が一つの夢の世界に存在しているというものだった。

 そして広がり続ける夢はまた新しい夢との繋がりを持つ。それがあのどこともつかない無機質な細い通路だった。事実大翔が見たホテルとショッピングモールを繋ぐ通路は最初こそ細くて人が一人通れる程度だったはずなのに、次の日には立って歩けるほどにまで大きくなり、距離も短くなっていた。

 それが、今度は逆だ。あったはずの、別の夢へと繋がるはずの道が閉ざされている。まるでエサを待ち続けていた食虫植物がようやく獲物を誘い込んだようで大翔は身震いした。

「考えるのは全員揃ってからでいいだろう。先を急ぐぞ」

「あ、はい」

 乃愛に促されて大翔ははっと意識を戻した。なくなってしまったものは仕方がない。そこで悩んでいれば勝手に出てくるものでもない。大翔は乃愛に頷いて、延々と続く廊下の先、どこかにあるはずの一階を求めて走り出した。

 何度目かの廊下ダッシュを抜けて、ようやく繋がった一階の廊下から蜃気楼のかかっていない方へ向かって外に飛び出した。

 グラウンドは懐かしい白土が風に舞っていた。ここだけ物が落ちることが許されなかったように現実と同じように小石一つない。その中心で何人かの仲間とともに光と尊臣が待っていた。

「おう、無事じゃったか」

「まぁ、なんとかね」

 尊臣たちの方も既に何度かやりあったらしく、ところどころへこんだ金属バットと折れた竹刀をそれぞれに手に持っていた。

「そっちには頼りになる先輩がいて羨ましいよ」

「貴様らこそ仲間を抱えて結構なことじゃないか」

「奴らを倒せるっちゅうたらついてきおったんじゃ」

 よく見ると、尊臣や光だけでなく集団の中の全員がそれぞれに何かを握っていた。

「人数がいるのはありがたいよ。それでも安全とは言い切れないけどね」

「何匹見た?」

 大翔は悪い結果しか聞けないことはわかりつつも尊臣に尋ねる。

「三匹じゃな」

「同じか」

 ということはもう六匹のカベサーダを倒してきたということになる。そんな数がいるのは初めてのことだ。一晩で一度もカベサーダと面と向かわなかった日もあることを考えれば、この数は明らかに異常だと言えた。

「それから、通路が消えてた」

「モールに続くトイレのところかい?」

 大翔の報告に鋭く口を挟んだのは光だった。四人の中でモールと学校を繋ぐ通路を通ったのは大翔のほかには光だけだ。

「閉じ込められた、って考えた方がいいだろうな」

「この夢を見とる奴は相当のひきこもりか、サディストかっちゅうんじゃ」

「どちらにせよ、僕らにはありがたくないね」

 グラウンドに集まった人間は今、夢の中にいる人間のうちの何パーセントだろうか。既に事切れていた人間もいた。まだ教室の扉を閉めて息を殺して時が過ぎるのを待っている人もいるかもしれない。

「でもここなら見晴らしがいいし、逃げるには難しいけど戦う手段もある。協力していれば、きっと」

 大丈夫、と言おうとして、大翔の口は止まった。それは戦いの中で培ったと呼ぶには後ろ向きな能力だった。背筋に凍るような感覚とともに体が一瞬固まった後に、続けて熱い血が全身を巡る。一度体にあったものを洗い流すような感覚の原因は恐怖とそれに対する抵抗の表れだ。

 逃げろ、と大翔の全身が叫んでいる。

 この障害物のないグラウンドならすぐに敵の姿を確認できる。大翔は自分の感覚に従って周囲を確認したが、陽の下にカベサーダの姿はない。いったいどこにいる。他の三人が不思議そうに大翔の様子を見ている中で、一人感覚を研ぎ澄ませていく。

 校舎の一階からゆっくりと歩いてきた黒い影。残っていた人間を見間違えたのだと願いたかったが、その影が少しずつ大きくなるにつれてそれが自分たちと敵対しているものだと理解する。

