第一夜

「夢か、夢だよ、そうだよな」

 脂汗あぶらあせが滲んだ額を拭って大翔は息をついた。

 朝起きたばかりだというのに全身が妙に気だるい。頭の中でしか走っていないはずなのに本当にマラソンでも走り抜けてきたような気分だ。開け放したままの窓から吹き込んでくる風が大翔の汗ばんだ頬を撫でて身を震わせた。

「それにしてもなんだったんだ、あの夢」

 自由に動けるのなら世界も作れてしまえばいいのに。そうすれば自分だってゲームの主人公のような大立ち回りだって出来るはずだ。それなのに実際のところはどうだろうか。夢の中の自分が立っているのは、いつも薄暗い廃墟のような場所ばかり。やっと見つけたと思った人間は目の前で息絶え、黒い肌の怪物に襲われた。

 一緒に逃げてくれるのは可愛い女の子ではなく、筋骨隆々の大男でさらに自分が活躍するどころか逆に助けられてしまう情けなさだ。

 夢の中でくらいヒーローになってみたかった。これは自分の想像力が足りないからなんだろうか。

 そんなことを考えながら、まだ鳴るべき時を待っていた目覚まし時計の仕事をキャンセルして、大翔は制服を着替えようと起き上がった。

「痛っ」

 着ていた半袖のティーシャツが擦れると肩に激痛が走る。歯を食いしばって痛みに耐えながらシャツを脱ぎ、調子に乗って買ったはいいもののすっかりオブジェと化した姿見の前に立ってみる。

「なんだよ、これ。あれは夢だったんだろ?」

 鏡に映る自分に問いかけたところで返事はない。

 その代わりに大翔の両肩には爪でひっかかれたような跡が赤く残っていた。血は止まっているが、表皮が擦り取られたようにれ上がっている。夢の中で味わった激痛と比べれば大したことはない。そう思いながら軽く傷跡に触れてみる。

「くあぁぁ」

 言葉に表せない痛みが大翔の両肩を襲って、その場に膝をついてうずくまった。まさしく夢の通りの痛み。慌てて脱いだティーシャツを見ると、肩の部分が真っ赤に色を変えていた。

「あいつに押し倒された時の」

 昨夜に見た夢を思い出す。いや、あれは本当に夢だっただろうか。大翔の中で疑念が渦巻いていくが、考え込んでいても答えは出てこない。部屋の本棚の上に置きっぱなしになっていた救急箱からワセリンを取り出して塗りつけておいた。部活をやめてから必要ないと思いつつもとっておいて助かった、と大翔は制服に手を伸ばす。

 昨日あの怪物に襲われた結果ついたのがこのきずだとしたら、もし襲われてあの男のように首を噛み切られたら。白いステージが真っ赤に染まるほどに血が流れたとしたら。

 そんなことあるはずがない。考えれば考えるほど悪い方向に転がっていく思考を振り払うように大翔は荒々しく部屋の扉を開けた。

 大翔がダイニングに顔を出すと、母親の晴美はるみが信じられないという顔で大翔を見た。

「おはよう」

「どうしたの、熱でもある?」

 過剰なリアクションはいつものことだ。母親なりのスキンシップなのだろうが、いい加減大翔にもワンパターンに感じられて反応に困ってしまう。

「ないよ」

「もう、そんな仏頂面ぶっちょうづらしてると女の子も寄ってこないでしょう」

「余計なお世話だよ」

 朝、キッチンに母親がいる。毎日見慣れている当たり前の状況にこれほど心が休まるなんてやはりどうかしている。

 冷蔵庫から牛乳を取り出してコップに移し、大翔はそれを一気に飲み干した。神代家の朝食は和食と決まっている。ご飯と一緒に牛乳を飲むのは嫌いだった。

 そうしているうちにもコーティングで光を反射するテーブルにご飯、味噌汁、玉子焼きと朝食が並べられていく。父、洋介ようすけは今日は遅番だろうか、食卓には大翔の分しか並んでいない。

「冷めちゃわないうちに食べてね」

「はーい」

 箸を取って玉子焼きを口に運ぶ。砂糖入りの甘い玉子焼きは洋介の好物だ。

 行儀悪く咀嚼そしゃくしたままテーブルの端に置かれたリモコンをとってテレビをつけると、ニュース番組のキャスターが淡々と原稿を読んでいるところだった。

『……死亡した少年は十七歳の高校生で、今朝未明、部屋から臭いがするのを不審に思った父親が部屋に入ると、少年が首から血を流して死亡していたということです。警察では事件と自殺の両面から捜査を続けています』

「あら、怖いわね」

 お茶を持ってきた晴美が画面を見ながら小さく言った。

「大翔は悩みとかないの?」

「別にないよ」

「小さなことでもいいから、何でも言うのよ。私は母親なんだから」

「わかってるよ」

 今まさに両肩の傷を隠している大翔は晴美から視線を外して答える。

 テレビには生前の少年の写真が映し出されていた。特別特徴のある人間には見えなかった。写真一枚で人柄がわかるというものではないが、それでもいじめられるほど気弱だとか、トラブルを起こしていそうなやんちゃさは感じられない。

 普段ならすぐに忘れてしまいそうな顔だったが、モザイクのかかった仲間に囲まれて笑う少年を見て、大翔は持っていた箸を落とした。

「こいつ、嘘だろ?」

 他人の空似だとも思った。しかし、大翔の勘と今朝の傷が直感が正しいと告げている。画面いっぱいにズームされた少年の顔は、昨夜大翔が見た怪物に襲われて死んだあの男の顔と同じだ、と。

 薄暗くてよく見えなかったせいだ。見下ろした先立ったから十数メートルは離れていた。そうやって言い訳を並べてみるが、どれも大翔の不安を拭うには足りない。

「大翔、何か顔色悪くない?」

「大丈夫だよ」

 不審そうに近付く晴美を手を振って追い払い、大翔はテーブルに落ちた箸を拾って味噌汁に口をつける。濃いカツオだしがよく目立つ晴美の味噌汁が、今日は味気なく感じられた。

「昨日の夢、あれはいったいなんなんだ?」

 晴美に話したところで、冗談と思われるだろうか。もしかしたら気が触れたかと心配されるかもしれない。あの時に大翔が塞ぎがちになってしまったことを晴美は今でもきっと気にしているに違いないのだから。

 大翔は平静を取り戻して、朝食を機械的に口に放り込みながら、昨夜の夢に出てきたもう一人の男のことを思い出していた。

「はぁ」

 夢見が悪かったせいか、寝たというのに少しも疲れは取れていなかった。大翔はいつもより早く教室に入ったその体を欲望に任せたままに机に横たえる。陽気は春から少しずつ夏に移り変わってきているが、うたた寝にはまだまだ心地よい。

 憎らしいのは自分の席が教室の中央にあることくらいだろうか。窓際ならあの暖かい日差しを布団代わりにしてゆっくりと眠ることが出来るのに、と大翔は教室に差し込む朝日恨めしげに見つめる。

