「微笑みのベルベット」

 目の前で、僕の大好きなエシャが苦しんでいる。肌の色が土気色に変色し、硬直が進行し、徐々に動かなくなっていく身体を横たえている。

 僕は無力だ。背が高いわけでもないし、外見も地味な少年に過ぎない。地位もお金も無い。だけど、只一つだけ特技がある。それは速読術だ。それを駆使して、この5年間「法学書」を読みあさり、必死に「法学」の勉強をしてきた。

 別に「学者」になることは目的じゃない。自分が好きな女の子を救いたい、その一心で頑張ってきたんだ。その甲斐もあって、先月、ようやく「学士」の資格を取れた。十六歳で学士試験を通ったのは、この都市では初めてらしい。これで、ある程度のレベルなら「法の施行」も許可されるようになった。

 しかし、そんなことが一体何になったんだ。

 ごめんエシャ。

 僕は、ありったけの知識で、彼女の寝床の周りに「法学装甲」を組んだ。しかし駄目だった。エシャの体の硬直はどんどん進んでしまう。僕はやっぱり無力だ。でも、はっきりしたことがある。これはやっぱり、何者かの「犯行」なんだ。正体は判らないけれど、何らかの「法」がやすやすと「法学装甲」を通過した形跡が残っていた。それも、一ヶ月前から何度も。

 僕とエシャには家族がいない。僕は寝たきりのエシャを引き取って、一人で暮らしている。資格が取れたおかげで、法学事務所で簡単な助手の仕事ができるようになったけれど、生活は苦しい。都市からの補助金が頼みだ。

 僕は、そんな苦しい収入の中から貯金をして、この都市の「公認学者」に仕事を依頼した。自分でエシャを救えないなら、他人を頼るしかないからだ。しかし、あのひげ面のくそったれ「学者」め! あいつは、散々調べたあげく、

「これは……きっと、何らかの疫病でしょう。私には原因は判りません」

 なんて言って、逃げだしてしまった。しっかり僕の全貯金をふんだくった上で。そんな、馬鹿なことがあるものか。これはあくまでも、何者かによる悪意を持った「法」の仕業なんだ。

 僕らが住む「アアア」は、史上最強、完全無欠、究極と名高い「信仰都市」だ。そんじょそこらの小物が、呪いなんて出来るはずがない防御がされているはずなんだ。だから、結論は一つしかない。僕には確信がある。これは、何者かの「陰謀」なんだと。

 僕の大好きなエシャ。「法」をかけられた影響なのか、五年前から、ぱったりと身体の成長を止めてしまったエシャ。まだ、顔にまでは硬直は進んでいない。だから、緑色の瞳も、艶やかな髪の色も、あの頃から全く変わらないままだ。殆ど動かなくなった指で、僕の手を必死に握ろうとしながら、血の色がまだ通っている唇を動かし、エシャは僕に語りかけた。

「もう……いいのよ……マサ……ト君。わた……し……のために頑張って……くれなく……ても……」

「何言ってるんだ。あきらめちゃ駄目だ。待っててエシャ。僕は生まれて初めて、この都市を出るよ。君を助けるために。まだ、一つだけ希望があるんだ。『法学校』に通ってる人から聞いた話だ。凄い『教授』がいるんだって。どこの信仰都市の公認でもないけど、仕事は唯の占い師だけど、とんでもない腕を持った人らしいんだ。最近は、西の大陸の信仰都市ホノ・トム・キイに住んでるらしい。名前もわからないけど、通り名だけは判ってる。『夜歩く女』だって」

「夜……歩く女?」

「そうだよ。変わってるだろ。なんで『夜歩く』なんだろうね。僕は昨日、その教授の店に手紙を送ったよ。待っててくれ。その人をここに連れてくるから。まだ希望を捨てちゃ駄目だ」

 エシャのふるえる目尻から、涙が一筋こぼれた。

 僕は思わず、固くなった彼女の手を握りしめる。そして、天井から赤い絹糸で吊るされていたペンダントを外した。5年前の祝法会の日に、僕がエシャを守る為に渡したものだ。クルミの形をしていて、僅かに青みがかった銀色のロケットだ。これを中心に彼女を守る「法学装甲」を組んだけれど、悔しいけれど、結果的には何の役にも立たなかった。

