第2話

 その日の朝は、伯母さんの呼び掛けで目覚めた。

「隼人君、朝ご飯よー」

僕は寝ぼけていて、まだ自分の家にいるのだとばかり思って、寝返りを打ち、返事をしなかった。

 徐々に目が覚めて、目の前の景色、布団の感触に違和感を覚えた。

「隼人君?」

 襖の開けられる音で、僕は完全に目が覚めた。僕の家には襖なんて無かった。僕は、起き上がり、両目を擦った。

「あらあら、隼人君はお寝坊さんなのね」

 伯母さんは仕方無いという表情の上に笑みを足して、言った。

 僕が立ち上がるのを確かめると、伯母さんは鼻歌混じりに部屋を出て行った。どこか上機嫌のように見えた。

 僕は着替えを済ませて、朝の食卓へ向かった。

 食卓では、二人がテーブルを囲んでいた。伯母さんと由美姉さんだ。

 僕の視線が自然と由美姉さんの方に向けられる。すると、伯母さんがすかさず解説を入れた。

「今日は少し調子がいいんだって」

僕はどぎまぎしながらも、食卓の椅子に座った。

 三人で手を合わせ、「いただきます」を言うと、皆が箸を持った。

 食事中、僕は何度も由美姉さんに目を向けていた。あまり見掛ける事の無かった従姉に、少なからず興味があったのだ。が、由美姉さんの方は、僕の視線にまるで気が付いていない様子だった。

 食事が終わると、茶碗や皿を流し場へ持って行く。家にいる時、そんな事はしないのだが、親戚とはいえさすがに他所の家だ。

 椅子から立ち、ふと由美姉さんの食器類を見た。あまり減っていないというか、ほとんど残していた。

 僕が注ぐ視線に気付いたらしい由美姉さんは、突拍子も無い事を言った。

「隼人君、食べる?」

「え?」

残ったおかずなどは、確かにもったいないが。

 僕が固まっていると、由美姉さんはくすくす笑って、「冗談よ」と言って、食器類を片付け始めた。

 流し場の方から、母娘の会話が洩れ聞こえた。

「由美ぃ、またこんなに残して。もう少し食べなさいな」

「えー、もう無理ー」

「ほらぁ、隼人君みたいに食べないと、元気にならないわよ」

「隼人君は男の子だもん」

など。

 流し場の方が静かになり、食器同士が立てる乾いた音だけ響くようになると、由美姉さんが出てきた。

「今からちょっと遊ばない? それとも、宿題とか忙しい?」

「うううん、宿題はまだいいよ」

「じゃあ、決まりね」


 外は快晴。だけど僕は家の中で、由美姉さんと遊んでいた。少女漫画雑誌の付録らしき双六や、トランプやオセロなどをして。

 照り付ける光の中、走り回って遊ぶ幻想に憧れはしたが、仕方の無い事だった。由美姉さんは病弱だと聞いていたし。実際、遊んでいる間も、酷く咳き込んだり、やや辛そうな顔をしたりもした。

 それでも、僕は楽しくなかった訳ではない。由美姉さんが遊んでいる間中ずっと、楽しそうにしていたから。

 由美姉さんは、どの遊びにも精通していて、全てにおいて僕を圧倒していた。負け続けて悔しくなかったのではないが、不思議な程穏やかな心持ちでいられた。

 彼女の体調を心配していたのは事実だが、遊んでいるうちにそれも杞憂かと思うに至っていた。

 けれど、お昼の食卓に、由美姉さんの姿は無かった。

「ごめんなさいね。由美ったら、少し熱があるみたいなの」

伯母さんはそう言って、哀しそうに目を伏せた。

 僕は曖昧な返事をして、何も言葉にしなかった。

 昼食が済むと、伯母さんは言った。

「おじいちゃんの所に行ってみる?」

僕は少し迷いながらも、「うん」と頷いた。

「じゃあ、食器のお片づけが終わったら、行きましょう」

 やがて、伯母さんは食器を洗い終えた。それから、僕を伴って祖父の部屋に行った。

 この家は、瓦屋根の少し大きいけれど、普通の和風民家だったのだが、祖父の部屋は襖や障子の類いではなく、ノブの付いた木製のドアで閉ざされていた。

 伯母さんがドアをノックした。

「おじいちゃん、入るわよ」

呼び掛けも空しく、返事は無かった。

 伯母さんはドアを開けて、一歩中に踏み入った。僕はその後に続いて入っていく。

「おじいちゃん、隼人君が来たわよー」

僕に話し掛ける時よりも大きな声で、伯母さんは言った。

 足下は畳ではなく、木の床だった。壁も天井も木製。煙突の無いフェイクだが、石組みの暖炉が部屋の奥に鎮座していた。右側の壁の天井近くには、立派な角をした鹿の頭部の剥製が掛けられていて、如何にも、な洋間だった。

