parasitemare(パラサイトメア)
神坂 理樹人
プロローグ
枕元に置いた目覚まし時計は深夜零時を越えていた。
明かりを落として黒に満たされた部屋に青白い光だけが浮かんでいる。
「よし、難関ステージクリア!」
やがてスマートフォンのバックライトも消え、部屋は完全な暗闇に包まれた。
「そろそろ寝ないとな」
明日も学校がある。しかし、それとは別に大翔はこの毎日の休息を楽しみにしていた。
「今日はどんな夢を見るだろう?」
それはまるで子供のような好奇心にきらめく瞳。
今しがた遊んでいたゲームの世界を見つめるような心地。
ベッドの上から降りることもなく冒険に旅立つような気分で、大翔は目を閉じた。
「今日は、どこだ?」
大翔は目を開けた瞬間に素早く周囲を確認する。
薄暗い世界に少しずつ目が慣れてくると、ざらついた壁を支えにゆっくりと立ち上がった。いつもと同じ高校の制服に身を包んで、大翔は学校とは関係のない場所に落とされる。
「なんだろ。ショッピングモールっぽい感じ?」
通路にはシャッターが等間隔で閉められているが、その一つ一つに看板が掲げられている。円柱状の空間は真ん中がすっぽりと吹き抜けになっていて、大翔がいる場所が三階であることがわかった。
「それにしてももう少しいい夢は見れないもんかな」
ここは自分の夢の中である。大翔はそれをはっきりと自覚していた。
自分が夢を見ていることがわかると、いつもなら急に視界が暗転して簡単に目が覚めてしまっていたが、一週間ほど前からこうして夢の世界を自由に動き回ることができるようになった。
それに気がついたときから大翔は毎日夜が来ることを心待ちにしていた。自分の欲しい世界を作り出せないか、と寝る前にマンガを読んだり、ゲームをしたりしてみるものの、いつも放り込まれるのは誰もいない潰れたアミューズメントパークや廃校になったような校舎ばかりだ。
「今日も外れだな」
口ではそう言ってみるものの、夢の中を自由に歩くことができる。その一点だけで大翔の心は期待に
何かが起きるかもしれない。誰かがやってくるかもしれない。なぜならここは自分の夢なのだ。大翔が願ったことがいつ訪れるやもしれないと思うと、目が覚めるその瞬間まで動き回りたくなる。
周囲の状況も少しずつ理解できるようなった。いつも夢の中は空っぽという言葉がよく似合った。今日も誰もいない場所でショッピングモールだろうと思ってはいるのに、店はどこも閉店で潰れてしまったと言われても納得がいく。本来なら人で賑わうはずも場所に誰もいないのは余計に寂しさが増すものだ。
誰か本当にいないのだろうか。大翔は人影を探して吹き抜けの下を覗き込んだ。普段なら絶対にやらない小学生のような身の乗り出し方。それともいっそここから落ちてしまえば空を飛ぶような力がめざめるかもしれない。
向かい側、二階と頭を動かして人の姿を探してみるが、照明の少ないモールの中ではよく見えない。さらに頭を下に向けると、一階の中央にイベント用のステージが置かれていることに気がついた。簡素な白い舞台に無地の背景が立てられているだけだが、控えめにスポットライトが落とされている。周囲が暗いせいもあってそこだけ違う世界から切り取って持ってきたような魅力があった。
「あそこに行けば何かあるかも」
テレビの向こうでしか見たことがないアイドルに会えるかもしれない。いや、夢ならマンガの中のヒロインにだって会える。大翔は体の半分を乗り出していた手すりから通路に体を戻し、下の階へと続く階段を探そうと振り返った。
「うわあああ」
階下で響いた大声に大翔はさっきまで覗いていた吹き抜けの下にまた目を凝らした。
白いステージに走りこんできたのはアイドルでもキャラクターでもなく、若い男だった。
自分以外の人間を初めて見た。
見た目は少しばかり不満だったが、この際置いておこう。大翔はさらに身を乗り出して男に向かって手を振った。だか、こちらには気付かない。
息を切らして、ステージの段差に足をとられた男は後ずさるようにスポットライトの真下に到達する。
「何やってるんだ?」
遥か下で青ざめたような表情で震えている男のことを、大翔は不思議な気持ちで見下ろしている。そこに黒い影が躍り出るようにステージに倒れた男に飛びかかった。
ヒーローショー? という言葉が大翔の頭に過ぎる。ここから颯爽とヒーローが現れて黒い影を倒して男を救う。ありがちだがシンプルで燃えるシーンだ。
大翔も昔はこんなショッピングモールの屋上や遊園地でヒーローショーを見ていた。誰よりも強くなって弱きを助け悪を倒す。一度は夢見ることだ。今でも時々思ったりもする。目の前に現れた悪を自分が成敗する時は来ないか、と。
その考えは男の周囲に広がった赤い血の跡に一瞬にして消し飛んだ。