「心配だけれど、これは持って行くよ。一体僕が組んだ『装甲』の何がまずかったのか、これについても、その教授に聞いてくる」

「ありが……とう……マサト……君。気を……つけてね……」


 只の名前しか持たず、何の力も無い、空っぽの僕。


 「マサト」は、いまだ何者にもなっていないのだ。


 こうもちっぽけな存在が、それでも辛うじて二本の足で立っていられるのは「あの夏の日の記憶」が、確かな核をもって僕の中に存在しているからだ。エシャがこうして生きていてくれるからだ。

 まだ、エシャが元気だった5年前、きっと僕は、未来には当たり前のように、幸せな世界が待っているのだと、無邪気に信じることができたんだ。

 あれは、決して幻想ではない。幻想にしてたまるか。エシャを必ず救って、あの時に見た「未来」を取り戻すんだ。

 そう心に誓いながら、にじみ出る涙を懸命にこらえながら、僕は彼女の家を出た。

 それが、昨日のことだった。


☆               ☆


 そして今、僕は草木一本生えない荒野に立っている。

 目の前に立ちはだかるのは、ものものしい城門。それを中心に、高さ数十メートルもある、巨大な城壁が左右に続いている。これこそが信仰都市「ホノ・トム・キイ」の「最外郭部」だ。残り乏しい資金を使って「転送所」を何箇所も経由して、やっとのことでここに辿りついたのだ。

「ええと、どれくらいかかりますか? 」

「ああ……そうだな。大体問題ない。よく調べてるな~坊主。あ……でもちょっと待て、このシャツも駄目だな。これも『隔離倉庫』行きだな」

「また、『色彩コード』ですか?」

「そうだ。まあ、そう急かすな。終わるまで、そこに書いてある『基本コード』を良くおさらいしておけ」 

 僕の荷物を一つ一つ取り出しているのは、この都市の「入城審査官」だ。外部から侵入してくる、あらゆる生物や物体が、この都市の「フォーマット」(書式)に適合するかどうかを精査する役割だ。一見、いかにも人の良さそうな只のおっさんだけど、あれで相当に優秀な「学者」なはずなのだ。

 「フォーマット」(書式)は、都市によって「ベーシック」(基本)とも「オペレーションシステム」(OS)とも「スタンダード」(標準)とも、様々な別称で呼ばれているが、内容は全て同じものだ。

 簡単に言えば「『法』を発動させるために、物理法則を制御する基本システム」のこと。

 世界に存在する、それぞれの「信仰国家」は、一つの「教団」によって支配されており、城壁で囲まれた一つまたは複数の「信仰都市」の集団から成り立っている。教団幹部は、「都市設計者」と呼ばれる学者を中心に、神秘学、数霊術、占星術、建築学、物理学、哲学、化学、……と、ありとあらゆる知識を駆使して、綿密に都市群の設計をするのだ。この行為を「フォーマットを組む」と呼ぶ。

 「フォーマット」の中心に位置しているのは、都市中央の地下深くに作られた「核室」と、その中に秘匿されている「最高教典」だ。都市を人体に例えるなら「核室」こそは頭蓋骨であり、「最高教典」は大脳であり、その他の部分は肉体とするのが相応しいだろう。都市を構成する全ての物、つまり、建築物、道路、法律システム、文化、芸術、住人の服装、風習……もまた、「最高教典で描かれる世界観」と有機的に連動させるために、パズルのように構築された「フォーマット」の構成パーツなのだ。特に、石レンガ、城壁、石畳、瓦などの、都市を物質的に構成する建築材は、必要とあれば、高度に暗号化された単語や数値等を「入力」されており、「フォーマット」の「骨格」を構成している。つまり、「フォーマット」とは、「教典」そのものであり、都市を構成する全ての物であり、それらを稼働させるシステムのこともであるのだ。

