「セント・クラットの惨劇」

 そして、その日の午後一時。僕らは「フローティングいかだ」に乗って、ドンバルマへと再び戻ることにした。そこからは、転送所を三回ジャンプすれば、目的地「カル・カソ」のすぐ近くに到着できるのだ。

 いかだに揺られながら、僕は筆記具と製図用具を手にして、紙に向かい合っている。それを使って、紙に「正六角形」と「正五角形」を描いてみろ、というのが、教授が言い出した「幾何学の講義」の最初の課題だったからだ。

「こ、これ位はできますよ、僕にだって。前にも自分でやったことがありますから。まずは、コンパスでこうやって、円を描いてから……」

 次は、中心から「六本の半径」を引いて、円を六等分すればいいのだ。最後に円周上の六箇所の点を直線で結べば、正六角形の出来上がりだ。ただし、実際には「半径を六本引く」必要は無い。「三本の直径」を引けば、六等分は可能なのだ。丁度、ケーキに三回の包丁を入れれば、六等分できるのと同じように。ともあれ、僕はあっという間に、綺麗な正六角形を描く事ができた。

 それに比べると、正五角形を作図するのは少々大変だった。こっちは、きちんと「半径を五回」引かなければいけないからだ。しかも、六角形の場合は、それぞれの半径がなす角度は「六十度ぴったり」であるのに対し、五角形の場合は「七十二度」で、微妙な事この上ない。何とか五角形は完成したものの、六角形よりは大分いびつになってしまった。

「い、いや……こうしてやってみると、五角形って半端な形で難しいですよ~。きっと、五芒形フォーマット組むのも、凄い労力なんでしょうね」

 僕は、照れ隠しに笑顔を作った直後に、ホタルコちゃんと目が合ってしまった。彼女は、クスリと笑って見せてから、

「わたしも苦手なんですよぉ、作図。ぶきっちょだから。でも、それよく描けてますよ」

 と、言ってくれた。とにかく、優しいんだ、この子は。ちょっとしたことでも、こうして気を配ってくれる。本当は、ホタルコちゃんの手先が不器用なはずは無いんだ。あれだけの綺麗な料理も、複雑なガラス細工もあっという間に作れるんだから。

 教授の方はというと、あくまでも淡々と、

「よし、まずまず上出来だな。次は問題の『七角形』だな」

 と、次の課題を出してきた。

 七角形は、五角形よりももっと難しいだろう、という予想はついた。そもそも、「正七角形」なんて半端な図形は、人間が描く必要も、作る必要も無いのだ。実際、僕がさっき遥か上空から見下ろしたアアアの外郭部が、正真正銘「生まれて初めて見た七角形」だった。

 まず、「七角形」を描くためには、「円を七等分」する必要がある。すると、半径と半径が作る角度は、一体何度になるのだろうか。僕は紙の余白に「割り算」をし始めた。紙で計算をするなんて、何年ぶりなんだろう。

 その時、ようやく気がついた。

 「七芒形都市」という事実が秘めた、真に重大な意味を。

 教授が、僕が書いた筆算を見て口を挟んだ。

「少年、気がついたかね? 『七芒形都市』というものが、理論的に有り得ない理由が」

 確かに気がついた。気がつかざるを得なかった。

「できない! 三百六十を七で割っても、うまくできないですよ! 教授、これってどうなるんですか?」

 僕がやった割り算は、どうしても『最後の引き算がゼロにならない』のだ。こんなことは初めてだ。

「そうなるケースを、かつては一般に『割り切れない』と呼んでいたのだな」

「『割り切れない』……ですか?」

「そう。現在では、一から九までの運命数どうしで行う、いわゆる『九九』までしか、掛け算を殆ど使っていない。そして、その関係で、割り算は『一から九までの運命数で割り切れるパターン』しか教えられていないのだな。かつては、余りが出る割り算は、小学校でも教えていたのだ」

 そうだったのか。僕は、割り算の計算はどんな場合でも、きっちり行えるものだと信じ込んでいた。

「現存する全てのフォーマットにおいては、『天上界』=『垂直』=『九十度』=『最大の運命数である9』であり、『人間界』=『水平』=『0度』=『運命数無し』と解釈している。垂直が運命数『9』に対応する『九十度』であるという大前提がある限り、正七角形の外角は三百六十の七等分であり、『割り切れない』のだ。つまり『七芒形都市』なんて都市設計は、『理論的に有り得ない』のだな」

教授は、紙をファイルの中から一枚取り出した。そこには、綺麗な七角形が作図してあった。あらかじめ講義のために描いておいたのだろう。

「ただし、こうやって『ほぼ正七角形らしきもの』を『描く』事はできるわけだが」

「見た感じ、きれいに描けてますけど……それ、正七角形じゃないんですか?」

「うむ。これは、三百六十度を『四つの五十一度と三つの五十二度』の計七つに分割して作図したものだな。しかし、ほぼ正七角形だ。これが、都市の城壁なら、十分誤差の範囲内だ。他の信仰都市でも、精度はこんなものだな。しかし、『城壁を物理的に造れるかどうか』は問題じゃない。そうだな?少年」

「た、確かにそうです。幾ら、物理的に七角形の都市を建築しても、その外形をフォーマット上で『正確に定義』できていなければ、そんな都市は『七芒形都市としては』稼働させられません」

 全てのフォーマットの基本になっているのは、「世界を何等分に分割して定義するのか」だ。例えば、殆どの「四芒形都市」では、「世界は『火』『土』『水』『風』の四つの元素で成り立っている」とする、教典の記述に基づくフォーマットを採用している。そして、そのフォーマットは、物理的に四つの等しい角度を持つ、「四芒形都市」の外形と同期しているのだ。同様に、「六芒形都市」の多くは「『火』『土』『水』『風』『光』『闇』の六元素により、世界は構成されている」、等といった教義を取っている。

 「フォーマットの大前提」が「世界の等分」である以上、その世界観を体現する都市の角度もまた、きっちり同じ数で割り切れる図形でなければならない。「大体五十一度」というあいまいな定義とか「五十一度4つと五十二度3つ」という定義は不可能だ。「世界の完璧なる等分」という「フォーマットの基本原理」に反するからだ。

 よって、「七芒形」なんて形は、本来は都市の外形として採用する意味が無いし、それに対応して稼働する「七芒形フォーマット」も有り得ない。

 そして、事実アアアで稼働しているのは、「六芒形フォーマット」なのだ。

 しかし、外郭部は何故か「七角形」?

 だから、フォーマット上の直線と、物理的直線がずれている?

 訳が判らない。一体、どうなっているんだ、これは?

「教授、教えて下さいよ。結局、これはどういうことなんですか?」

「まあ、想像はついている。論理的理論的に、帰結する答は只一つだからな。しかし、いかんせん、それは余りに非常識な仮説なのだな……百%の確信が無い以上……」

 教授が一瞬口ごもった瞬間を、ホタルコちゃんは見逃さなかった。

「秘密ってことですね。うまくいかなかった時のために。わたしが作ってる、このソリッドと同じですよぉ」

「ま、まあ、そういうことだな」

 教授は、一本取られた形になった。流石の天才教授でも、ホタルコちゃんには頭が上がらない所があるのかもしれない。

 ホタルコちゃんは、またあのガラス細工をちまちまと作っている。設計図を見る限り、まだまだ一部しか出来ていないようだ。彼女を手伝ってあげたいけど、僕はまた例の「素材反転」の練習を再開する。ショウユからカラメルソースへの反転はだいぶ成功するようになったので、次はブドウからイチジクへの反転に挑戦している。法学的には、「ブドウ」と「イチジク」の「属性」は正反対なのだ。教授は相変わらず、ボードとにらめっこをしながら、そろばんをパチパチと弾いている。教授の洞察力を思い知った今となっては、一体何をしているのか、尚更気になってきた。「アアア」について、あれだけのことを見抜いていたのだから、やはり物凄い人なのだ。単に、同時にもの凄い変人だというだけであって……

