「亜麻色の髪のマグラトオ」

 ボブに刈った赤いストレートの髪。凛とした鋭い目。余りに突飛な服装なので、最初は気がつかなかったけど、美人だ。凄い美人なんだけど……それにしても、何から何まで妙過ぎないか?

 その教授……カノッサと名乗った女の子は、モシャモシャと一枚のポテチを食べながら、別の一枚を指でピンッと弾いた。

 半分割れたポテチが敵に向かって鋭く飛んで行く。

 老婆の一メートルほど前方で、ジャガイモのフライが紫色の光を放って砕ける。

 そして、また次の一枚が飛んで行っては砕ける。

 何だ……? 一体、何をやってる……?

 これは、「ソリッド」……?

 ポテチを「攻撃用ソリッドとして」射出してる? そんなこと聞いたことが無い!

 ポテチのような有機物、つまり生物が原料となっている物質は「ソリッドとして使用法の幅が広い」という長所はある。しかし、ポテンシャルの絶対量はごく小さい。つまり、「戦い」には全然向いていないのだ。単純に「強力な」ソリッドは、基本的には無機物、つまり金属や鉱石で出来た物なのだ。

 同じ有機物でも、生命エネルギーを持った物体、つまり「生物」のポテンシャルは、やや大きい。特に、動物よりも植物の方が格段に強力で、発芽する直前の「大豆の種子」、すわなち教授の店の屋号にもなっている「くらやみ乙女」はコストパフォーマンスが最も優れた、古典的な攻撃用ソリッドとして知られている。

 ともあれ、原理的に可能だとしても、単なるジャガイモのフライを、ソリッドとして使う人間などいるものか。だからポテチには「ソリッドネーム」もつけられていないのだ。

「新ジャガのうまみを引き出した、この絶妙な塩加減、そして食感……」

 そんなことをブツブツ言いながら、教授が、再度ポテチを弾いた。しかし、何度やっても老婆の手前で小さな爆発は遮られる。いや、仮に身体に直撃しても、あんなものじゃ軽いやけどしか負わせられないのに……

 何だって、あんなことを続けてる……?

「スナックメーカーの老舗『白ヤギ堂』が放つ渾身の一作『じゃがたら君』……」

 何を言ってるんだ、あの教授は。確かに「じゃがたら君」はうまい。それは認める。

 しかし、問題はポテチの美味さじゃない。あの老婆の前には、何やら訳の判らない壁があって攻撃が届いていない。あれは何かおかしい。

 「法学装甲」なんかじゃない……攻撃の弾かれ方が異常なのだ。

「こんなつまらないことに使うのは、一種の罪というものか。しかし、他に最善の方策が無い以上……」

 しかも、教授の方はどうだ。全くの無防備だ。法学装甲が全く無い。

 さあ殺してくれ、と言わんばかりに、丸腰で敵に近づいていく。

 やばい、やば過ぎる……

 だって、僕らは教授の「体の中にいるらしい」んだぞ。このままじゃ、教授がやられたら、こっちまで道連れじゃないか。思わず、僕は叫んだ!

「ちょっ……ちょっと……教授! 危ないですよ! 敵のソリッドが来ます! なんかの防御を! ええと……ホタ……ルコちゃんも何か言って下さいよお! このままじゃ……」

「マサトさん。『制御ボード』持ってますか? そっちでも手伝って下さい」

 見ると、ホタルコちゃんは既に「制御ボード」を稼動させている。丁度、ノートと同じくらいのコンパクトなサイズで、絵画用のパレットのように、左手の親指をボードの左にある穴に下から通して持つスタイルだ。

 それはともかく、僕は思わず「うわ」と声を上げてしまった。

 一目で判った。これは凄い。とんでもない「カスタム化」がされているのだ。

 「制御ボード」の「ベース」は多分コバルトと鉄の合金でできた長方形の薄い金属板だ。それに、びっしりと方陣やマトリクスが刻まれている。外縁部には、トルマリンやラピスラズリといった、無数の補助ソリッドが鎖でぶら下げられている。

 僕は、自分が使っている、白銅製の「ボード」を出すのが恥ずかしくなった。これに比べると、まるで子供のおもちゃだ。ホタルコちゃんの「制御ボード」上では、様々な色の光や文字が舞い踊り、流れ、現れては消えている。これを使って、周囲の「フォーマット」の状態を測定し、ソリッドや「法」の制御を行うのだ。

 突然、ボード上に強烈に明るい青い光が現れた。一般には、青い光は「敵が放つ法」に対応している。

 来た!また「微笑みのベルベット」?

 次の瞬間、教授の前方に、再び砂時計が出現した。それでも、教授は無防備のままだ。

 僕は天に祈る。

「致し方ないな……それが論理というものだ」

 だ……だから、何言ってる、何やってんだ、誰か、あのボケ教授の体内から僕を出してくれ!このままじゃあ……。

「教授! 『コンビネーション』上がります!」

 黄色爆発が起こる直前、ホタルコちゃんがそんなことを叫ぶ。瞬間、教授の指先から「オリーブの実」が出現する。

 そして、敵のソリッドからほとばしる閃光。

 しかし、黄色い炎の激流は、網の目のように町に張り巡らされた道路に沿って、見事に誘導されていく。凄い、この都市の「フォーマット」は、「ダメージを逃がす経路」が綿密に設計されている。これほどの威力の法を使っても、全く町に損傷は起きないだろう……なんて感想を抱いている場合じゃない。

 肝心の僕や、ホタルコちゃんはどうなった?