「ぎゃああああ!」
「おいおい」
ショーにしては過激すぎはしないだろうか。今年で高校生になった大翔が本気で頭が真っ白になるほどの叫び。遠目から見てもあまりにもおびただしい血の跡。男が完全に動かなくなったのを見て、黒い影がじろりと大翔を見上げた。
赤い瞳が大翔を射抜くように見つめている。
ステージで起きた惨劇をどこか遠くの景色に感じていた大翔は、腰が抜けたようにその場にへたり込んだ。
「落ち着け、これは夢だ。ただ夢見が悪いだけなんだ」
ベッドの上で目を閉じた記憶もある。間違いなくここは夢の中だ。
そう自分に言い聞かせてみるが、大翔はもう一度階下を覗き込む勇気も出ず口に溜まった唾液を飲み下した。
その肩に何かが触れる。
「うわあ!」
「なんじゃい。えらいビビりじゃの」
立ち上がって逃げ出した一歩目で盛大に足を絡ませて転んだ大翔を、頬を掻きながら男が見下ろしていた。
薄い照明にもはっきり光るワックスで固めたオールバック。腰の下まで伸びる長ランに裾を絞った学生ズボン。バラエティ番組の昭和特集で何度か見たことがあるような数十年前の不良そのものの姿。肩パッドでも入っていそうないかり肩に大翔が見上げなくてはいけない長身。番長、というあだながこれほど似合いそうな人間もそういない。
「またずいぶんと濃いキャラクターを」
自分で生み出したものだ、と大翔は床に倒れたままヤンキー男を見つめている。ヤンキー男は呆然とする大翔を困ったように見つめ返した。
「頭でも打ったか? それとも元々アホなんか?」
「いや、大丈夫だ」
大翔はカーペット地の床から立ち上がって両手を払う。チリ一つ付かないこの空間はやはり現実とは思えない。
「そんで、自分はさっきの見たか?」
「さっきの?」
「一階のとこで誰か殺されとったろうが」
「あ、あぁ」
あれはやはり幻覚のようなものじゃなかったか。大翔が短く体を震わせたことを肯定と受け取ったようで、ヤンキー男は話を続ける。
「あれ、何なんかわかるか?」
「いや、とにかくヤバそうではあったけど」
大翔はもう一度現場を見る気にはなれずに自分が見ていた一部始終を思い返す。白いステージが赤く染まる瞬間は、想像するだけで身が凍るようだ。
あの黒い影は人の形に似ていた。襲われた男とあまり体格も変わらないようだった。ただ全身は黒ずんで少し光沢があり、間接が機能していないような脱力感が見えて奇怪だった。
「でも、たぶん大丈夫だ」
冷や汗の垂れる額を拭って大翔は漏らす。
「なんじゃと?」
「ここは俺の夢の中なんだ。たとえ怪物に襲われようが殺されようが、目が覚めてしまえばそれまでなんだから」
「やっぱり自分、頭おかしゅうなっとるわ」
考え込むように頭を抱えたヤンキー男の後ろ側。閉まっていたシャッターが大きな音を立てる。
「な、なんだ?」
規則的な音が続くとともに、シャッターの中央辺りが歪んでいく。何度目かの衝撃音で大穴が開けられたそこからぬるりと黒い影が這いずりだした。
「夢ならいっそ襲われてみるか? 目が覚めるかもしれんがな」
「冗談じゃないっての」
大翔が言うのと同時に二人は全力で走り出す。
足音に反応するように怪物が大翔たちの方へぬるりと向きを変える。
「やばい、気付かれた!」
振り返った大翔は、これが自分の頭の中にあるのかと思うとぞっとした。
背丈は一七〇センチほどだろうか。二足で立ってはいるものの背を丸めたその姿はやや小さく見えた。全身が黒ずんだ土色で覆われた怪物は顎と額が大きく隆起して、人間なら目や鼻がある辺りまで影になってしまっている。その奥で赤く浮かんだ瞳が強く命を主張して、逃げる大翔を見据えていた。
「見とる場合か!」
恐怖に飲まれそうになった大翔の肩をヤンキー男が叩く。夢の中にいるはずなのに現実と同じ衝撃が肩に伝わった。
「あぁ」
再び走り始めた大翔たちを怪物は狩る対象と認めたらしかった。
ほんの数歩でトップスピードまで達すると、恐怖に煽られてぎこちなく走る大翔の背を捕らえる。
速い。目で追えないということはないが、身体能力は人の限界に近い。テレビ越しに見たオリンピックの一〇〇メートル走よりもこちらに迫ってくる分速く感じられた。
逃げようともがいた大翔の肩を怪物が両腕で押さえつける。
激痛が走った。服の下が生温かく痺れていく。
それでも夢からは覚めない。
「殺されないと逃げられないのかよ」
もしかすると、これは夢ではないのかもしれない。浮かんだ考えを振り払うように大翔は強がって笑う。
押し倒され、うつ伏せのまま見えない何かが大翔の背にのしかかっている。その重みが少し前に階下に見た怪物のものであり、両肩に刺さっているのは怪物の爪だと理解するのに時間はかからなかった。
「ほら、とっとと逃げろよ。俺がコイツの気を引いてるうちに」