 こうして組まれた「フォーマット」によって、教団は「法学的に」都市を防御し、支配し、あるいは他の都市に対して攻撃を起こせるのだ。

 城門の隣には、巨大な金属板が城壁に設置してあり、びっしりと数字や文字が書き込まれている。これは、ホノ・トム・キイで使われている、「基本階層フォーマット」の情報だ。

 そう、「フォーマット」は「階層構造」を持っているのだ。

「基本階層」の情報は、見ての通りで、誰にでも開示されている。これを把握していなければ、信仰都市内の住人は、日常生活はおろか、真っ直ぐに立つことすら出来なくなる可能性があるのだから当然だ。

 この都市の「基本階層フォーマット」は「群青のサンゴ石6238及びK」という「型番」がついていて、周辺の五つの信仰国家で共同開発し、使用されている有名なものだ。学士である僕は、今更見るまでも無く熟知しているつもりだ。しかし、第二階層から上は、各国家でより高度な「フォーマット」を独自に組んでいて、互換性は一切無い。その構造は、都市にとって防衛上の機密であり、厳重な審査を経て「教団公認学者」とならなければ、知る事は出来ない。さらに、最上位階層ともなれば、司教や教主などの最高幹部クラスのみが把握している。それを敵に知られる事は、即「その都市が陥落する」ことを意味するのだ。

「おい、坊主終わったぞ。入城してよしだ。」

「あ、ありがとうございます。案外早かったですね。」

「ただ、ちょっと全体的に使ってる色が『色彩コード』が適合してないな。そのグリーンの上着もそうだ。だから、この帽子をかぶってくれ。」

 やっぱり恐れていたことが起きた。僕は、この年齢としては、なかなか優秀な学士だと自負している。でも、唯一「色彩コード」については苦手なのだ。それなりに考えて、服装も持ち物も色を選んで買ってきたけれど、やっぱり駄目だった。

入城審査官のおっさんが渡してくれたのは、とんでもなく変な配色をされた上に、これまた変な色のバッジがたくさんつけられた帽子。こんなものをかぶらなきゃいけないのは拷問だ。

 でも、これで僕が身に着けているものの配色が、全体的に「フォーマット」に「適合」するように補正されるのだ。おっさんが苦心して調整してくれたのだから、ありがたくかぶるしか無い。

「それからな、坊主。まだあるんだがな。お前の名前、ここから先は『マサアト』だ。」

「え……?……マサー……?」

「ああ、『マサアト』。『色彩コード』の影響で、こっちもいじったほうがいい。ちょっとやっかいな発音で、ここで使ってる『文字コード』とは相性が悪いな~。こういうつづりだ、覚えとけよ」

 そう言って、メモ用紙に僕の名前をクリク文字で書いて渡してくれた。へんてこな帽子をかぶらされて、名前までみょうちきりんな発音に変えられてしまった。生まれ育った「アアア」から、初めて外の世界に出た僕だったが、別の信仰都市に渡るのというのは、これほど大変なことなのだと、しみじみ理解できた。

「旅行ビザだってな。ここはいい町だぜ。じゃあな坊主」

 という、おっさんの言葉が終わらないうちに、ギリギリと城門が開く。「ホノ・トム・キイ」市街の風景がその向うに広がった。僕は、荷物を肩に担ぐと、城内と城外を隔てる境界線を通過して、都市の中へと一歩を踏み入れる。

 その瞬間、それまで見えていた前方の町の風景が変質した。

「うわ!」

 思わず声を上げてしまった。形状こそ全く変わってはいないが、建物も、道路も、通行人の服装も、空までもが、微妙な差だったけれど、あらゆる色彩が一斉に青味がかったのだ。まるで、突然サングラスをかけたかのように。異なる「フォーマット」で支配された都市に、足を踏み入れるというのは、こういうことなのか。身体で体験すると、これは一種の感動だ。