 僕は、そんな感想を、相当高い場所から抱いている。

 これは何だ? 宙に浮いている?

 いや、落下してる。

 そうだ。オリーブの実、ソリッドネーム「マンザの朝は青い」が「起爆」し、爆炎に巻き込まれる直前に、教授の身体は体内にいる僕らと共に、老婆の遥か頭上へ瞬間的に移動した。正確には「プログラムされた経路に沿って、超高速移動」したんだ。

 そして、教授の身体も体内の僕達も、当然僕の視界も、同時に老婆に向かって落下していく。

「少年、君も手伝ってくれ」

 教授の声が僕の頭の中に響いて来た。これは「接触通信」で敵に聞こえないように僕に直接語りかけてきているのだ。

「え……? え……? 何ですか?」

「何が起こるか、しっかり見ていてくれ。『見るだけ』でいい。まずは、それだけに集中してくれ」

 教授は、尚も落下を続けながら、持っていたポテチの袋を両手でグシャッとつぶした。そして、中身を全てぶちまける。粉々になったポテチが老婆の頭上から雨あられと降り注ぐ。

 これら一つ一つが全てソリッド? 一体、何百個ある? 同時に「起爆」できるのか?

 しかし、「起爆」以前の問題だった。老婆を守っているのは「壁」じゃなかった。

「見えない丸天井」だった。

 全てのポテチが、「透明なドーム」に阻まれ、曲面に沿って滑り落ち、その後で花火のようにバチバチと炸裂していった。もちろん、全く攻撃は効いてない。

 しかも、またしても敵が放った三発目の「微笑みのベルベット」が眼前に出現する。

 今度は、直撃だ! ど、どうするんだこれ!

 物凄い至近距離!……で「起爆」した……はずだった。

 しかし、僕の周囲の風景は、全く別の路地に瞬時に変化していた。

 敵のソリッドの「起爆」は起こったらしい。

 しかし、爆音は、まるで遠雷のように、ドドド……とかなり離れた場所から聞こえてくる。

 老婆の姿は見えない。一体、何が起こった?……と思いながら、制御ボードを見て、自分の「現在位置」を確認するが……

 僕は、思わず叫んだ。

「うわっ……さっきの場所から三百メートルも退避してる!」

 ホタルコちゃんは、全く動揺する事も無く、淡々と作業を続けている。

「そうですよぉ。水平方向では、ほぼ限界距離の移動ですね」

 なるほど、敵が攻撃してくることを見越して、「超高速退避移動」はあらかじめ「二段階にプログラムされていた」のだ。

 教授は……というと、地面に紙を敷き、数字をメモりながら、猛烈な勢いで妙な道具を指でパチパチと弾いている。あれは……一体何の作業だ?

「『プログラムそろばん』です。ある意味、教授の最強の武器ですね」」

 ホタルコちゃんが僕の疑問を察して答えてくれた。

「そろ……ばん?」

 なんだそれ? 「プログラム」以前に、僕は「そろばん」自体、見た事もないのだ。それにしても、不思議だ。教授がひとつの「玉」を弾くと、それに連動して、関係ない無数の玉が自動的に動いている。それも凄いスピードで。あれは一体……?

「いいや、違うなホタルコ嬢。最強の武器は、こっちだぞ」

 といいながら、教授は自分の頭を指差した。

「ええと、カノッサ教授……ですよね。僕を助けて下さってありがとうございます」

「うむ、礼はあとでいい。今すべきは、この問題への対処だな」

「あれは、一体何者なんですか? 何故、僕をいきなり……」

「まるで『大蛇』だな……伝説の……」

 教授はソロバンを弾きながら、そんな謎めいた言葉をつぶやいた。

「え? どういうことですか?」

「私にも訳が分からない。しかしどういう訳か『大蛇』なのだよ。ホタルコ嬢、故にこれ以降、奴のことを『オロチ』と呼称することにするぞ」

「分かりました。標的の呼称を『オロチ』で『登録』します」

 ホタルコちゃんが、テキパキとボードを操作しながら答える。意味が分からないのはこっちの方だ。「」のなら、何故に敵のことを「大蛇」とか「オロチ」とか表現できるのだろう。

「マサト少年、さっきの『視覚情報』をこっちに送ってくれ。出来るな? こっち側の攻撃の瞬間だ」

 攻撃……? と一瞬疑問に思ったが、さっき、砕いたポテチを敵に降らした時のことを言っているのだ。

「え?『視覚情報』……あ、はい。できます」

 教授は、自分のボードをそろばんの傍に置いている。僕は、さっき見た光景を指先から自分のボードへと「入力」し、即座にホタルコちゃんのボードへ転送する。まもなく、僕ら三人のボードに共通の映像が浮かび上がった。ポテチの雨が敵に降り注いだ瞬間だ。

「ほお! これはいい。素晴らしく『解像度』が高い。君の特技かな?」

 僕の唯一の特技が「速読術」だ。自覚はなかったけれど、それはきっと視覚の解析力が優れているということなんだろう。それが思わぬ所で生きたらしい。しかし、一体その画像で何を……?

