第二夜

 遅い歩みで学校に向かい、教室の席についてようやく大翔は自分がどこにいるのか思い出したような気がした。今の自分は高校生で、部活にも入らずただ日々を自堕落じだらくに過ごしている空っぽの人間だ。

 天井を見上げ、視界にぼんやりと映る教室の蛍光灯を眺めてみる。こちらは縦に三列、規則的に並んでいる。それがどれほど安心できるものかをこのクラスの中で何人が感じているのだろうか。

 まだ大翔には衛士が死んだという事実がどこか遠い場所のニュースのように感じていた。あの夢の中で初めて会った人物で、名前以外は何も知らない。彼の死ぬ瞬間の姿を大翔は見ていない。だからまだあの夢の中で生きているのではないか。そんな妄想にすがりたくもなる。

「またぼけっとしてる」

 大翔の目の前で千早が手を振る。

「ちゃんと寝てる? すごい顔してたよ」

「お前は俺の母親か」

 顔を強張こわばらせて答えた大翔だったが、こうして千早の顔を見ると少し安心してしまう。大翔が思い悩んでいるときには必ずこうして関係のない話を始めてくれる。千早にはそれが普通のことだと思っているのだろうが、大翔にはこれほどない救いだった。

「本当に手がかかる子で」

「かけてねぇよ」

 わざとらしく首を振る仕草は本当に晴美に似ていた。会ったことはないはずだが、どこで覚えてくるのだか。大翔はそう思いながらも晴美にするように片手で千早を払う。

「お、またやってる」

「また、ってなんだよ」

 面倒なのが増えた、と大翔は千早を後ろから抱きしめた少女を睨む。大翔の反応にもすっかり慣れた様子で、少女、早島真由はやしままゆは言葉を続けた。

夫婦漫才ふうふまんざい。いつも楽しそうじゃない」

「そりゃどうも」

 明朗快活めいろうかいかつな短髪少女はこれで女子障害ハードル走のホープだったりする。入学してから同じクラスになった大翔を何かと陸上部に勧誘していたが、いつの間にか彼女の興味はすっかり千早の方に移ってしまった。

 今ではこうして千早に抱きついて大翔をからかうだけというよくわからない存在になっている。ちょっとばかりスキンシップが過剰じゃないかと思わないでもないのだが、千早もそれほど嫌がっていないし、大翔が口を挟めることではない。

「ちょっと、真由ちゃん。夫婦って」

「だいたい合ってるでしょ。いいなぁ、私も千早と同じ中学がよかった」

「そこだと俺もいるんだが?」

「じゃあ、私と神代が代わればいいんじゃん」

 想像するのは自由だ。勝手にしてもらって構わない。大翔は反論するのも面倒になっていらだった心にフタをするように机に伏せる。真由の方はというと、千早のセーラー服の裾に手を入れてなにやらくすぐっているようで大翔は余計に顔を上げられなくなった。

「ひゃん、と、とにかく授業中は寝ちゃダメだからね」

「はいはい」

 大翔は顔を伏せたまま答える。

 嫌でも眠るつもりなどなかった。居眠りしたところで大翔はまたあの夢の中に落とされるのだろうか。たった一人で右も左もわからない空間で命を賭けた鬼ごっこなど馬鹿げている。頬をつねり、手の甲にシャープペンシルを突き立ててでも眠るつもりはなかった。

 嫌なことが近くにあると、普段あれほど嫌だった授業さえもなんとなく乗り気になって聞いてしまうものだ。大翔は高校に入ってから、いやもしかするとこれほど真面目に授業を受けたのことなど小学校の頃から思い返してもないかもしれない。

 授業が終わる頃にはなんだか秀才にでもなったような気分で、大翔は満足気に間違った問題を教科書とにらめっこしながら確認していた。

「大丈夫? あんなに真面目に授業受けて」

 感心を通り越して心配になってきた、と千早がたたり神にでも触ろうかという様子で声をかけた。

「真面目に受けてても心配されるのかよ」

「そりゃ、普段と違うことを始めるのはボケの始まり、って言うし」

「お前、今すげえひどいこと言ってるぞ」

 これで少しも悪気がないのだから性質たちがいいのか悪いのか、と大翔は溜息をついた。ただこの自覚のない暴言に大翔が救われているのは事実だった。心を遠ざけるような優しい言葉よりも千早の言動は大翔の近くにある。それが温かかった。

「どうしたの?」

「なんでもないよ」

 じゃあな、とカバンを持って大翔は教室を出る。今なら冷静に今夜来ることがほとんど決まっている悪夢の対策を考えられそうだ。

 全部で三棟ある校舎の中でも校門から一番遠い旧校舎棟のさらに最上階の一番端。次は窓から落とされそうな場所にある情報部室の扉を開ける。

 部室には既に尊臣が我が物顔で席を占領している。そこから一番遠いパソコンの前に縮こまるように光が座っていた。

「好きなところに座ってくれて構わないよ」

「それじゃ、失礼します」

 今日も机の上に足を投げ出した尊臣から一番遠い対角線上に座る。自然、大翔の席は光の背中側ということになる。今外から誰かが入ってきたら、気弱な部員二人が不良に脅されている、と見えるに違いない。

「しかし、ほんまにええんか? 部室勝手に使うて」

 一番不遜ふそんな態度の尊臣が言っても何の説得力もない。だったらその足を降ろせ、と言えないまま大翔は尊臣を睨みつけてみる。

「構わないよ。どうせ僕しかいない部活だからね」

 少しも効果はなく、尊臣は光の厚意に全力で甘えたままだ。

「そういえば光さんって先輩なんですよね。やっぱり先輩って呼んだ方が」

「今さら変えたところで気味が悪いだけさ。あんな風にならないならそれで十分だよ」

 光は尊臣に冷たい視線をやりながら溜息をついた。ここならげんこつが降ってくることもない。

「それじゃ、昨日のまとめといこうか」

「あぁ、そんじゃ言うからしっかり覚えよ」

 二人はきっと衛士という名前の人間が死亡したニュースを見てきただろう。だが、大翔には何も言わなかった。慰めも同情もない。大翔はそれだけでここにいてもいいと感じられる。

 尊臣が昨日のモールの構造を話し始める。大翔もぼんやりとは覚えていたが、尊臣は別格だった。通気口の大きさ、階段までの距離、段数。無意味な階段部屋の最短ルートまでもすらすらと口からこぼれていく。それらしく嘘をついている、と言われたほうが信じられるくらいだ。

「へぇ、さすがだね」

「俺が覚える必要はなさそうだな」

 大翔しか見ていないホテルの内装は立体データでもほとんどただの長方形になりそうだ。あの状況で部屋の数がどうだとか、何番目の部屋が開いていたのかなんてわかるはずもない。どこで衛士が襲われたかもできれば思い出したくはなかった。

「自分はもう少し頭動かした方がいいぞ。使ってないとすぐボケるからな」

 さっき千早に言われたことを思い出す。そんなに自分はとぼけているように見えるのだろうか、と大翔は内心不安になった。

「君と比べたら誰だって頭の回転は遅く見えるさ」

 光が大翔に助け舟を出す。くるりと回転する椅子を回して大翔たちの方に向きなおり、ズレていない眼鏡の位置をクセで持ち上げる。

「なんじゃ知っとったんか、千源寺」

「いきなり上級生の教室に押し入ってくる人間の素性すじょうは調べておかないとね」

 うちのクラス以外でもあんなことやっていたのか、と大翔は青ざめた。あんなことをすればすぐに噂がたって針のむしろのような高校生活一直線だろうに。自分がやっている光景を想像すると見るに耐えない。それができるのは尊臣の性格と体格が豪快すぎるところで一致してしまっているおかげだ。