 それだけじゃない。建物の形が、僕のいた「アアア」とは、全く違う。確かにこれは、ロマノス様式の流れだ。ことごとく長方形に近い六角形に統一された窓枠、全ての軒先に吊るされているシーナ文様の風鈴、石畳が入り組む角度……基本階層のレベルでも、かなり緻密なバージョンアップがされた「フォーマット」だ。それから、やはり町に溢れる「色彩」が凄い。道の真ん中で周囲を見渡しながら、城門で渡された、フルカラーのブックレットを開く。この都市の「カラーチャート」を見てみよう。あの色が「フルイユ」……この赤は「ブレーズ」……クレンチ系の色彩ということは知識としては判ってるし、色名も知っていた。だけど、とある事情で、僕はこれらの本物の色合いを見るのは初めてなのだ。やはり、これは僕のハンデだ……。

 それにしても、いい気分だ……ん?何かおかしいぞ?、それにしても「いい気分過ぎる」じゃないか……と、しばらく考えて、その理由が判った。

 頭痛がしてない。全くしないじゃないか。町中を歩いていて、こんなことは初めてだ! 

 実は、僕は物心ついた時からずっと「原因不明の持病」に悩まされている。じっとしている時は全然平気なのだけれど、歩き出すとひどい頭痛がするのだ。特に、城壁内部を歩く時には、ひどい痛みがギンギンと襲ってくる。僕がこれまで、室内での勉強に没頭できたのは、それも大きな理由だ。外出するのが大嫌いだから、家の中で本を読んでいるのが一番楽なのだ。

 所が、今はその頭痛が全く無い。歩くことがこんなに気持いいなんて! いいぞ、きっとこれからの僕の未来、そしてエシャの未来も明るいんだ。これは、その予兆に違いない。

 スーツを着た初老の男性がすれ違う時に、明らかに僕の頭に視線をちらりと向けた。忘れていた、僕は、あの変てこな帽子をかぶっていたんだ。色彩補正の帽子をかぶり、ブックレットを持って道を歩いているなんて、正に「お上りさん」丸出しだ。恥ずかしいったらない。

 ともあれ、地図を開こう。恥ずかしがってる場合じゃないんだ。

 問題の「教授」が経営する、占いの店に向かわなきゃいけない。幸いなことに、そこは城門からは、さほど離れていない場所にあるのだ。

 お……きっとあれだ。

 案外簡単に見つかった。狭い路地に面した、料理屋に挟まれた小さな店。大豆のさやの形をした小さな看板に「くらやみ乙女」と、イングリ文字で店名が彫ってある。

 「くらやみ乙女」は、正しく大豆の「ソリッドネーム」、すなわち「法」の「燃料」として使用する際の呼称だ。

 誤解されやすい事だが「ソリッド」は「物質」と完全に同義ではない。

 例えば「銀製のスプーン」があったとしよう。この対象をどう捉えるかという問題がある。どういう「材料」で出来ているのか、つまり「物質」(マテリアル)という観点で見れば当然「銀」だ。一方、どういう「用途」に使うものか、つまり「物体」(オブジェクト)という観点で見れば「スプーン」だろう。その対象物を「物質」と「物体」という二つの要素を併せ持った「概念の総体」「概念の固まり」として捉えると、法学では「ソリッド」(素材)となるのだ。例えば、同じ「鉄」という物質で出来ていても、「純粋な鉄塊」と「スプーン」と「ハサミ」とでは、「異なるソリッド」なのだ。

 ん?ちょっと待てよ。ドアに何か張ってある。

 営業場所のお知らせ? 

「現在、店舗では営業を行っておりません。この場所で路上占いとして営業しております」

 ……だって? 簡単な地図が書いてあるぞ……ここに行けば「夜歩く女」に会えるのか。よし、行ってみよう。

 待てよ……こっちが北だから……ここで右に曲がる……んだな……多分間違いない。

 それで……ここが「ハパッサ通り」だな……間違いない。

 ……ん? ちょっと待て! 何だあれは! 

 目の前で、男女が歩いている……僕は、その様子に我が目を疑った。二人はよりによって、腕を組んで身体を密着させて歩いているのだ!

 こんなことが許されていいのか……有り得ないだろ!

 ……しかし……待てよ……例のブックレットを開こう。この都市の「倫理コード」のページを調べてみるんだ。……と、やっぱりそうだ! この都市では「男女が屋外で衣服を着た状態で身体を密着させることが、非道徳的ではない」と規定されている! 