「いいかね。これを使って今『画像解析』をしている。光の色の変質量、屈折率。ここから、奴を取り巻いている『空間の曲率』を計算できる」

「は……はあ……計算?……ですか?」

「状況は君も判ってるだろう。奴の周囲は『見えない壁』で覆われている。何もない空間。『空間がない空間』が奴を守っている。その構造を解析してるわけだ」

「で……でも、これ『壁』っていうより、あいつ、すっぽり変なドームで覆われてますよ! これも、『法学装甲』ですか? この『ドーム』を何とかして破壊すればいいってことですか?」

「うむ、これは一般的な『法学装甲』とは根本的に違うな。これを見る限りでは、この『壁』の発生は不可逆的で、『破壊』も『縮小』も出来ない。一度作ったら一週間は残留するだろう。作った本人ですら、『形状の変更』と『拡張』ができるだけだ」

「じゃあ、いくら形状を解析したって、空間が分断されてるんだったら、こっちの攻撃は根本的に届かないんじゃないですか!」

「ホタルコ嬢、解説」

「あ、はい。マサトさん。それは違うんです。空間が完全に『分断』されているなら、あちらとこちらの『フォーマット』もまた『分断』されます。それでは、向こう側からもソリッドは『起爆』できないはずなんです。逆に言えば、むこうから攻撃が出来ている時点で、空間は何らかの形で『連続』してるはずです」

 なるほど、確かにそうだ。仮に、向こうとこっちが、完全な『同一フォーマット』で稼動していたとしても、空間が分断されているなら、『フォーマット』は一度リセットされてしまうはずだからだ。

「よし、少年のおかげで、こっちの目処はつきそうだ。ところでホタルコ嬢、そろそろこっちもソリッドを出すぞ」

「判りました。数はどうします?二つ、三つ?」

「とりあえず『三つ』。念のために、その後に『二つ』を吊るしておけ」

「調律は『ハナミズキ』でいいですね。二十三番?」

「いや、二十五番でいこう。今日は湿度が高い」

 そんなやり取りをしているうちに、ホタルコちゃんのボードの上に、立体的な光が浮かび上がる。いよいよ、こちら側のソリッドが登場するのか……と僕は期待した。しかし、実体化したのは、よりにもよって「天秤ばかり」だった。


 青銅の天秤ばかり、いわゆる「岩窟王」……


 これまた、ひどく面食らった。ポテチの次は「岩窟王」? こんなものを使うのか? しかも、ユリのマークが刻印されている、雑貨屋ならどこでも売ってる、「ほほい堂の岩窟王」だ。これは、「家庭用燃料」だろ? 「ほほーい堂♪ほほーい堂♪」というCMソングは子供だって知ってる。風呂を沸かしたり、暖房に使ったり、どこでも使ってる「日用品」だ。これで攻撃?

「ちょっ……ちょっと、これ『岩窟王』じゃないですか。これを使うんですか? 嘘ですよね!」

 「青銅の天秤ばかり」は「三教団時代」の文献にも記述がある、最も歴史が古い攻撃型ソリッドだ。現在では遥かに高度で複雑なフォーマットの元で稼動する、「高級ソリッド」が無数に出現しているので、兵器としての「岩窟王」の役割は、とっくに終わっているとみなされている。

 しかし、現在でも「青銅の天秤ばかり」は、本来のはかりとしての用途ではなく、あくまでも「岩窟王」という家庭用ソリッドとして大量生産され、一般に使われているのだ。

 一連の事態で、理解できた。要するに、この人達は「物凄く貧乏」なのだと。ポテチとか岩窟王とか、安物のソリッドしか使えない、法学装甲で防御も出来ない貧乏占い師なんだ。

 とんでもない人達に出会ってしまった。これじゃ、細い棒切れで、ライオンに立ち向かえと、言われているようなものだ。

「そうです。正しく教授の『主力兵器』岩窟王ですよぉ。でも、見てて下さい」

 ホタルコちゃんが、ボードにいくつもの単語を打ち込んでいる。

 「дождевой」「δοκιμάσετε203」「55lac bleu2」「Um mantis」「34彷徨茫々」……それらの文字列は、岩窟王に次々に吸い込まれていく。

 これは……一体?……そうか!

「『チューン』ですか?それはソリッドを『チューニング』しているんですね」

「そうです。現在の状況に合わせて『最適化』してます」

 都市の「フォーマット」の状態は、刻一刻と微細に変動している。そのときの気温、湿度、磁場、月齢など、様々な条件によって、同じソリッドでも「フォーマット」に完全に適合させ、ポテンシャルを最大限に引き出すためには、慎重で繊細な調整が必要となる。それが「チューン」(調律)だ。

 教授とホタルコちゃんは、「調律データ」を想定されるパターンごとにあらかじめ高度に暗号化して、十個前後の単語に凝縮しているのだ。それらは「チューンセット」と呼ばれ「ハナミズキ」とか「カキツバタ」と言った名前がつけられている。これも、話には聞いていたけれど、僕は初めて見た技術だ。実際、ソリッドを「チューン」して使うような人は殆どいない。何故なら、弱い「低級ソリッド」を散々苦労して「チューン」したところで、ずさんに使った「高級ソリッド」には遥かに及ばないからだ。