「尊臣って何回やらかしてるんですか?」

「自分、なんで悪いもんじゃって決めつけとるんじゃ!」

 その見た目と言動からだよ、とは言えず、大翔は乾いた笑いを返す。尊臣にも思うところがあるらしく、そのまま座りなおして机から足を降ろした。

 大翔が怒鳴られる姿を見て光は驚いたように声を上げた。だが、それは尊臣が声を荒げたことの方ではない。

「むしろ君は知らなかったのかい? 橋下尊臣、君たちの学年の主席だよ。まだ入学試験の結果だけだけどね」

「へ?」

 今度は大翔が驚く番だった。

「なんじゃ、知らんかったんかい」

「今年の入学者のトップがまだわからないって話は聞いたことあるけど」

 正直大翔にとってはそんなことに興味はなかった。勉強でトップを獲る気もなければお近づきになりたいと思うわけでもない。わからないならそれで世間話の種には十分な働きをしていくれる。

「誰もこんな一昔前の不良少年がそうだとは思わないだろうね」

「誰が、絶滅危惧種のレッドデータじゃ」

「言ってない、言ってない」

 結構気にしてるんだな、と大翔は思う。尊臣は固まったオールバックを撫でた。

 光は尊臣が気にしているのを知ってか知らずか、データを入力するために画面に向かって目を逸らすことすらしない。

「それで、もうまとまったんか?」

 沈黙が続く部室に言葉を投げたのは尊臣が先だった。大翔は内心小躍りをする勢いで畳み掛ける。

「途中でもいいんで見せてくださいよ」

 静かな湖面に石を投げ入れたように言葉が連なって出て行くが、光の反応はほとんどない。小さな波は津波になることなくまた穏やさを取り戻していく。

 よくよく考えれば当たり前のことだ。ここに揃っている三人はいつも非生産的でバカな話を繰り広げて笑いあっているクラスメイトでもなければ、互いをよく知る仲でもない。ただあのカベサーダから逃げ切るために、急造ながら組んだチームでしかない。何か会話をしようと思えば、自然それは夢の中、忌々いまいましい記憶の振り返りということになる。

 無難な話題など存在しないのだ。だから誰もが、軽々には口を出せない。だから光は画面から目を離すことは出来ないし、いつもなら何かと声を上げる尊臣もあまり話そうとしない。沈黙の理由がわかった大翔は声を出すこともできずに狭い部室を見渡した。

 窓は一組。ロッカーは空っぽ。部員も光だけなので、持って帰るのが面倒になった教科書やら古いマンガ雑誌なんてものもない。下手な会議室よりも設備が悪いくらいだ。あちらにはたいていホワイトボードくらいは置かれている。

 光はこんな狭い部屋で毎日部活をやっていて気がおかしくならないのだろうか。それなりに趣味はインドアな大翔でも数日中にはどこかを走り回りたい衝動に駆られそうだ。

「よし、こんなものだな」

 ようやく沈黙を破って光が顔を上げた。待ってました、とばかりに二人がパソコンの前に駆け寄る。この短い距離を詰めるのにどれほど時間と精神を費やしたのかわからない。

 光は特に驚きもせず、できたばかりの立体地図をパソコン上に映し出して見せた。

「結構広いんだな」

 参考として地図上に置かれた棒人間を見ると、かなり巨大な商業施設であることがわかる。シャッターが閉まっている先は行くことができていないが、これがいつ通れるようになるのかはわからない。

「まだ部屋の構造がわかっていないからなんとも言えないね。室内の様子からして建物自体が歪んでいても僕は驚かないよ」

「あのフードコートの先は?」

「君がホテルに行った後に調べたけど、特に次の部屋に行けそうな扉はなかったよ」

 そうか、とだけ答えて大翔は口を閉ざした。結果を見れば光の判断が正解だった。大翔は衛士を助けるどころか逆に助けられただけで、何の役にもたっていない。

「そっちはなんかわかったんか?」

「何も、ないよ」

 その時はそんなことを考える余裕もなかったのだ。大翔はただひたすらに脳裏に焼きついた光景が鮮やかさを増していくのを拒んでいただけだった。

「あんなのがいるわかっている場所に行ったんだ。調査も何もないだろう」

「わかっとるわ、そんなこと。ちょっとしたジョークやろが」

 笑えないよ、と光が首を振った。二人とも大翔の扱いをどうするべきか持て余しているようだった。

 大翔が得たものはなかったが、失ったものはあったのかもしれない。

「今朝のニュース」

「あぁ、見たよ。助けられることもあるかもしれないけど、それができないこともある。それだけさ」

「奴らを倒す方法でも見つかりゃ話は別なんじゃがの」

「おいおい、君たちまさか奴らを倒すつもりかい?」

 呆れたように光が切り出す。いつもどこか他人事のような別視点から物事を話すような言い方ではあるが、今回ばかりは本当に呆れているようだった。

「当たり前じゃろ。逃げ回っててどうするつもりじゃ?」

「逃げ回ってても状況は変わらないような気がする。何かこちらから仕掛けないと」

 倒せるなら倒したい。できるなら痛みも加えた上で。目の前で起きた理不尽な攻撃には必ず制裁が必要だ。大翔は冷静ではなかった。あの仕打ちを必ず奴らにそのまま返してやる。煮えたぎる何かを感じたのか、尊臣が大翔の背を軽く叩くが、大翔は何も答えなかった。

「まったく無茶を言うよ、君たちは」

 一人だけ柔らかい椅子に座っている光がその機能的な椅子をくるりと回転させて二人の方に向き直った。光の顔は大翔の想像とは違って笑っていた。

「本当に君たちは面白いよ。これが近くで見られるなら死んでも本望だ」

「勝手に死んでくれんなよ」

「そうだね。なにか奴らを倒す方法を見つけなくちゃいけないな」

「そうすれば、誰かを助けられるかもしれない」

 大翔が漏らした決意を聞いて、やっぱりか、と二人は顔を見合わせて顔をしかめた。

 時刻は深夜一時に近くなっていた。

 眠らなければあの世界に行かなくて済むという思いと、二人に迷惑をかけるという後ろめたさが長々と延長戦をしているうちにもう考える時間はなくなってしまった。

 眠らないという選択肢は大翔にはない。今日眠らないことで命が一日延びることよりも明日いつもより長く夢の世界に閉じ込められる方が何倍も怖かった。

 三人が、さらにいえば夢の世界に落とされた人間が同時に目覚めるわけではない、ということは、最後まで眠っていればそれだけ少人数であのカベサーダから逃げなくてはならないということだからだ。

「奴らを倒す方法、か」

 正直に言って大翔には少しも検討がつかなかった。

 黒光りする体は殴ったところで少しも傷つかない。脚力はトップアスリートのそれ。爪は硬く簡単に人間の皮膚を裂く。牙は喉元をっ切り、押さえつける力は男一人では手に負えない。

 刃物や銃があれば少しは対抗できるのかもしれないが、夢の世界なのにそんな都合のいいものはまだ見つかっていない。持っていくこともできない。それに万が一手に入れたとしてあのカベサーダに通用するかはわからない。