 目を閉じてこのまま夢を見ることができたら、あの悪夢を消し去ることはできるだろうか。それともまだ悪夢は続くだろうか。

 大翔が自由に夢を動き回れるようになった一週間前からあの不気味な怪物は存在していたのだろうか。そんな場所で無邪気に遊んでいたと思うと自分の危機感のなさに溜息が出た。

 目を閉じて何かいいことを考えよう。まだ動揺の残る頭を回転させようとしたところに丸めた教科書が落ちてくる。

「まだ授業も始まってないのに、もう居眠り?」

「なんだよ、堂本。始まってないなら別にいいだろ」

 視線だけを上げて頭を叩いた犯人を見上げた。確認しなくともこんなことをする人間を大翔は一人しか知らない。

「よくない。そうやってだらけてるから授業中も眠くなるの。今から気を引き締めておくの。ただでさえ神代くんはスロースターターなんだから」

 セミロングの黒髪を掻き上げて堂本千早どうもとちはやは大翔を見下ろしている。自分よりも間違いなく成績の良かった千早がどうして大翔と同じ高校の、よりにもよって同じクラスにいるのか。入学してもう二ヵ月が過ぎようとしているが、大翔には理解ができていない。

 他校に進学した女子からは古臭くてダサいと形容されるセーラー服をタイをきっちりと結んで着ているところを見ると、千早本人はそんなことは気にならないようだ。中学の時より少したけが短くなったような気がするスカートも校則を違反はしていない。

「ちょっとどこ見てるの!」

 丸めた教科書が大翔の頭にさらに二発振ってくる。非力な千早が何度叩いたところで痛くもなんともないのだが。

「今日はなんか目覚めが悪かったんだよ」

「どうせ最近宣伝やってるゲーム、遅くまでやってたんでしょ?」

「そういう自分だってなんか目の下にクマができてるぞ」

「嘘っ!」

 慌てて目元を探る千早の姿に、大翔は少しときめいてしまう。なんだ女の子らしく見た目とか気にしてるんだ、と動揺を顔に出さないようにわざとらしく伸びをして起き上がる。

「嘘だよ」

「本当に?」

「いつも通り眉間にしわは寄ってるけどな」

「誰のせいだと思ってるの」

 中学生の頃から少しも変わらないやり取り。学年が変われば、高校生になれば、いつか変わってしまうかもしれないと思っていた関係はとりあえず今はまだ続いている。大翔はこの関係を変えたいと思いながらもまだそれを言葉に出せないでいる。

「まったくもう」

 呆れたように言った千早の後ろで乱暴に教室の扉が開いた。まだ予鈴には時間がある。急いで教室に飛び込んでくる理由もないはずだった。

「誰だ?」

「うーん、でもあんな人いたら目立つと思うんだけど」

 千早の言う通り、開け放った扉からゆっくりと教室に入ってきた男は異端だった。

 固めたワックスが光るオールバック、時代遅れの長ランと裾のウエストを広く取ったボンタンと呼ばれるスラックス。自分たちの親ですら着たことがないと思えるようなバブル時代前の服装をしている生徒がいれば嫌でも目立つはずだ。

 一学年のクラスの数は九。多すぎるということはないが別の階に教室があるクラスの連中なら見たことがなくてもおかしくはない。あんなのが教室に座っていたとしたら噂すらたてずに近づかないのが賢明な判断といえる。

 ただ大翔はその姿に見覚えがあった。

「まさか、な」

 昭和ヤンキーの風貌をそのままに少しずつ賑わいはじめたクラスの中を睨むように見渡している顔は昨夜危機を乗り越えた戦友と同じだった。

「おい」

 大翔と目が合うと、そのヤンキー男は歩を早めて大翔の席へとまっすぐに近付いてくる。千早が大翔の背に隠れようとしたのを見て大翔は立ち上がった。

「ワシの顔に見覚えはあるか?」

「あぁ、あるよ」

「そうか。ほんならちょいとツラぁ貸してくれんかの?」

「わかった」

 大翔が答えると、千早は焦ったように大翔の学生服の裾を掴む。

「ちょっと」

「大丈夫だって」

「ちゃんと一限に間に合うように返しちゃるわ。五体満足でな」

 もうちょっと言葉を選べよ、と大翔は千早の顔を振り返って確認する。大翔がどんな仕打ちを受けることを想像しているのかはわからないが、雨にうたれる子犬のように打ち震えている辺り、千早の頭の中では大翔は散々な状態になっているらしい。

 ケンカについてはサッパリだが、それにしてももう少し信用してくれてもいいと思うのだが。

 大翔は大丈夫だから、と表情で伝えてみようとしたものの思考が妄想に奪われている千早には届いていなかった。

「あ、あああ」

 完全に思考がショートしてしまっている。これでは大翔が何を言ったところでまともな反応は帰ってこないだろう。大翔を止めるための言葉を探したまま動かなくなった千早を置いて、大翔はヤンキー男の後ろについて教室を出た。

「悪いのう、朝っぱらから」

「別にいいよ。昨日のお礼もしてなかったしね」

「っちゅうことはやっぱり自分、昨日夢の中で会うた奴か」

 昼休みには弁当を持った生徒で埋め尽くされるテラスも朝の慌しくなってきた時間帯には生徒の姿はない。その代わりに降り注ぐ日差しを浴びているとそのまま授業に出ずに眠ってしまいたくなる。

「昨日は助けてもらってありがとう。俺は神代大翔だ。そっちは?」

橋下尊臣はしもとたかおみじゃ。まぁそんなことはどうでもええ。昨日言ってたお前の夢の中っちゅうのがほんまなんか聞きにきたんじゃ」

「あいつが出てくるまではそうだと思ってたよ。でも違うみたいだ」

「そうか、そんじゃ今朝のニュースは見たか?」

「あぁ、あの男。ってかお前、ニュースとか見るんだな」

 冗談のつもりで笑った大翔に尊臣からげんこつが振り下ろされる。大翔自身背は低くないつもりだが、二メートルはあるかという大男相手では無力だ。あの怪物すらひるむ腕力。ずいぶんと抑えられているが、それでも脳の奥まで響いてくる。

「いってぇ」

「何を笑うとるじゃ。真面目な話じゃぞ」

「今朝のニュースの顔写真。昨日の怪物に殺されてた奴だった」

「ワシもそう思う。これは仮定の話じゃが」

「あの夢の中で殺された人間は現実世界でも死ぬ」

「先に言うか」

 まぁええわ、と尊臣は光るオールバックの髪を撫で付けた。そんなに固めていたら崩れようもないだろう、と大翔は思うが、わざわざ頭にたんこぶを増やす理由もない。

「たぶんそれは本当だと思う」

 大翔は制服のボタンを外して、まだ信じたくはない左肩の傷を尊臣に見せた。赤く腫れ上がった肌は少しずつ回復はしているようで、今朝見たときよりも赤みが引いてきたように見えた。

