「マンザの空は青い」
その日の十時頃、僕達を乗せた一隻の「フローティングいかだ」は「アアア」に隣接する都市「ドンバルマ」の「支配領域」を航行していた。
ホノ・トム・キイを出発した僕達は、何箇所かの「転送所」をジャンプしてから、ドンバルマに着いた。途中、二つの紛争地域を迂回して行ったため、かなりの遠回りをするはめになった。また、ドンバルマ自体も、長期にわたる内戦状態が続いているから、長居は危険だった。こんな具合で、この世界では、戦争が日常茶飯事なのだ。
「アアア」は、その「支配領域」に「転送所」を設けていないので、ドンバルマから「アアア」までの、瞬間移動はできない。ドンバルマの「港」から「レンタルいかだ」に乗り込んだのはそのためなのだ。「いかだ」と言っても、「応用法学」が生み出した乗り物である「フローティングいかだ」は海を進むわけではなく、どこまでも続く荒野を、地面から少し浮かんで航行するのだ。燃料となるソリッドは「リトル・ハックル」すなわち大理石で、たっぷりと購入して補給したから、「アアア」までは余裕で持つだろう。
昨日と打って変わって、二人は鮮やかな色の「フリソデ」を着ていた。初めて会った時は、男性的な服装だった教授も、今日はどこからどう見ても、艶やかな女性にしか見えない。いや、外見だけなら「まるで美少女」だ。それから、ホタルコちゃんはさらにやばい。凄い破壊力だ。髪の毛を後ろで束ねているのが、また似合ってる。目に入れると、どうしようもなく心がぐらつく。出来るだけ顔を背けていよう……と思ってはいるが、どうしてもチラチラと横目でみてしまう僕なのだ。
それにしても心配なのは、こんな派手な服装で果たして「アアア」の「入城審査」が通るのかだ。「アアア」の服飾コードは、エイジア系統だから形はいいとしても、「色彩コード」は「白一色」で、白い衣服しか認められないはずなのだ。そう疑問に思って、教授に尋ねたら、即座に「問題無い」という答えが返って来た。
一方、僕のほうはアアアで着ていた真っ白な服に着替えたのだから、間違いなく「問題無い」のだ。この服は、昨日はホノ・トム・キイ城門の「隔離倉庫」に収納して貰っていたのだ。全ての信仰都市には、城門近くに「隔離倉庫」を設置してあり、その都市のフォーマットに適合しない物体は、まとめてそこに収納することで、「フォーマットとの不適合」を防ぐことができるのだ。教授とホタルコちゃんも、「隔離倉庫」内にレンタルスペースを持っており、主にホノ・トム・キイの「服飾コード」から外れている衣服類を収納しているのだ。
航行中、僕は教えられた通りに、ショウユを砂糖に変える「素材反転」の基本練習を繰り返していた。これに慣れれば、およそどんなソリッドでも「反転」できるようになるのだそうだ。教授はというと、またパチパチとそろばんを弾いたり、気温や湿度の記録をとっている。ホタルコちゃんはホタルコちゃんで、いかだに乗ってから奇妙な作業を始めた。数え切れないほど沢山の、短いガラス棒やガラス玉を、複雑な形状に接着して、オブジェのような物を作っているのだ。複雑な設計図を横に置き、それに従って、組み上げているらしい。これは、きっと一回こっきりしか使えない「自作ソリッド」なのだろう。しかし、一体どういう動作をするものなのか、と聞いてみたけれど「失敗した時のために内緒です」と言われてしまった。
「あの……ホタルコちゃん……僕にも出来るなら、手伝いましょうか。凄い作業量が多そうですね」
「あ……いいんです。マサアトさんは、『素材反転』の練習を続けて下さい」
笑顔ではあるけれど「けんもほろろ」といった具合。どうも、僕は蚊帳の外に置かれている感じだ。
右前方に、大きな城壁が見えてきた。アアアに近づいてきたのかと思ったが、市街にしては、高さが低い。地図で確認したら、ドンバルマ所属の「法学農場」だった。
信仰都市の「基本フォーマット」を組む時には、その土地の気候や地質に合った、能率のいい「法学農場」を建設することまでを考えなければならない。農場には、当然だが地下水や雨水を安定的に供給しなければならないからだ。各農場は、栽培する作物の特性に合わせて、「基本フォーマット」の上に、「上位階層フォーマット」を構築されているのだ。
「でかい農場だな。そう言えば、ドンバルマはトマトが名産だったな。トマトピューレは、ドンバルマ産が最高だ。少年も覚えておきたまえ」
教授は、食べ物がらみだと、こうやって都市の名前も覚えているのだ。昨日から話を聞いていると、この人は二言目には、食べ物についての講釈だ。しかし、決して「食通」という表現が適当とは僕には思えない。単に、食べ物に関して「妙なこだわりを持っているだけ」というか……
ホタルコちゃんはガラス細工の作業を続けながら、言った。
「そうですね。あれは、何でも美味しく作れるから便利ですよぉ」