 大翔はノートの空白部分にあの怪物の姿を描いてみる。ほとんどが恐怖に色づけられた異形の怪物は絵が上手ではない大翔の画力と相まって、いびつに歪んで見えた。

「何か足りない気がする」

 自分の絵が下手なのを除いても何かもっと特徴的なものがあったような気がする。だが、恐怖に捻じ曲がった記憶ではそれが何なのかは思い出せなかった。

「今日見たらちゃんと見ておかないとな。できれば見たくはないけどさ」

 何か弱点になりそうなところでも見つかってくれればいいのだが、と希望を強く念じながら、大翔は渋々温かいベッドに潜り込んだ。


 ガタン、という物音とともに尻に軽い衝撃が走る。ベッドからずり落ちたような体勢で目を開けた大翔は夢の中だというのに眠い目を擦り、あくびをした。

「ここは、またホテルかな?」

 昨日見たロビーやフロントの影はない。今度は廊下もない。部屋だった。昨日見た無限に続く廊下の中の一室だろうか。それにしてはやけに広い、と大翔は思いなおす。

 大翔がもたれかかっていたベッドから立ち上がると、あるはずの壁がなく四方に向かって部屋が続いている。その奥にもまた寝室。ベッドルームだけしかないスイートルームのように延々と続く部屋は奇妙だった。

「適当に歩いてみるか?」

 カベサーダと鉢合わせするのは怖かったが、どこが行き止まりかもわからない場所で出会うのはもっと怖かった。とりあえず真っ直ぐだ、と心に決めて大翔は少しも代わり映えのしないベッドだけが続く部屋を敷居をまたぐようにして進んでいく。

「あれ、なんだこれ?」

 何部屋進んだかわからないところで行く先がぼんやりと視界が歪んで見えた。まるで蜃気楼のようにぼんやりとした風景が浮かんでいる。目が覚める直前に見る景色に似ていた。夢の世界の終わり。ここから先は現実か、それとも違う世界なのか。

 大翔はその先に進もうとして、慌てて足を戻した。

「こっちにはいけないんだ」

 ぼんやりとした蜃気楼しんきろうは大翔の体では踏みしめることができない。大翔は体を右に曲げるとまた次の部屋に渡っていく。いくらでも部屋はある。いつかどこかに出るはずだろう、と大翔は次に向かって歩き出した。

 ホテルの部屋は床の繋がりこそガタついているが、それほど数は多くなかった。十部屋四方程度の範囲しかないようだ。百部屋といえば相当な量に聞こえるがビジネスホテルのベッドルームが部分が繋がっているだけならそれほど広くはない。

 何部屋かを進み、蜃気楼にぶつかって気分で曲がるを繰り返していると、ベッドの脇に地下室へと続くように隠れた階段を見つけた。大翔は迷うことなくその先へと降りていく。末広がりに幅が広くなる階段を下りるとそこは昨日衛士と会ったホテル二階のロビーだった。

 昨日見たときにはこんな階段はなかったはずだ。また新しいところが増えたことになる。ここもまた、昨夜大翔が必死になって逃げたホテルとは違う場所だというのだろうか。

「神代か。ちょうど君を探していたところだったんだ」

 大翔が階段を下りきったところで、上がろうとしていた光が声をかけてきた。尊臣の姿は隣にない。

「上はベッドばっかりで何もなかったよ」

「三階の話は今日聞かなかったね。ということは」

「また増えている」

 ふたりはそこで黙り込んでしまった。なんとかここを抜け出したいと思っているもののその糸口どころかここがどこなのか、本当に夢の中なのかすらもまだ確証がとれていない。

 二人は諦めたように並んで歩き出し尊臣を探して一階に向かうが、その姿は見当たらなかった。大翔が昨夜目覚めた辺り、衛士がカベサーダに殺されたと思われる場所に血の跡は残っていなかった。

 昨日はソファが積まれて塞がれていたフロント脇のモールへの入り口が今日はソファがきれいに取り除かれている。

「これが向こうに繋がってるってところか」

「おかしいな」

「おかしい?」

 昨夜通ったはずの通路の前に立って大翔は口元に手を当てた。記憶が曖昧なのは間違いではないから自信はない。たださすがにこれほどの違いを間違えるほどとぼけてはいないはずだ。

「昨日はもっと狭かったですよね。それこそ橋下じゃまともに通れないくらいの」

「今は、立っても余裕そうだね」

 光が通路の入り口を見上げて言う。小柄な光はもちろん、大翔が手を伸ばしても通路の天井には手が届かないほどの高さになっている。昨夜はしゃがんで通ったのが嘘のようだ。

「それに通路の長さも短くなってる」

「あぁ、すぐそこがショッピングモールになってるみたいだな」

 通路の先は薄暗い部屋に三階の手すりが見える。あの下に広がる白いステージも容易に想像できる。できることなら見慣れたくなかった世界だ。

「こっち側にいなかったとすると、向こうかな?」

「行ってみようか」

 通路というよりも少し厚みのある敷居といったところだろうか。数歩で世界が切り替わる。現実の世界なら絶対にありえない構造。それもここでは当然のように起こる。

「ここも昨日とは違う場所だと思いますか?」

「どうかな。ただ明らかに変わっているところがあるのも事実だ」

 二人がホテルで一番に気付いたことは同じだった。

「やけに物が少なくなりましたよね」

「君もそう思うかい? きれいさっぱり床が全部見えるよ」

 フロント前に積まれていたはずのソファがないのはもちろんのこと。大翔が歩き回ったベッドの部屋が続く三階も不自然なほどに物が少なかった。ビジネスホテルならベッドの脇に机やクローゼットがあるはずなのにそれがなかった。昨夜に大翔が何度もカベサーダを殴りつけたライトスタンドも全て片付けられてしまっていた。

「なんか頭がおかしくなってきそうですよ」

「今さらかい? もう僕らはとっくに頭がおかしくなっているのかもしれないよ」

 不敵に笑った光に、大翔は悪寒がした。

 モールの三階、通気口より少し大きかっただった通路が変わってしまった横で二人は少しの間、尊臣を待ちぼうけていた。

 ホテルの方にはいなかった。尊臣も同じようにモール内を探しているのなら間違いなくホテルに移動するためにここを通るだろうという思惑だった。

 それが一向に現れない。時間の感覚は曖昧だったが、それでも一度回ったことのあるモール内を見かけに寄らず記憶力のいい尊臣が迷っているとも思えなかった。

「おかしいな、あいつ何やってんだ?」

「奴が出れば騒ぎがあるだろうし、迷うような男でもないだろう」

「今日は寝てないとか」

「あの一番義理堅そうな男がかい? それはないだろう」

 今夜いつ眠るかと悩んでいた大翔に光の発言は重かった。確かに尊臣ならそんなことで悩んだりはしないだろう。

「それじゃ、ちょっと探しに行ってみようか」

「あ、はい」

 大翔の顔色が変わったことを気にした光が切り出した。どのくらい顔に出ていただろうか、と大翔は自分の顔にそっと手を当てる。額に浮かんだ汗を拭って大翔は先を行く光の背を追って歩き出す。

 吹き抜けから覗き込んだ一階には数人が集まって何かを話し合っているようだが、尊臣の姿はなかった。二階は、変わっていなければ入る方法はない。ならば、とフードコートを目指してあの迷惑な階段の部屋へ続く扉を開ける。

「あれ?」

「ここもなくなってるね」

 考えただけで息が荒くなってきそうな部屋の中を想像していた二人は気が抜けたような声で目の前の状況を確認しあう。尊臣から最短ルートを教えてもらっているとはいえできれば通りたくないと思っていた部屋が丸ごと消えていた。