「ワシは男の裸に興味はないぞ。ってこれはなんじゃ?」

「起きたらついてた。たぶん奴に押し倒された時」

「そんじゃ、これが首筋にでもついた日にゃ」

「ゲームオーバーってわけだ」

 はだけさせた制服を元に戻しながら、大翔はニュースの映像を思い返す。まったく知らない人間だったが、同じ危機に瀕していたのに救えなかったことに大翔は胸が詰まる。

「きっとあの夢は」

「まぁ、その話は放課後にでもするか」

「え?」

 物語が生まれ始めた高揚で恐怖をごまかそうとした大翔をよそに尊臣は教室へと戻り始める。

「一限遅れるぞ」

「ちゃんと授業も出るんだな」

 呆れたように言った大翔の頭にもう一度げんこつが振ってくる。

「当たり前じゃ。勉学は学生の本分じゃ」

 尊臣についていったときから、一限目はサボることになるだろうと思っていた大翔は痛む頭を擦りながら、急かす尊臣に気圧されて渋々教室へと戻った。

 教室に戻ると、予鈴も過ぎていて大翔の席以外はきっちりと埋まっていた。近くの席で雑談したり、残っていた課題を走り書きで終わらせている中で、大翔が戻ってきたことに気がついた千早が一目散に大翔の方へ走ってくる。

「いったい何したの?」

「何が?」

「何がって、あんな人に呼び出されるなんて何かしたかされたかしかないでしょ?」

「堂本、それは偏見だと思うぞ」

 とはいえ、昨夜からずっとただのヤンキーだと思っていた大翔も少なからず偏見に満ちているのだが。

「イジメられたりしてない?」

「ないっての。お前は俺の母親か! ちょっと助けてもらっただけだよ」

「本当に?」

 不安そうな表情で千早はもう一度念を押す。その顔を見ると、大翔は一瞬言葉に詰まってしまう。千早がどうして大翔の友人関係にそれほど敏感なのか。そんなことは大翔自身が一番わかっていることだ。去年の今頃から周りに友達を集めないようにしていた大翔にそれでも何かと声をかけてきた数少ない友人の一人が彼女だった。

「本当だよ。ちゃんと授業にだって間に合っただろ?」

 だからこそ大翔は千早を信頼している。心配をかけてはいけないと思っている。大翔が曖昧あいまいに微笑んだのを千早はどう思ったか頬を膨らませて答えた。

「わかった。でも何かあったらちゃんと相談してね」

「わかってるよ」

 わかってはいる。ただきっと大翔が千早に夢の話をすることはないだろう。残される痛みを知っているからこそ、大翔はあのまだ何もわかっていない怪物に殺されることがあってはならないのだ。まだ消した跡のないきれいな黒板を見つめながら、大翔は眠い目を擦った。


 あまり頭に入らなかった授業を終えて、尊臣に案内されるがままに大翔は旧校舎の端にある狭い教室に入った。一年の教室周りと特別教室以外はほとんど利用しない大翔にとっては同じ校舎の中でも知らない教室はたくさんある。ここもその一つだった。

 教室の三分の一ほどの広さの部屋には長机が三脚。二つはくっつけて中央に置かれ、周りにはパイプ椅子が並んでいる。残りの一つは窓際に置かれ、型落ちのブラウン管モニターのパソコンと新型らしい薄型モニターとタワーのパソコンが乗せられていた。

 その新しい方の前に座っていた男が椅子を回転させてこちらに向き直った。

 小柄な体格で、隣に尊臣がいるせいか余計に小さく感じられる。黒縁の太い眼鏡をかけて迷惑そうな表情で部屋に入ってきた二人を見つめていた。

「来たんだね」

「悪いな。なかなか目立たん奴じゃと探しにくうてのお」

「勝手なことを言うよ」

 男は眼鏡越しに二人を睨みつけるが、尊臣の視線に恐怖を感じたのかすぐに視線を逸らした。

「ここは何の教室だ?」

「ここは情報部の部室だよ。部員は僕一人だけだけどね」

「ってことは先輩?」

「そんなんはどうでもええ」

 いやどうでもよくないだろ、と大翔は先輩らしい眼鏡の男に見えないように尊臣の腕を叩く。尊臣はというと少しも痛くないどころか気付いていないようで、何の反応も示さなかった。

「それで、後ろの君は取り巻きかい? それとも君もこの男の被害者かな?」

「被害者?」

「この男がね。あろうことか昨日夢で会っただろう、なんて言うのさ」

 嫌そうな口ぶりをしながらも追い出す勇気は出ないらしく、男は視線をパイプ椅子にやった。座ってもいいということらしい。大翔はその合図を受けて意味もなく忍び足で部屋の奥へと進んだ。

「まだあの夢の中にいた人がいたのか」

「君もそんなことを言っているのか」

「ええから聞けや、千源寺せんげんじ

 低く唸るように零した尊臣の言葉に千源寺と呼ばれた男はズレた眼鏡を治しながらむすりと腕を組んだ。

「でも千源寺さん」

「面倒だろう。ひかるで構わない」

「光さん、俺も見たんです。昨日夢で会った橋下が実際ここにいて、昨日死んでた男がニュースで死んだって」

「他人の空似だろう? 僕はきちんと見ていないけど、あの高いところから見下ろしただけ、それも辺りは暗かった。それじゃちょっと説得力に欠ける」

「じゃあ、これなら信じてもらえますか? 今朝起きたらついていたんです」

 大翔は尊臣にしたのと同じように制服をはだけさせて肩についた傷跡を見せた。浅い傷だが、数時間で治るものではない。赤い線のような傷は日常生活で簡単につく代物ではない。それこそ野生動物やそれに似たものに襲われない限りは。

「ワシかて最初は夢見が悪いだけと思うとったわ。じゃが今朝のニュースの件。それから探してみたら見つかった自分ら二人。それで神代の傷じゃ。放ってはおけんわな」

「寝相が悪くて、という傷でもなさそうだね」

 大翔の傷を見た光は驚いた様子はなく、むしろ何かを確信したように二度頷く。

「これを見てもらえるかな?」

 光は目の前にあるモニターを指差す。大翔が覗き込むとどうやらネット掲示板のようだった。学校のパソコンにはセキュリティソフトでこういったサイトは見られないようになっているはずなのだが、光にはそんなものはないに等しいらしい。

「これ、俺たちが見た夢の話をしてる」

「今朝、そこの橋下の話を聞いて少し調べてみたんだ。僕ら以外にも同じような夢を経験している人間がいる。モール以外にも別の場所があって同じように怪物が出ていたらしい」

 掲示板には経験談や目撃情報。さらに不審死を伝えるニュースの映像を切り取った画像が貼られている。

「なんじゃ、ちゃんと調べとるんけ」

「僕だって死にたくはないからね」

「でもこれってオカルト掲示板ですよね?」

 ブラウザの上部を指差して大翔は光に聞いてみる。ネット掲示板など大翔はゲームで困った時に少し覗いてみるくらいのものだが、それでもある程度はわかっているつもりだ。巨大な掲示板サイトでは様々なジャンルで分類分けががされていて、その話題にあったページでないと掲示板から削除されてしまう。