 確かに、凄い技術であるんだろうけど、僕の不安は全然解消しない。だって、ポテンシャルを引き出したって、しょせん「岩窟王」は「岩窟王」じゃないか。

「『一番』ソリッド『上程』します!」

「やってくれ」

「『査定』お願いします。問題なかったら、同数値で『二番』『三番』も上げます!」

「よし、いい出来だ。次もそれで頼む」

 そう言うと同時に、教授のそろばんを弾く手が止まった。

「とりあえず『近似値』が出た。表示するぞ。見たまえ、少年。これが、奴が仕掛けた『手品』の種明かしだ」

 僕のボードに、妙な図形がブウンと浮かび上がる。ボードをびっしりと埋め尽くす、スパゲティのようにのたくった線。なんなんだこれ?

 僕は、短絡的にひらめいた気になった。

「教授、敵が『大蛇』だってのは、これのことを表現したんですか?」

「ん?違うぞ。『オロチ』というのは、あくまで『奴そのもの』のことを言ったのだ。こっちは、あくまで奴が構築した、『全く新しい発想の法学装甲』だ。いいかね。奴をすっぽり覆ってる丸い『空間ドーム』には『穴』が開いている。そこから、直径5センチ位の『空間トンネル』が続いているのだ。今表示されている、恐ろしく細長い、蛇のようにのたくった線がそれだ。この町のどこかに、『トンネルの出口』が作られていて、我々のいる空間に繋がっている。その経路を辿って、奴はソリッドをこっちに送り込んでいるわけだな。これは確かに面白い。私も初めて見た。恐らくはトポロジーを応用した、極めて独創的な技術だ。奴は相当に頭がいいぞ」

「は……トポロ……?」

 聞きなれない単語を聞いたので、僕は思わず聞き返した。

「トポロジーだ」

 トポロジーって……? 変な物理用語を出すのは止めてくれ。僕は物理が苦手なんだ。前に「エントロピー」とか言うのをかじったけれど、さっぱり判らなかった。それに似た類だろうか?

「ならば我々は、このトンネルを逆に辿って、奴を覆っている透明ドームの内側にソリッドを送り込んで反撃すればいい。実にシンプルな答だな」

「で……でも、こんな大雑把な数値しか判らないんじゃ……『トンネルの入り口』からして判らないじゃないですか! 判ったとしても、こんな細い曲がりくねったトンネルにソリッドを通すのは無理ですよ! トンネルの壁にごっつんごっつんぶつかりながらじゃ、すぐに精査されて、迎撃されちゃうんじゃあ……」

「よろしい、正しい分析だ。それこそが、この技術のミソなのだな。しかし、その続きを解説している暇はないな」

「え?何でですか?」

「こっちの位置を奴が捉えたらしい」

「ええええ?」

「遠隔照準で攻撃してくるぞ。衝撃に備えたまえ、少年」

「え? え? え? 衝撃?」

 ボードに特大の青い光点が表示されている。

 続いて、眼前に出現する「微笑のベルベット」!

 至近距離での黄色爆発!

 しかし、「衝撃に備えろ」という警告は、その爆発のことじゃなかった。

 ゼロコンマ数秒前に、教授が「起爆」した超高速移動「マンザの朝は青い」の方が強烈だったのだ。本気で、内臓がひっくり返ったかと思った。僕達は一瞬のうちに空へ舞い上がっていた。

 巨大な六角形をした都市の外郭部、その内側に並ぶマッチ箱のような家々、地上で巻き起こる爆風と光。

 その全てが、遥か眼下に見える。

 地上数百メートル……とんでもないジャンプだ!

 何故、こんな高さまで?

 空中で、木の葉のように舞いながら、教授が左手の掌を上に向けた。ポンッという小さな音と共に、大さじ一杯ほどの「白い粉」が山盛りになって現れる。

「少年、いよいよハイライトだ。ボードを見たまえ。これが何だか判るかな? 今度はこちらが手品を見せる番だ。いや、ちょっとした理科の実験か」

 ボード上にチラチラと現れる表示を見る。教授の手の平に載っている白い粉は……

「これは……炭酸水素ナトリウム……確か『仮面ザクロ』?」

 ……と言い終わる前に、ホタルコちゃんが僕の耳の穴に、細い指をムギュッ……とねじ込んできた。ムギュッと。うわ、何するんだ。

「マサトさん! 鼓膜を痛めます。口と鼻の穴を塞いでください!」

「ご名答、二束三文で買える、何の変哲もない『ふくらまし粉』だ。これには、こういう使い方があるのだな!」

 と言いながら、教授はもう一方の手の拳を「ふくらまし粉」の山に叩きつける。舞い散る白い煙。そして、耳の傍で大きな音が鳴ったような、経験もしたこともない奇妙な衝撃。

 それは、僕らがいる位置を中心にして、都市を覆う大気全体へと、爆発的に広がっていった。

 そして、気がつくと、僕らは「雲」の中にいた。

 別に、雲のある高さまで上昇したわけではない。正確には「都市全体が一瞬で厚い霧に覆われた」のだ。

 なんだ? 何が起こった?