 目の前に広がるのは無駄なテーブルや椅子が一切なくなってただ広い空間が続いている。ところどころに構えたままのカウンターがなければ昨夜最後に訪れたフードコートだとは思えないほどだ。

「改装でもするつもりかな?」

「だったらもうちょっとわかりやすくして欲しいもんですね」

 冗談にもあまりキレがない。明らかにここも変わっている。昨夜の場所から違う場所になったのか、それともわずか一日で変化したのかは知らないが、日々どこかが変わり続けている。

 ここは夢の世界だ。現実ではありえないことも起こる。目の前に泰然としてある変化すら受け容れられる。

 だが、それは結局大翔たちがどれほど思考を巡らせても追いつけないのではないかという恐怖を伴っていた。

「それで橋下は」

 物がなければこんなに広かったのか、と大翔はフードコートを見回す。部屋が丸々一つなくなるくらい変化するのだ。部屋自体が広くなっていてもおかしくはない。

 部屋の隅に固まってなにやら話をしている集団があるが、あの中に尊臣はいないらしい。こういうときはあのバカみたいにデカい体格は一目で見分けがついてありがたい。

「まったくどこをフラフラと歩き回っているつもりなんだ」

「ちょっと聞いてみますか。目立たない方が無理な奴だし」

 他に行けるような場所もなかったはずだ。大翔は何かを話し合っている集団に近付いていく。あと数メートル、というところで話が止まり、一斉に大翔の方に向き直った。

 恐怖と狂気をはらんだ瞳に大翔の足が震えた。怯えていると同時に怒りに燃えているのが一瞬にして感じ取れた。精神が肉体の束縛を抜け出そうとしているように見えた。もしかすると、大翔も同じような目をしているのだろうか。

「あぁ、人間だったか」

「すみません、驚かせて。あの、身長が二メートルくらいあるガタイのいい学生服の男って見ませんでした?」

「いや、そんな奴は見てないな」

 集まっていた人たちが顔を見合わせるが、手がかりになりそうな答えは返ってこない。嘘をつく理由もない。本当に知らないのだろう。

「ふむ、手がかりなしか。それでそちらは何かあったんですか?」

 大翔の後からゆっくり歩いてきて隣に並んだ光が、話を変える。

「あぁ、ちょっとこれを見てくれるか?」

 一人が指差した方を覗き込む。人の波が割れて出てきたのはやはり大翔がしゃがんでどうにか入ることができそうな通路だった。昨夜に通ったものよりも一回り小さい。大翔でも這っていかなくては通ることはできなさそうだ。

「これは?」

「昨日ここは色々と見てまわったはずなんだけど、こんなのはなかったんだよ」

「確かに僕も見ていないね」

 あのごちゃごちゃと物が置かれていた昨夜のフードコートなら見逃していてもおかしくはない。だが、ここまで見てきた大翔にはただの見逃しには思えなかった。

「世界が、広がっている」

「ほう、なかなか叙情的じょじょうてきだ」

 キザっぽく言った光に大翔は思わず光の腕を軽く叩く。

「ちゃかさないでくださいよ。ここ、昨日はただの壁だったんでですよね。向こうに何かあるかもしれない」

「奴がいるかもしれない」

 狭い通路の前にしゃがみこんだ大翔に光がぼそりと言った。今度は本気だ。冗談ではない。

「誰か向こう側を確認した人はいるのかい?」

「行けるわけないだろ。今言ったみたいに奴がいるかもしれないんだから」

 光に問われた男が声を荒げた。好奇心は猫を殺す。ここでは高速道路の真ん中を歩く猫よりも人間なんてすぐに殺されてしまう存在かもしれない。

 誰もが恐怖する存在の名前を直接口に出そうとはしなかった。その名を呼べばどこかから現れてくるような気がしてならなかった。口を合わせたわけでもないのに誰もがカベサーダを奴、と呼んでいる。

 その明確な恐怖がこの先に待っているかもしれない。

「だそうだが?」

「よし、行きましょう」

 言うが早いか、大翔は遠くに見える細い光に向かって手を伸ばすように通路の中を確認する。

 昨夜通ったものより狭いが、壁の材質は似たようなものだ。無機質の少し手に張り付くような触感。這い入っても体に傷がつくこともなさそうだ。

「予想はしていたけど、即決即行動か」

「橋下が向こうにいるかもしれないんだから、行くしかないですよ」

「彼じゃこの通路は通れないだろうからね」

 大翔がギリギリ通れる程度の広さでは尊臣は肩で詰まってしまうに違いない。

「昨日通った奴よりも狭いな」

「それを君はどう考える?」

 後ろを進んでくる光の声が間隔の狭い壁に反射してうねって聞こえる。急にたくさんの光が話しかけてきたように感じられて大翔は顔を歪めた。ただでさえ狂っているこの空間で何が物理的に可能な事象で何が夢の中だけの事象なのか判断はつきにくい。

「元々切り離されていた夢がだんだんと繋がり始めている。この通路が誰かの夢への繋ぎ目じゃないかって」

「つまりこの先にあるのは誰かの夢の世界だと?」

 はい、とだけ大翔は答えた。確証できるものは一つもない。今までいたホテルが誰の夢でモールが誰の夢かも知らない。あくまで大翔の頭に浮かんだだけの突拍子もない思いつきだ。

 光は大翔の考えを否定も肯定もせず、ただ一言面白い、とだけ答えた。

「それじゃこの先にあるのは橋下の夢で、僕らの学校だったりしてね」

「それなら地図を把握する必要もないですね」

 冗談を飛ばしあう二人の心中は到底穏やかとは言えない。尊臣を見つけ、互いに守りあおうという約束を守るつもりはあっても、危険に飛び込むことを望んでいるわけではなかった。じりじりと大きくなっていく光の方へと進み、ようやく狭い通路から身を外へと放り出した。

「本当に学校だとはね」

 出口は女子トイレの入り口だった。掃除道具が入っていると思われるロッカーが斜めにかかり、隙間が自在ぼうきやモップ、雑巾で埋められている。大翔が昨夜見たホテルの情景によく似ている。

 きれいさっぱり片付いていたホテルとショッピングモールの物を全てこちらに投げ込んだかのように校舎内の廊下には机や教科書、部活や体育で使うボールやバットやラケットやらがあちこちに散乱していた。

「ここは?」

「うちの学校ではないみたいだね」

 学校などどこも同じような鉄筋コンクリートの無骨で飾り気のない建物ばかりでありながら毎日通っているおかげか見間違えることはない。ここは大翔たちの通っている高校ではない。それだというのに、大翔には強く見覚えのある廊下だった。

 教室の窓ガラスがところどころ割れているのはカベサーダのせいだろうか。くもりガラスの割れた部分から中の様子を覗き込んでみるが、やはり荒れ放題で人の気配はない。廊下から外に繋がる窓は割れてはいないが、外はホテルの三階で見たのと同じ蜃気楼のように揺らめいていて判然としない。

 校舎の中だけの夢。いったいどこまでが夢の中に含まれているのか。

「そうだ、グラウンドは?」

「おい、走るなよ!」

 音を立てればカベサーダに気付かれる。大翔が廊下を蹴って走り出したのを見て、光は思わず強く諌めた。だが、その言葉は大翔には届いていない。様々な物が散らばった廊下の上を大翔は構わずに全力で走っていく。真っ直ぐな廊下でも見逃してしまいそうなほどに大翔の背はぐんぐんと小さくなっていく。