「マサトさん。『アアア』の特産品って、どういうものがあるんですか? 周りに農場が見えますけど」

 ホタルコちゃんが、何気なくそんな、当たり障りのない話題を切り出した。「アアア」は、大分遠くなってきていて、その周囲に、低い城壁で囲まれた「法学農場」がいくつも見える。

「ええと……余り美味しい物はないですね。あの農場は、ヒマワリを栽培しています。植物油や飼料とかにしてるらしいんです」

 実は、僕はその話題には余り触れたくなかった。ヒマワリ農園には、触れたくない記憶が眠っているのだ。別に、いやな事があったわけでは無い。逆に、幸せ過ぎて、大切過ぎる記憶だからこそ、思い返すのが今は辛いのだ。

「凄く、広いですね……夏になると、ヒマワリが満開になって綺麗なんでしょうね。見てみたいなぁ」

 そんな、僕の気持を知るはずも無く、ホタルコちゃんの笑顔は、あくまでも濁りが無い。

 そうだ。僕はそれを知っている。忘れるはずも無い。夏になると、あのヒマワリ畑が、どれだけ綺麗なのかを。一度だけ、それを見て知っている。


 あの夏の日……


 未来には当たり前のように、幸せな世界が待っているのだと、無邪気に信じることができた、あの夏の日の記憶……


「少年、気がついてるか?」

 突然、教授が口を開いて、僕の意識を「今」へと呼び戻した。

「え? 何をですか?」

「我々は、つけられているな」

「え? 尾行されてるってこと……ですか?」

 僕は、ぞっとして、ボードを起動してみた。周囲には、僕ら以外に人間がいる反応は出ていない。

「『遮蔽幕』がばれない距離を保って、ぴったりついてきている。なかなか技術が高い『学者』だな。見てみたまえ。私のボードでは、丸見えな訳だが」

 と言って、教授はボード上の表示を見せてくれた。「アアア」の方向5キロの場所に、「人がいる」ことが表示されている。さすがに僕のボードとは、精度や調整のレベルが全く違うのだ。

「何者でしょうか」

「『アアア』当局の者に決まってるな。私が到着した時点で、マークはされていたんだろうが。妙なフリソデ服の女が入城してきたら、否が応でも目立つだろう」

 目立つ……って、そう簡単に言って欲しくない。それが分かってるなら、もっと敵に警戒されないような振る舞いをして欲しいものだ。僕だって命が惜しいのだ。

 それはそうと、やはり一連の事件は『アアア』の内部犯行だったのだ。教授の言う『オロチ』が、教団幹部のうちの個人なのか、それとも組織全体のことを言っているのかは、分からないが、この点では僕の勘は正しかった。それにしても、なんで僕とエシャのような、何の力も持っていない人間が、標的にならなければならないのだろう。余りに理不尽すぎる仕打ちだ。

「それよりも、お昼の時間です。お腹がすいたら、刺客の方と戦うことも出来ませんよぉ」

 ホタルコちゃんはランチボックスを広げていたが、中に入っている品数がやたらと多いことに驚いた。僕は、今朝見た彼女の包丁さばきの物凄い速さを思い出した。これだけの惣菜を、朝のうちに用意していたのだろうか。ついつい見逃していたけど、この子も凄い能力の持ち主だ。可愛いだけじゃなくて尊敬もできる。しかも、食べて見たら、弁当がまたしても美味すぎる。

「今日のドルマはいい出来だな」

 と、教授がくそまじめにつぶやいた。美味いなら美味いで、幸せそうな表情とか態度とかを、少しは見せればいいと思うのだが、この人は一向に仏頂面を崩さないのだ。食道楽の癖に、これほど不味そうに食べ物を食べる人も珍しい。それにしても、「ドルマ」って……?

「マサトさんも召し上がって下さい。その、ピーマンにピラフを詰めた奴です」

 ホタルコちゃんが、僕の心を読んだかのように、ドルマを勧めてくれた。確かに、これも凄くうまい。そしてまた、

「マサトさんは、凄くたくさん食べてくれるから嬉しいですよぉ」

 などと言って微笑みかけてもくれる。

 まずい……どうもまずい……。いや、料理は美味いのだけれど、この僕の状態がまずい。

 時計を見て、確認してみる……たった「二十四時間」……

 ホタルコちゃんと出会ってから、たった「二十四時間」しかたってないのに、僕はどうにかなってる。これは、かなりやられてる……

 ホタルコちゃんの行動の全てが、作る料理の全てが、僕の心にズシズシと入り込んでくるのだ。しかも、時間を経るごとに、それが重くなって来ている。

 これは、まずいのだ……

 だから、当面ホタルコちゃんの事は、極力意識しないようにしようと思った。

 あんな妙な夢も、二度と見るものか……

 絶対に見ないように、睡眠中も努力しよう……全力で努力するのだ……


☆      ☆


 エシャは、とても頭のいい子だった。

 僕には半分も理解できない難しい学術書でも、すらすらと読破してしまう。そんなエシャに少しでも追いつきたくて、僕も必死で本を読んで勉強した。

 何が目的だったわけでもない。エシャが近くにいる同じ歳の女の子なのに、エシャがとても遠くに輝いて見えた。でも、その時はエシャが本を読んでいたから、同じ物を勉強したのだ。その時の蓄積が、今の僕を作っている。

 本を読んでいない時は、いつもエシャは制御ボードを操作して遊んでいた。僕もその真似をしたかったから、自分用のボードを教師様に買ってもらって操作を習い始めたのだ。

「エシャはね、大人になったら学者になりたいの」

 ある時、エシャは無邪気にそう言った。僕は、それに軽いカルチャーショックを受けた。将来、どんな職業に就くのか、どんな夢を追っていくのか……そんな未来の展望は、当時の僕には全く無かった。エシャに置いていかれないこと自体が、勉強をする目的だったからだ。だから、情けない事に、その時は「僕も、将来学者になるんだ」とは言えなかった。「未来」という物は、なんだかとても漠然とした、雲の上の世界に思えたのだ。

 救貧院の他の子供達は、そんな大人びたエシャをやっかみ、何かにつけて陰湿ないじめを行っていた。僕は常にそれをかばっていたから、救貧院の中では、いつしか僕とエシャの二人と、他の子供達が対立する構図が出来上がってしまった。しかし、それでも僕は構わなかった。友達なんて一人もいなくていい。僕の世界には、エシャだけが居れば良かったのだ。

 そして、救貧院に入って半年たった「祝法会」の日。

 救貧院ではパーティーが開かれていた。大広間では、僕達二人を除いた子供達全員が盛り上がっていた。

「マサト君! 来て来て! お月様がとっても綺麗よ!」

 みんなの輪の中に入れず、部屋の隅でフライドポテトを頬張っていた僕の手を取ると、エシャはベランダへグイグイと引っ張っていった。

 その夜は、たまたま満月だった。普段は、白しか色彩が存在しない世界で暮らしている僕の目に、黄色い月光がとても目にしみた。手すりを両手で握り、キラキラした笑顔で空を見上げている、エシャの横顔もまぶしかった。

 エシャは突然、

「これ、マサト君にあげるね!」

 と言いながら、僕に向かって右手を差し出した。握られていたのは、赤いクルミの形をしたロケットだった。

「だから、こっちはマサト君からエシャにプレゼントしてね?」

 左手に持っていたのは、青いクルミのロケット。

 幼い日の母の死によって僕の人生は、一度リセットされた。しかし、思いもかけない奇跡が起こった。エシャとの出会いによって、再び僕の人生が始まったのだ。

「エシャは、一杯勉強してマサト君を守るの。そのロケットが、きっとマサト君を守るわ」

 その言葉で、僕の胸は一杯になってしまった。だから、遂にその時は「僕も勉強してエシャを守るよ」という言葉が出せなかった。そのことを僕は今でも後悔している。

 でも、今なら言える。

 きっと君を守ってみせると……

 君との出会いは、奇跡だったと……

 僕はロケットを持ったエシャの手をしっかりと握った。エシャの顔を正面からしっかり見つめるつもりだった。


 だけど、そこにいたのはエシャではなかった!