「ホタルコ嬢!」

「はい、解説です。『仮面ザクロ』の化学分解を起こし、そこを中心に、都市を覆う大気を、瞬間的に膨張させました。その一瞬だけ、気温は下がり『露点』に達しました。それで、大気中の水蒸気が凝結して、霧が生まれました。小学校で習う理科の実験です」

「え……?な……なんですか?こ……これが……?」

 「霧」が少し薄くなると、今度はまた、別の光景が僕を驚かせた。巨大なトコロテン……あるいはカエルの卵が都市全体を覆って浮かんでいる。いや、実際にはトコロテンでもカエルの卵でもない。これこそが、老婆を覆うドームから伸びている「透明な空間トンネル」だったのだ。

「こ、こんなに、でかいものだったんですか?」

 水滴が表面にびっしりと付着することによって、「透明なトンネル」が目に見えるようになった。そして、それがここまで高い位置まで、僕達が上昇した理由だった。

「少年、このトンネルの形を、くまなく眼で観察してくれ。端から端まで見えるはずだ。『視覚データ』はこっちで吸い上げる。」

 地上へ落下する僅かな時間に、僕は巨大なトコロテンを凝視する。すると、ボード上に膨大な量の数列が、洪水のように溢れ始めた。「トンネル」の詳細な「形状データ」だ。

 ついで、強烈なGが僕の身体を襲う。

 教授が狭い道路上に着地したのだ。

 彼女の「体内」にいるのだから、僕らが無事なはずはない。身体が砕けそうな衝撃に耐えながらも、頭を上げた僕は驚いた。

 問題の「透明トンネル」の、こちらの空間と繋がる「入り口」が、前方にぽっかりと空いている。そして、その向こう側には、あの老婆の後姿が……。

 そうか、長い長い「トンネル」が、都市の上空をさんざん曲がりくねった末にたどり着く「入り口」は、結局「老婆のすぐ背後」だった……これは、正に「灯台下暗し」だ!

 教授がL字形に指を作り、腕をトンネルの開口部に突き出す。指先から少し離れた空間に、小さな光点が出現すると、吸い込まれるよう、「トンネル」に飛び込んだ。ソリッドがリリースされたのだ。

 同時に、ボード上に赤い光……味方側のソリッドを示す色が出現し、凄いスピードで動き始めた。計測されたルートに正確に沿って、「トンネル」の中を誘導されている。それにしてもこのソリッドは? 「岩窟王」としては思えないほど光が強いけど……やはり、これまで敵が繰り出したソリッドの光には遠く及ばない。

 こんなんで敵に通用するのか?

 一方、僕らに背を向けた老婆は、一向に動かない。こちらが「トンネル」にソリッドを放った事に、気がついていないはずはないのに、まるで慌ていないのだ。やがて、老婆はゆっくりとこちらへ振り向いた。

 笑っている。

 敵が初めて見せた表情らしい表情。老婆は左腕を突き出している。手に持っているのは、辞書のように分厚い、ぼろぼろのノート。


 ん……???? 何だ?


 刹那、僕は奇妙な違和感を覚えた。その正体ははっきりと掴めなかったが、とにかく「何かがおかしかった」のだ。しかし、次の瞬間には、その違和感は老婆の行動に対する当たり前の感想にかき消されてしまった。

 一体、何だあのノートは……何をやろうっていうんだ?

 ……そう思っていたら、老婆を中心に、空間がゆらゆらと、かげろうのように揺れ始めた。指を使って、凄いスピードでノートの表紙を、字を書くようになぞっている。ノートの上にはソリッドらしい「金属の塊」が浮いている。手元のボードを見ると、高級ソリッド特有のスペクトルが表示されているが……

 あれは……希少金属の「タングステン」? 空間の揺らぎは、みるみるうちに広がっていく。これは……

「ひょっとして『エディット』(編集)? 『フォーマット』を『エディット』(編集)してるんですか?」

 叫びながら、ホタルコちゃんの方を見た。彼女もボードを猛烈なスピードで操作している。

「そうです。ここで使ってくると思ってました。あのノートは制御ボードにもなってるんです。あの中に、あらかじめ『エディットパターン』が用意してあるんです」

「エディット」とは、「カスタマイズ」「コンパイル」など、様々な別称で呼ばれる、フォーマットの「上書き」技術だ。

 高級ソリッドになればなるほど、そのポテンシャルを完全に引き出すためには、相応に高度で複雑な、「フォーマットの上位階層」で「起爆」させることが必要となる。そのため、上位階層の情報を掌握していない「よそ者」の学者は、それを扱える「都市公認学者」に対し、大きなハンデを背負ってしまうのだ。

 しかし、「フォーマット制御機能」があるタングステン「過去へと満ちる月光」などのソリッドを燃焼させれば、限定された範囲に限って「独自規格の上位階層フォーマットを一時的に構築する」ことができる。その時だけは、公認学者でなくとも高級ソリッドのポテンシャルを完全に引き出せるようになるのだ。

 僕は、もちろんそれを知識では知っている。しかし、まさかこんな雲の上の上級者が行うような技術を、眼で見ることになるとは思ってもいなかった。

 ボードの表示を確認する。

 半径20mの空間で、「フォーマット」の第二から第四階層までが変質している。

 あっという間に「独自のフォーマット」を構築したのだ!