「速いな、神代。中学は陸上部だったらしいが」

 光は大翔を見失わないように辺りを見回してから、大翔が消えていった方へと走り出した。

「ここが二年の教室のはずだから渡り廊下を渡れば見えるはずだ」

 あまり広くない中学校の校舎の中でも大翔が一番見慣れているのは毎日嫌になるほど走り続けたグラウンドだ。他の場所ならもしかすると似ているだけの場所かもしれないが、グラウンドを見れば自分の中学校かどうかわかるという確信があった。

 渡り廊下はどこにもない。その代わりに目の前に広がるのは新しい廊下だった。

「なんだ、これ」

 今まで散々と変な構造の建物を見てきたが、それでも知らない場所ならそういう建物があるのだと強引に納得させてきた。しかし、自分の知っているはずの建物とこうも構造が違ってくるとまるで乗り物に酔っているような気持ち悪さを感じてしまう。

 何度曲がっても変わらない廊下を走り、ようやく見つけた少しだけ開いている教室の扉を掴む。やや歪んでいた扉を強引に引き開けて、大翔は中に転がり込んだ。

 息を整えながら窓に向かって歩いていく。もはやここが何階で誰もために用意された教室かはわからない。ただ必要な情報は得られそうだった。

 教室と外を隔てる窓の先は揺らめくことなく鮮明にその姿を大翔の目に映す。

「やっぱりここ、うちの学校だ」

 グラウンドを見下ろしながら、大翔は近くにあった机の上に腰かける。友人の机にこうして座って、行儀が悪い、とよく千早に怒られたものだが、今はそれを口うるさく言う人間もいない。

「はぁ、追いついた。急に走るな。奴がいつ飛び出してくるかわからないんだぞ」

「光さん。ここ、俺の中学だ」

「何?」

 息も絶え絶えの光は歪んだ教室の扉をなんとか閉めて、そのままその扉にもたれかかる。

「じゃあ、ここは俺の夢? それとも俺の中学の奴が他にも巻き込まれている?」

「わからない」

 光の答えは短くもはっきりとしている。不機嫌なわけではない。ただ上がった息を簡単に抑える方法を知らないだけだ。

 大翔は光が話せるようになるのを待ちながら窓の外のグラウンドをぼんやりと見つめていた。

 白土に混じった石英が太陽の光を受けてキラキラと輝いている。そういえば今までは照明の少ないモールに窓一つないホテルと太陽とは無縁の世界だったが、ここは外で燦然と照らす太陽の光でどこも明るい。カベサーダのことを一瞬でも忘れて大翔が駆け出したのはこの明るさのせいもあっただろうか。

 まるで現実のような窓の外と見比べると、教室の中は大地震でもあったかのように悲惨だった。まともに立っている机の方が少ない。黒板にはヒビが入り、何色ものチョークで描かれた何なのかもわからない落書きで埋め尽くされている。床には何本も亀裂が走り、コンクリートには半分に折れた陸上のハードルが刺さっている。

 この夢の主が大翔だとしたら、きっと中学校が嫌いで仕方がなかったのだろう、とでも分析されるのだろうか。だとしたらあのきれいなグラウンドを見れば、自分はあれほど嫌になってやめてしまったと思っていた陸上はやはり嫌いではなかったということなんだろう、と大翔は思う。

 きれいに整地されたグラウンドはすぐにでも出て行って走ってみたいと思えるほどに魅力的に見えた。

「何か思い出したかい?」

 ようやく落ち着いたらしい光が大翔の背後から切り出した。

「いや、なんでもないです。とにかく構造がめちゃくちゃになっている以外は今のところ俺の中学みたいですね」

「それじゃ、彼を探してみようか。僕ら二人じゃ不安が残る」

 何か手がかりはないか、と荒れた教室の中を探ってみるが、特に変わったところはない、というよりも変わり果てていて何が普通と違うのか少しもわからなかった。尊臣といえども怪獣ではない。物をわざわざ踏み荒らしたり、我が道の行く先にあるものを蹴り飛ばしたりするわけでもない。

 何か印になるものを残すにしても取り決めがあったわけでもないので、簡単には見つかりそうもなかった。

「これをやったのがカベサーダの可能性もあるってことですよね」

「あるいは彼がやったか」

 本人がいないのをいいことに光はにやりと笑って付け加えた。尊臣が聞いていればまたあの固いげんこつが光の、それからついでといわんばかりに大翔の頭にも降ってくることだろう。

「できそうなのが、怖いとこですけど」

 大翔は初めて会った時に尊臣が消火器でカベサーダの頭を殴り飛ばしたことを思い出す。あんな一撃をもらえば大翔なら一瞬で天国の階段を駆け上がれる自信がある。

聡明そうめいな人間なら無意味なことはしないだろうね」

 よく忘れるがあれでも賢いんだった、と大翔が光に合わせてこの場にいない尊臣の嫌味を言おうとしたとき、それを諌めるように廊下に足音が鳴った。

「まさか」

「彼だと思うのは少し楽観的過ぎるだろうね」

 廊下と爪がぶつかり合う音がする。その正体は覗き込まずとも明らかだった。

 奴、カベサーダの足の爪が廊下を傷つけている。こちらに気付いて近付いているのか、それともただ徘徊しているだけなのか。

「どうしよう?」

「ここから出るか、あるいは音を立てずにやり過ごすか」

「でも、見つかったら奴はこの扉くらい簡単に破ってきますよ」

 防犯の役割を果たすアルミシャッターすら真ん中から破ってしまうカベサーダにはこの教室の窓ガラスや扉などスポンジケーキのようなものだ。

「武器でもあれば時間が稼げるんですけど」

 昨夜大翔が見舞ったライトスタンドの一撃もそれなりに効果があった。

 辺りに散らばったものはたくさんあるが、カベサーダの固すぎる表皮を少しでも痛めつけられるものはほとんどない。机や椅子では不意打ちするには大きすぎるし、箒や折れたハードルでは心許ない。

「ないものをねだってもしょうがない。音を立てないように行こう」

 非力な二人で近くにカベサーダの存在。それは焦りを生み、焦りは思考の停止を生む。

 まだカベサーダはこちらに気付いているかもわからないのだ。不用意な動きはいい結果を生み出さない。

 教室の扉は歪んでいてなかなか開かない。そんなついさっき見た事実すらも二人の頭から抜け落ちていた。

 ゆっくりと開こうとも歪んだ扉は必ずレールとぶつかる。コマの外れた扉は悲鳴のような高い音を立ててカベサーダに訴えかけた。

 ここに獲物がある、と。

 ヤバい、という中途半端ながらすべてを表す言葉が頭の中を駆け巡る。必ずこちらに来る。だから今すぐに逃げ出さなくてはいけない。

 一度鳴ってしまえば躊躇はない。光は力任せに扉を開け放つと、廊下を確認した。

「いた! まずいな」

 カベサーダは廊下の反対側の端。小さく見えるが、光差す廊下に真っ黒な体は目立ちすぎて見間違えようもない。体はもう大翔たちの方を向いている。完全にこちらに駆けてくる準備が始まっている。

「早く!」

 大翔は叫んで廊下の反対側に向かって走り出す。五〇メートルほどある距離でもカベサーダならほんの数秒で走破できるのだ。固まっている暇は一秒たりともない。

 走り出した大翔たちがすぐに角を曲がるとその先は下りの階段になっていた。あれほど続いていた廊下はない。

 本来なら昇り階段があるはずのところはコンクリートの壁で覆われ、下りの方も机を組んで針金をぐるぐると巻いた即席のバリケードが行く先をはばんでいた。もしかすると先に誰かが逃げ込んでこのバリケードを作り上げたのかもしれない。