一度は言ってみたいと思っていたセリフも、口に出してみるとただのやけっぱちだということがよくわかる。あの男には届いただろうか、と大翔が全身の力を抜いた瞬間、目の前の怪物の顔が歪んだ。
「おら、無事か? カッコつける間があったらとっとと逃げ出さんかい!」
「助かる」
大翔がヤンキー男に引き上げられると、足元に投げ捨てられた消火器が目に入った。不意打ちの強打を受けた怪物は痛みに混乱しているのか、頭を揺らして立ち上がらない。
普通の人間なら死んでいてもおかしくはない。二メートル届きそうな巨体が手加減無しに振るった暴力を頭に受けてまだ意識があるだけでも普通ではない。見た目も運動能力も頑丈さも掛け値なしの怪物だと大翔は息を飲んだ。
「おし、逃げるぞ」
男の後ろについて大翔は走り出す。途中いくつかのシャッターを上げようとしてみるが、どれも固く閉ざされていて持ち上がらない。
「あ、あれ!」
通路の脇、店と店との間の小さな隙間に非常口のライトが灯っているのを見つけて、大翔は声を上げた。
「よし、開いとるな」
少しだけ開いた扉の端を掴んでヤンキー男が乱暴に扉を開く。
「なんじゃ、こりゃ」
「階段の、部屋?」
扉を開けた先にあったのはアルミの非常階段。それだけなら何もおかしいことはない。ここは三階なのだから。しかし、十数段先にある踊り場から伸びるのはさらに下りの階段が三つ。部屋の奥を見渡せば無数の階段、はしご、エスカレーターが組み合わせられている。
「ゲームのダンジョンみたいだ」
「そんな感想はいらんから、足を動かせ」
階段を駆け降りるヤンキー男の背を追って大翔はアルミの階段を踏みつけた。
何段上ったか、何段降りたかなどもう思い返すことも出来ないほど繰り返し、二人はようやく出口と思われる扉に辿り着く。
「開いてくれよ」
大翔が願った通りドアノブがくるりと回ると、二人を引き入れるように扉が開く。
「おいおい、マジか」
「これが出口、なわけないよな?」
目の前に広がるのはショッピングモールによくあるフードコート。だがその内装は先ほどまでの階段の部屋と同じくめちゃくちゃだ。
テーブルは上に観葉植物や椅子が置かれているし、カウンターの奥に客席が見えるところもある。調理に使うと思われるフライヤーが客席の中に置かれているのも奇妙だ。
知っているものとよく似ているのに明らかに違う空間。それを見ていると大翔はだんだんと頭が痛くなってくるように感じてしまう。
「何か来おるな」
溜息混じりにヤンキー男が疲れたように呟いた。
「奴か?」
「わからん。が、道を探している余裕はなさそうじゃな」
「あの物陰に隠れよう」
受け渡しカウンターが乱雑に構えられた一帯を指差して大翔が言う。ヤンキー男は黙って頷いた。
「来た」
物陰に隠れて様子を窺おうと、大翔が隙間から顔を覗かせる。階段の部屋に続く扉からゆっくりとした動きであの怪物が入ってきた。消火器で思い切り殴られたはずなのに黒ずんだ肌には傷らしいものは見えない。ただ、まだおぼつかない足取りにさっきと同じ奴だろう、と大翔はすぐに頭を隠す。
「とりあえず気付いてないみたいだ」
「あいつが何を見てワシらを見つけとるんかわからん。とにかく動くな、音立てるな。あの潰れた目じゃ、まともには見えとらんじゃろうけどな」
物陰に隠れてしまえば、もうあの怪物の姿を探ることは出来ない。
どこにいる? もう出て行ってしまったか、それともこちらに近づいてきているのか。
失敗した、と大翔はもう一度隙間を覗こうと首をひねるが、隣で睨みをきかせるヤンキー男に逆らえる気はしない。
固い床を何かが叩く音が少しずつ近付いてくる。足の爪が床に当たって鳴っているのだ、と大翔が気付いたのと怪物がカウンターを越えて横に出現したのは同時だった。
「!」
驚きの声が漏れそうになるのを口を固く結んでのどの奥に押し込める。隣で息を潜めるヤンキー男の言っていた通り、突き出た額に遮られてよく目が見えないようで頭をしきりに動かしているが、大翔の姿を見つけることはできないらしい。
小さく開けた口から出入りする酸素すら妬ましい。鋭敏になった全身の感覚が体中が痒いと訴えている。
爪の音が止まる。スポットライトのように一つだけ煌々とついた蛍光灯の光を反射して、赤い瞳が大翔の瞳と合わさった。
「ひ」
叫び声はそこで止まった。その代わりに跳ね上がった体がカウンターにぶつかって、上に乗っていたガラスのコップを大翔の横に落とす。
高い音を立ててガラスが砕け散る。
赤い瞳が迫ってくる。
もう一度襲いかかってきた怪物の姿が歪み、渦のように天地にひっくり返って、大翔は目を覚ました。
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