「そりゃそうさ。夢の中で死んだ人間が現実世界でも死ぬなんて、オカルト以外の何者でもないさ」

「でも」

「神代。オカルトっちゅうのは何も嘘とは言うとらん。まだ科学的に解明されていない現象っちゅうだけじゃ。バカにはされとらんじゃろ」

 机の上に足を置いて早くも自分の根城のようにリラックスしていた尊臣が言葉を投げる。なんてその風貌に似合わないことを言っているのか、と大翔は思ったが、まだ少し痛みの残る頭を思い出して、口をつぐんだ。

「それで反応はどうなんです?」

「端的に言えば、偶然、デジャヴ、嘘。あまり信じられていないようだね」

「そんな……」

「ただ報告数はかなり多い。もう専用のスレッドも立っている。君たちの言うことは本当か、今流行している噂話、といったところだね」

 そんなものでしかないのか、と大翔は肩を落とした。自分自身もまだ半信半疑だが、少しでも仲間がいればそれだけ多くの人の安全が確保できるかもしれないというのに。

「そんで自分はどっちじゃと思う?」

 やりとりには入らず遠巻きから見ていた尊臣が口を挟む。

「どちらとも、と思っていたんだけど、この傷はかなり信憑性しんぴょうせいがあるね。嘘の理由付けにしては傷が大きすぎる」

「そんだけあれば十分じゃな」

「何が?」

 尊臣は椅子から立ち上がり、二人の背中に立つ。それだけで尊臣の持つ威圧感に二人は圧倒されてしまう。これが思い切り消火器で殴っても少し時間が稼げるだけなのだから、あの怪物がいかに規格外かわかるというものだ。

「ワシら三人で手を組む」

「助け合うってこと?」

「そうじゃ、あの怪物、名前なんじゃ?」

 尊臣が光の方を向いて尋ねる。

「さぁね。ネットでは『カベサーダ』と呼ばれているようだけど」

「ほんじゃそのカベサーダ。倒すのは無理みたいじゃが、不意打ちならひるませるくらいは出来る。三人集まって互いに守れば早々は死にゃせんじゃろ」

 嬉しそうに頷く尊臣を見上げた二人は、この男に助けがいるのだろうかと悩んでしまう。どちらかと言えば大翔は尊臣に助けられる側になりそうだ。事実昨日も諦めかけていたところを一度救われている。

「体力のない僕としては味方がいた方が嬉しいね」

「昨日早くも殺されかけた奴もおるし、面倒みんとな」

「悪かったな」

 大翔自身も後悔はしているつもりだが、こうして言われると少し言い返したくもなる。カッコつけてセリフをつけたことも今になってはやたらと恥ずかしい。

「それにしても、奴の目的はなんなんだろうな?」

「動物が獲物を狩るのは食うためじゃろ?」

「でも昨日の死体は放置されて俺たちの方に来たじゃないか」

「僕はそのカベサーダを見ていないが、もし今夜もあの夢を見るようなら何か抜け出す手がかりは奴にあるだろうね」

「もう二度と会いたくないけど」

 あんな恐怖を味わったのは間違いなく生まれて初めてのことだった。できることなら二度と会いたくないとも思う。しかし、大翔には今夜もまたあの夢を見るだろう、と感じていた。その理由は少しも説明ができないのにだ。

「当面は安全の確保が最優先だね。あのおかしなショッピングモール、どのくらいの広さなんだろうね」

「ワシが歩いた限りじゃと郊外型の大型店舗、といったところじゃあな」

「そんなに歩いたのかよ」

「ある程度は頭に入っとるがな」

 自慢げに話す尊臣の顔が憎たらしい。大翔も一週間ほど夢を自由に動いていたが、毎晩違う場所にいたし、何か発見を求めてうろついていたが、どんな構造だったかなどまったく覚えていなかった。

「じゃあ、それを僕が立体データにしてみよう」

「やるな、千源寺」

 味方ができて安心したのか、少し柔らかくなった表情で話す尊臣と光を見ながら、大翔はこの夢に巻き込まれる理由を探していた。

 帰ろうと情報部の部室を出たところで、大翔は尊臣に急かされて教室にカバンを置いたままだったことに気がついた。さすがに校内で迷子になることはないが、情報部は廃部寸前ということもあってかパソコン二台とともに校舎の端に追いやられていた。ここから一年の教室まではなかなかに距離がある。

「ミスったなぁ」

 夕陽の当たる廊下を通っていると、外から部活中の生徒たちの声が聞こえてくる。ふと立ち止まってグラウンドの方に目をやるとスポーツウェアに身を包んだ陸上部の生徒が目に入った。

「毎日練習ご苦労なことだ」

 大翔は止まっていた足をまた動かし始め、教室に向かって歩き出した。

 もう誰も残っていないと思っていた教室には、大翔のカバンと文庫本を読んでいる千早の姿があった。

「どこ行ってたの?」

「ちょっと野暮用やぼようで。もう終わったけどカバン忘れちゃって」

 なんで言い訳がましく言う必要がある。そう思っても千早から向けられる疑いの目が大翔にそうさせるのだ。カバンをとって早々に教室を出ようとした大翔の袖を千早が引く。弱々しくつままれた指など簡単に振りほどけるが、大翔は溜息ためいきをついて千早に向き直った。

「それって朝の人と?」

「朝の、あぁ、そうだけど。なんだよ?」

「だって、なんか心配なんだもの。神代くん、絶対私に隠し事してる」

「隠し事って。そんなの堂本にだってあるだろ?」

 否定をしなかった大翔をさらに問い詰めようと、一歩前に出た千早の動きが止まる。

「な? 話せることと話せないことがあるんだよ」

 千早に言ったところで彼女が大翔を助けられるわけではない。もしも助けに来てくれたとしてもそこは人を喰らおうとする怪物、カベサーダのいる空間だ。そんなところに千早が来てくれたとして大翔には嬉しいことなどない。

「それじゃ、また明日な」

 逃げるように教室を出て行く大翔の背中に、千早の答えは帰ってこなかった。


 慣れない花の香りで目が覚めた。それだけでここが自分の部屋のベッドではないことを理解して大翔は急いで起き上がる。

「今日は、どこだ?」

 夢の中で目を開けた大翔が最初にすべきことは周囲を確認することだ。今までならともかく、脅威があると知ってしまった以上やらないことにはろくに動き出すこともままならない。カベサーダの姿がないことを一番に確認してとりあえず息をつく。

 ここは夢の中だ。それに気付いてもまだ夢からは抜け出せない。つい数日前はそれだけで心が躍ったというのに今はただ頭が恐怖に満ちていた。

 昨日のショッピングモールではなさそうだ。今日落とされた空間はどこも白い光に照らされて暗闇など見当たらない。足元はふわりと柔らかい絨毯で、きれいな模様が入っている辺り高価そうに見えた。

 なんだか修学旅行で見たような気がする。と思って、大翔はここがホテルのエントランスだと気がついた。人の気配はほとんどないし、クロークはソファやロッカーで埋もれていた。物が散乱するのは夢の世界ではよく見た景色でそれに大翔は動揺することもない。