 その部屋の窓際に大きな寝台があり、祖父はそこに寝ていた。

「ベッドを起こしましょうね」

 伯母さんはそう言って、ベッドの下にある取っ手を回し始めた。

 徐々に祖父の上半身が、前へ折れるように起き上がってきた。そして、僕はその顔を初めて見た。

 色を無くした虚ろな目で中空を見詰めているその顔は、年月を経た証とも言える皺に覆われ、頬から下は短く白い無精髭がぽつぽつと目立つ。

 髪は真っ白で短く、型は整っている。

 口の中に何か違和感でもあるのだろうか、常にくちゃくちゃと音を立てながら、口を上下左右に動かしていた。

 祖父は遠くを見詰めるように一瞥を僕にくれると、すぐに何も見なかったように視線を中空へ戻した。

 僕はこの目で、まるで抜け殻を見ているようだと、そう感じてしまった。

 ショックだった。人は年を取るとこうなってしまうのか、と。予め大体の事は聞いていたが、実際目にするのとは別だった。そしてまた、祖父を変えてしまった月日の残酷さ、悔しさに、両手を拳の形にして力を込めた。


 大きく息を吸い込むと、思わずむせ返してしまいそうになる程強い潮の香りの中、僕は午後の日差しを受けながら海辺の県道を歩いていた。相変わらず人通りは無く、失礼ながらもゴースト・タウンのようだと思った。

 しばらく歩くと、浜辺に降りる階段があった。細くて段同士の幅が狭い階段を一歩一歩降りていくと、角の取れた小石ばかりが散らばる浜。波音が、コンクリートに寄せ返す音から、浜辺の石ころや砂を、波が転がしていく音に変わった。

 ずっと向こうに、錆び付いたドラム缶が一つ、雨雲のように黒い煙を噴いている。僕はそれを目指して歩き出した。

 近くに来ると、猛獣のように暴れ狂う炎が燃えているとわかった。僕はその炎をじっと見ていた。徐々に頭の中が空っぽになっていき、目が据わっていくのが自覚できた。

 その時、ドラム缶の中で何かが爆ぜる音がして、僕はハッと我に返った。そして、思った。

 どうして、炎はこれ程までに、人の心を奪うのが上手なのだろうか、と。キャンプ・ファイヤーや、ケーキの上に立つろうそく然り。

 僕はドラム缶の脇にある階段を登って、再び県道へ戻った。

 その辺りの道沿いには民家ではなく、ハマユウの白い花が等間隔で並んでいた。

 振り返り、浜辺に降り立った辺りを見渡すと、僕は呟いた。

「ちょっと、遠くに来過ぎたかな」

 目線を少し左上に移すと、崎津の町の傾斜地に立てられた家々が見渡せた。

 太陽は雲に隠れていて、日の強さを感じる事は無かったが、傾斜地から海へ吹き抜ける風は生暖かくて、暑さを完全に消してはくれない。

 不意に、波音しか聞こえなかったところに、後方から車のエンジン音が響き始めた。振り返ると、白の軽トラックが向かってきていた。僕は道脇の白線内側に入って、軽トラックをやり過ごした。

 その軽トラックの運転をしていた人こそ、この道で見掛けた最初の人となる。だが、縁もゆかりも無い人に違いはない。

 僕はその軽トラックが左折して上り坂に入っていくのを見て、帰路に着いた。

 太陽は、再び雲間から姿を見せていた。照りつける夏の陽光が、シャツから出た両腕や顔を焼く。そこへ、風向きが変わったのだろう、横から吹いてくる海からの冷ややかな風に少しだけ救われた。

 夏の日の午後は、まだこれからなのに、もう家路だ。

 これから一ヶ月以上ある夏休み。どうやって過ごすか、崎津に来てから二日目にして、既に憂慮していた。

「何か、面白い事、ないかなぁ」

 何かに縋るように独り言を吐いた。それを聞く者は、誰もいないのだが。

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