 「フォーマット」は、建物とか文字とか色彩とか、目に見える要素だけで組まれているわけではない。その都市における人々の価値観、宗教観、倫理観、道徳観がいかなるものであるかも、重要なパーツだ。大前提として、「フォーマット」の最中心部は、その教団が使用している「教典」だ。全ての信仰都市は「最高教典」を中心に、ピラミッド状、あるいはクモの巣状に、「フォーマット」を組まれている。教典の内容は「教義」と連動して「道徳観」も規定するから、当然のように「何が道徳的か」「何が非道徳的なのか」は、慎重に調整されなければならない。例えば、僕の住んでいた「アアア」は、かなりきつめの「倫理コード」が組まれていた。

 だから、これこそカルチャーショックだ。あんなに、身体をくっつけて歩いても「道徳的」だなんて……

 て?……ちょっと待てええ! 何だ、あれは!!!

 あっちから、若い美人のお姉さんが、颯爽と歩いてくる。こんどは一人だ。しかし、それは乳房だった! オッパイなのだ! いや、正確に言えば、胸の谷間がガバアアッと開いた服を着たお姉さんだ! そんな馬鹿な……するとあれも?…………ブックレットを調べてみると……

 うわ、何てこった!「乳首および、乳房の表面積の四割以上を隠蔽しなければならない」とか書いてある! するとなにか? 逆に言えば「六割は露出してもいい」ってことか?

 凄い! ここでは「六割のオッパイは道徳的」なんだ!

 きっと、あのお姉さんは、ギリギリその規定を守り「ギリギリの道徳で勝負している」んだ。

 おっと、ここで道を曲がらないといけない。

 右の路地の突き当りが、教授の営業場所のはずなんだけど……

 しかし……しかし……ここで、曲がるとお姉さんが見えなくなる。道徳的なオッパイを鑑賞出来なくなってしまう。しかし、だからと言ってここで立ち止まってしまったら……それでは僕が、道の真ん中で立ち止まり、道徳的オッパイを凝視する変態少年になってしまう……ということで、やむなく右方向直角へ曲がることにした。僕の使命はあくまでも、エシャを救う方法を見つけることなんだ。こんな所で、こんな理由ではしゃいでしまったなんて、口が裂けてもエシャには言えない。

再び地図を確認する。

 間違いなく、目的の路地だが……

 あそこにいる人か……

 黒いテーブルクロスが敷かれた机が、20mほど先にある路地の突き当りの壁を背にして置かれている。

 椅子に座っているのは、真っ黒いフードをかぶった老婆だ。なるほど、あの人が「夜歩く女」だな。僕は、彼女に向かって片手を上げて、

「やあ、結構探しましたよ。初めまして。僕が先日手紙を送ったマサァ……マサアトです」

 ……と、声をかけようとした。

 かけようとしたのだけれど……それは出来なかった。全く想定外の出来事が目の前で起こったのだ。

 突然、目の前に「砂時計」がポンッと出現した。

 ピンクの砂が入った、小さな「砂時計」が宙に浮いているのだ。

 その周囲で、様々な言語の単語がつづられた光る「文字群」が、ユラユラと浮かび上がっている。

 それは、砂時計だけど砂時計なんかじゃない。

 法に使う「弾薬」として、宙に浮かんでいるのだから、ソリッドネームで「微笑みのベルベット」だ!

 老婆は、いきなり立ち上がった。

 フードが作る暗い影の中に、顔が覗いている。深く刻まれたしわ。落ち込んだ眼窩。目の表情はどろりと澱んでいる。

 目を凝らすと、老婆の額の少し前の空間には「K三十四」という光る文字が小さく浮かび上がっている。

 眼前の「微笑みのベルベット」はヴィーンと鈍い振動音を発した。

 これは……とっくに「起爆待機状態」に入っている?


(おい……待ってくれ……これは何の冗談だよ……)


 「微笑みのベルベット」はそんじょそこらのソリッドじゃない。部屋の消臭とかに使う、日用雑貨としてのソリッドとは訳が違うんだ。純然たる「武器としてのソリッド」だろ?