 大翔が手に持った武器を構え、じっとその先を見据えた。

「まだ、いる」

「しかたあるまい。やるか」

 それぞれの武器を確認して、前に出た大翔と乃愛。もはや逃げるという考えは大翔にはなかった。後ろにたくさんの人間を連れていて、自分が逃げ出すなんてことは絶対にできない。

「待ってくれ。少し様子がおかしくないかい?」

 血気に逸る大翔を心配したのか、光が慌てて声をかけた。内心失敗したと思っているのだろう。ついてきた人間の存在が大翔に戦うことを選ばせる可能性を光はすっかり失念していた。

 それが原因で一度大翔が危険の中に飛び込むのを許してしまったのにだ。乃愛や尊臣すら押し退けて自分が前に立とうとする大翔の姿は、自信ではなく使命感の現れだ。

「おかしい?」

「明らかにこちらに気付いている。それなら奴らはこちらに走ってくるはずだ。それがない」

 カベサーダの動きは確かにまっすぐに大翔たちの方を向いていた。人間の存在を確認できていない時はもっと頭を振り、触角を動かして人間の居場所を探すような素振りを見せていた。そして発見した瞬間に、恐ろしい加速でこちらに飛び込んでくるのだ。

「おい。あれが自分らもアレが見えるか?」

「え?」

「あぁ、残念だが私には見えるぞ」

 珍しく尊臣が苦々しく言った。それに同じく苦々しく乃愛が答える。

 二人の見ている先、カベサーダが現れた校舎の方に向かって大翔は目を凝らす。

「嘘だろ?」

 一匹だと思っていたカベサーダの左から一匹、右から一匹、後ろにも一匹。

 さらにその両隣にも一匹ずつ。さらにその後ろにも。

 軍隊の行進のように三列縦隊で並んだカベサーダは今までの獣じみた行動が嘘だったかのように足並みをそろえて大翔たちの方に向かっている。

「二人一組で一匹ずつでもこっちの数が足りないね」

「それどころか向こうがチーム組んでくるたぁ、考えとらんかったわ」

 校舎の影から明るいグラウンドの日の下にカベサーダの軍隊が姿を現した。二つの集団の距離が少しずつ近付いていく。だが、決して誰も走り出さない。それがひどく不気味だった。

 野生動物であっても複数の仲間とチームを組み、獲物を狩るということは起こる。古くは恐竜がいた時代からある当たり前の行動だ。

 だが、カベサーダは今までそれをしてこなかった。急に知性が芽生えたなどという適当な解釈では到底大翔たちは納得ができない。

「全部で、一五匹、か」

「あれが本気で協力するんじゃったら、素人ばかりのワシらじゃどうにもならんぞ」

 不意を打つか、多人数で隙を作らせるかが必要だ。いかに一撃で倒せる術を発見したとはいえ、あの強靭きょうじんで破壊的な肉体を持つ怪物相手に一人で戦えばほぼ必ず死が待っている。相手が徒党ととうを組むというのならなおさらのことだ。

 ふと、大翔は逃げ道を探して校舎と逆方向、道路との境を示すフェンスの方へと目をやった。学校の外はぼんやりと蜃気楼のように揺らめいている。よく見れば、グラウンドの一部も空気が湯立つようにはっきりとしないところがある。