「光さんと橋下。どこにいるんだろう?」

 待ち合わせ場所でも決めておけばよかった、と後悔する。三人とも仲間が出来たことへの安堵感からそういうことをすっかりと忘れてしまっていた。それに決めていたとしてもこうして自分たちの知らない場所に落とされては合流のしようもない。

「とりあえず人がいるところに行こう」

 大翔は辺りを見回してなんとか先がありそうな昇り階段を見つけて、足をかけた。

 階段、というとなんとなく昨日見た果てしなく続いていそうな部屋を思い出して嫌な予感がしたが、大翔の想像はありがたくも外れて螺旋階段らせんかいだんはすぐに終わりを迎えた。

 また柔らかい絨毯じゅうたんに大翔は足を乗せた。それと同時に目の前に立っていた男に声をかけられる。

「ちょっと、君」

 二階に上がってきたというのに見えた風景は階段の下と少しも変わらなかった。同じ空間が繋がっているのかとも思えたが、大翔は正面から声をかけてきた男の存在に安堵する。

「俺、ですか?」

 尊臣ほどではないが、それでもクラスの男子ではちょうど中間くらいの大翔よりも五センチは高いだろうか。さっぱりとした短髪に細い眼鏡をかけた男は大学生くらいに見えた。

「君、ここは何回目?」

「何回目ってたぶん一週間くらい前からですけど」

「奴を見たか?」

「あのカベサーダって奴ですか?」

 男は大翔の答えを聞いて深く頷いた。

「それなら話は早い。俺は、氷室衛士ひむろえいしだ。どうだろう、君。俺たちと手を組まないか?」

「え?」

「あのカベサーダ。危険ではあるけど、多人数で互いを守れば何とかなる相手だ。だからネットで仲間を集めていたんだ」

 自分たちと同じ考えの人間がいたのか、と大翔は衛士の顔を見た。まっすぐな目はどこか自分に似ているとおこがましくも感じてしまう。

「俺も友達と合流するつもりなんです」

「そうか。君もか」

 衛士は落ち着いた様子で答える。大翔たちが簡単に思いつく作戦だ。大翔より年上に見える衛士にとっては考えついて当然のことだったのだろう。さして疑問に思うことなく、残念そうに肩をすくめた。

「でもきっと仲間は多い方がいい。俺たちと合流したいって言うなら、その友達も連れてくるといいよ。歓迎する」

「ありがとうございます。それじゃ」

 衛士が人だかりに戻っていくのを大翔は見送った。遠めに見ても三十人は下らないほどいるだろうか。確かに人数が多ければそれだけ心強いだろう。少しだけ大翔にも合流したい気持ちが芽生えたが、それよりもまずは二人を探すことが先決だ。

 ホテルの二階をぐるりと周回してみたが、二人の姿は見当たらなかった。まさかどこかの部屋でのん気に眠っているということもないだろう。もう一度、大翔は目が覚めた一階に戻ってくる。

 やはり二人の姿も、他の人間の影もない。おそらくさっき見た衛士の集団にみんな加わっているのだろう。いきなり現れた大翔に躊躇ちゅうちょなく声をかけたところからしても仲間を値踏みしているようには思えなかった。

 どうしたものか、と考えていると、大翔はクロークに積み上げられたソファたちの間に人が一人通れそうな隙間があることに気がついた。

「ここなんか怪しいな」

 偶然出来ただけかもしれないが、ここは夢の中だ。何かが意図的に仕組まれている可能性は十分にある。大翔が隙間を覗き込む。先はクロークの裏側。本物のホテルなら従業員の詰所にでもなっていそうなものだが、細く光が見えていた。

「行ってみよう」

 確証もなかったが、ホテルは全部見てまわった。それならこの先に行ってみる価値は十分にある。体を小さく折りたたみ、大翔はゆっくりと絶妙なバランスで組み上がったソファの中に潜り込んだ。

 ソファ二つ分を抜けた辺りでちょうど正方形の狭い廊下に辿り着いた。大翔がしゃがみこんで少し頭に余裕があるくらいで尊臣なら這っていかないと通れそうにない。ソファの足が邪魔をするのをなんとかすり抜けて大翔は通路の中に潜り込んだ。

 同じ高さ、同じ幅の空間をしゃがんだまま少しずつ進んでいると、なんだか違う世界に迷い込んでいくような感覚がある。せめて光が見えているだけ、気分が楽だろうか。

 どのくらい進んだか、ようやく光が大きくなり始め、外に辿り着くと、大翔が昨夜夢の中で見たショッピングモールの三階だった。この辺りは通ったような気がするが、こんな通路はなかったはずだ。

「お、神代。やっと来たか」

「俺が最後みたいだね」

「僕はまたこの近くで目が覚めたんだけど、君はどこにいたんだい?」

「今俺が出てきた通路の向こう側。ホテルみたいなところになってた」

 大翔は今出てきたばかりの通路を振り返る。通気口よりはかなり大きいが、店の入り口には小さすぎる。およそ本物のショッピングモールにはないものだ。

「ホテル? 昨日こないな通路はなかったな?」

 尊臣が大翔と光を見るが、二人とも黙って首を振った。こんな違和感のあるものがあれば、誰だって気がつくはずだ。奴に追い回されていなければ。

「たぶん。それから向こうに俺たちみたいにチーム組んでる人たちがいた。仲間に入らないかって」

「まぁ、最初に思いつく対策だからね。ネットでも募集がかかっていたよ」

「それで断ってきたんか」

「二人がいなかったからな。一緒に合流するなら歓迎するって」

 大翔の話を聞いて尊臣と光は顔を見合わせた。

「悪くない話、とも言いがたいのお」

「数が増えるってことは力関係ができるってことだ。少数が犠牲になる選択だって迫られるかもしれない」

 二人が重々しくこぼすのを大翔はぼんやりとして聞いていた。そこまで頭が回らなかった。というよりもまったく想像もしていなかった。大翔はまだどこかでこの世界がやはり夢そのもので何があっても生きて帰れるものだと考えているのかもしれない。

「そんな冷徹そうな人じゃなかったけど」

 大翔は自分の口から出た言葉がやけに強いことに気付く。だが、一度出してしまった声は何をどうしても引っ込めることはできない。ただその言葉に対する光の答えは優しかった。

「それなら自己犠牲心が強いのかもしれない。どちらにせよ、ただ多く集まるだけがいいことじゃないさ」

「ほら、ごちゃごちゃ言うてないで行くぞ」

「どこに?」

 歩き出した尊臣を大翔が驚いて呼び止める。

「どこに、って今日の話聞いとらんかったんか? 地図書くんじゃろうが」

 そういえばそんな話をしたような気がする。大翔は昨夜に出たカベサーダに対する恐怖、味方への安心感。そして千早に言ってやれないことへの逡巡でそんなことはすっかり頭の中から消えていた。

