第3話

 朝から降り続く雨に、庭の植物達が濡れている。花壇にはユリやキキョウといった夏の花が咲いているが、雑草も同じくらいか、それ以上生い茂っていた。何しろ、広いのだから手入れは大変だろう。増して、伯母さん一人では。

 その日は、伯母さんも由美姉さんも病院に行ってしまって、僕は留守番を任されていた。

 二人が行った病院は、崎津からずっと離れていて、そこへはバスを幾つか乗り継いでいく必要があるらしい。だから、帰りは夕方くらいになると聞かされていた。

 留守番と言っても、特に何かをする訳ではないので、僕はその日も暇を持て余していた。だから、珍しく夏休みの宿題なんかをやっていた。

 算数ドリルを数ページ終わらせて、ふと時計を見ると、十一時四十分。そう言えば、お昼くらいに、祖父の食事を世話してくれるという、ヘルパーさんがやって来ると聞いていた。お昼ご飯は、伯母さんの手で既に作られていた。僕は少し早いと思いながらも、お昼ご飯を食べる事にした。

 食事が終わる頃には、もう十二時を回っていたが、ヘルパーさんはやって来ない。その後、待てど暮らせど、やはり訪れる人は誰もいなかった。

 祖父はさぞお腹をすかせているだろう。そう思った僕は、昼食をお盆に乗せて祖父の部屋へ向かった。自分でも祖父にご飯を食べさせるくらい出来るだろうと、そう考えたのだ。

 祖父の昼食は、食べ易いようにと具材を小さく切って調理してある、特別製だった。

 途中でこぼさないようにと神経を集中させ、慎重に運んでいく。廊下をすり足で少しずつ進んでいくと、玄関のすぐ脇にある祖父の部屋のドアが見えてきた。

 ドアの前に立ち、一旦お盆を床に置いた。そして、ノブに手を掛けようとしたその時、中から話し声がした。ドア越しにくぐもっていて、何を言っているのかはわからないが、確かにそれは話し声だった。僕は思わず、一旦ノブに掛けようとしていた手を引っ込めた。

 最初に考えたのは、既にヘルパーさんが来ていて、単に僕が気付いていないだけだったのではないか、という事態だった。しかし、そうすると、色々矛盾が生じる。お昼ご飯の世話をする為にやって来る事になっていたのに、そのお昼ご飯は、今、僕の足下に置いてあるのだ。