 やがて、空間の揺らぎは止まっていった。しかし、今度は老婆の周囲だけが色彩が変わっていく。じわじわと赤みが強くなっているのだ。

 「色彩コード」を書き換えてる? こんなことまで!

 しかし、「フォーマット」をエディットするという事は?……必然的に、「とんでもない高級ソリッド」を使ってくる、ということを意味する。その戦慄の事実に、僕が気づいた直後、老婆の顔の前方に、一つのソリッドが浮かび上がる。

 真珠をちりばめた万華鏡、「亜麻色の髪のマグラトオ」だ。

 僕のボード上に、凄まじく明るい青い光が表示された。

 僕も一応知っている。あれは、これまでの攻撃とは比べ物にならない、目玉が飛び出るほど高価な高級ソリッドなのだ。しかも、それがスッと消えたと思ったら、ボード上の光は、目にも止まらぬ速さで、動き始めた。

 まずい、「トンネル」の中を猛スピードで、こちらに向かって突き進んでいるんだ!

 こちらのソリッドが敵に届くより前に、敵のソリッドがこっちに届いてしまう。

「きょ……教授! やばいですよ。向こうのほうが速い……。逃げないと……いや……それも駄目か……」

 このクラスのソリッドになると、目標の「追尾能力」が格段に高い。簡単な「高速瞬間移動」では、逃げ切れないのだ。これじゃ勝てるわけがない!

 大体、使えるソリッドの威力が違いすぎるんだ! 

 ホタルコちゃんが、僕のパニック状態をなだめるように……

「大丈夫です。あれが起こす『赤色爆発』はエネルギーの『筋目』が強いです。爆発に『ツボ』のようなものがあるんです。そこをタイミングよく抑えれば、怖くないです。マサトさん、落ち着いて!」

 と、そんなこと言う。なんで、そんなに落ち着いてるんだ! 僕は気が動転して頭が空っぽになってしまった。

 それでも、唯一のとりえ、動体視力で僕は見た。

 眼前にある「トンネル」の出口を通り抜けて、教授の目の前に出現する、起爆直前の「万華鏡」、すなわち「亜麻色の髪のマグラトオ」。

 そして、教授が取ったたった一つの対抗手段。

 指先から放った一粒の「大豆」、すなわち「くらやみ乙女」。

 巨大な赤色爆発が起こる。

 しかし、その光の流れは、教授の指先を支点に、四方に弾かれ、流されていった。凄まじい威力で爆炎は町を走っていくが、教授は火傷一つ負ってない。

 こ……こんなことって……?

 驚いたのは僕だけではなかった。見ると、老婆の顔色が変わっている。明らかに余裕が失われているんだ。ざまあみろ!きっと、こっちのソリッドが奴の位置まで到達する前に、教授を倒して、「法」を無効にできると思い込んでいたんだ。

 もはや、敵に対抗策を取るだけの時間は無い。

 今度は、老婆の眼前で、ソリッドが形を現す。

 教授が放った「岩窟王」が、敵の空間ドームの内側に到達した!

 ……と、僕は思っていた。しかし、違っていた。

 それは「岩窟王」だけど、「岩窟王」じゃなかったのだ。

 現れた「天秤ばかり」は「三つ」だったからだ。

 僕は、見た瞬間、単純な「並列三連鎖」だと思った。しかし、違った。きれいに正三角形に配列された「ソリッドのフォーメーション」だ。

 これは、「三重螺旋」?

 ボード上の赤い光の輝きが、急激に増幅した。とんでもないポテンシャルだ。話では聞いたことがあった。これが「多重螺旋連結」なのか?

 各ソリッドのポテンシャルを、「螺旋構造」で高度に重ね合わせ、相乗効果で際限なく増幅させる。後から知ったけれど、これこそが、知る人ぞ知る「夜歩く女」ことカノッサ・ディープレッドの十八番「岩窟王の生還」だったのだ。

 これのために、あれだけ綿密な「チューン」が必要だったのか!

 最初に紫、ついで緑、そして水色へ、複雑に色を変化させながら、敵の空間ドーム内部で、猛烈な爆炎が巻き起こる。

 敵が起こした「亜麻色の髪のマグラトオ」にも劣らない規模。

 しかも、その形状はずっと複雑だ。

 大きな「光で出来た単語」が、いくつも噴出してくる。

 それらは「チューン」の時に入力した文字群なのだ。これが、「多重螺旋」に調整された法の起爆? 僕は驚愕と共にそれを眺めるしかなかった。

 やがて、爆光はシュルシュルと消滅していき、道路上には一切の痕跡も残っていなかった。

 勝った……のか?