「ホ……ホタルコちゃん?」

「そうですよぉ。私です。どうかしましたか、マサトさん?」

 いや……違う。こんなはずは無い。

 だって、これは間違いなく、あの頃エシャが着ていた服なのだ。スカートだって、足首まで丈があるんだ。

 これは完全防護にして、露出度ゼロ、「道徳力最強」のスカートだ。

 あの時、ホタルコちゃんがはいていた「最小道徳スカート」とは訳が違うんだ。

 ……と思っていたら、信じられない事が起きた。

 シュルシュルシュル……と、妙な音を立てて、スカートが見る見るうちに、短くなっていくのだ。

 一体、何故!

 小鹿のようにほっそりしたすねが、続いて小さな膝小僧が、惜しげもなく露出されていく。

 そして……そして……

「マサトさん……! 私のフトモモはフトモモは真っ白いフトモモはお好きですか?」

 などと言いながら、潤んだ目で僕を見つめるのだ。

 だから、一体何故!

 シュルシュルシュル……と、スカートが秘めた「道徳力」はまずます減少していく。わざわざ説明するのもアホらしいが、要は「短くなっていく」ということだ! 真っ白いフトモモがフトモモが完全露出を達成してしまうということだ! 遂には、「ホノ・トム・キイ」ですら超えることが禁じられている究極の境界線「絶対道徳ライン」を突破してしまう。

「マサトさん……私に言って下さい……一目見たときから好きだったと……」

「え……? ちょっと……ちょっと待ってホタルコちゃん! やばい……それ以上は限界でしょ!」

「いいえ! 私は超えられます。今こそ乗り越えます。あらゆる限界を! 今がその時なんです! 見えそうで見えなかった全てが! 神秘で神秘なパンツが! その全貌が明らかになる時が来たんですよぉ!」

「待っ……待ってくれ! 限界に挑戦するのはいい! だけど超えちゃいけない。『道徳』は、越えちゃいけないんだああああっ!」


 ……………………………………


 と、叫んだ所で僕は目を覚ました。


 いつの間にか、フローティングいかだの上で、僕は眠りこけてしまったのだ。

教授とホタルコちゃんは、黙々と作業を続けている。時計を見ると、せいぜい眠っていたのは数十分だ。

(あれほど誓ったのに……何でこんな夢ばかり……)

 我ながら、情けない。しかも、前回よりも内容がエスカレートしているし……これから先、眠るたびにこんな夢を見続けるなら、ろくに疲れも取れやしない。

 そうこうしているうちに、ドンバルマ付属の「転送所」が見えてきた。そこから、三回の転送を行えば、目的地の「カル・カソ」は目の前なのだ。


☆          ☆


 かつて、世界にはたった三つの宗教、三つの教典しかなかった。

 「三大教団時代」のことだ。人々は、どこにでも自由に家を建てて、住むことが出来たし、世界は今よりもずっと単純で判りやすかった。しかし、五百年前、突如三つの教団の代表が、同時に教団解散宣言を行った。いわゆる「宗教破局」だ。これによって、社会の秩序は破壊され、物理法則は乱れ、遂には人々の記憶までもが欠落していった。最後に待っているのは、全ての物質が散り散りになって崩壊する、文字通りの終末。

 「世界の公理」を取り戻すため、防衛策として必要となったのが「フォーマット」だった。人々は無数の新興教団に分裂し、それぞれがフォーマットで防御した「信仰都市」内に閉じこもって暮らすようになったのだ。

 僕達が到着した「カル・カソ」も一種の信仰都市の一つだ。しかし、ここは一般市民が住むための都市ではない。学術書を管理、保管し、「学者」が研究をするための「大学都市」であり、どこの教団にも属していない中立施設なのだ。ここを運営しているのは、「大統合教会」という、全国の教団から派遣された役員で構成されている組織だ。ここが世界唯一の「三芒形都市」という特殊な形態を採用しているのは、そういった事情によるものだ。

 カル・カソの城門横に掲示してある、三角形の地図を見ながら、僕はあらためて「七芒形都市アアア」のことを思い出した。正三角形ならば、外角の大きさが百二十度で、内角の大きさが六十度となる。この場合は、内角の大きさを「三つの運命数6」として扱って、「全体形が定義」できる。やはり「七芒形都市」というのは異常だ。そもそも、七角形というのは、「本来人間が発想するはずのない図形」に思える。形が半端すぎるのだ。しかも、その事実が明らかに市民に対して隠蔽されているというのはどういうことだろう。公開されている地図は、全て六角形の城壁の内側だけなのだ。

 また、あの内側の城壁はいつ造られたものなのか、という疑問も生まれた。というのも、空から見た限り、内壁と外壁に挟まれた空間にも、びっしりと建物が並んでいたからだ。しかも、その部分の町並みはかなり荒れていていて、通行人の姿も見られなかった。あるいは「内側の六角形の城壁は後から作られたものではないのか」と、直感的に思ってしまったのだ。

 カル・カソの「入城審査」はあっさりと終わった。教授達はこの都市では殆ど顔パスになっているらしく、審査を受けたのは僕だけだった。初めて訪れたカル・カソは、とても地味な印象を受けた。実用一辺倒の都市であり、「色彩コード」が「無彩色」のせいだろう。人通りが極端に少ない通りを歩いて行くと、やがて忍びよってきた夕闇が、色味の無い町並みを一層寂寞とさせていった。

「書庫は、もう閉館の時間か。そっちの調査は明日にまわすしかないな」

 カル・カソは、一辺が一キロ程の正三角形をした小さな都市で、その大部分を占めるのは、中央にある広大な書庫街だ。教授はそれを避けて、三つある「角」の区画のうち、西側へ続く道路を進んでいった。どこに行くのかと思っていると、やがて通りの奥に平屋が並ぶ商店街らしきものがあった。近づいていくと、それは古本屋通りだった。

「ここにも民家があるのかと思ったら……古本屋……ですか? こんな所に手がかりがあるんですか?」

 カル・カソに滞在しているのは、殆どが俗世の欲望とは無縁の、好事家やインテリたちだ。そういった連中が相手なら、古本屋は結構成り立つ仕事なのだろう。

「そうだ。『アアア』に関する研究書や文献は、恐らくバハロウの手が廻っていて、封印、あるいは処分されてしまったはずだ。歴史から、自分達の敗北と『アアア』の存在を無かったことにしたいのだ」

 「蒼いたそがれ戦争」では、バハロウは大国の威信をかけて、「アアア」を攻略した。しかし、世界最高水準の知能を結集しても、「アアア」のフォーマットは不落だった。基本階層すら、解析が一切出来なかったとも言われている。その屈辱の歴史ををバハロウは封印したいのだ。

「恐らく書庫のほうでは、『アアア』の史料は全滅だろう。しかし、いつの世も、焚書というものが、完全にうまくいったためしは無いのだな。思わぬ所で見落としが出る。だから、掘り出し物が見つかる可能性があるとすれば、むしろこっちだ。それから、私が探しているのは学術書ではないのだな。そう、そこだ」

 教授が立ち止まったのは、一風変わった本屋の前だった。ウインドウに並んでいる本の表紙は、全て華麗な装丁がされており、他の本屋に並んでいるものとは明らかに異質だった。

「これは……美術書専門店……?」

 そうつぶやく僕を置いて、教授とホタルコちゃんはさっさと中に入っていってしまった。訳も分からずについていくと、既に二人は、別々に本を物色し始めている。ホタルコちゃんは、完全にプライベートな趣味が目的らしい。画集をあれこれ手にとっては、ページをめくっている。覗き込んでみると、花の画集だった。

「うわあ、綺麗ですねぇ、これ。いいなぁ……」

 ホタルコちゃんの目はきらきら輝いている。こういう時は、変人凄腕グルメ教授の有能なる助手ではなく、どこにでもいる女の子の表情になっている。ホタルコちゃんは、一旦本を閉じ、裏表紙に貼ってある値札を見ると、ため息を一つついた。

「でも、高いんですよね~。それに、今はこんな買い物している場合じゃないですし……」

 そう言って、残念そうに本を棚に戻すホタルコちゃんの姿を見た時、自分がその本を彼女にプレゼントしてあげられたら……という妄想が頭をよぎってしまった。その時、この子はどんなに喜ぶだろうか、どんな笑顔を僕に見せてくれるだろうか……と。