 ここが夢の終点なのだ。

 大翔たちは気付かないままに袋小路に追いやられている。これほど四方が開かれた空間だというのに片方は行き止まりなんて考えてもいなかった。

「それぞれに散って逃げるか、まとまって当たるか」

 光がぶつぶつと策を口からこぼしていくが、どれも決定的なものにはなりそうもない。当たり前だ。光も大翔も、ここにいる全員があんなカベサーダを初めて見たのだから。

「あいつら、倒せるんじゃなかったのかよ!」

 ついに迫り来る恐怖に負けたのか、一人が尊臣を攻め立てるように叫んだ。

「倒せる。それは目の前で証明したじゃろ。じゃが、あれだけまとめてできるかは別問題じゃ」

「ふざけるな!」

「ちょっと、こんなときにケンカは」

 慌てて大翔が止めに入るが、恐怖と怒りで血気だった男には届かない。

「どうするんだよ、てめぇ!」

「ワシに責任を問うか? 自分らが選んでついてきたんじゃろうが」

「勝手なこと言いやがって!」

 多くの仲間を作ることはそれだけリスクが大きくなる。光は衛士たちを見て大翔にそう言った。結果として衛士は自らを囮にして死に、今もこうして敵ではない相手と必死になって戦わなくてはならなくなった。

「わかった。なら好きにさせてもらう。どうせ奴らの狙いは仲間を殺したお前らだ。俺はここを離れる。お前らが食われてる間に逃げさせてもらう」

 そうだろ、と男が振り向いた。ケンカの行方を見守っていた人間は男の言い分に理があると思ったらしかった。

「あぁ、ここまでだ。怪物だろうと殺した罪はお前に罰が下る」

「お前たちにだまされてこんなことになったんだ。責任取れよ」

 一人、また一人と大翔たちとの間に距離を取っていく。集団は二つに割れて、残ったのは大翔たち四人だけだった。

「さて、絶望的だよ」

「一匹でも多く倒すくらいかのう」

 不気味に微笑んだ尊臣の顔にはもう諦めの色がにじんでいた。

 カベサーダは大翔たちに復讐を狙っている。そう言った男たちは大翔たちを残してグラウンドをゆっくりと周回するように逃げることにした。カベサーダから距離を取りながら、音を立てずにすれ違うことができれば、逃げ切れると考えたのだろう。

 擦れればたちまち音が鳴る白土のグラウンドをまるで薄氷はくひょうの上を歩くように一歩一歩進んでいく。

 その動きがあってもなお、カベサーダたちは動かなかった。ただ真っ直ぐに大翔たちの方へ向かって行進を続けている。

「本当に仇討ちだと思うかい?」

 すっきりしたような声で光が聞いた。死ぬ前に少し雑談でもしようか、という清々しい声だった。

「奴らにそんな脳があるのか?」

「そうは思わんのじゃがなぁ」

 近付いて来たカベサーダの黒い塊から、特徴的な赤い眼光が見えるようになってきた。ずいぶんと近い。いつもなら迷いなくこちらに襲いかかって来る頃だ。

 もしも、カベサーダたちが仇討ちしたいと思っているのなら、大翔にはその気持ちはよくわかる。自分もさっきそんな気持ちで武器を振るい、触角を折ったのだから。だからこそ、今目の前できっちりと列を組み、真綿で首を絞めるように少しずつ距離を詰めるカベサーダの集団に違和感を覚えていた。

 復讐というのはそんなに生易しいものではない。

 全身が赤く燃え盛るように熱を発して、頭の中が敵の顔だけになり、視界に映る仇の顔以外の全てがまるで夢のように歪んで見えるのだ。

 その命を絶つその瞬間まで目標以外は眼中にない。それは自分の体も例外ではない。皮が剥がれ、肉を切り、骨を断とうとも命をもぎ取る。それが復讐という言葉が持つ魔力だった。

 大翔は確信した。あれは自分たちを狙っているわけではない。あれは何か外側から枠にはめられて強制されているものの動きだ。

 それなら何かその強制をとってしまえれば。

 強制に抗えるもの。それは残念なことに本能に忠実すぎる欲望だけだ。人間ならば食欲や睡眠欲。それから反射。どんなに禁止されたとしても抗うことのできない生きるために備えられた防衛本能。