考えてみると、ホタルコちゃんは、教授とずっと暮らしているのだ。こんな人とうまくやっていけるのだから、よくよくこの子も変わっているのかもしれない。
教授は、ようやく作業が一区切りしたようだった。僕は、いいタイミングだと思って、昨日から気になっていたことを質問することにした。
「ええと、教授……」
「いや、今日の『呼称』は『プロフェッサー』の方がいいだろう。湿度がやや低い」
そんなことまで、「フォーマットとの適合性」が関係してくるらしい……学士の僕には想像もできない世界だ。
「はい……プロフェッサー。少し疑問に思ったのだけど、得意とする『フォーマット』の系統は何ですか?」
「何故、そんなことを聞く? 得意なフォーマットというのは無いな」
またもや、非常識な解答。「無い」って……?
普通は「無い」なんて有り得ないのだ。どういう専門を選ぶにせよ、学者は「フォーマット」の下で無いと能力を発揮できない。人間には相性というものがあるから、誰もが得意な「フォーマット」を特定し、それに熟練し、「公認学者」への階段を上っていくのだ。階級が上がれば、より「高階層のフォーマットの情報」を与えて貰えるし、強力なソリッドも操れる。最後の目標は「教団幹部」に上り詰めることだ。全ての学者はこういう構図の元で腕を磨いているのだとばかり思っていた。しかし、教授はそのパターンから思い切り外れている。
「ええと……これまでどこかの公認学者になろうと思ったことは無いんですか? 何故、それだけの知識と実力があるのに、フリーランスなのか、気になったんですよ」
「公認学者に? それも無いな」
「何故ですか?」
「公認学者になれば、特定の都市に定住しなければならない。すると、『特定の色彩コード』や『服装コード』に一生従うことになってしまう。とりわけ、『食品コード』に縛られるのはまっぴらごめんだ」
そ……そういう理由?
そこで、ホタルコちゃんが補足を入れた。
「今住んでいる所は、『食品コード』がプロフェッサーのお気に入りなんですよぉ。特に調味料がナンプラーとニョクマム主体の所が。だから、それに飽きるまでは、あそこで住むつもりなんです」
「で……でも、そういう理由で公認も得ず、低級ソリッドのみを使う道を歩むって……過酷過ぎませんか?」
「うむ。私が低級ソリッドしか使わないのは、初めは経済的問題だった。しかし、行っていくうちに『パワーフォーマット至上主義』に疑問が出てきたということもあるな。より強力な、より複雑な『フォーマット』を組む。そして、より高級な、より希少なソリッドを使用した方が勝つ。余りにも芸が無いパワーゲームだ。しかし、『複雑化したフォーマット』は、不安定でもある。高級ソリッドの起動はデリケート過ぎる。例えば、代表的な高級ソリッドである『エメラルド』が、一切使えない『フォーマット』は山ほどある。そして、使用法に幅が無い。それにくらべると、私が多用する『岩窟王』は、長い歴史を持つ『枯れた素材』だ。全ての都市の基本『フォーマット』の元で安定して動作するし、応用も利く。熟練すれば、際限なく『多重螺旋』で増幅できる。こういった、低級ソリッドの使用を極める方法を、世の学者は怠っているという思いがあるのだな。例えるなら、今朝ホタルコ嬢が作った朝食だ。あれをどう思った」
「ああ……無茶苦茶美味かったです。上手な表現は出来ませんけど」
それは、僕の正直な感想で、お世辞を言ったつもりは全く無かった。ホタルコちゃんは照れくさそうに笑顔を作った。
「ありがとうございます。そう言ってくれると、うれしいですよぉ」
「そうだろう。あれには、高級素材など一つも使ってない。しかし、創意と工夫で幾らでも味の可能性が広がっている。それこそが料理だ。しかし、高級素材を使った食べ物などは、ある意味で料理ではないな。例えばワギューだ」
ワギュー?……ワギューは言わずと知れた、食肉のブランド名だけど……
「焼いたワギューは、人類が生み出した究極の食べものだ。究極であるがゆえに料理ではない。応用が全く利かないのだ。完成され過ぎているがゆえに、美味過ぎるがゆえに、単に焼く以外の料理法が無い。下手な趣向を凝らしたところで、所詮は改悪だ。その点で、『単純起爆』しか使い道が無い、高級ソリッドに通じるところがあるな」
さすがにこれは、僕には暴論に思えた。
「ちょっと待ってください。ワギューにしたって、美味さを引き出すプロとしての焼き方とか、色々テクニックを加える余地が、あるんじゃないかと思いますけど」
「いや……甘いな。君はワギューをなめている。ワギューの美味さとはそんな生易しいものではないのだ。君は、『ヤーキ・ニクヤ』に行ったことは無いのか?」
「はい、あります。一度だけですけど……」
「『ヤーキ・ニクヤ』では、料理の素人である客にワギューを焼かせているではないのか?」
(ハッ……。確かに!)