 ただ今は誰が作ったのかなど考えている暇はない。後ろからはカベサーダの爪の音が確実に近づいてきていた。

「くっそ!」

「ここまでか!」

 背中に威圧感を感じて大翔は振り返る。後ろにいた光も同じように赤い眼光を見つめていた。カベサーダは止まっていた。いや、実際には止まってなどいない。命の危機を察した大翔たちの頭が時が止まって見えるほどに回転速度を上げているのだ。

 だが、頭が追いついていたとしてもそれに体はついてこない。恐怖に屈している。これほどまでに明快に状況を分析していながら、指一本の動かし方すら浮かんでこない。

 赤い眼が獲物に捉えたのは近くにいた光のほうだった。

 鋭い爪を光らせる両腕を光の肩に伸ばすと、爪をたてながら力任せに押し倒す。体格もよくない、恐怖で固まった光の体はドミノのようにそのまま床に倒れこんだ。

 それでも光は少しも動かなかった。もはや思考もショートして何をすべきか考えているかもわからない。脳の隅々まで探しても抵抗する手段が思いつかなかったのか、これから食いつこうとする相手の顔を見たまま呆然としていた。

 ただ大翔の脳は違った。

 これと同じ状況を大翔は知っている。一度は倒れた側として、もう一度は果たせなかった守る側として。

 そして三度目が今、この瞬間だった。

「うおおぉりゃあ!」

 バリケードからあぶれていた机を掴み、力任せに振り切った。光に意識を向けていたカベサーダは大翔の存在などまったく気にしていない。この瞬間なら大振りの大翔の攻撃でも当然のように頭に当たる。

 中空の脚がへし折れて、もはや机としては使い物にならなくなる。それでも大翔は一向に構わない。天板の割れた机でもう一度カベサーダの頭を振り抜いた。

 カベサーダは無言のままだったが、効いているらしく押し付けは弱まった。転がり出るように光がカベサーダの下から脱出すると、二人はカベサーダが走ってきた廊下に向かって走り出した。

「くっそ、いつになったら夢から覚めるんだよ、俺は」

 廊下の半分ほどを行ったところで後ろからやや速度は落ちているもののカベサーダが顔を覗かせる。尊臣が消火器で殴りつけたときよりはやはりダメージが小さい。昨夜の一撃よりも重たかったつもりだったのだが、カベサーダの動きがいいことが気になった。

「いっそ戦ってみるかい?」

「でもどうやって?」

「奴が生き物なら必ず急所、弱点があるはずだ」

「こんな夢の中でも?」

「それはわからないね。この夢の主がわざわざ敵対する化物を完全無敵にするような卑屈な人間じゃないことを祈るだけだよ」

 光は手近にあった野球部のものと思われる金属バットを手に取った。

「どこかにあるはずさ。しっかり探してくれよ」

「探すったって、この状況で手がかりもなしに?」

「だからこうして時間を稼ぐんだろう? 安全第一でいこう」

「この選択が既に安全じゃないですって」

 昨夜と今夜。同じ大翔が放った無我夢中の一撃にどれほどの違いがあったのか。もしかするとそこにカベサーダの弱点が隠れているのかもしれない。

 大翔は転がった椅子を掴み、廊下を挟むように光と反対に陣取って椅子を振りかぶった。

 カベサーダは足取りこそ重いもののまっすぐに大翔たちの方へと歩いてくる。やけに静かでそれがあまりにも不気味だった。

「まずは耳辺りを狙ってみるぞ」

「どこですか、それ?」

「とりあえず人間と同じ側頭部。聴覚で生活しているなら大きな音や衝撃に弱いはずさ」

 少しずつ近付いてくるカベサーダに椅子を握る手に汗が滲む。こちらを認識しているのか、それとももう標的だった大翔たちを見失って、ただまっすぐ歩いているだけなのか。赤い瞳の見据える先は大きく突き出した額に隠れて遠くからでは判別できなかった。

 少しずつ近付いてきたカベサーダの姿に合わせて、光が首で大翔に合図を送る。

 何度目かの相槌の後、光がカベサーダの方へと首を振るのを見て、大翔は飛び出した。

 大翔と光、二人の一閃でカベサーダの頭部を挟撃。ぐらりと揺れた体は格闘技のクリーンヒットが入った瞬間を想起させた。

「よし、効いた!」

 そのまま手を休めることなく数度攻撃を加えるが、殴られているはずなのにカベサーダは次第に体勢を取り戻していく。

「ダメか!」

 効果が見えたのは最初の一撃だけ。それ以降はまるで効いていなかった。慣れたり対応ができたりするのか、それともわかっていれば堪えられるだけの硬さがあるのかを判断する余裕はない。

「しまった!」

 またもカベサーダが光の腕を掴む。光の制服から何かが滲んでいることに大翔はようやく気がついた。自分もそうだったが、カベサーダに押し倒されれば人間の肌など簡単に傷がついてしまう。手負いから仕留めるのは動物の基本中の基本だ。

「離せ、この野郎!」

 押し倒された光にのしかかるカベサーダの背後から大翔は椅子を何度も振り下ろす。しかし、まるで意に介していないかのように赤い眼は光を見つめたままだった。

 このままじゃいけない。焦りが混乱を生み、混乱が体を固定する。

「どけ!」

 勇ましい声に大翔ははっと我に返った。自信に満ちたその声色は尊臣が放つそれによく似ている。だが、はっきりと違ったのはその音の高さだった。

「せいっ!」

 気合一閃。

 光の首筋を狙うカベサーダの触角を両手で掴み、顔を引き上げ、容赦なく膝を叩き込んだ。

 男二人が武器を持って抵抗できない怪物に素手の少女が飛びかかる。可憐、と呼ぶには少し勇猛すぎた。大翔たちと同じ制服姿でスカートをひるがえしながらやや背を曲げたカベサーダの顔に膝蹴りを撃ちこむ光景はまさしく大翔が挑戦し、果たせなかったヒーローの姿だった。

 この夢の世界で何度か経験したカベサーダとの戦い。その中で自分たちとは違う、攻めの戦いを大翔ははじめて見た。

「助かった?」

 あれほど殴りつけても倒れなかったカベサーダが逃げるように光を置いてフラフラと廊下を歩いていく。追いかけてトドメを刺そうと大翔が椅子を掲げると、カベサーダはその場に倒れこんだ。

「まったく、男二人がかりで情けない」

「あ、ありがとう」

 助けに来たヒーローは幼い少女。中学生くらいだろうか、短髪に切り揃えられた髪に、鋭く大翔を射抜く目。ずいぶんと下から見上げられているのに、尊臣と同じくらいの威圧感を感じるのはなぜなのだろうか。

「えっと、君は?」

 眼鏡の位置を直しながら光が立ち上がる。

「名乗るような者ではない。あまり自分の身を粗末にするなよ」

「え? 何言っているんだ?」

 光の問いかけは至極しごく真っ当だ。大翔自身は言ってみたいセリフだと思わなくもないが、実際に言われてたとすれば、おそらく光と同じ疑問を返すだろう。ヒーローはあくまでも夢物語。現実と強く意識が結びついたこの世界では芝居じみたセリフは少しばかり気恥ずかしい。