 何かないか。奴らにはめられた鎖を一瞬でも解き放つ方法は。

 大翔の頭の中を思考が駆け回っていく。知っているカベサーダの行動を一枚ずつページをめくるように思い出していく。

 最初に襲われたときに消したのは音だった。

 今までも音につられて奴らはやってきたのだ。

 手元には、武器として持ってきた細い角材がある。

「これをどこかに」

 投げつければ、と大翔が顔を上げたとき、大きな風が吹いた。

 つむじ風を上げ、白土を巻き上げながら大風がグラウンドを縦断する。校庭で校長先生の長い無駄話を何年も聞いていれば、何度かは巡り合う嫌な現象だ。ただ緊迫したこの状況に突如起こった風は想像以上の混乱を巻き起こした。

 砂埃は大翔たちの視界を奪う。ざらざらと服にまとわりついた砂は服に擦れて小さな音をいくつも立てた。

 カベサーダの動きが止まった。大翔たちの方を向いていることには変わりない。一斉に動きを止めたせいで今度は銅像のように同じ姿勢で立ち止まったカベサーダ相手に恐怖は少しも薄れなかった。

「やっぱり音か」

 目の周りに舞った砂を払って、大翔が周囲を確認する。立ち止まったカベサーダの体が次第に小刻みに震えはじめる。

 抗っている。何かからの強制に音の方へ飛びかかりたいという本能が抗っている。

 もう一手。手元にあるものを遠くに投げて、それがぶつかって大きな音を出せば。

 砂が収まった瞬間に大翔は尊臣たちの方を見た。策は浮かんだ。分の悪い賭けでも何もしないより何倍もマシだ。

「今だー! 逃げろー!」

 大翔が搾り出そうとした提案は遠くから聞こえた大声にかき消される。

 カベサーダの動きが止まったことを見た集団の中の一人が、まだ目を閉じている仲間達に向かって叫んだのだ。

 その声を聞いて、誰よりも早く動いたのは他でもないカベサーダだった。

 砂煙を巻き上げて、十五匹の恐怖が一斉に走り出した。今までの歩みはただのかく乱だったと言われても納得できる変わり身だった。

 濁流のような足音を聞いて大翔が振り返った時には、もう既に叫んだ男の喉笛にカベサーダの噛みついているところだった。

 悲鳴が上がる。大翔を見て何かを叫ぶ。両手を振り回して抵抗する。

 たった数メートル先で繰り広げられる地獄絵図。大翔は胃から逆流してくる動揺を漏らすまいと両手で口を塞ぐ。

「逃げよう」

 いつのまにか近づいて来ていた光が大翔の肩を叩いて耳うちをした。

 襲われている人たちを助ける術はおそらくない。あの中に近付いたところで巻き添えを食うだけだ。この瞬間にもグラウンドには血だまりができ、混じり合って大きさを増してきている。大翔にはもう力なく頷くことしかできなかった。

 尊臣に支えられながら、大翔は一年振りにこのグラウンドを走った。今後ろにいるのは倒しても簡単には倒れてくれない捕食者だけだ。近くにいる獲物を全て食らい尽くした後は大翔たちを本能のままに追ってくるに違いない。

「どうするんじゃ? 戦える数とちゃうぞ」

「どこかに逃げ込むしかないだろう」

「モールへの道は塞がってたんだよね?」

 校舎に入り、左右に伸びる廊下で四人は立ち止まった。廊下の端までは五〇メートルほどだが、左側の先には気が遠くなるほど果てしない道が続いている。右側はまだ道の領域。何が出てもおかしくはない。

「どこか隠れられる場所はないか? 頑丈な扉がついているような」

「そんな都合のいいものが」

 焦りが募る中で、ふらついたままの大翔が右へと指を差した。

「……体育倉庫」

 大翔の中学で一番固い扉となればたぶん体育倉庫だ。体育館の隣に置かれたそれは大翔が入学する前は不良の溜まり場になっていて、タバコの不始末から火事になる騒ぎがあった。そして建てなおされた倉庫はコンクリートの冷たい壁に過剰すぎると厳重すぎる堅牢ぇんろうな扉で囲まれて、生徒の間では宝物庫とあだなされるほどのものになった。