 やっぱり、これはまずい……

 彼女が言うとおり、僕こそそんなことを考えている場合じゃないのだ。本来は、一刻も早くエシャを救うために、全精力を傾けなければいけない。頭を一杯にしていなければいけない。昨日出会ったばかりの女の子に、プレゼントをする妄想をしている僕は……実にいけない……まずいのだ……

 教授の方はというと、商品棚を端から端まで探しながら、時折本を引き出しては中を確かめていた。僕は、美術には全く興味が無いので、薄暗い店内で手持ち無沙汰になってしまった。ぼんやりと店の外を眺めているうちに、いつのまにか、教授が店の主人に支払いを済ませて僕の所にやってきた。手には数冊の本を持っているが、一体何を見つけたんだろうか。

「少年、一応収穫はあったぞ。今日ここでする事はもう終わったな。これから宿を探そう」

「何ですか、それ? 画集に見えますけど、アアアに何か関係があるんですか?」

「まあ、あるといえばある。私にとっては、ダメ押しの裏が取れたに過ぎない。いまさら君に見せるまでも無いものだ」

 などと、またもこの人は僕を煙に巻くようなことを言うのだ。画集の中身が気にならない訳ではなかったが、教授の言うことに従うしかない。いずれ時期が来たら、これについても説明してくれるのだろう。

 教授は本屋の正面ドアのノブに手をかけると、そのまま僕のほうに振り向いて言った。

「ただ、警告しておこう、少年。宿に向かう前に『もう一仕事』あるかもしれないぞ。あるいは、このドアを開けて、道路に出た瞬間から、始まるかもしれない」

「え? 仕事……というのは、僕らを追ってきた追っ手?」

「そうですよぉ……。カル・カソについてからも、つけられてます。だから、私達は一旦教授の『体内』に避難しましょうか、教授。その……前みたいに……」

 ホタルコちゃんが言わんとしていることは、当然理解できた。僕の心拍数が急上昇する。ん……? はっきり言えばそれは「キス」のことですか? あの初めて出会った時に、いきなりしてもらった……いやいやいや「されてしまった」あのとんでもない「道徳行為」のことですか?

「いや……どうやら、まだ敵にその気は無いようだな。『これ』を見る限りでは遠い」

 教授はボードの表示を見ながら、僕のそんな妄想を、幸か不幸か断ち切ってくれた。さらに、

「平気だ。道に出て問題ないだろう。少年には、いらない期待をさせてしまったようで悪かったが……」

 と、皮肉っぽい笑みを浮かべた。

 鏡で見たら、僕は思い切り赤面していたに違いない。こっちの心を思い切り見透かしているのだ。だからと言って、それを口にするのは、幾らなんでもひどいと思う。ホタルコちゃんの顔をチラと見ると、幸いなことにすまし顔だ。これで、もし彼女に苦笑とかされてしまったら、僕は恥ずかしさで卒倒してしまう所だった。


☆      ☆


 僕の心のもやもやは、その後も晴れなかった。夕食のために入った町のレストランで、イータリア風麺料理「スーパーゲット」の茹で加減について、教授の訳の分からない講釈をたっぷり聞かされている時も、心ここにあらずの状態だった。

 食事を終えると、僕らは適当な安ペンションを見つけ、素泊まりで一泊することになった。

 ペンションの室内で、ホタルコちゃんは、またガラス細工をくみ上げる作業に没頭しており、教授は教授で、隣の部屋でソロバンを弾き続けている。僕だけが例の素材反転の練習をする気にもなれずに、ソファでグダグダしている。我ながら、情けない。

 こんな状態になった理由ははっきりしている。5年間もの間、僕が抱えてきた僕の存在理由、「エシャへ抱いている想いの絶対性」が脅かされているのだ。別に、エシャへの想い、そして彼女との出会いの奇跡を信じる気持が揺らいでいるつもりは微塵も無い。断じて、エシャは今の僕にとっての全てなのだ。

 だけど、それと比較して、ホタルコちゃんに対して感じている、僕のこの気持はどうなんだ、という「大問題」が持ち上がったのだ。例えば、今すぐ目の前で彼女が敵に襲われて、命の危険にさらされたとしよう。その時、僕はきっと彼女を助けたいという気持を抱くに違いない。それも強烈に。一体、それはエシャを守りたいという気持と、少しでも差があるだろうか……と胸に手を当てて考えてみる。

 恐ろしいことだが、きっと「全く無い」のだ。

 出会って一日しかたってない女の子に対しても、助けたいという気持の重さが同じだとすれば……僕にとって、エシャとはそれだけの存在だったのか、そんなに自分の気持は軽いものだったのかと、重大な疑問が勃発してしまったのだ。

 そもそも、僕にとってホタルコちゃんとは一体何者なのだ。それを突き詰めてみる必要がある。ホタルコちゃんは、まずもって外見が可愛い。小柄で華奢でそれでいて、立ち振る舞いはシナシナッとして優雅で女らしい。一方、仕事となるとキビキビと動き、テキパキとこなし、それでいて、歩き方はどこか不器用そうにパタパタとしていて……

 ……ん? ちょっと待てよ?

 ホタルコちゃんの一挙手一投足をさらに「擬音つきで」思い出してみる。時にはペタペタとも歩き、クニッと顔をかしげ、フニュッと身体を押し付けてきたり、トポトポとお茶を注いだり、フワフワっと微笑んだり……

「あの……マーサトさん。どうしたんですかぁ?」

 ホタルコちゃんの「その声」を聞いて、僕は雷に撃たれたように悟った。

 これだ、これなのだ。

 ホタルコちゃんの「構成成分」を全て「擬音」に置き換えてみて、ようやく気がついた。彼女は、基本的にはしっかりした女の子だ。だから、「ホタルコちゃん成分」は、大別して八割ほどが「カチコチッ」「テキパキッ」系で占められている。しかし、その中にどこか危なっかしいような、頼りなさげな、保護欲を掻きたてられるような、「フニフニッ」系の部分が二割ほど含まれているのだ。彼女の語尾にしばしば現れる「かぁ?」という、少し舌たらずな感じ。これこそが「八割のカチに隠された二割のフニ」の象徴……。僕はきっとここにやられている……

 こんな、訳の分からないことを考えながら、我ながら呆れながらも要約すれば、そんなホタルコちゃんが「滅茶苦茶僕の好みのタイプ」だということであって……いや、正確に言えば、女の子といえば、エシャしかまともに接した事の無い僕の好みのタイプが、今やっと判明した……きっとそういうことなのだ。

「あの……顔色が悪いようですけど、どこか具合が悪いんじゃないですかぁ?」

 や……やめてくれ!それが「二割のフニ」なんだ!その語尾の「かぁ?」を言われるとやばいのだ!

「いや……なんでも無いです。大丈夫です。なんか体が火照ってるみたいで……ちょっと、ロビーに行って頭を冷やしてきます」

 どうもホタルコちゃんが傍にいると、何も手につかない。僕は、適当な言い訳をして一時避難することにした。ペンションの階段を下りて一階の薄暗いロビーへと移動する。

 幸い受付にボーイは見当たらないようだ。一人で考え事をするには丁度いい……と思っていたら、背後から人が歩く気配が近づいて来た。振り向いてみると、やって来たのはティーカップを手にした教授だった。

「少年、ぼやぼやしている暇は無いぞ。例の『素材反転』の練習をしたほうがいいな。君に降りかかった危機を乗り越えるためには、必要な技術だ」

 教授の言葉に僕は反発を覚えた。別に僕はぼおっとしている訳ではない。これでも僕なりに、自分の人生と真剣に向かい合っているつもりだ。そう……「二割のフニ問題」と。

「それにしても、様子がおかしいが。君は、何か迷いを抱えているのでは無いか?」

「いや……そ、そんなこと無いですよ」

 きっと、僕は思い切り「図星だ」という顔をしてしまった。これでは、教授の目をごまかせるはずが無い。

「はっきり言おう。今君は、恋愛という岸壁のてっぺんで、右も左も分からず、フラフラとさ迷っているのだな」

 僕は、あえて否定しなかった。この人には全てが筒抜けだろうからだ。何しろ、彼女の職業は占い師なのだし。

「このままでは、君はやがて地上へと真っ逆さまに落下して、頭蓋骨を粉砕骨折して、脳みそを垂れ流しなら死亡して、その後はハゲタカに内臓をツンツンついばまれて朽ち果てる運命だな」