 では、一体誰がこの部屋の中で、これほどはっきりと言葉を発しているのか。

 僕はもう一度ドアのノブに手を掛けた。そして、ノブをひねって静かにドアを手前に引いた。

 その一瞬、中から聞こえてきた話し声が、明瞭に耳へ届くようになった。男性の嗄れた声は、少しずつ、目にした人からイメージされる声と一致していった。

 祖父の声だった。

 祖父は、僕が部屋に入ってきてもしばらくそのまま喋り続けていた。というか、一人で悪態を吐いていた。

「おじい……ちゃん?」

僕がそう言った後、祖父はぴたりと喋るのをやめた。

 そして、こちらに目を向け、しっかりとした視線を僕の目に向けた。もう、それは虚ろな目線などではなかった。

「……隼人」

祖父は、はっきりと僕の名を呼んだ。それから顔を背けて、吐き捨てるように一言、小さく言った。

「言うなよ」と。


 僕はぽかんと口を開けて、しばらくの間、祖父の事を穴があく程見詰めた。祖父の顔はこちらの方に戻ってきた。

「ねえ、おじいちゃんって話せたの? 病気じゃなかったの?」

僕は涌き上がってくる疑問を、そのまま口にした。

 しかし、祖父は何も答えてはくれない。

「僕の事わかるの? ねえ、ねえ!」

祖父は困り顔ではあったが、頑固に口を割らなかった。

「伯母さん言ってたよ、おじいちゃんは何もわからなくなっちゃったって。ねえ!」

「ああ。わかった、わかった!」

ついに、祖父は陥落した。

「仕方無い、隼人には説明してやろう」

「ホントに?」

「ああ、知られてしまったのだからなぁ。その前に、腹が減ったのだが……」

「あ、そうだった」

僕は急いで部屋を出て、戸口の辺りに置いたままになっていた昼食のお盆を両手に持ち、慎重に祖父のもとへ運んだ。

 昼食を受け取った祖父は、それを自分一人で食べ始めた。それを見ながら、僕は食い違う伯母さんの話と実際目で見ている現実に、激しく混乱をきたしていた。

 祖父は用意されていた食事を、自分一人で全て平らげると、一息吐いた。

「それで、おじいちゃんは……」

「わかっとる、そう焦るな。ちゃんと話してやるから」

そう言って、祖父は僕の両手に、空になった食器類を渡した。

 僕はそれを足下の床に置いて、身を乗り出して聞く態勢に入った。

「儂はな、要するに……ボケたフリをしているのだ」

「え? なんでなんで?」

祖父はほんの少しだけ顔を背けて、遠い目をした。

「始まりが何だったのか、忘れてしもうた。ただもう、今では収まりがつかんようになってしまった」

「でも、それじゃあ……」

「もう、その話はしないでくれんか」

祖父は僕の言葉を遮ってそう言うと、深い溜め息を吐いた。

「しっかし、迂闊だった。まさか、隼人が留守番で家にいたとはなぁ。てっきり、朋子と由美と病院へ着いて行ったのだとばかり思っておったわ」

 独り言にしては少し大きい声で呟いた祖父は、僕に寂しげな笑みを見せた。

 僕は何だか釈然としない思いを抱きながら、足下に置いていた食器類をお盆ごと持って、部屋を出ようとした。それを、祖父が引き止める。

「隼人」

「何? おじいちゃん」

「あの二人には黙っていてくれよ」

僕が答えないでいると、祖父は魔法の言葉を告げた。

「男同士の秘密な」

 僕はそれで、躊躇いながらも、祖父の意向を受け入れる事にした。

「わかった。黙ってる」

 僕は洋間を出て、流し場に向かった。

 ヘルパーさんは、それから少ししてやって来たが、やる事が既に終わっていた事を知ると、謝りながら何もせずに返っていった。


***


 通された居間には、朋子伯母さんが沈痛な面持ちで座っており、麦茶の注がれたコップの外側を流れる水滴に目を奪われていた。

 伯母さんは僕に気が付いて顔を上げると、強張った笑顔を見せてくれた。

「あらあら、隼人君。随分立派になってぇ」

 十二年という月日の流れは、伯母さんをも変えていた。背中が丸まり、髪には所々に白い毛髪が混じって、顔にはくっきりとほうれい線が刻まれている。

「伯母さん。この度は、ご愁傷様でした」

僕は畳に正座して、頭を下げた。

「仏様にお参りをしてきます」

「ありがとうね、隼人君」

立ち上がり、僕は仏間へ向かった。

 十二年前にはあまり近寄らなかった部屋ではあったが、まだ辛うじてその場所を覚えていた。

 確かここだった筈、と襖を開けると、そこはやはり仏間だった。部屋の中央には、祭壇が組まれており、骨壺が中央にひっそりと置かれていた。その上の段には遺影があり、見ると、何とも言えない懐かしさを覚えた。祭壇の周りには様々な生花が飾られ、さらに籠盛りや花輪で彩りが添えられていた。

 僕は祭壇の前に座り、香典を上げてからお参りをした。

 居間に戻ってくると、由美姉さんが麦茶を用意してくれていた。

 喉の乾きを感じていた僕は、コップを手にして、冷たい麦茶を口の中に入れた。だが、どうにも胸が詰まったようになっていて、二口くらい飲んでコップを置いた。結露した水滴が流れて、指を濡らした。

 僕は話題を探して、お決まりの台詞を口にした。

「寂しく、なりますね」

「うううん。やっと肩の荷が下りたような気分よ」

伯母さんは隠しきれない悲しみの混ざった笑顔で、そう返した。

「ちょっと、お母さん!」

 すると、由美姉さんが、こちらは純粋な悲しみだけの表情を浮かべて、嗜めた。

 暗い空気が辺りを包み出した。

 由美姉さんは、僕の方に向き直り、話題を変えた。

「隼人君は、今大学生?」

「あ、うん」

「へぇ、いいな。私も短大でもいいから行きたかったなぁ」

 由美姉さんが高校までしか行っていないのは、やはり、病弱だった所為だ。

「由美姉さん、体調はどう?」

「うん、最近は全然寝込む事も無くなったし、元気だよ。……たぶん」

 由美姉さんの不安が、最後に取って付けられた言葉に表れていた。

「そう言えば、隼人君」

伯母さんは、突然思い出したように、僕の名を呼んだ。

「うちにきた時、おじいちゃんの部屋によく行ってくれてたわね」

「え……ええ。確かそうでしたね」

本当ははっきりと覚えていたのだが、何とかはぐらかそうと、僕はわざと曖昧な返事をした。僕は、次の伯母さんの言葉を警戒したが、それ以上口を開く者はいなかった。僕は安堵して、肺の中の空気をゆっくりと吐き出した。

 しかし、あの事を秘密にすればする程、一つの不安が涌き上がってくるのだ。それは、あの日々そのものが、夢か幻だったのではないかというものだ。真夏の暑さが見せた、白昼夢のような。

 それが嘘だと言い切れないのは、祖父の秘密を僕以外に知る者がいないからだ。僕一人、夢を見ていたのかもしれない。

 庭の方から、ツクツクボウシの鳴き声が聞こえてきた。その声は、過ぎ去る夏を知らせる声。その声で急に訪れた物寂しさに、三人は襲われて言葉を失った。

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