 やがて周囲から、さっきよりもずっと穏やかな風鈴の音が、鳴り始める。この都市の当局によって、戦いの終結が認定されたのだ。

 続いて、僕を通り抜ける一瞬のめまいと、視界の混乱。

 それが収まると、僕はホタルコちゃんと共に、本物の肉体を持って空中に出現していた。どうやら、教授の「体内」からは出してくれたらしい。

 しかし、地面にゆっくりと降りていき、両足が地面についた瞬間、僕の左足に激痛が走った。

「痛っ!」

 がくんと膝が砕けて、尻餅をついた。

「マ、マサトさん?」

 ホタルコちゃんが慌てて僕にかけよる。僕の方はというと、余りの痛みに声を上げる事もできなかった。

「血が出てます! ちょっと見せて下さい!」

 見ると、僕の左の膝は、ズボンの表面まで血がにじんでいる。

 ホタルコちゃんは、慎重に僕のズボンをまくり上げてくれた。かなりの出血だ。敵との戦いが終わって、気がゆるんだせいか、痛みはどんどん増してくる。しかし、これは明らかに、膝をすりむいた時の表面的な痛みでは無い。もっと身体の内部から吹き上がって来るような太い痛みだ。

「大変! きっと、これは骨折してます」

 ホタルコちゃんは即座にそう言い切った。膝を見ただけなのに、判るんだろうか。

「ホタルコ嬢、治療をしてやるといい。ちょうど、さっきの買い物の中に、いいソリッドが入ってるはずだ」

 教授は、あくまでも冷静にそう言うと、スタスタとさっき「岩窟王」が起爆した方向へと歩いていった。爆光によって、石畳が変色している中心部で足を止めると、

「相変わらず、私の仕事は美しいな……」

 と言ってから、しゃがみこみ、地面に金属製の星座盤を出現させた。

「美しくないですよぉ。今のは、『二重螺旋』で十分でした。『在庫』が乏しいんですから、節約して下さい、教授」

 そんなことを不機嫌そうに言いながら、ホタルコちゃんは、小さなルーペを手にして、道路に対して水平に向けていた。上にはオオムギの種子が乗っている。ポンッと紙袋が破裂したような音と共に、大きな買い物袋が二つ出現した。「縮小」を解いたのだ。きっと、二人は買い物の帰りだったのだろう。

「ちょっと待ってて下さいね。今治療の準備をしますから」

 そう言いながら、「制御ボード」の操作を始めた。治療のための「法」を使う準備をするのだろう。

「それも一理あるな。しかし、念には念をいれた。それで、正解だった」

「一発が『不発』だったじゃないですかぁ。あれじゃ、ほんとに無駄玉ですよ」

 ホタルコちゃんの言葉は、僕を驚かせた。すると……?

「え……あれは『三重螺旋』じゃなかったんですか? 起爆したのは二発? それであれだけの威力?」

「そうだ。『三重』で同時起爆したら、あんなものじゃないな」

「す……凄いですね……。あれでも『二重』の威力だったなんて……僕には想像もできない技術だ……」

「いや……それは、少し違うのだがな。まあ、いい。いずれ説明できる時も来るだろう」

 と言いながら、教授は星座盤の上に盛った青い粉末を、ボンッという音と共に燃焼させた。あの粉は、「舞頭星」(硫酸銅)か?

 そして、傍らに置いた『プログラムそろばん』を、パチパチと弾いていく。あれは一体何をやってるんだ?

「あの……恥ずかしいんですけど、その道具、『そろばん』……って何ですか?」

 僕は、馬鹿にされるのを覚悟で、恐る恐る教授に聞いてみる。だけど、答えてくれたのはホタルコちゃんだった。

「知らないのも無理ありませんよぉ。『そろばん』は、今は博物館にしか無い道具ですから。これは「計算」をする道具なんです。しかも、教授はそれに改良を加えて、凄い計算量を一気にこなせるようにしてあるんです」

「計算? 計算って足し算とか引き算とかですか? それでできるんですか?」

「出来るんですよ。でも、こんなことをする『学者』は、きっと教授位ですけど……」

 僕は、一応独学で勉強はしたものの、「計算」はまるで苦手なのだ。というか、計算なんて、買い物以外にする必要が無いものだと思っていた。法学でも計算が必要になる時があるなんてことは、恥ずかしながら、今初めて知った。

「ううむ……それにしても妙だな。正しく『オロチ』だ……」

 不可思議な独り言を言ってから、教授は立ち上がった。

「それよりも、改めて自己紹介をしようか。私が、『くらやみ乙女』の店長のカノッサ。それから、彼女は店の助手にして、私のゼミに在籍する唯一の学生、ホタルコ嬢だ」

「よろしくお願いします、マサトさん」

 僕のすぐ目の前でしゃがみこんでいたホタルコちゃんが、顔を上げて、ほんのりと笑顔を見せる。またもや、顔が至近距離だ。僕は、膝の痛みも忘れて、再びどぎまぎする。

「本当にありがとうございました。本当なら、僕はとっくに黒焦げになって死んでました。あ……それから、僕の名前なんですけど。ちょっと、『色彩コード』の適合が悪くて、ここではつづりを変更してるんです。だから、発音は『マサアト』でお願いします」

「あ、判りました。マサアトさん。そういえば、帽子かぶってますね」

 と、言いながら、ホタルコちゃんは頬を緩ませた。すっかり忘れていたが、僕はあの恥ずかしい帽子をかぶっていたんだ。自分でも顔面が紅潮するのが判った。あのおっさんめ……もう少し目立たない手段を取ってくれれば……