 その目立ちすぎる場所を大翔はまだこの夢の中で見ていない。この夢の主が大翔と同じ中学校の出身だとしたらあの倉庫のことを忘れられるはずがない。どこも似たようなものだと言った校舎の中で唯一どこにもない大翔たちの中学校を表すものなのだから。

「わかった。行こう」

 今まで通ってきた道にはそれらしいものは見当たらなかった。もちろん全て確認したわけではないし、空間も構造も捻じ曲がったこの夢の世界では教室の扉を開ければ体育倉庫、という可能性もあった。

 四人にとってはこの行動すら賭けだ。だが、今さらそんなことを言うつもりは誰もなかった。この世界で生き残るのに確実だったことなどない。

「おりゃ、もうちょい気張れ」

 ぐいと引き上げられた大翔はまだ片腕を尊臣に引かれながら、無言で足を動かした。


 大翔にはまったく確信がなかったが、グラウンドまでの道のりが長かったせいか、目的の体育倉庫はすぐに見つかった。頑丈さを誇示するように傷一つない扉はこの世界にあって歪みはなくすんなりと開いてくれた。

「これで、あとどのくらい耐えればいいのか」

 扉を閉めて落ちていた南京錠なんきんじょうを内側からしっかりとかける。そこまできてようやく四人はその場にへたり込んだ。

 足元を照らすように通気のための格子がかかった小さな窓から光が漏れている。大きなかごに入ったサッカーボールやテニスのラケット、野球用のグローブ。この中もまた現実とまったく同じ。荒らされていないようだ。

 あの時と似ているな、と大翔は思った。

 三年の春。和弘がケガをする少しだけ前の話だ。大翔はこの体育倉庫に閉じ込められたことがある。

 マンガみたいなことは意外なことに現実でも起こったりするものだ。

 日直だから、という体育教師の思いつきで授業の後片付けに指名された大翔は、扉から陰になるところに落ちたボールを拾おうとあれこれとやっていた。そこをろくに中を確認しなかった体育教師に外から扉を閉められて、鍵までかけられたのだ。

 不良の一件で強固にできた倉庫から出る手段はなく、完全に閉じ込められてしまったのだ。幸いにも次の時間にも体育の授業があったおかげで中にいたのは十分足らずで済んだのだが。

 そのとき一緒に閉じ込められたのが、もう一人の日直。堂本千早だった。

 閉じ込められた時の反応は今思い出しても笑いがこみ上げるほどだ。

 大翔から一番距離が離れるように対角線に陣取り、剣道のように用具室のラケットを構えたまま微動だにしなかった。

「こっちに一歩でも近付いたら叩くからね」

「はいはい、わかったわかった」

 密室の体育倉庫。情事を想像するのは少し古臭すぎるというものだ。いったいあの真面目な千早がどこからそんなオヤジくさいシチュエーションを仕入れてきたのかは大翔も未だにわかっていない。

 倉庫に限らず閉じ込められた人間の頭の中に浮かぶのは生への欲求だけだ。

 いつ助けが来るのか、どうすれば出られるか、長く生き永らえる術はあるか。

 思考は現世にしがみつくための方策を求めて果てない知識の海を行くだけだ。同じく閉じ込められた女生徒などせいぜい最終手段として食糧になるかというくらいのものだろう。もっとも体育倉庫に閉じ込められたくらいでそんなことは考えもしないのだが。

 結局大翔はぎゃあぎゃあと喚き散らす千早から一番遠いところで体力を極力使わないようにじっと座って動かないままだった。

 それに安心したのか、それとも恐怖の対象が大翔から体育倉庫そのものに移っていったのか。千早は少しずつ大翔との距離を縮めて、大翔が座っていた千早から一番遠い場所、高飛び用のマットを半分にたたんで重ねた一番上に上がってきた。