「な、え、そんな反応をするな。定番というもの知らんのか、貴様!」

 恥ずかしそうに顔を逸らした少女は耳まで赤く染まった顔を隠して廊下を走り去っていく。

「なんだったんだ、今の?」

「さぁ、助かったんだから僕としては何だっていいさ」

 走り去る少女の背を見送ると、大翔の視界がぐらつく。

「やっと目覚めるのかよ、俺」

 自由にならない自分の体を嘆きながら、大翔は渦を巻くようにねじれ始めた廊下から逃げるように目を閉じた。


「助かったか」

 頭も体も限界まで疲労していた。今すぐ眠りたいと思ってしまうと同時に、もう二度と眠りたくないという正反対の思いが浮かんでくる。

 両のてのひらにはいくつもの豆が潰れていたが、大翔はそれが誇らしかった。諦めることなく光を守ったという名によりの証でもあった。

「でも、あの子誰だったんだ?」

 カベサーダを膝蹴り一つで倒した少女。あの場所にいたということは大翔の中学校の後輩なのだろうか。あれは彼女の夢だったのだろうか。

 大翔が夢の世界で出会った人間の多くは高校生から大学生くらいの若い男がほとんどだった。ニュースで流れる不審死の被害者もたいていがそのくらいの年齢だったはずだ。そこに少女が混じってきた、というのは夢の世界が拡張してきているのと同じく新たな変化の兆しと言える。

「中学のことか。あんまり思い出したくもなかったんだけど」

 大翔はベッドに座ったまま、ちょうど部屋の反対側に置いた本棚に目をやった。一番下にはもう何年も開いていない百科事典。その上の段は卒業証書やアルバム。あとはほとんどがマンガか昔の教科書が片付けないままささっている。

 その一番上。

「あれももうどっかにしまったほうがいいかな」

 金色に輝く表彰楯ひょうしょうたてに小さなトロフィー、ホコリをかぶったカップ。全て中学時代に陸上の大会で大翔がもらってきたものだ。大翔は全国トップとは言わずとも地方大会なら最上位、全国大会で入賞の経験も一度だけある。

 それでも高校に入ってからは一度も本気で走ったことはない。いや、夢の中でカベサーダから逃げるときはさすがに全力だっただろう、と大翔は思い直す。

 真由が入学して間もない頃にしきりに陸上部へ誘ってきていた理由もこれだった。そして大翔が陸上をやめようと思った理由もまた、このトロフィーたちが原因だった。

 考えていても仕方がない。これから片付けるには時間がなさ過ぎる。大翔は重い体を引きずるようにベッドから出ると、痛む体を労わるように陸上部でやっていた柔軟体操を始めた。

「ふあああ」

 教室に入ると同時に大翔は大きなあくびをした。眠い。明らかに体が重い。夢が恐怖の対象になってから二日。外から見れば休んでいるように見えても、大翔自身は少しも気が休まるときはない。高校生という若さを振り回していても、二夜も続けて徹夜をすればどこかに支障は起きるものだ。大翔の状態はそれに近い。今すぐ目を閉じれば立ったままでも深く眠りに落ちていくだろうと思う。

「どしたの? 徹夜?」

「まぁ、そんなところだ」

 自分の席に向かう足取りすら危うい大翔に声をかけたのは真由だった。

「千早がいたらまた怒られてるところだよ?」

「別にいつものことだろ」

 遅い歩みの大翔の前に立ち塞がった真由にあくびを漏らしながら答える。千早のおかんむりなど聞き慣れている。今さら言われたところで変えるつもりなど大翔にはさらさらなかった。

「ねぇ、神代ってマゾ?」

 降って湧いた真由の質問に大翔は半分閉じていた目を見開いて真由の方を見た。聞き違いではなかったらしく、真由はいつものようにいたずらっぽい瞳で大翔の答えを待っている。

「なんでそんなこと聞いた?」

「いや、そうなのかなって。純粋な疑問」

「純粋な奴がクラスメイトがマゾかなんて聞くかよ」

 真由の横を通り抜けて、大翔は自分の席へと向かう。眠らなくとも体勢を楽に休めるようにして体力を保っていなければ、本当に寝てしまいそうだ。

「えー、だって神代って千早に怒られてるとき、いつも嬉しそうだし」

「そんなことねぇよ」

「私の知らないところで何かありそうじゃん?」

 何もない、ということはない。千早が大翔に怒るのはそれが一番大翔にとって楽だからと知っているからだ。それを真由は知らない。だから大翔と千早の関係が奇妙に映るというだけの話だ。

「別に。大したことねぇよ」

「あぁ、もうズルい。私も千早と同じ中学がいい」

「またそれかよ。過去なんだから諦めろ」

「じゃあ、中学の頃の千早の話してよ。夢の中で千早との楽しい中学生活送るから」

「……それは虚しくないか?」

 夢、という単語が大翔の耳にひっかかって答えに詰まった。夢を見たいと思えるということは真由はあの世界には落とされていないということなんだろう。それに大翔は安堵した。できることなら見知った顔にはあの夢の中では出会いたくはない。あの恐怖を味わうのは自分だけで十分だ。

「ほら、そろそろ予鈴だろ。あいつがまた何か言い出すぞ」

 と大翔は期待を込めて千早の声を待つ。

 しかし、今日に限ってはいつもの可愛らしい怒声が少しも聞こえてこなかった。

「あれ? 今日休み?」

「誰のこと?」

 とぼけたように真由が教室の中を見渡す。

「誰って、堂本に決まってるだろ」

「ふーん。決まってるんだ」

「うるせぇな」

 話の流れでわかるだろ、とは言えない。真由もわかった上で言っているのだ。ここで大翔がそう言ってしまったら、千早がいないことを寂しがっていることになる。

 それだけ悩んで口を閉ざしていれば、大翔が何を考えているかなど、付き合いの短い真由にでも手に取るようにわかってしまう。男の思考回路はとても単純にできている人間がほとんどだ。

「今日は千早、お休みみたい。誰かさんが心配かけすぎなんじゃないの?」

「俺のせいかよ」

「自覚があるんなら少しくらい優しくしてあげたら?」

 真由は答えも聞かずに大翔に道を譲って、そのまま他の女子に話しかける。こうなると大翔は簡単には声をかけられない。真由は大翔がそういう性格だとわかっている。たった数ヶ月でそんなことまで理解しているなんてまったくもって嫌なことだ。

 大翔は自分の席につくと、誰も座っていない千早の席に目をやった。まだ始業には時間はあるから遅刻ではないものの、千早が大翔より遅く教室に入ってくる姿を大翔は見たことがなかった。どれほど早くに来ているかを大翔は知らないが、とにかく朝教室に行くと、決まって待ち構えたように大翔に言いがかりのように文句をつけるのが、千早の日課のようなものだった。

 それがないというだけで、大翔はなんとなく朝から気力が削がれるような気がしてくる。口うるさい小姑がいなくて平和そのものだ、と心の中で嘘を並べてもやる気はまっさかさまに落ちていくだけだ。

 授業が始まっても大翔の視線の半分は空になった千早の席に向かっていた。千早がいないということはそれだけで大翔の緊張の糸をすっぱりと切り落とすだけの刀になった。

 黒板がぐらぐらと歪み、視界に暗転が混じる。

「あぁ、助かった」

 大翔は教室の中心で小さく言葉を漏らす。もはやこの光景は大翔にとって安心の合図だ。あの恐ろしい夢から覚めるときに見る世界が切り替わる瞬間。だが、それは夢の世界に落ちる瞬間に見る風景でもあった。


 夢だ。ここは夢の中だ。

 大翔は自分の立っている場所を確認する。中学校のグラウンド。頭の中を空っぽにしてバカみたいに走り続けたライン。ただの白土の上に石灰で引いただけの曲がったラインを大翔はよく覚えている。