 例えば、投げナイフが自分に向かってスローモーションのようにゆっくり飛んできたら。それを避けるすべも無く、心臓に突き刺さるまで見届けなければならないなら……こう言えば、誰もが僕の味わった恐怖を想像できるはずだ。


(逃げなきゃ……)


 そう思った直後、凄まじい爆音と共に「微笑みのベルベット」が「起爆」し「黄色爆発」が巻き起こった。

 僕は、突風を受けた枯葉のように吹き飛ばされる。

 石畳にしたたかに叩きつけられて、衝撃が全身を打ちのめした。

 周り中で土けむりがもうもうと舞っている。

 あちこちが痛い……とんでもなく痛いけれど、命に別状は無さそうだ。意識も明瞭だ。これもエシャのおかげだ。

 五年前、僕とエシャは、お互いにアミュレットを交換した。僕はエシャを守る為に、エシャは僕を守る為に。僕はその「赤いクルミのロケット」を常に首から下げている。それを中心に、僕は護身用に「法学装甲」を自分に対して組んでいるのだ。やっぱりこれが、僕を守ってくれたんだ……

 ……と、思いながら、ロケットを取り出してみたけど、何だこれ! 純銀の鎖がぼろぼろに酸化してる!

 アミュレットの周りに装備した、鉱石などの「補助ソリッド」も殆ど燃え尽きてる。これが実戦か! 大金を使って、高額ソリッドをいくつも買い揃え、数ヶ月を費やして組みあげた僕の自信作だったけど、たった一回しか持たなかった!

 これで、僕の防御は丸裸になった……

 周囲から、チリチリと耳に障る不協和音が聞こえて来た。

 建物の軒先に吊るされている「風鈴」が、一斉に揺れて音を立てているのだ。やがてそれは、僕のいる場所を中心に、町中に広がっていった。あちこちで、人々が逃げ惑う音と怒声が聞こえてくる。

 教団本部が、ここで起こっていることを察知したんだ。

 ならず者「学者」達のいさかいだと認定して、「避難警報」を発してしまった。主に犯罪組織の縄張り争いなどで、こういった町中での戦闘は決して珍しくないのだ。冗談じゃないぞ。幾ら、「法学装甲」を装備していたからって、僕はただの学士だ。警護隊の保護対象なんだ。

 これは、一般人に対する犯罪行為なんだぞ!

 そうか……僕がよそ者で、ここの「登録市民」で無いから、こんなことになったんだ! 

 もう駄目だ。町には人っ子一人見当たらない。

 屋内や緊急集会所に避難したんだ。強力なフォーマットで防護された都市内なら、ちょっとのそっとのことで、破壊活動は出来ない。一般の被害さえ出さなければ、戦うなら勝手にやってくれ。どうせマフィアか何かだろうから、どっちかに死者が出ても、当局は関知しないぞ……ということだ。

 まずい、まずすぎる!

 フードをかぶった老婆はさらに近づいてくる。

 もう、対抗手段は一つしかない。肉体を使い、脚を動かし、走り去ることだ。痛めた身体にむちを打って、僕は立ち上がった。

 しかし、目の前にまたしても浮かび上がる二発目の「微笑みのベルベット」!

僕はついに絶叫した。

「う……うあああああああっ!」

 回れ右をして、「敵」に背を向け、走り出そうとした。その瞬間。視界に何者かが飛び込んできた。僕に向かって走ってくる一人の女の子だ。

「マサトさん!、口を少し開けてくださぁい!」

 随分と小柄だ。年齢は僕と同じか、一つ下くらいか? 走り方が、パタパタと随分と不器用そうだ。頭の左右で結んだ、鮮やかな金髪。グリーンの瞳。

 そして、何故か右手に小さな「ルーペ」を持っている。

 おいおい、この子むちゃくちゃ可愛いぞ!……って一瞬思いかけたけど、それはともかく、問題はそっちだ! 何だそれは!

 その「スカートの短さ」は一体何事なんですか!