 い……いくらなんでも、そこまで酷い例えをしなくてもいいんじゃないかと思いますが……

「だから君は、今君が抱いている感情の正体と、向き合う必要がある」

「僕が抱いてる感情……ですか」

「つり橋の上の男女は恋に落ちる、という理論について、聞いたことがあるかね?」

「はあ? なんですか? それは」

「つり橋の上の男女は、今にも落下しそうな高い場所にいるという恐怖を、たまたま目の前にいる異性への恋愛感情にシフトしてしまうという現象だ」

「それは……無茶苦茶ですよ。恋っていうのは、そんな単純な話じゃないと思いますけど……」

 ……と、言っては見たものの、自分の言葉に確たる自信があったわけではない。確かに僕は昨日、絶体絶命の危機の瞬間にホタルコちゃんに出会い、「道徳的な太もも」と「道徳的なキス」のおかげで、心拍数がさらに爆発したのだ。それを今まで引きずっているとすれば、この胸の高まりは、単なる「つり橋上でのこっけいな誤解」に過ぎない……と、教授はそう言いたいのだ。

「まあ、君に言いたい事は、恋などという物は、全くの幻なのかもしれない、ということだな。その真実と向き合う勇気も大切だ」

 それでもやっぱり、僕はそのような言い分には抵抗を覚える。理屈ではなく本能的にだ。教授は、世の中の全てのことを、ソロバンでパチパチと計算できるし、論理で解析できると思っているらしい。人の心さえ、恋も愛も友情も、ただの生理現象にしか思っていない。こういう人とは、きっと僕は永遠に平行線なのだ。

 でも、その能力については全面的に信頼するしかない。エシャを救うためには、この人だけが頼りなのだという、相反する気持も同時に持たざるを得ないから複雑だ。


☆             ☆


 真夜中に、ふと目を覚ました。

 そこは、安ペンションのソファの上だった。当然だけど、僕は教授とホタルコちゃんとは別の部屋で寝ていたことを思い出した。部屋の中は墨を流したように真っ暗だ。目を凝らすと、時計の針は深夜の二時をさしている。

 酷くのどが渇いてる。このせいで目を覚ましたのだろう。ふらふらと洗面所に行って、コップ一杯の水を飲み干した。部屋に戻って来ると、ソファの向こう側にあるカーテンが開いている事に気がついた。サッシも開いていて、外にベランダの手すりと夜空がのぞいている。

 覚醒しきっていない僕の頭にガツンと衝撃が走った。まさか、誰かが侵入したのか? 例の追手だろうか!

 恐る恐る、カーテンの傍まで近づいていった。ベランダに誰かが立っている。瞬間、恐怖で身体が凍りつきそうになったが、それはすぐに安堵へと変わった。

 僕の気配に気がついて、振り向いたのはホタルコちゃんだった。

「あ、マーサトさん、ごめんなさい。起こしちゃいましたか?」

「ああ、びっくりした~ 誰かと思いましたよ。いや、のどが渇いて目を覚ましたんです」

「私もそうなんです。そうしたら、お月様が出ていたから……」

 確かに夜空がやけに明るい。別に僕は月を愛でるような風雅な趣味なんて持って無いけれど、ベランダに出て、空を見上げてみた。満月が少し欠けた位の形をした月が、煌々と光をたたえている。

「綺麗ですね……」

 そんな、鈴の音のようなホタルコちゃんの呟きを耳にした時、何故だか、僕はふと思い立った。今が、これまでずっと引っかかっていた事を、ホタルコちゃんに聞くチャンスなのだと。二人きりで話せる機会なんて、この先二度と無いかもしれないのだ。

「あ……あの、ホタルコちゃん。聞いていいですか?」

「え?……なんですか?」

 ホタルコちゃんは、怪訝な顔をして、振り向く。

「その……教授とはずっと一緒に暮らしてるんですか?」

「ええ、そうですよ」

「そうなんですか。いや……すみません。教授ってどんな人なんだろうと思っただけなんですけど」

「そうですね~。教授は、不思議な人ですよ。私にも良く判らない事が多いんです」

「え? そ……そうなんですか? ホタルコちゃんでも、やっぱりそう思うんですか?」

 ホタルコちゃんは、クスリと笑って、

「変わってますよね?」

 と言った。

「ええ……それは……まあ、そうですね。一緒に暮らしていると、色々大変じゃないかって思いますけど……少々……」

「でも、一緒に居るのは、きっとよく判らないから……なんだと思います。ひょっとしたら、教授と出会ったのは、奇跡なんじゃないかって。それを確かめる事が目的なんですね」

 その時、僕は気がついた。

 この、シチュエーションは……?

 ベランダと月夜……この構図……僕たちの位置関係……

 そっくりだ……

 5年前、エシャとロケットを交換した、僕が「出会いの奇跡」を確信した、あの月夜の晩の記憶と、目の前の光景とが重なり合った。

 これは……

「きっと、人との出会いは、全てが奇跡なんですよ……私はそう思ってます」

 ホタルコちゃんのその言葉が、僕の中にある、何かの引き金を引いた。


(それじゃあ……)


「それじゃあ……僕とホタルコちゃんの出会いも……それも奇跡ですか?」

「え……?」


(しまった……!)


 何て事を口走ってしまったんだ、僕は!

 再三見た変な夢の中身と、現実とが一瞬ごっちゃになってしまった。

 人生最大の失態だ!

 まるで、これじゃあ「愛の告白」をしたみたいじゃないか!

「あ……! す、すみません! へ……変なこと言っちゃって! 気にしないで下さい。本当にすみません! い、い……今言った事は全部忘れて下さい!」

 僕は、ホタルコちゃんから顔を背けて、うつむいてしまった。その直前に、彼女が困惑の表情を浮かべたのを、垣間見てしまったのだ。

 もう、とてもじゃないが、この子と、正面から向かい合うことなんて出来ない……

「それは…」

 と、ホタルコちゃんは遠慮がちに言葉を切り出した。

 駄目だ……それ以上は聞けない……

 こんな恥ずかしい事を言った僕に、彼女が何て答えるのかなんて、聞けるものか……

「わたしとマーサトさん次第ですよ」

「え……?」

「だから、頑張りましょう。短い間かもしれませんけど」

 結局、返って来たのは、そんなとても謎めいた言葉だった。情けない事だけれど、その隙間に潜んでいるホタルコちゃんの真意は、愚かな僕には少しも汲み取れなかった。

「そうすれば、奇跡になります……きっと」

 あるいは、ホタルコちゃんは、何の濁りも無い笑顔を、僕に向けてくれたのかも知れない。しかし、それを確かめる術は無かった。その時は、結局彼女の顔を見ることができなかったのだ。

「もう、寝たほうがいいですね、きっと。明日も、忙しくなりますから。おやすみなさい。マーサトさん」

「あ……そうですね。おやすみなさい」

 その後は再びソファに横になったものの、なかなか眠りにつくことができなかった。柔らかに降り注ぐ月の光を身にまとい、僕に微笑みかけてくれる彼女の幻影が、いつまでも頭の中に渦巻いて仕方が無かったのだ。


☆           ☆


「でもね。どの道、辛い選択しか残されていないというのも確かなのよ」

「それはそうですよぉ……」

「全てが丸く収まって、美しい結末を迎えられる方法があるのなら、私もそうしたいわ。でも、幾ら考えても、そんなものは無いのよ」


 そんな会話が頭の中に入り込んできた……


(一体、何だこの声は……)


(それより、僕は一体どこにいたんだっけ……)


「でも……確かにそうかもしれませんけどぉ……」


(そうか……僕は「カル・カソ」に来てたんだ。それで、安ペンションに泊まって……)


「辛いですよぉ……」


(誰がしゃべってるんだ……?……一人はホタルコちゃん……?)