「だからと言って、『ヤーキ・ニクヤ』のワギューは不味かったかな?」
僕は悔しかったので、黙っていたけれど……内心(いや……そんなことは無かったです。確かに、そうです。すみません。死ぬほど美味かったです……)と思ってしまった。
「美味かったはずだ! それほどまでに、ワギューは美味い。プロが見たら怒りだしそうな、いい加減な焼き方をした所で、その美味さはまるで揺らがない。十分に美味い。恐るべし! 正に恐るべしワギュー!」
一体、何の話をしているのだか、判らなくなってきた。要するにこの人は、ワギューの美味さを力説したいだけではないのか? あるいは、高価なワギューをたまにしか食べられないので、負け惜しみを言っているようにも聞こえる。だけど、教授が貧乏だという理由だけで、高級ソリッドを使わない訳ではないことは、一応理解できた。また、「常に基本階層で戦う」ことを主眼にしているから、「個別の上層階層フォーマット」の研究には興味が無いのだろう。「完璧なフォーマット」と名高い「アアア」のことを知らなかったのもそのせいだ。信仰都市を支配する教団の後ろ盾があり、高級ソリッドを使い放題の「公認学者」相手でも、二束三文の「岩窟王」と「くらやみ乙女」を主力にして、互角に対抗できるとすれば……それはひょっとして物凄いことなんじゃないかと、思えてきた。
「そろそろ、境界線を越えるみたいです。『アアア』の支配領域に入ります」
ホタルコちゃんが、制御ボードに表示されている地図を見ながら言った。まもなく、身体の中を、血の気が引くような違和感が、スッと通り抜けた。「フォーマットが切り替わった」のだろう。
一般には、信仰都市の「高階層フォーマット」は、「城壁の内側」と、「その上空」でのみ稼働している。「城壁の外側」まで支配が及んでいるのは、「基本階層フォーマット」のみだ。もしも、他の都市が存在しないならば、「基本フォーマット」の支配力は、距離によって小さくなっていくものの、理論上は無限遠まで広がっていく。しかし、実際には幾つもの「隣接都市」が存在する為に、都市の間に「支配領域の境界線」が生じるのだ。より強力な「フォーマット」を構築した都市は、それだけ広い支配地域、事実上の領土を持つことが出来るし、戦略物質の確保もしやすくなる。各都市が躍起になって「フォーマット」の強化にいそしんでいるのはそういう理由もあるのだ。
「ム……」
「アアア」の「支配領域」に入った途端に、教授がしかめ面をした。僕が感じているのと同じ不快感に、襲われたんだろうか。
「これは……やな感じですね」
ホタルコちゃんの顔色も変わっているようだ。
「少年、君はその都市に住んでいて、違和感を覚えなかったのか? 身体の変調とか」
「あ、あります。そうなんです。街中を歩くと頭痛がしたんですよ。でも、ホノ・トム・キイの城壁内では、それが全く無いから驚いたんです」
「なるほどな、君はなかなかいい感覚をしている。それは全く正しいな」
そして二時間後、地平線から「アアア」の純白の城壁がせり上がってきた。「アアア」に限った話ではないが、「信仰都市の城壁」とは、それ自体が直接防御を行うものではない。真の意味での城壁とは、あくまでも「法学装甲」である。物質としての城壁は、「法学装甲を生み出すための巨大なソリッド」なのだ。また、しばしば誤解されるけれど、都市の法学装甲は、城壁と同じ高さまでしか存在していないわけでは無い。垂直方向へ、遥か天空までそびえているのだ。つまり、「城壁の形」こそが「都市の外形」だと捉えるのなら、信仰都市とは、本質的には「多角形」ではなく、空まで届く「長大な角柱」と表現するべきなのだ。「アアア」からも、法学装甲が天高く伸びているのが、うっすらと見える。そこだけ空の色が明るいのだ。まるで、天国へと続く巨大な塔のように。
教授は、双眼鏡を覗いてアアアの城壁を観察している。
「あれが、アアアか。なるほど、白いな」
ホタルコちゃんは、アアアよりも西側のさらに遠方を指差していった。
「マサトさん。あっちにも高い城壁が見えますけど、あれも都市ですか? 地図には見当たらないようですけどぉ……」
「あ、あれは『アアア』の前身だったらしい『ハッタン』という都市の廃墟です。もうぼろぼろになっていて、人は住んでいません」