 確かにこの場所に来てから少しだけほっとしている自分がいる。知らない場所よりも知っている場所の方が安心感があるのは事実だった。

「下手に動き回ると危なくないか?」

「向こうも動いてくるんだから一緒だよ。知らない場所をやみくもに逃げるよりマシさ」

 大翔の肩を叩いた光は視線で尊臣の背中を示す。ついていこうということなのだろう。尊臣の方はその場からなかなか動かない二人に少しいらだっているようだった。

 またげんこつが降ってこられても困る。ここは夢の世界でありながら、受けた傷は現実世界でも残るのだ。大翔は何かが潜んでいそうなモールの閉まったシャッターから少し離れて、大翔は尊臣の後に続いた。

 昨日と雰囲気が変わったように感じられるのはカベサーダの存在を気にしているからだ、と大翔は考えていたが、実際のところはそうではなかったらしい。

「なぁ、昨日こんなんあったじゃろうか?」

「いや、なかったろ。あったら絶対逃げ込んでる」

 この辺りは昨夜カベサーダに追いかけられていた辺りのはずだ。そこに扉が外されたような出口がぽっかりと開いている。昨日見たなら間違いなくカベサーダの目を逃れるために入っていただろう。

 大翔はこのモールに来てから感じている違和感の正体に少しずつ気付き始めていた。大翔が通ってきたホテルとを繋ぐ通路しかり、この扉しかり。よく見るとホテルのものより安物に見える絨毯には鋭利な爪を持つ奴が走ったにも関わらず傷一つない。

「もしかしてここ、昨日とは違う場所なんじゃないか?」

「何言うとるんじゃ? そんなことありゃせんじゃろ」

「よく似ている別の場所ってことはないか?」

 同じ場所だと思っているからこその違和感。ならばまったく別の場所である可能性はある。大翔ははっとして吹き抜けの下側を覗き込んだ。

「やっぱりない」

 昨日の光景は未だ目に焼きついて離れない。白いスポットライトに照らされたステージに広がった赤い血の跡。それは今はもうどこにも見えなかった。

「誰かが掃除したってことはなさそうだね」

 するとしても、いったい誰がそんなことを考えるだろうか。あのカベサーダがやっていたら、少しくらいは恐怖も紛れるというものだが。

 大翔が開いている扉を覗き込むと、そこには下りの階段が続いていた。延々と続いているわけでもなく、途中の踊り場で折れ曲がっている。

「行ってみよう」

 大翔が最初に扉のない入り口を通り、その後ろに光、尊臣と続く。踊り場で体を半回転させること三回。三人の前には一枚の扉が現れた。

「この先が二階?」

「たぶんね」

 きっちりと閉められた扉はそれだけで嫌な予感がする。それでも大翔はドアノブに手をかけて回してみた。

「開かない」

「どけ、ワシがやってみたるわ」

 大翔が道を譲り、代わりに尊臣が大きな両手でノブ掴んで扉を押す、さらに引く。それでも扉は少しも光を見せようとはしなかった。

「無理そうだね」

「奴らに気付かれても困るわな。下、行ってみるか」

 さらに下へと進むと、今度は一階に出る扉が既に開かれた状態で光を漏らしていた。

「じゃあ、この先が」

 昨日男が殺されていた場所。そうい言おうとして大翔は言葉を止めた。不安を煽る理由なんてどこにもない。

 大翔は後ろについている二人に目配せする。

「奴がいるかもしれん。気をつけろよ」

 音が鳴らないように慎重に扉を開くが、び付いた蝶つがいはきしんだ音を立てた。決して大きくはない音だが、大翔はすぐに扉を閉じて耳を当てて外の音を聞く。

 昨夜の経験上、カベサーダは音に反応してこちらにやってくる。どれほどの聴覚をしているのかはわからないが、たてないに越したことはない。

「いないみたい?」

「なら、早く調べてしまおう。奴にこられるとやっかいだ」

 もう一度軋む扉を開けて、三人は一階のフロアに出た。

 上から覗いたときに見た白いステージの他に物はほとんど見当たらない。本来なら店舗があるはずの壁側はシャッターではなく真っ白な壁に覆われていた。一階だと思っていたが出口は見当たらない。

「あの死んだ男はどっから入ってきたんじゃ?」

「最初からいたんじゃないの? 俺たちが目を覚ますのって決まってないわけだし。そもそもここが同じ場所じゃないかもしれないんだから」

 昨夜と同じステージには何が催されるかすらわかるものがない。ただひたすらに誰もいない場所を照らしているスポットライトが物悲しかった。

「ここが、昨日死体のあった場所だね」

「あぁ、俺はその瞬間も見てた」

「ワシもじゃ」

 三人でステージ上がってみる。大翔はその瞬間にカベサーダが襲ってこないかと内心怖がっていたが、周囲に変化はない。

「見ての通り、きれいさっぱりだ。拭き残しもない」

「刑事ドラマとかでよくある血痕がわかるやつとかあればいいのにな」

「ルミノールやこ準備できんわ」

「やはり君の言うとおり、よく似た別の空間なのかもしれないね。それなら扉が増えていることや死体が消えたことの説明もつく」

 光が納得したというように立ち上がる。なんだかスポットライトが妙に眩しく感じられて三人はすぐにステージを降りた。薄暗いくらいの方がカベサーダに見つかりにくい気分になる。たとえあの怪物が目ではなく音で人の存在を察知していようとも。

「でもそれじゃ、地図を作っても意味がないな」

 大翔は死体の消えたステージを振り返って残念そうに言う。

「いや、そうとも限らないよ。似ているところは多いわけだからね」

 そう言って光は吹き抜けの上を見上げた。その先には大翔たちが先ほどまでいた辺りだ。昨日はあの場所から見下ろすだけだったところに立っている。それは普段生活している時はまったく意識する必要のないことだが、新たな地を開拓したことに他ならない。

「しかし、昨日のあいつはこっから来たんじゃろうか?」

 尊臣が降りてきた階段のあった方を指差す。

「いや、違うんじゃないか? 昨日、俺たちはあの階段部屋なんて見なかった。それに昨日の奴に返り血なんてついてなかったはずだ」

「ちゅうことは少なくとも奴は二匹以上いるわけじゃな」

「ぞっとしない話だね」

 冗談じみた口調で光が言えたのは、まだカベサーダと出会っていないからだ、と大翔は思った。あの奇怪な黒光りする怪物に追いかけ回され、押し倒され、睨みつけられれば、誰でも二度と会いたくないと思ってしまう。

「そんじゃ、次行ってみるかのぉ」

 一階にもう何もないとわかって、尊臣はゆっくりと階段の方へと歩き出した。こんな閉鎖的な空間でカベサーダと鉢合わせしては逃げ切れる気がしない。巨体の尊臣ですら武器で不意打ちしてなんとか逃げる時間が稼げる程度なのだ。大翔たちは逃げるように階段部屋へ向かうと、音を立てないようにゆっくりと三階に戻った。