 次の授業の準備に来た体育教師が倉庫の鍵を開け、笑い半分で謝る頃には千早は大翔の隣に並んで座って震えていた。

 大翔が千早を気にかけるようになったのは、あの時からだ。おそらく逆もそうだったのだろう。そうして一年が過ぎて、今も二人の関係性は変わっていない。

 確かあの辺りだ。大翔が千早と並んで、今と同じく薄暗い倉庫の中で助けを待ちながら小さく体を寄せ合っていたのは。

 背中を預けていた扉が大きく鳴って、大翔の体に衝撃が走った。それを追いかけるように続けざまに衝撃が鳴り響く。

「来たようだな」

「僕らにできることは祈るだけだよ」

 扉を引いて開けることはおそらくできないだろう。教室の扉すら真正面から叩いて壊そうとしていた場面を大翔は見ている。しかし、大翔はカベサーダはアルミシャッターに大穴を開けて通ってくるところも見たことがあった。安心など少しもできない。この扉の方が頑丈だと信じているが、それもどれほど持つのかわかったものではない。

「きゃっ」

 何度目かの衝突音のときだった。少女らしい可愛らしい悲鳴が上がる。三人は驚いた顔で乃愛の方を見た。明るければその意外そうな顔に怒った乃愛に一撃見舞われていたことだろうが、幸いよく見えていないようだった。

「何だ、私じゃないぞ」

「でも他にあんな声の人はいないし」

「他に誰かいるのか、俺たち以外に」

 そう言いながら薄暗い庫内をゆっくりと見渡した。大翔には聞き覚えのある声だった。

 扉を叩く音は次第に大きくなっていく。外側がへこみはじめて音が大きくなってきているのかと思うと冷や汗が滲んだ。

 激しい雷雨のようなとめどなく続く轟音ごうおんの中でさっきの悲鳴はもう聞こえようもない。隣に座っている尊臣や光さえも何かを言っているのかいないのかはっきりしなかった。

「たぶん、さっきのは」

 暗闇と打撃音で視覚と聴覚を奪われてなお、大翔はゆっくりと立ち上がった。

 もしも、大翔の耳が正常であるならば、きっとあの声の主はあの場所にいるはずだ。

 立ち上がると同時にくらりと視界が揺れた。目覚める直前のサインだった。同じような感覚がしたのだろう。他の三人にも安堵の雰囲気が漂った。しかし大翔は一人だけもう少しだけ夢が覚めないでいて欲しいと強く念じる。

 高飛び用のマットが重なった上。あの時と同じように小さく体を丸めて両手で耳を塞いでいる。足元から漏れるわずかな光もこの場所には届かない。それでも大翔にはもうここにいる少女の顔が浮かんでくるようだった。

「堂本」

 耳元で声をかけてみるが、この音の中では聞こえていない。

 後ろでふと人の気配が消えた。誰かが目を覚ましてこの夢の世界から脱出したのだろう。それに続いて、一人、また一人と消えていく。恐らくここにはもう大翔と千早しか残っていない。

「堂本」

 もう一度呼びかけてみるが、千早はただ首を振って嫌がるように身をうごめかせるだけだった。

 一際大きな音ともに大丈夫だと思っていた扉がついに破られる。暗闇に慣れた目に光が差し込んで視界がくらんだ。

「きゃああ!」

 入ってきた光に反応して千早が悲鳴を上げた。

「堂本!」

 もう一度強く呼びかける。

「あれ、神代くん?」

 両目に涙を浮かべながらも千早は少し嬉しそうに顔を上げた。やっぱりそうか。後ろからなだれ込んできたカベサーダが大翔の肩に手をかけようとするが、大翔の体に触れることはできない。

 ぐるりと歪んだ世界の中心でどこか嬉しそうに微笑んだ千早もまた、揺らめくように世界から消えていった。

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