 その……つまり、僕は緊急事態かもしれないけど、真っ白な太ももが太ももが太ももが、丸出しじゃないかと……今すぐ爆炎に巻き込まれて死ぬかもしれないけれど、パンツがパンツがパンツが見えそうじゃないかと、それも「道徳」ですか?

 まさか太ももとかパンツまで「道徳」なんですか? と叫びそうになったけれど……

「ちょっと失礼しまぁす!」

 叫ぶ前に、その女の子は僕に抱きついてきた。

 そして、左手で僕の鼻をつまむと、猛烈な勢いでキスをしてきた!

 何? これですら道徳うううう?

 次の瞬間、僕のすぐ背後で「微笑みのベルベット」が「起爆」した。

 しかし、黄色爆発に巻き込まれ、僕の身体が粉みじんになる事は無かった。

 その代りに僕を襲ったのは、立ちくらみのような衝撃。

 地面がぐるりとひっくり返る。

 意識が正常に戻った時には、何故か「視点」が高い位置に移動していた。これまで立っていた道路を、上から見下ろしているのだ。

 なんだこれ? 僕の身体が宙に浮いていて、幽霊みたいに透けている。横でぴたりと身体をくっつけている、女の子の身体もスケスケだ。僕らは、空中で見えない床に座り込んでいるのだ。

 なるほど、そういうことか……と、すぐに僕は思い当たった。

「ええと……あの……」

 横を向いて、女の子に話しかけたけれど……

「あ……私、グリュンヘルツ・ホタルコです。よろしくお願いします」

 顔と顔がくっつきそうな至近距離だった!

「あ……ああ……ああああ……」

 予期せぬ出来事で、思わず口ごもってしまった。ええと、一体、僕は何を言おうと思ったんだ?……そうだ、「この状況」についてだった。

「あ……ああ、そうだ!これ、ひょっとして『蛍と四重奏』……って奴ですか?」

「あ……学士さんなんですか? こんなマイナーな「法」なのに良く判りましたね。この方が戦況を良く観察できるから、『視中心』を空中に移動したんです」

 やはりそうだ。僕らの肉体とは別の場所へ「視覚が発する位置だけを移動した」のだ。僕達には、僕達の身体がうっすらと浮かんで見えているけれど、外部から見たら、そこは何もない空間なのだ。

 ん? だったら「僕の本体は今どこにある」んだ? さっきソリッドが派手に起爆したのに、どうやら無事らしいけど……何故?

「これで、もう安心です。敵のソリッドが起爆する直前に、『教授の体内に退避』したんですよぉ」

 その女の子、ホタルコちゃんはぜいぜい息を切らせながら言った。きっと、全力で走ってきたんだ。

「え……体内……?……教授……って?」

「ええと……厳密に言えば体外なんですけど、体内なんですよぉ。私達の身体に『南小路』(アサガオの種)と『新月』(凸レンズ)を使って『縮小をかけて』入り込んだんです。ええと……二人で肺の中の空気を共有する必要があったから、さっきはあんな……キスみたいなことしましたけど……失礼しました。あ、あそこにいるでしょ? あれが教授なんです」

 ホタルコちゃんが指差した、道路上のその先に、老婆と向かい合う形で、その人は立っていた。

 しか……し……それはいいけれど、一体なんなんだ?あの格好は?

 真っ赤なタキシード。真っ赤なシャツ。真っ赤なシルクハット。真っ赤なステッキ。つまりは全身赤尽くめ。

 えらく若く見えるのに、そんな格好だ。

 どう見ても、僕と同じか、一つ上くらいの歳にしか見えない。しかも女の子。胸は膨らんでる……いや、実際相当に膨らんでるし、身体の線を見たって、間違いなく女の子だ。ええと?……あれが……「教授」……だって?

「初めまして少年。マサト君と言ったかな? 何か釈然としてないような表情だが、君の当惑は容易に想像できる」

 と言いながら、その子は歩き始める。そんな格好なのに、何故か左手で「ポテトチップス」の袋を持っている。これがまた訳がわからない。そして、右手を袋に突っ込み、何枚かのポテチを取り出すと、彼女は自己紹介を続けた。


「しかし、いかにも私が『夜歩く女』……カノッサ・ディープレッドだ」

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