「でもね、ホタルコちゃん。とっくに、サイは投げられてるのよ。覚悟を決めないと。後は彼の問題ね……」


(もう一人は……誰だ?……ホタルコちゃんと会話してるのは……?)


「どの道、過ぎて行った時間は元には戻らないのだから……どう転んでも……ね」


 その言葉の辺りで、僕はようやくはっきり覚醒した。もちろん、寝ていたのはソファの上だ。

「あなたが気に病んでも仕方の無い事よ……」

 ……と「教授がしゃべっている所で」、僕と教授の目が合った。

(え……?)

「教授」は、急に鳩が豆鉄砲を食らったような顔になった。

(今のは、「教授」が話していた……のか?)

「あ……ああ、少年、起きたのか」

「え……ええ。お早うございます……」

「お早うございます。マーサトさん」

 ホタルコちゃんは、いつもと変わらずホンワカと笑顔を向けてくれたが、僕は思わず彼女から目を逸らしてしまった。昨晩の、僕の「失言」の件が頭をよぎったのだ。

「あ……お早う、ホタルコちゃん……ええと、今の……」

「話、聞いてましたか?」

「え……ええ。内容は良く判らなかったですけど」

「今のは、ドクターの『プライベートのしゃべり方』ですよぉ。マーサトさんがこれまで聞いていたのは、『仕事用のしゃべり方』です」

 教授の方を見ると、意図的にか、僕から目を逸らしている。何だか、頬を赤らめているようにも見える。

「まあ、そういうことだな。君はあくまでも『仕事の依頼主』なので、こういう話し方をしているわけだ」

「あ……ああ。そうだったんですか。そういうことだったんですね」

「少年、急いで着替えたまえ。朝食を取ったら、『書庫』へ調査に行かねばならないからな」

 僕は、まだ半分寝ている身体に鞭を打って起き上がると、顔を洗うために洗面所に向かった。しかし、トイレに入っている時も、歯を磨いている時も、先ほどの教授のしゃべり方が、頭にこびりついて離れなかった。

 一体、どういう人なんだろう……

 僕にとって、教授と言う存在は、ますます深まる謎となってしまった。


☆         ☆


 ペンションを後にした僕らは、いよいよカル・カソでの本命、書庫街へと向かった。教授は、勝手知ったる場所なので、迷う事も無く、さっさと歩いていってしまう。

「まずは、報道資料館に行こう。最近の新聞を調べたいのだ」

 カル・カソにあるいくつもの書庫は、分野によって構造が使い分けられている。僕らが最初に向かったのは、8号館というひょろ長い建物だった。一階の総合案内所に行くと、大きな「検索ボード」があった。これで、目的の資料をすばやく見つけられるのだ。ホタルコちゃんは手馴れた様子でボードを操作し始めた。

「ドクター。どういう条件で探しますか?」

「先月の『十六日以降』に起こった事件だ。『少女』と『変死』という単語でひっかかるだけ調べてみよう」

「十六日以降」って……随分と「具体的な指定」に僕は驚いた。一体何の根拠なんだろう。

 検索ボードの上にパラパラと光が点滅し始めた。十個前後が引っかかったようだ。それぞれの光は、目的の資料が建物内のどこに保管されているかを表しているらしい。これを僕らのボードに移せば、効率的に閲覧できるというわけだ。教授は手馴れたもので、殆ど迷うことも無く、各フロアから問題の資料を集めることが出来た。僕は、金魚の糞のように、それにくっついて行くだけだから楽なものだ。教授は閲覧室に行くと、集めた資料を机の上に置き、僕らを椅子に座らせた。

「まあ、説明するよりも、見たほうが早いだろう。少年、この新聞の八面だな。クリク文字だから読めるだろう」

 渡されたのは、極北の信仰都市「ガンパン」」で発行された新聞の社会面だ。紙面を見渡して、すぐに目に入ったのは「少女の変死体」という記事だった。

「赤の月二十日。トポラ区三十四在住のニシル・キョウさんの娘ミュウさん(十歳)が、自宅の裏庭で、バラバラ死体で発見された。ミュウさんは頭部と両腕と下半身が切断された状態で死亡していたが、出血は殆ど無かった。尚、胴体の上半分は、見つかっていない。また、ミュウさんの死体の傍には、身元不明の焼死体が発見された。警護局は殺人事件と見て、行方不明のミュウさんの母親キョウさんの捜索と事件の捜査を開始……」

 そこまで読んだところで、教授が次の新聞を渡してくれた。そちらはまた別の都市の新聞だった。文法は見慣れないものだったけれど、大体の文意はつかめる。

「サツキの八日十五時頃、通行人がキュージ公園で、左脚が切断された少女の遺体を発見……」

 僕は、思わず教授の顔を見上げた。

「後は、読まなくても分かるはずだ。十歳前後の少女が、身体の一部が切断された変死体で発見される。同様の事件が、一ヶ月間で、立て続けに起こっている訳だ。当然、偶然ではないな」

「あの……他の事件では、被害者は身体のどの部分を……つまり……」

「君が知りたい事は分かる。余り聞きたくはないだろうが、知っておかねばならんだろうな。類似の事件は6件。切断された箇所は、左足、右足、胴体下半分、胴体上半分、左腕、右腕……だな。」

 と、言いながら、残りの記事を並べて見せた。

 分かってる、教授が言いたい事は分かってる……

 人間の身体で、それ以外の部分は「頭部」だけだってことだ。

 僕は、エシャの身体のことを思い浮かべた。肌の色が土気色に変色し、硬直が進行し、徐々に動かなくなっていくエシャ……

 だけど、「頭部」だけは違う。硬直化もしていないし、みずみずしい肌を保っている。それこそ首の途中で「くっきりと切断されたような境界線を作って」首から上だけ肌の色が違うのだ。

 僕は頭がおかしくなりそうだった。一体、「誰が」「何のために」「どうやって」そんなことをするのか、については分からない。それは、知ったことじゃないんだ。でも、これからエシャに何が起こってしまうのか、それは嫌でも判ってしまった。

 気がつけば、僕の身体は悪寒で震え始めていた。恐怖で身体が凍りつきそうだ。ホタルコちゃんは、僕の両肩に背後からそっと手を添えてくれた。僕のことを気遣ってくれているらしいのだが、今の僕は、それをどのような感情で受け止めていいのか判らない。

「ホタルコ嬢、例の『あれ』をやってくれ」

「あ……はい」

 「あれ」とは一体……? 何のことなのかと思っていると、ホタルコちゃんは、バッグの中から、一つのガラス製の振り子を取り出した。

「ええと……それって『孤島のあけぼの』ですか?」

 僕は、「ソリッドネーム」でその道具の名前を呼んだ。

「いえ、これはソリッドとして使うんじゃないんですよ。見た目の通りに、ガラスの振り子として使うんです」

 と言いながら、左手で持った振り子を小刻みに振りはじめた。右手の平は制御ボードに置いている。

「少年。ホタルコ嬢の気を散らさないでくれ。これは彼女の特技で『コックリ』と呼ばれているものだ」

「え? コ……クリ?」

「その振り子を物体の上で振ることで、それに関する『記憶のような物』を探れるのだな」

「え? 振るだけで?それだけでそんなことが出来るんですか?」

「うむ、驚くことに、この能力は『ソリッドを一切消費しない』のだ。つまり『法ではない』のだな。歯を磨くのにソリッドを消費しないのと同じで『単なる行為』なのだ。私は散々研究したが、こればかりは全くメカニズムが分からない。しかし、そういう事が出来るという事実だけははっきりしているのだ」

 ホタルコちゃんは、目をつぶり、眉をひそめたまま振り子を振っている。やがて、ボード上に、文字が一つずつ表示されていく。「M」……「A」……「D」……僕はまだその能力に半信半疑だが、ホタルコちゃんが、そんな隠し玉を持っているというのは意外だった。

