空蝉の夏

柚田縁

第1話

 バスと呼ぶには少し小さめの車両が、曲がりくねった道を器用に進んでいく。道を外れればそこは、原生林かという程の木々が青々と茂っていた。窓越しに、クマゼミの叫ぶような声が、鈍い響きとなって耳に届いていた。

 僕は窓越しの日差しに辟易しながらも、胸を締め付ける懐かしさに、溜め息を吐いた。もうすぐ見えてくる。この林を抜ければ。

 やがて、その時はやって来た。

 眼下に広がる、光り輝いた海と、寂れた漁師町。

 この小さな田舎町で、僕は一夏を過ごした事があった。もう、ずっと昔の事だが、今でもはっきりと思い出せる。

 バスはキツい上り坂を登った後、緩やかに下り坂を走っていく。僕は近くの停車ボタンを押した。

 崎津さきづ漁港前。そんな名前のバス停に、僕は降り立った。まず、空気が変わった。潮の匂いを含み、疲弊したような熱っぽい空気だ。風もほとんど動いていない。

 僕は手荷物の中から薄緑色のタオルを取り出すと、早くも額に浮かんできた玉状の汗を拭い、それを首に掛けた。端から見ると、滑稽に見えたかもしれない格好だ。黒い礼服にタオルはあまり似合わない。だが、そんな事には構っていられない程の酷暑なのだ。

 車のほとんど通らない県道を横切って、僕は坂を上り始めた。十五秒ごとに汗を拭いながら。

 ジャケットの胸ポケットには、念の為にと思って予め調べて印刷しておいた地図が入っていたが、使う必要は無さそうだった。予想以上に、道を覚えていたから。

 神社へ続く階段の脇にある小道に入り、アコウのトンネルをくぐる。その先には、小さな小店がある。尤も、その小店はとっくに錆び付いたシャッターが閉じられていたのだが、古ぼけた看板が残っていて、目印としての役割は果たしてくれた。

 後は、左側の上り坂を登れば、レンガ色の赤茶けた瓦が見えてくる筈だ。

 ここまで歩いて、僕は誰とも出会わなかった。この町も、過疎化の波に抗えなかったのだろうか。いや、以前からこういう町だったような気もする。

 立ち止まった家の前。玄関の上の天窓に、『忌』の文字が掲げられていた。

 僕は少し躊躇いながらも、玄関のチャイムを鳴らした。

 しばらくして、中から小さく女性の声が返事をした。僕は引き戸を開けて、一歩中に入った。

 とんとんとん。そんな足音を響かせて姿を見せたのは、いとこの由美姉さんだった。

「あ、隼人君」

 由美姉さんは、疲れて無理に作ったような笑顔を見せた。

 僕は開口一番で、早速謝った。

「ごめん、間に合わなくて」

「仕方無いよ」

 具体的な事を言わなくても、彼女は察してくれた。

 僕が遅れたのは、母方の祖父の告別式だ。それは昨日だったのだが、台風の影響で飛行機が飛ばなかった為、僕は出席する事ができなかったのだ。

「どうぞ、上がって」

 僕は革靴を脱いで、首に掛かったタオルを取り、最後に顔全体の汗を拭いて、バッグの中へ戻した。


 十二年前、八歳の夏。僕は海辺の町、崎津にある親戚の家に預けられた。当時、その理由を僕が知る事は無かったが、帰ってきた時には、家から父親がいなくなっていた。後でわかったのだが、僕が親戚の家に預けられていた間に、両親が離婚したのだった。元々、家庭内別居のようなものだったので、その後の生活に大きな変化は無かったように思う。

 親戚というのは、母親の姉に当たる人で、その家には二歳年上の従姉がいた。それが由美姉さんだった。

 由美姉さんはいつも病気がちで、親戚同士の集まりにもあまり顔を出さなかったから、会った事はほとんど無かった。確か、僕が訪ねていった時も、ほとんど臥せっていた。

 だから僕は遊び相手もいないこの田舎町に、一方的に送り出されて、少々不機嫌になっていた。

 しかし、悪い事ばかりではなかった。僕が住んでいる都会のアパートと比べれば、家は途方も無く広かったし、伯母さんはとても優しくしてくれた。おそらく、僕の両親の離婚云々は知っていただろうが、良くしてくれたのは、それだけが理由ではないと思う。

 伯母さん達は、その広い家に、三人で暮らしていた。伯母さん、由美姉さんと、祖父だ。伯母さんの旦那さんは船乗りであるらしいが、詳しくは聞いていない。ただ、数ヶ月間、家を留守にする事はざらにあったらしい。

 僕が訪ねていった初日、夕飯の時に伯母さんは言った。

「隼人君が来てくれて、食事がおいしくなったわ」

 その発言の意味は、独りで食事をとる事の味気なさを物語っていた。由美姉さんは、具合が良くない時、寝床で食事をとっていたし、祖父も別時間に別室で食事をとっていた。必然的に、伯母さんは一人でご飯を食べる事が多かった。

 祖父は、今で言う認知症に罹っていた。当時は確か、痴呆症と呼んでいたような気がする。さらに、足が弱って歩行も困難だった為、寝たきりだった。別時間でに別の場所で食事をとるというのは、祖父が食事の世話を必要としていたからだ。

 当時の僕が最後に見た祖父は、まだ元気だった筈なのだが、数年会っていない間に、すっかり変わってしまっていた。

 僕はそれを知って、寂しさと哀しさの入り交じった、経験した事の無い感情を抱いた。

「八十歳を超えてから急にね……。人生八十年なんて言うけれど、何もわからなくなっても、まだ人生なのかしらねぇ」

 そう語る伯母さんの顔は、酷く疲れ切っていた。

「もう、おじいちゃん、寝てる頃だから、明日会いにいってみてくれる? 多分、覚えていないと思うんだけど」

僕は頷きながらも尋ねた。

「由美姉さんの事もわからないの?」

伯母さんは遠い目をして、短く答えた。

「ええ」と。

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