「む? 人が住んでいない? 何故だ?」
教授は、僕の言葉に妙に興味を示したようだった。
「詳しい事情は知りませんけど、三百年前に、『アアア』が出来た後、あそこを引き払って住人全員が『アアア』に移住したらしいんです」
「なるほど。それは面白い話だな」
教授は、今度はしきりに、地平線上で陽炎に揺らぐハッタン廃墟の外形を眺めていた。
☆ ☆
驚いたことに、「アアア」の「入城審査」は三人ともあっさりと通った。二人のど派手な「フリソデ」は「色彩コード」に一切引っかからなかったのだ。
城門をくぐり、そこから続く目抜き通りを歩いて行くと、「アアア」内部の通行人たちは、みな振り返り、艶やかな二人の服装に目を丸くした。この都市の住人は、全員が全員とも純白の衣服を着ているのだから、それも当然の反応だ。
「君も覚えておくといいが、赤には緑、青にはオレンジ、黄には紫と『補色』を使うことで、『色彩コードを中和』できるのだな。私達が着ている服は、特別オーダーで、色彩コードに一切影響が出ないように、調整されているのだ」
色彩コードに弱い僕には、とても参考になる話だ。右を向いても左を向いても「白」しかない都市で生きてきた僕は、色に関する感覚がそもそも弱いのだ。
僕は、最短経路で僕が住んでいる貸家に向かった。エシャの様子を、教授に見てもらうためだ。古ぼけた、安貸家のドアの鍵を開けて中に入った。二日ぶりに「我が家」に帰ったのだ。二つしかない部屋の内の一つが、エシャが寝たきりになっている寝室だ。
「マ……サト君?」
幸い、エシャの様子に変わったところは無い。逆に、良くなった様子も無いのだけれど。
「どう……だった? 何か、危ない目に……あわなかった?」
精一杯、力の無い声を出すエシャの姿が、僕の心を締め付ける。たった二日だったけど、僕がこの子の傍を離れていいはずが無いんだ。
「う……うん。大丈夫だったよ。それより、エシャのほうこそ大丈夫だった?」
「平気……大家さんが……良くしてくれたから……」
幸いなことに、大家さんは身寄りの無い僕達に同情的で、僕が留守の間はエシャの世話を色々と見てくれたのだ。僕は、エシャを守る青いクルミのロケットをポケットから出して、天井から吊るした糸の先に戻した。僕の作った法学装甲なんて、余り役には立たないのかもしれないけど、それは関係ない。あくまで、これは僕の気持の問題なんだ。
「エシャ、紹介するよ。この人が君を助けてくれる、プロフェッサー・カノッサと、助手のホタルコちゃんだ」
二人は僕と一緒に家の中に既に入っていて、あれこれと部屋の中の様子を調べていた。
「はじめまして、エシャさん。ホタルコです」
「カノッサです。よろしく」
「エシャです……よろしく……おねがい……します」
教授は、ろくにエシャの顔も見ようとしないで、ごく事務的な挨拶をした。片手でそろばんを持ち、もう一方の手でパチパチと弾いている。
僕は、内心で腹が立った。なんて、不遜な態度なんだ……
このエシャの痛ましい様子を、硬直化が進んで寝たきりになった姿を見て、何も感じないのだろうか。幾ら仕事とは言っても、人並みの心を持っていたら、同情の一つも沸いてくるのが普通だろうと思う。やはり、「論理」「論理」と常に口にしている人間だけあって、心も「合理主義」一点張りで冷たいのだ。
「少年、ここはもういい。外に出よう。ここに戻ってくるのは明日になるから、そのつもりで、支度を済ませてくれ」
「え? だって……ここに来たばかりですよ。ここに戻ってこないって? どこに行くんですか?」
「町を少し歩きたい。その後で、城壁の外に出る」
「ちょっと……少しは説明して下さいよ!」
「今の君の課題は、君が抱える問題を解決することだな。その為には時間が無い。ともかく、私たちは行く」
と、つっけんどんに言い放って、すたすたと玄関へと歩いていった。
「わ……判りました。ちょっと待ってください。大家さんに、エシャの世話のことを頼まないと!」
☆ ☆
まったくもって、こうやってこの人は強引に自分のペースに巻き込んでいくのだ。僕の家を後にした教授は、地図を見ながら、城壁沿いに都市内を歩いていった。時に立ち止まり、辺りを見回し、そろばんを弾いたりしながら。