「終わりましたぁ。これで全部です。後は何も出ませんでした」

 ホタルコちゃんは目を開けて、教授と僕が読める向きにボードを回転させた。僕は、ボード上に表示された「つづり」を読んでみる。

「マドゥ……? ウカ?」

「それが、敵の……『オロチ』の名前です」

「名前?……それは、間違いないのか?」

 教授は、あくまで冷静に、しかし、わが意を得たりという反応をした。

「名前です。それは確かです。不思議なくらいはっきり分かりました。こんなことは初めてです」

「良くやったホタルコ嬢。これで目処はついたな。少年、『アアア』に戻ろう」

「え? もう戻れるんですか? エシャを助けることは出来るんですか?」

「単純に、『ここでする事はなくなった』ということだな。もう、全ての裏は取れた。『オロチ』が何者かも分かったし『なぜオロチがオロチなのか』もはっきりした。そして、我々にはもう時間が無いらしい」

 教授のその言い方に、僕は引っかかった。

「無いらしい……って?ひょっとして『時間が無い根拠』が具体的にあるってことですか?」

 教授は、一枚のメモ用紙に何やら数字を書き始めた。それを書き終わると、僕に読める向きにして、メモを机の中央に移動させた。

「つまり、こういうことだ」

 教授が、何を言わんとしているかは、すぐに判った。メモに書かれているのは、連続変死体が発見された「日付」なのだ。「五月十八日」「五月二十二日」「五月二十七日」「五月三十一日」「六月五日」「六月九日」「六月十三日」。

「少年も、こうすれば判るな。クリスト系の暦で換算して並べてみた」

「ドクター……つまり……この『間隔』から行くと……」

「そうだ。。だから、一刻も早くアアアに戻らねばならん」


☆               ☆


 その後、僕らは時間の節約のため、手分けをして、全ての書庫で検索をすることになった。「アアア」関連の研究書、歴史書が存在しているかどうかを念のために調べたのだ。しかし、それは全くの無駄骨に終わった。物の見事に「アアア」に関する資料は一つも存在していなかった。バハロウによる情報操作、焚書はかなり徹底しているようだ。しかし、教授はそれについては、失望はしていない様子だった。先に言った通り、すでに十分な材料を仕入れたということらしい。僕らは、カル・カソから外に出る為に、南の城壁の中央にある城門へと向かった。

 僕の頭は、いろんな意味で混乱の極に達していた。エシャに迫り来る死の危機。ホタルコちゃんのこと。「マドゥ」という名であるらしい、敵「オロチ」のこと。何から何まで、分からないことだらけ、心配なことだらけで、僕が消化できる問題量の限界をとっくに超えているのだ。教授によると、事件の解決に向けて目処は立ったらしいが、肝心の当事者の僕の方は現状把握すら出来ていない。

 ここでひとつ、自分が直面している謎や問題点について、整理しておくべきだと思った。今更ながら、教授が前に言っていた言葉を思い出した。大事なのは、「情報の整理」と「無駄のそぎ落とし」、そして問題点の「分析」と「細分化」だと。

僕の乏しい頭で考えてみると、それは、ざっと以下の通りとなった。


・ 教授は何故に敵のことを「大蛇」とか「オロチ」と呼んだのか。それには意味があるのか無いのか。

・ 教授は、「アアア」の別名に「ウウウ」というものがあると、何故分かったのか。単なるあてずっぽうではないのか。

・ 「オロチ」がノートを取り出したときに、僕が抱いた「違和感」は一体何だったのか。

・ 「アアア」は何故に七芒形の城壁の内側に六芒形の城壁が作られているのか。あれは、元々あったものなのか。完全都市であるはずの「アアア」が、何故にそんないびつな構造を取っているのか。

・ そもそも、「七芒形の都市」など有り得るのだろうか。七角形は余りに半端な形だ。三百六十度は七では割り切れない。それでは、外角も都市の外形も定義できないでは無いか。

・ 教授が古本屋で買った本は、一体何か。何故に「美術書」なのだろうか。

・ ホタルコちゃんが時間をかけて作っている、ガラス細工のような「自作ソリッド」は、どのような働きをするものなのか。

・ 何故に、「素材反転」が僕にとって必要な技術なのか。教授は根拠があってそんなことを言っているのだろうか。

・ 一日に何度も定期的に教授が行っている星座盤を使った「作業」は、一体何なのか。

・ 「オロチ」は何のために、少女達を次々に殺害しているのか。しかも、身体の一部を欠損させて。

・ 教授は、資料を検索するときに「先月の十六日以降に起こった事件」に絞っていた。「この日付」にはどういう根拠があるのか。

・ ホタルコちゃんは僕にとって何者なのか。すなわち「二割のフニ」問題。はたして、エシャへの長年の思いと、つり橋の上の誤解とは同等なのか。


 こうしてみると、何から何まで謎だらけだ。教授は語るべき時が来るまで、僕に手の内を明かさないつもりなのだろうけど、果たして、これら全てが解ける時が来るのだろうか……などと、グダグダ考えていたら……

 突然教授の声が耳に飛び込んできた。

「少年。ぼおっとしている場合では無いぞ。一仕事ありそうだ」

 僕ら三人は、カル・カソの「出城手続き」を終えて、ちょうど城門をくぐった直後だった。

 前方に一人の人物が立っている。

 真っ白い法衣を着た中年男性だ。

「君らに少し質問したい。一体何をかぎまわっている?」

 その法衣には見覚えがあった。アアアの教団幹部が着るものだ。一目瞭然、僕らをつけていたのはこいつだったのだ。

 城門の前で待ち構えていたなんて。

 僕の背筋に、ビリビリと緊張が走る。

 しかし、教授は全く動じていない。それどころか、むしろ嬉しそうな表情を見せて、

「ようやく、接触して来てくれたわけだな。随分待たされたものだが」

 などと慇懃に言った。男は、露骨に眉をひそめて、

「待たされた?どういうことだ?」

 と、横柄に答えた。

「派手なフリソデを着てアアアに入城したのも、都市の外形が見渡せる高高度に飛んで見せたのも、あなた方に注目されるのが目的だったわけだが……ようやく私達を『危険人物だと評価』してくれたということかな?」

 そうだったのか。あの高高度へのジャンプにはそんな目的も……しかし、冗談じゃない。何が嬉しくて、わざわざ教団トップにマークされるような目立つ行動を取ったんだ? おかげでこうして尾行される羽目になったじゃないか。奴らの中に「オロチ」が潜んでいるんだぞ。あるいは、組織全体が敵かもしれないのに。

「何が望みだ、小娘。はっきり言ってみろ」

 男の表情は一層険しくなっている。

「よろしい、それでは率直に言わせてもらおう。私は、あなた方に要求があるのだ」

「要求?……だと? お前が?……我々に?」

「そうだ。。重要な話があるのでね」

 度肝を抜かれた。

 教授が、一体何を言い出すのかと思っていたら、これだ。

「トップ」って……? まさか「教主」……?

「ば……馬鹿なことを言うな! お前ごときに『教主』様がお会いになる理由があるものか!」

 全くその通りだ。教授の社会的地位は、「公認学者」でもない、ただの一占い師なのだ。信仰都市の最高権力者である「教主」が、相手にするはずもない。

 しかし、教授は全く動ずることもなく、一冊の本をこれみよがしに突き出した。

 例の古本屋で買った美術書だ。

「これについて、説明願おうか……」

 と、意味深な笑みを浮かべながら、教授はしおりが挟まっていたページを開き、男に見せ付けた。僕の位置からだと、そのページに書いてある物は全く見えない。

 しかし、男は一瞬目を見開くと、本に向けて視線を釘づけにしたまま、顔を見る見るうちに歪ませていった。

 何だ……? 一体、あの本に何が……?

「ど……どうやら、穏便に事を済ますことはできないようだな! お前達がここで集めたものを、全てこちらに渡せ! さもなくば、容赦はしないぞ!」

 眉間にしわを寄せ、切羽詰まった表情で、男がすっと右手を前に上げると、前方の空間にずらりと、光る文字と数字が浮かび上がる。

 そして、それらと重なって、出現したのは、七つの「懐中時計」。

 驚愕の余り、僕は、危うく大声を上げる所だった。

 「セント・クラットの惨劇」だ!

 しかもいきなり七つが同時に「起爆待機」状態!