「寝ちまったか」

 あれほど居眠りはしまいと心に決めていたというのに。少しの油断が疲れた大翔をここに連れ込んだ。ここから先は一人だ。尊臣も光もいない。

 どうしたものか、と大翔は周囲を見渡して、いつもの夢と雰囲気が違うことに気がついた。

 妙に空が晴れやかで空気が重くない。遠くを見渡しても蜃気楼が見えない。校舎の方を見ても荒れている様子はない。騒がしい声も聞こえない。

「違う。ここは、どこだ?」

 困惑する大翔の肩に誰かの手が置かれる。大翔は反射的に飛び退いて、その手の主の正体を確認した。

「びっくりしすぎだろ、大翔」

「和、弘?」

「そうだよ。お前のライバル、片岡和弘かたおかかずひろだ。忘れたか?」

 満面の笑みで答えた和弘に大翔は曖昧に笑顔を返した。忘れたことなど一度もない。ただもう今の和弘は大翔に向かってこんな顔をすることはできるのだろうか。

「じゃ、練習始めようぜ」

 走り去った和弘の背中を見送っても大翔はその場から動けなかった。

「忘れるわけないだろ」

 これは夢だ。正真正銘、大翔の夢の中だ。

 ここにカベサーダは存在しない。意識を持った他の人間も存在しない。ただ大翔にとって忘れられない光景が大翔の意思とは無関係に流れ出す場所。

「なんで今さらこんな夢を見るんだよ」

 天を仰いで大翔は大きな溜息をついた。もう見たくないと思っているはずなのに憎らしいほどの晴天が大翔を見下ろしていた。この先に起こることを大翔はよく知っている。しかし、それを回避する手段は存在しない。

 ここは大翔の記憶が作り出す夢。記憶とは過去。過ぎた時間は取り戻せない。

 自分の意思で自由に動ける夢の中でも夢から覚める方法だけは大翔も知らない。夢の続きを見るために重い足取りで陸上部の部室に向かった。

「なんだ、呆けちまって」

「あぁ、悪いな」

 着替える和弘の姿を大翔はぼんやりと見つめていた。よく野球部と間違えられる丸刈りの頭に短距離の選手らしいしっかりとした脚。言葉遣いとは逆に少しフケ顔なことを本人はよく気にしていた。体格だけでいえば、間違いなく大翔よりも才能があっただろう。

 大翔と和弘はいつも隣で競い合って、思春期の妙な主人公感も手伝ってお互いをこっそりとライバルなんて恥ずかしい呼び方をしていた。

「今日で決着だな」

「あぁ、そうだな」

 ロッカーの前に立つと、大翔の服は自然と中学の時に使っていたウェアに切り替わる。夢の中では当然のように起こるご都合主義な事実すら懐かしいと感じてしまう。あの悪夢の中では大翔にとって本当に都合のいいことはいつも起こらない。

「タイムはずっと負けてるけど、ベストタイムならたったの〇、〇二秒差だ。それを今日はひっくり返してやる」

 大翔と和弘の実力は本当に変わらなかった。むしろ大翔の方が遅いものだと思っていた。実際、大翔は練習中に隣で走っている和弘よりも自分が速いと思ったことは一度もない。

「なぁ、和弘」

「なんだ?」

「いや、なんでもない」

 今にして思えば、簡単な答えだった。

 和弘は練習中なら意識してきれいなフォームで走るが、いざ記録会となると気持ちが前に出てフォームを崩していることが多かった。だからタイムだって落ちるし、体に無理なところが生まれる。まして大翔をライバルだと認め、いつも少しだけ記録が上回っているのだから、なおさら体に力が入ってフォームが崩れる。

 悪循環だった。中学の陸上部顧問は専門的に陸上をやっていたわけじゃない。誰も和弘の小さな異変に気付かなかった。

 そして、三年の春。この夢は地方大会前の参考記録をとるという日だった。

「位置について」

 トラックに並んで、大翔と和弘がクラウチングスタートの構えをとる。大翔が隣を盗み見ると。和弘はもう気合に満ちた目でこれから走る先を睨んでいた。

 ピストルの音が鳴る。

 思い切り蹴りだして和弘が走り出す。大翔の体は動かずとも視界だけが勝手に記憶を辿って動き出した。

 四〇〇メートルのトラックコース。短距離走に分類される中では最も長い距離を求められるこの競技は、全力で走りながら持久力を必要とする過酷なレースだ。それだけに走者の負担は大きい。それが崩れたフォームで体力に任せて走っていたとしたらさらに危険は増してくる。

「やめようぜ」

 大翔が搾り出すように言う。だが、大翔の視界は止まらない。横目に見えていた和弘の姿が少しずつ後ろに下がり始める。和弘がそれを見て無理をしているのが今の大翔には見えずともわかった。

 ゴールが近付いてくる。もう視界には和弘の姿はない。後ろについてきている気配もない。大翔はラインを駆け抜ける。それと顧問がコースに向かって走っていくのは同時だった。

 大翔がその先に振り返る。ゴールまであと数メートルというところで和弘がうつぶせになって倒れている。駆け寄った顧問が和弘の脚を触って何かを確認しているようだった。

「和弘!」

 倒れた和弘に駆け寄ろうとするが、走りきったばかりのところですぐに止まった体は言うことを聞いてくれない。それでものろのろと一歩ずつ大翔は和弘に近付いて、隣に座り込んだ。

「和弘」

「やっぱ勝てなかったな」

 苦しそうにしかめた顔を無理やり口角を上げて和弘が漏らした。足首がひどく腫れている。ただの捻挫だとは思えない。

「大会。俺の分まで頑張れよ」

「あぁ」

 そんなプレッシャーのかけかたがあるか、と大翔は苦い顔に戻った和弘を顧問と二人で担ぎ上げた。


「こら、起きろ! 授業終わったよ」

 容赦なく振り下ろされる丸めた教科書を立て続けに受けて、大翔は机の上から顔を上げた。

「なんだ、堂本?」

「千早は休みだっての。神代って本当に千早が大好きなんだから」

「そんなことねぇよ」

 目を擦って今度は体を椅子の背に預ける。丸めた教科書で大翔の頭を叩いていたのは千早ではなく真由の方だった。

「先生も起こしてたのに諦めてたんだけど。どんだけ寝てないのよ」

「まぁちょっと最近な」

「もう、千早がいないと本当に全然だめみたいね」

 授業が終わってからも結構寝ていたらしく、教室では大翔の方を見てクラスメイトが大小さまざまな声で笑っている。ここでむやみに否定してもからかわれるだけだ、と大翔は押し黙った。

 大翔の態度を見ていた真由は満足気に大翔の席から離れていく。次の授業までの時間はあまり残っていない。

 和弘のケガはアキレス腱断裂という診断だった。字面だけなら非常に重いケガだったが全部が切れたわけではなく、高校に入ってからはまた陸上部に入って頑張っていると聞いた。あの日の一件で治らない傷を負ったのは大翔だけだった。

 他人にケガを負わせるというのは自分が傷つくよりも何倍も重い。誰かを置いていくくらいなら自分が取り残されたほうがいい。大翔にとってあの日はまさに現実に起きた初めての悪夢だった。

「せっかく安心して眠れるなら、もっといい夢見せてくれよ」

 自分の頭を二度叩いてみるが、返事があるはずもない。大翔は大きく伸びをして、次の授業に備えて頭を振った。

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