「あっちはあの面倒な部屋の方か」

「何も変わってなければ、ね。それより、俺がいたホテルの方を回ってみないか?」

「いつの間にか出来てた通路。あそこは通れるのかい?」

「橋下はほふく前進してもらうしかないかな」

 少し嫌そうに顔を歪めた尊臣だったが、文句は言わなかった。今さら図体を小さくしろというのは無理な話だ。

 通路の前まで戻ってくると、大翔たちとは逆に大勢の人が通路から這い出てくるところだった。こちらへの入り口を見つけたにしてはやたらと息を荒げている。

「何かあったんですか?」

 大翔は壁にもたれかかったまま座り込んでいる一人に声をかけた。顔は青ざめて今にも倒れてしまいそうだ。

「何か、ってここで慌てるようなことは一つしかないよ」

「カベサーダか」

 大翔の背から尊臣が話に割り込んでくる。大きな真っ黒な学生服を着た男がいきなり顔を出してきて、既に青かった顔からさらに血の気が引いていく。

 あの怪物から逃げてきて、目の前に尊臣のような大男が現れればパニックにもなる。この空間で最強ではないだけで、普通に生活していれば尊臣は十分恐怖に値する存在だ。

「あぁ」

「ちょっと、大丈夫ですか!?」

「なんじゃあ、やわいのぉ」

 話の途中だったというのに、大翔は恨めしく思いながら尊臣の顔を睨む。当の本人は少しも気にしていないようで倒れた男を眉根を寄せて見下ろしていた。

「奴が出た、と」

「あぁ、しかもいきなり二匹も!」

 どうしたものか、と大翔が倒れた男を床に寝かせていると、その横では光が落ち着いて情報を集めていた。

「なんだって?」

「奴は今日はこの先のホテルにいるらしい。しかもカップルだそうだ」

 あっちはそういうところだったのか、と言いながら、光は肩をすくめた。

「冗談言ってる場合じゃないって」

「とにかくここから離れた方がいい。一応この先の通路は可能な限り塞いだんだけど」

「塞いだ? もっとたくさん人がいたはずじゃ」

 通路の周りで息を整えている人の数は二十にも満たない。大翔が見たホテルの人だかりは少なくとも三十人はいたはずだ。それに見渡してもあの衛士の姿は見えなかった。

「こんな狭い通路を悠々と進んでいたら奴の餌食だ。何人かがおとりになるって言って、それから通路に入ったら道を塞げって」

「冷静で懸命な判断だ。さぞ頭の回る人だったんだろうな」

「ちょっと待ってくれ」

 光がもうその人物はいないかのように言ったのを聞いて、大翔はとっさに声を上げた。まるでもう生きてここに来ることはない。そう言っているように聞こえた。

「言うとくが助けにはいかんぞ」

「え?」

「当たり前じゃないか。こっちも命がかかってるんだ。人の心配なんてしていたらいくつ命があっても足りないさ」

「でも」

 あの衛士という大学生風の男。きっとあの男が囮になることを提案したのだろう、ということは大翔にはすぐに予想がついた。光の言った自己犠牲が強い、という言葉が思い出される。きっとチームを集めたという自負が彼をこの通路の向こう側に残らせたのだろう。

 通路を覗き込むが、モールに来た時には見えた光は出口を塞がれてほとんど見えなくなっていた。

「やっぱり」

「あほう」

 もう一度言おうとした大翔の頭に尊臣のげんこつが落ちる。今までよりも少しキツイ一撃に大翔は思わず床にうずくまった。

「命あっての物種じゃ」

「でも、何か役に立てるかもしれないだろ」

「立てるならワシも逃げるやこ言わんわ」

 いらだつように尊臣がこぼす。光はそれを横目に逃げてきた人をまとめていた。

「さぁ、できるだけ奥に逃げ込もう」

 倒れた人を肩に担いで、光は少しでも遠いところに、とあの階段の部屋を抜けた先、フードコートの方にまで行こうと提案した。疲れで床に倒れ込んでいた人たちもカベサーダの恐怖には敵わないらしく、ふらつく足で光の背中を追い始める。

 本当にこれでいいだろうか。

 助かるにはそれが一番いい。そんなことは誰に聞いたってわかることだ。

「おら、はよせい」

 背中の方で尊臣が荒っぽく大翔のことを呼んでいる。もう通路の周りに残っている人はいなかった。誰もがこの先で起こっている事実を終わったもの、あるいは自分とは関係ないものと思っている。

「俺は行くよ」

 それだけ言うと、大翔は少し前に通ったホテルへの狭い通路に潜り込んだ。

「待て、あほう!」

 大翔を追いかけて通路に入ろうとした尊臣だったが、狭い通路には簡単には潜り込めない。手を伸ばして大翔の足首を捉えようとしたものの、先を急ぐ大翔の姿はすぐに遠くなっていく。

「ごめん、でもやっぱり見捨てるっていうのは」

 できない。ヒーローになりたいわけじゃない。死にたいと願っているわけじゃない。ただ誰かが犠牲になることを黙ってみていることができないだけだ。

 通路の先に辿り着き、通路を塞ぐソファの隙間からホテルの中の様子を窺う。誰もいない、声も聞こえない。しかし、ソファの隙間を縫って外に出るのは簡単なことではなさそうだ。下手に当たって崩れでもしたら、身動きの取れない状態でカベサーダに襲われる可能性もある。

 ゆっくりと蛇のように体をくねらせながら、大翔はホテルのフロント横にい出した。床に敷かれた絨毯には赤い血の斑点はんてんが列を成していた。それを追いかけるようにカベサーダの爪が絨毯を毛羽立たせた跡もある。状況があまりよくないことは明らかだった。

 何か武器を、と大翔は周囲を見渡してスタンドライトを手に掴んだ。

 策はある。カベサーダは不意打ちに弱い。後ろから思い切り殴りつければ少しくらいは時間が稼げる。その間にあの通路を抜けていく。尊臣ほどではないにせよカベサーダもあの細い通路を通るにはそれなりに苦労するはずだ。

「よし」

 落ち着け、と自分に言い聞かせ、大翔は血の列を追いかけ始めた。

 一階のロビーの奥。ホテルの部屋が並ぶ廊下どの部屋もしっかりと扉が閉まっている。ひとつひとつの部屋が開くのかを調べるつもりにもなれない。

 血の跡を追いかけて、大翔は何部屋目かもわからないところで足を止めた。ショッピングモールもおかしかったのだから、延々と続く廊下があっても不思議には思わない。大翔が足を止めたのは血の跡が部屋の中へ入っていったからだった。

 息を飲み、部屋の扉を開ける。

 四つんばいで何かに覆いかぶさっている黒い影に持っていたスタンドライトを振り下ろした。

「おらあああ!」

 大声は恐怖を振り払うため。目を閉じたのは人の形をしたものを傷つけるのを見ないため。

 ガラスが割れる音がして、少し遅れて何かが床に倒れ落ちる音が続く。それを聞いてから大翔は目を開けた。

「今のうちに、逃げましょう!」

 不意打ちの効果はあったようだ。昨夜の尊臣ほどではないが、明らかにカベサーダの動きは鈍くなっている。

「君は、さっきの」

 首筋を押さえ苦悶くもんの表情を浮かべた衛士の顔を見て、大翔は少しだけ安堵した。まだ生きている。それならば助かる可能性があるはずだ。

 衛士がカベサーダから離れるように立ち上がり、大翔が助け起こそうと手を伸ばす。目の前の危険が少しだけ遠ざかって二人の気持ちは緩んでいたのかもしれない。互いに知っていたはずのことが頭から抜け落ちていた。