改めて、「ホノ・トム・キイ」の街並みと比べてみると、「アアア」の建物と道路の形状は非常に変わっていることを再認識する。屋根の形も窓の形も、もちろん建物全体の形も、複雑な曲線ばかりだ。僕が勉強した、世界のどこの建築様式にも似てないから「アアア様式」と呼ぶしかないものだ。道の形もそうだ。どこもかしこも、うねうねと蛇のように曲がりくねって、直線の部分が殆ど無い。
「そうだ、少年。エシャ嬢とのなりそめを聞かせてくれないかな。できれば君の生い立ちも」
僕の前を歩く教授が、背中を向けたままそんなことを言い出した。
「ええと。僕は、九歳の時に母を亡くして、救貧院に入ったんです。そこで、エシャと出会いました。彼女も身寄りが無かったんです。それからまもなくエシャの身体の硬直が始まりました。救貧院の人は、一応エシャの治療をしようとしていました。でも、全く原因が判らなかったので、ろくな対策を取ってくれませんでした。僕はやがて、救貧院を出る年齢になりましたけど、その時にエシャを引き取る決意をしたんです」
「それはまた、随分過酷な選択だな」
「誰もエシャを救ってくれないのなら、僕がやるしかありませんから……」
「それで、学士の資格も取ったんですね」
ホタルコちゃんが、神妙な顔色で言った。僕の境遇を自分の口で語るのは、正直かなり辛い。僕の大好きな、これまでの人生の全てだったエシャが、今こうしている間も苦しんでいるというのに、何一つできない無力さ、惨めさと、向き合わなければならないからだ。そして、特にホタルコちゃんには、それを知られたくなかった。そんな風に感じること自体が不思議なのだけれど……
「ちょっと待ってくれ」
と言ってから、教授は星座盤を取り出した。また、「あの作業」をするのだろう。またもや青い粉末を燃やすと、そろばんを弾きながら教授は言った。
「もう、ここを出よう。もうあらかた、この都市でやる事は済んだな」
僕は、この時が教授に「都市の外形」の事を切り出す、絶好のタイミングだと思った。昨日、教授は頑として外郭部が「六芒形」だということを認めなかったけれど、こうして、地図を見ながら都市を歩いてみれば、認識を改めたに違いないのだ。
「プロフェッサー。結局僕が言った通りだったでしょ。この『アアア』は地図の通りで、『六芒形都市』以外の何物でもないですよ」
「うむ。そのことだが、丁度いい。君に身体で理解してもらおうか」
「え?」
気がつくと、城門へと続く中央道路に出ていた。この通りは、『都市内でも数少ない直線の道路』となっている。
「少年。ここから目をつぶって、まっすぐ歩いてくれないか? あの城門までたどり着いて欲しい」
「え?目をつぶって……ですか?」
「そうだ」
「そんなこと、急に言われても……何故ですか?」
「マサトさん。怖いなら、私が手を握ってあげますよ。危ない時は、私が止めてあげますから」
い……いや、そういうことじゃなくて、通行人が大勢いる中で、目をつぶって歩くなんて、恥ずかしいってことなんだけど……
そうは思ったものの、僕は、ホタルコちゃんの手を合法的に握れるという、思わぬ特典の誘惑からは、逃れられるはずも無かった。思わず「わ……判りました」と言ってしまい、城門に向かって立ち、目をつぶった。
まもなく、左手をフニュッと握られる感触がした。言うまでもないが、ホタルコちゃんの手だ。熱い電撃が手から延髄までビリリと走った。今朝見た、アレでナニな夢の中での生々しい感触が、一瞬蘇った。僕はすっかり舞い上がってしまい、前に歩かなければいけないということを忘れそうになったけれど……
「いいですよ。マサトさん。真っ直ぐ歩いて下さい」
その言葉で我に帰り、まずは一歩を踏み出した。さらに、二歩、三歩と慎重に、あくまでも真っ直ぐに歩くように心がけて進んでいった。
すると、しばらくして、
「はい!ストップです。危ないですよ。目を開けて下さい!」
ホタルコちゃんの声が再び耳に飛び込んできた。僕は何事かと思って目を開ける。
なんと、眼前に建物の壁があった。
周りを見渡すと、最初の位置から殆ど直角に向きが変わっていた。な……何だ? 何で? それなりに真っ直ぐ歩いたつもりだったのに、何だってこんなに曲がってるんだ?