 時計類は、例外なく強力なソリッドだ。「日時計」よりは「砂時計」、「砂時計」よりは「機械式時計」の方が高級ソリッドとなる。そして「懐中時計」ともなると、鉄製の量産品であっても、基本階層フォーマットで使用する範囲では、最強の部類だ。

 つまり、奴は問答無用で僕らを葬り去るつもりなのだ。

 僕は、一瞬にしてパニック状態に陥った。

 ホタルコちゃんは、既にボードを起動させて操作を始めたようだけど、教授は全く敵に対抗している様子が無い。

 またも、法学装甲も無しで、無防備状態だ!

「ホ……ホタルコちゃん。僕らは避難しなくていいのかい? その……あの……前みたいに……」

「教授の『体内』に退避しなくていいのかってことですね? 大丈夫です。落ち着いて下さい。それほどの事態にはなりそうもありませんから」

 ホタルコちゃんも全く動揺していないようだ。僕だけが、情けないことに我を失っている。

「そうだな、少年。一昨日の仕事は、いささか変則的過ぎたな。今回こそは、絵に描いたような、我々の『基本パターン』を君に披露できそうだ。向学のためにも、是非見ていたまえ。ああ、そうだ少年。それから……」

 教授がそんな講釈をしている間に、敵が出した「セント・クラットの惨劇」のうち、一番端の物が音を立てて振動を始めた。これは、明らかに『起爆直前』の動向だ。

「ちょ……ちょっと、ドクター……敵のソリッ……」

「まんじゅうは美味かったかな?」

「は?」

「昨日食べた、C.M.H.S.は美味かったかと聞いているのだが?」

「な……何言ってんですか!こんな時に!……もう、敵のソリッドは起爆……!」

「ん? 私は昨日の朝、C.M.H.S.の感想については『明日の課題としておこう』と言ったはずだが? そして、今の時刻は8時5分。昨日君が最後の一口を飲み込み終わってから、『二十四時間と二分』が経過している。すなわち、『一日が経過した』ということでもあるし……」

「ちょっ……いい加減にして下さいよ!僕もここにいるんですよ!早く敵の攻撃に対処を……!」

 教授の態度は、敵の怒りを爆発させたようだ。無理も無い。

「一体、何をごちゃごちゃ言っている。こちらの言うことに従わないなら、死ね!」

 敵のソリッドが放つ光が急激に膨張する。

「この程度の攻撃は、会話しながらでも、さばけるわけであって、よって……」

 キイッ! という甲高い炸裂音と共に、紫色の光がほとばしった。

 矢のように鋭い、無数の爆炎の束が、三百六十度あらゆる方向へ、直線的に放出される。

 しかし、教授は微動だにしないまま、自分に向かって飛んできた爆炎を全て四方へ鋭角的に弾き飛ばした。

 左手の人差し指から、「直列4連鎖」の「大豆」すなわち「くらやみ乙女」を射出したのだ。それらが放つオレンジ色の光が「補色」となって敵の攻撃に干渉した。

 周囲はもうもうたる土煙が立ち込めている。

 爆風はまだ渦巻いている。

 そんな中で、教授は、平然と僕に語り続けた。

「よって、今が正に、まんじゅうのうまさについて、君に語ってもらう絶好のタイミングだと思うわけだが、どうかな少年?」

「わ……分かりました!、分かりましたよ! 確かに、それも論理です! でも、今はお願いですから、戦いに専念して下さいよ~っ!」

 僕も狼狽していたが、視線を前に移すと、男の顔色からはもっと冷静さが失われていた。

「信じられない物」を見て愕然としているのだ。

 無理も無い。無防備の相手に放った、高級ソリッドの「セント・クラットの惨劇」が、たかが「くらやみ乙女」に弾かれたのだから。

 しかし、どうやって……?

「ホタルコ嬢、解説」

「敵は、『教団幹部に典型的なタイプ』ですね。『パワーフォーマット、パワーソリッド主義』に頼り切っているので、攻撃のパターンはせいぜい二十種類程度に想定可能です。対処パターンを分類して、法のコンビネーションを常時用意しておけば、この手の攻撃は直列4~5連鎖のくらやみ乙女で『迎撃』が可能なんです。だから、こういう相手には、まず先制攻撃を一発行わせます。それによって、さらに敵の攻撃パターン、法学装甲の構造などが、詳しく解析できるんです。ほら、こんな風に」

 見ると、ホタルコちゃんのボード上に、敵が発動している法の「状態」、「色温度」、フォーマットとの「適合深度」などが次々に表示されている。

 ホタルコちゃんの解説は続く。

「あの法は、かなり純度の高い『放射型紫色爆発』に設定されてますね。このデータを下に、次の攻撃に対しては、こうやって……もっと『精度の高い補色』に調整していきます。ごく簡単な『チューン』です」

 ホタルコちゃんはテキパキとボードを操作して、次回に「上程」するくらやみ乙女を「調律」していく。

 敵は焦ったのか、立て続けにソリッドを起爆させてきた。

 合計四発!

 しかし、教授がそれにぶつけていったのは、たった一粒ずつのくらやみ乙女。

 チューンの精度が上がれば、たった一発で十分なのだ。小さなオレンジ色の閃光が、敵が起こした爆炎をことごとく吸収し、弾いていく。

 さらに、5発目も……6発目も……

 敵の攻撃はむなしく教授の前で阻まれていった。男の顔はますます蒼白になっている。

「見てください。敵が攻撃すればするほど、データの精度が上がっていくんです。もう、丸裸ですよ。『法学装甲の論理構造』まで。ほら、ここです」

 表示を見ると、敵を防御している『装甲』は、沢山のプレートを張り合わせたような構造になっている。それが、いくつか合わさった『結節点』だけ、ブルーが濃くなっている。

「こういった弱点のポイントを、私達は『クラックホール』と読んでいます。これは、刻々と状態や位置が揺らいでいってしまいますが、ピンポイントで叩くことができれば、一発で装甲全体を粉々に出来るんです」

「あと十五秒以内でお終いだな。ホタルコ嬢、そろそろコンビネーションを上げてくれ」

 と言いながら、男のほうへ歩み寄っていく。

 気圧された男は逆にじりじりと後ずさっていく。今にも泣きそうな顔で、最後の一発のソリッドを炸裂させるが、当然のように、それは弱々しく四散してしまった。それを見計らったように、教授の指から、オリーブの実が出現する。

 この至近距離で瞬間移動?

「よし、やってくれ!」

 「マンザの朝は青い」が「起爆」した。

 教授の身体は一瞬のうちに、男の側面に移動する。そして、右腕を男の頭上方向へと伸ばすと、人差し指から「直列三連鎖」の「くらやみ乙女」をふわりと投射した。非常にデリケートな動きだ。

 標的は、敵の法学装甲の最も「構造強度」が弱いポイント「クラックホール」。

たとえ1ミリでも、位置がずれてはいけない。

 今度は鮮やかな緑色の光が、三つ連なってほとばしった。

 正しく、ガラスが割れるような音とともに、敵の法学装甲全体が砕け散った。

 敵は爆発の反対方向へと吹き飛ばされ、地面をだらしなく転がった。

 これで、勝負はついた……

 男は、やっとのことで起き上がったが、表情を見ると、完全に戦意を喪失している。あれでは制御ボードを拾う気力も無いだろう。

 教授は、駄目押しのように、一体の「岩窟王」を出現させている。当然「起爆待機」状態だ。教授は、あっさりと男の生殺与奪の権を握ってしまった。しかも、使用したソリッドは、十三粒の大豆と一粒のオリーブ。それっきりだ。高級ソリッドを、幾らでも使い放題の教団関係者を、たったこれだけで倒してしまうなんて。

 凄すぎる……

 でも考えてみたら、一昨日戦った「オロチ」はこれよりは遥かに強敵だったのだ。本来、教団幹部のこの男だって、相当の学者のはずなのに……

「さて、改めてお願いする。君達の『教主』の所に案内していただこうか……」

 教授は、昨日買った「じゃがたら君」の袋をびりっと破りながら、得心したような微笑みを浮かべてそう言った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る