「それにしても災難に出会ったものだな。君は、今の状況をどう認識している?」

「え? 認識というと?」

「見ていただろうが、奴『オロチ』は最後に『エディット』を行った。あれが意味する所だ。まず、一つ単純な事実は『奴は相当に能力が高い』ということだな。第二に、『エディットする必要があった』ということは……?」

「ええと……つまり……敵がエディットをする必要があったということは……そうだ、この都市の『フォーマットの上位階層』を掌握していない……この都市の『公認学者』じゃない……?」

「その『よそ者学者』が、君がこの都市に到着するのを待ち構えていた。そして、私の店のドアに偽物の張り紙をして、君をおびき寄せたわけだな」

「そうか……やっぱりあれは、奴が貼った物だったんですね」

「もし、我々が店の中にいたら、あれには明日まで気がつかなかったろうな。たまたま外出先から店に戻ってきた時に、あれが貼られているのを見つけて、君のところに駆けつけたのだよ」

 僕は、言葉も出なかった。何だって僕が狙われなくちゃいけないんだろうか……とんでもない事態に巻き込まれていることだけは確実だ。

「はい、用意できました。もう大丈夫ですよ」

 ホタルコちゃんはボードを地面に置いた。治療の準備が整ったらしい。気がつくと、何と数本の「煮干」を手にしている。

「え……? に、煮干ぃ?」

「ええ、煮干ですよ。カルシウムが豊富だから、骨折を直すには最適なんです。ちょっと、変な感じがしますけど、我慢して下さいね」

 そう言いながら、僕の膝に煮干を握った右手を近づけた。ギュウウン……という、うなるような音が鳴り始めると、膝の奥で骨が締め付けられるような、妙な不快感が湧き上がる。それに従って、痛みが嘘のように消えていく。

 これは……骨折が治ったのか?

「それから、擦り傷のほうも治しておきますね。人が来るとまずいから、急ぎますよ」

 僕が、あっけに取られている間に、ホタルコちゃんはキビキビと、買い物袋から別の大きな紙の包みを取り出した。それを解くと、中から出てきたのは、今度は十本ほどの「ヤーキ・トーリ」だった。

「え……? え……? 今度はヤーキ・トーリですか? それで傷を治す?」

 ホタルコちゃんは、その中から「カワ」を一本取り出して、一番上の一つを指でつまんで串から抜いた。

「はい、そうです。教授の大好きな、ヤーキ・トーリです。見ての通り、これは『カワ』ですね。コラーゲンが一杯だから、ちょっとした擦り傷は一発で直りますよ」

 と、言いながら、カワを傷口の近くに持って行った。ビイイ……ンという小さな音を立てて、カワは燃焼する。それが完全に無くなる時には、傷口がきれいさっぱり消えていた。

「はい、どうですか? 立ってみて下さい」

 と、ホタルコちゃんが言うので、恐る恐る僕は立ち上がってみた。

 なんとも無い……まだ、少し鈍い痛みが残っているけど、傷その物は完治している!

 凄い……! 煮干や、ヤーキ・トーリで、傷を治せるなんて、初めて知った。

「実は、生き物の体や食べ物で人間の肉体を治すのは、殆どの都市で結構な『教義違反』なんですけどね。知る人は知ってる裏技ですよぉ」

 と、ホタルコちゃんは、いたずらっぽくウインクして見せた。

「え? やっぱり、そうなんですか? だ……大丈夫なんですか? ばれたら、『バイオレーター』(教義違反者)になっちゃいますよ!」

 どうりで、教則本で法を学んだ僕が知らないはずだ。正統的には、骨折を直すには「石灰岩」(ビッグハックル)、傷口を塞ぐには「木炭」(緑の来訪者)を使うのだ。

「まあまあ……それにはそれなりの、抜け道があるんですよぉ……ちょっとしたコツを掴めば、多少は問題ないんです」

 などと、可愛い顔をしていながら、凄い事をしれっと言う。一体、この人達って……

「あ……そ、そうなんですか……アハハ……いや、何だか皆さん、結構『裏技』を使うみたいですね。僕が知っている学者の仕事とは随分違うんで、驚きましたよ」

「いえ……それはちょっと違いますね。教授が行う事は、『全てが裏技』なんです。いわば、『存在そのものが裏技』ですね。だから、『夜歩く女』なんです」

 ホタルコちゃんは、いかにも嬉しそうに、ちらりと教授の方に目を向ける。

「ホタルコ嬢。それは人聞きが悪いな。私は、全てにおいて、創意工夫をしているだけのことだ」

 なるほど……歩く裏技だから「夜歩く」……そういうことだったのか。

「まあ、ともあれ私の店に行こう。まずはお茶でも一杯ごちそうしよう。詳しい話はそれからだ」

「は……はい。そうですね。それがいいです」

 とりあえず、命の危険からは脱したらしい。

 そう思ってほっとしたら、老婆がノートを出して見せた時に、僕がふと感じた「違和感」のことを何故だか思い出した。

 あれは、一体何だったのだろう。

 教授の店に向かう道すがら、何度もあの時の光景を頭の中で再生しようとしてみたが、どうにもその正体は掴めなかった。

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