「びっくりしたかな、少年。それでは、この都市に隠された簡単な『手品のタネ』をお見せしようか」
口元に僅かに得意げな笑みを浮かべてそう言うと、教授はオリーブの実を取り出し、いきなり僕の右手をぎゅっと握った。僕の心臓が、またもや特大の鼓動を打った。
む? む? これは、ひょっとして「両手に花」? ……と思ったのも束の間、ボンッという音と共に「マンザの朝は青い」が発動した。
一瞬にして、周囲の風景が、スカイブルー一色に変容した。白いじゅうたんのような雲海が、遥か遠方に広がっている。
僕たち三人は、別の場所へと超高速移動を行ったのだ。
実に、地上6千メートルの空の上!
フォーマットが連続している限り、垂直方向への距離は無制限なのだ。これは、呼吸が出来るぎりぎりの「超高高度」だ。肌を斬り裂かんばかりに冷気が全身に吹き付けて来る。急加速の影響で、グラグラと頭が眩んだ。
「少年、見たまえ。あれこそが『アアアの真の姿」なのだな」
と、教授が右手で指し示した。遥か眼下、真ん丸い地平線まで広がる荒野、その中心に僕が生まれ住んだ都市が横たわっていた。
そして、ハンマーで頭をかち割られたような衝撃。
生まれてこのかた、これほど驚いた事は初めてだった。
「ああっ!」
僕は思わず声を上げた。
上空から見下ろした「アアア」は、「正七角形」をしていた!
どう見ても角が「七つ」ある!
そして、「七角形をした城壁の内側」には、「一回り小さい六角形の城壁」が……そう、城壁は「二重」になっていたのだ。二つの城壁は、城門のある一辺のみを共有している。
高速移動の効果が切れ、僕らの身体が自由落下を始めたころ、再び「ボンッ」と音が鳴った。
再び、僕たちは元にいた道路上に高速移動で戻ってきた。両の足は、しっかりと中央道路の固い石畳を踏みしめている。
だけど、混乱した僕の心は全く元に戻っておらず、フワフワ空に浮いたままだ。
何がなんだか、訳が判らない。
「少年、さっき見た通りだな。この都市の外郭は『七芒形』なのだよ。しかし、『フォーマット』は何故か『六芒形対応』の物が稼働しているということだ。そのために、『フォーマット上の直線』と『物理的な直線』が食い違っているのだ。こんな町で暮らしていたら、頭が痛くなって当然だ。感覚の鋭い人間ならば、だが」
「マサトさんが渡してくれたデータから推測すると、『フォーマットの最適形態』は明らかに『七芒形』だったんですよぉ。だから『おかしい』って思ったんです」
「どうかね。君なら、ある程度は理解できるはずだが? 『七芒形都市』という事実が持つ意味を」
おかしい?……そうだ……確かに……それはおかしい……。
「そうですよ……今、世界にある都市っていうのは、四、五、六芒形の三種類だけです……『正七角形』をした都市なんて、聞いたことがない! ここだけだ!」
僕は、何も知らなかった。
本当に何も知らなかったのだ。自分が住んでいる都市の形すら誤解していた。そして、ひょっとしたら今でも、僕は、何が分かってないのかすら、分かっていないのかもしれない。
「ともかく、少年。時間が無いぞ。次の目的地に行かないと」
「目的地……って?」
「大学都市『カル・カソ』だ。多分そこに総ての答がある。敵の正体……『オロチ』が何故『オロチ』なのかも」
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