 カベサーダは二匹いた。

 わずか数分前に聞いた情報。もっとも覚えておかねばならない敵の数。衛士の顔が驚愕の色を帯び、何かを伝えようと口が動くが、声は出てこなかった。

「があぁぁ」

 大翔の背中に何かがのしかかる。

 昨夜の痛みを思い出す。肩を抑えられてはまた抜けられなくなる。大翔は体を捻り、後ろから飛びかかったカベサーダの体を横に落とすと、衛士を引き上げた勢いのまま部屋を飛び出した。

 追ってきた血の跡を逆に辿ってホテルのロビーを、その先にある通路を目指す。一匹はまだしっかりと意識がある。すぐに追いつかれてしまうだろう。

「ここでなんとかしないと」

 延々と続く廊下がどれほどの長さかはわからないが、アスリート級の足の速さを持つカベサーダから逃げられるものではない。もう一撃。どうにかして動きを鈍らせなければ食われてしまうだけだ。

 持ってきたスタンドライトは部屋に捨ててきたが、ありがたいことにホテルの廊下には同じものが等間隔で並んでいる。大翔は一つを握って後ろを振り返った。

 数は、一匹。ただ時間をかけるとまた部屋でふらついていた方がやってくるかもしれない。最初から喉には噛みついてこない。今までの経験ではそうだ。押し倒してくるというならそれに合わせてカウンターを入れる。一か八かにしては分の悪い賭けになりそうだ。

「その役目は俺がやろう」

 首筋から垂れる赤い血を拭って衛士が大翔と同じようにスタンドライトを握っていた。

「そんなむちゃくちゃな」

「それは君も同じだろ? あんなのにこんなもので挑むなんて」

 話している間に近付いてきたカベサーダに向かって衛士が先に飛び出した。

「あ!」

 衛士とカベサーダが交錯する。外から見ても結果は明らかだった。

 大きく隆起した額に阻まれたライトが砕け散る。それでもその突進は止まらない。

「よし」

 押し倒された衛士が小さく呟いた。

「さぁ、今のうちに逃げろ」

「何言って」

 昨夜の大翔と同じだ。少し違うのは大翔が言った時にはただのやけっぱちだったが、衛士にはそれなりの考えがあったということだ。

「首の傷、感覚がないんだ。たぶん助からない」

 血の量が明らかに増していた。さっきの部屋で助けた時はそれほど大きな傷には見えなかったのに。

 大翔の考えを察したように衛士は言葉を続ける。

「歳をとれば君もいろいろなことを覚えるものさ。血の止め方。それからこういうときに激しい運動をすると血が出やすくなるとか、ね」

 割れたライトスタンドをカベサーダの顎に押し込みながら、衛士は確かににやりと笑った。震える手がじりじりと下がっていく。時間はそれほど残っていないのが見てとれる。大翔の選択は決まっていた。

 持っていたスタンドライトをカベサーダの頭に振り下ろす。

 一撃、二撃、三撃。

 離れろ、ひるめ、苦しめ。

 百の怨嗟えんさを込めて攻撃を振り落とすが、カベサーダの動きは少しも止まらない。

「あああああ!」

 気合というよりは悲鳴に近かった。

 徐々に衛士の首筋に近付いていくカベサーダの口元から赤く汚れた牙が見えた。

 やがて先に耐えられなくなったライトスタンドが半分に折れ、大翔の手からは血が滴り落ちていく。

 やめてくれ、と大翔が願ったとき、ぐらりと視界が揺れた。昨夜も感じたこの光景、この感覚を大翔は覚えている。

「ありがとう」

 拳を握り、振るったか弱い暴力は赤い瞳をすり抜けて消えた。


 頭の中ではまだこだまのように声が響いていた。もう夢ではない。現実世界だと理解すると、遠く離れていくように声は消えていった。

「朝か。朝が近かったのか」

 それがわかっていたならば、その瞬間まで大翔が囮になったり、大声を出してカベサーダを誘ったりとやりようはいくらでもあったはずだ。人を超えた速度で襲ってくるあの恐怖でも現実世界にまではその牙を向けることはできない。

「くっそ」

 柔らかいベッドの端を叩く。安いベッドのアルミ枠が小さな音を立てるが、すぐに小さく消えていった。

 まずは地図を作る。そう言った尊臣の言葉に従って、枕元に置いておいたメモ用紙に触れることもせず、大翔は起き上がる。全身が重い。まるで休んだ気持ちがしない。徹夜していたほうがよっぽど楽なのではないかと思えてしまう。

 衛士は助かっただろうか。大翔が目覚めたということは同じように衛士もすんでのところで死を免れたかもしれない。

「おはよう」

「今日も起きてきた。いったいどうしたの?」

 朝食の準備をしていた晴美がわざとらしく驚いた。

「遅刻しないことに驚くのはやめてくれよ。部活行ってたときはもっと早く起きてたんだからさ」

「人間っていうものはやらなくなると知らずしらずに衰えていくものだぞ」

 既に直食をとり終わったらしい洋介がコーヒーをすすっている。今日は家を出るのが早いらしい。

 毎日同じ時間に出られない父はどうやってその体調を管理しているのか、大翔にはよくわからない。以前それとなく聞いてみたのだが、気合とやる気、という納得のいかない答えが返ってきただけだった。

 もしも、起きる時間を完全にコントロールできるのなら、あの世界で命の危機に瀕した瞬間に目覚めてしまえばいい。それができれば他の人を救うことができる。

「どうしたの、調子が悪いの?」

「顔洗ってくる」

 晴美の質問に答えないまま、大翔は洗面台に向かった。冷たい水で顔を洗うと、ようやく今は危険ではないということがはっきりしてくる。

 顔を拭いて鏡に映った自分を見ると、少し太ったように思えた。あの時から自分はグラウンドに近付かないようにしている。アイツは今、どんな気持ちでいるんだろうか。

 リビングに戻ると、朝のニュース番組では昨日に続いて不審死事件の続報が流されていた。昨日は死者が二人だったものが、今日は一気に十人と増加していて、警察は事件だけではなく奇病の可能性もあるとして、専門家と連携している、というものだった。

 死者の顔写真が画面上に映し出されると、大翔は俯くように画面から目を逸らした。

 氷室衛士の顔はその中にあった。

「助けられない? わかってるさ」

 それでもまた自分は何もできないままでただ立ち尽くしていたのだ。

「やっぱり具合が悪いなら病院に」

「いや、なんでもない。大丈夫だよ」

 心配そうに駆け寄った晴美を大翔は片手で追い払った。

 誰も自分を咎めない。むしろ優しく励ましてくれる。それが大翔にとっては何よりも重くのしかかっていた。

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