第五話「夢の続き」 ―Rain man― ①



 気がつくと、真っ白な世界にいた。


 上下の判別もつかず、ただ、白い霞のようなものが辺りに漂っている。




 夢だな。

 クロセはすぐに、そう思った。




 うずくまり、どこにも焦点の合っていない目を虚空に向ける。

 腰を下ろしているが、地面の感覚はない。全身をやわらかな羽毛に包まれているような、熱っぽい感覚があった。


 幼い頃からよく見る夢だった。自分は夢を見ていると知っている。だから、目覚めようと思えばいつだってできる。だが、しない。ただ無限に続くような、意味のない時間を、膝を抱えて過ごす。


 目覚めた先に待っている現実と比べれば、何もない、試射の国のようなこの空間の方が、ずっとマシだった。

 いっそ死ぬまで、ずっとこのままでいたい。



 笑い声。



 懐かしい感覚に身を任せていると、急に甲高い声が聞こえた。跳ねるような声。


 顔を上げた。


 ――――誰か、いる?



 途端、居心地のよかった空間が、不気味な視線に射ぬかれる。ぬるま湯のようだった感覚に、怖気がぞくりと走った。




「――――ハハハ……」




 真っ白な空間に、影が一瞬横切る。

 手を伸ばし、霧をかき分けた。

 気がつくと、必死に影を追っていた。この夢で"立ち上がる"というのは、初めてのことだった。ほとんど歩いている感覚はなかったが、前進しているのはわかる。辺りをからかうように駆け巡る、女の子の笑い声を必死にたどった。幼いその声には、聞き覚えがあった。



 終わりのない追いかけっこが始まった。



 文字通り夢中を漂い、果てしない空間を駆け回る。最初は霞むようだった笑い声は、次第にはっきりと形をなしていく。くすぐるように無邪気で、可愛らしい声音。だが、実体がない。影があげる笑い声は、その方向を記憶にとどめようとしても、穴の空いたコップのように一所にとどまらず、記憶から滑り落ち、また場所を変えてあざ笑う。

 

 

 黒い光が見えた。



 光が黒い、というのがおかしな事なのはわかっていたが、眼前の暗闇は、思わず顔をしかめ、手をかざすほどまぶしかったのだ。光と闇が逆転したように、その暗闇は真っ白な空間を切り裂いていた。


 のっぺりとした闇ではなく、まるで希望のように輝く、黒。

 笑い声が聞こえる。あの、闇の向こうに。

 温かな空間から足を踏み出し、冷たく、不確かな闇の向こうへと、足を踏み出す。




 クラクションが鳴り響いた。




「――おーい! おーいって、なぁ!?」

 水面から顔をあげたように、意識が覚醒する。

 真っ白な空間など無かった。

 あるのは、崩壊したまま何年も放置されたような、廃墟の街並みだけだった。美しく舗装されていたであろう道路はひび割れ、進入禁止の柵がむなしく転がっている。枯れた並木は根本から折れて葉を辺りにまき散らす。大通りの左右に建並ぶビルや商店は、軒並み窓ガラスが割られ、塗装も剥がれてコンクリをむき出しにし、スプレーで描かれた落書きにまみれていた。


「――――あのさ! 別に俺は無視しておいていってもいいんだけど、一応大人として声かけてんだよなぁ!!」


 背後からの声。聞き覚えがあった。ふり返ると、黒塗りのセダンから身を乗り出したスーツ姿の男が、憮然とした表情で、大きなため息をついた。

 よれたスーツに、疲れ目を隠さない垂れた目。クセのきつい赤毛をわしわしとき、

「よぉ。……ま、ひさしぶり」

 ようやく、とばかりに、肩をすくめるのは、赤城だった。






「こんなトコでなにやってんだよ、お前――裸足じゃねぇか」

 赤城はすっかり呆れていた。言われて足元を見ると、右足がすすで汚れて、血が滲んでいた。左足も汚れているが、ケガはない。義足でよかったと言うべきか、微妙なところだろう。

「これ、履け」

 その場で革靴を脱いでよこされる。クロセは首を振ったが、強引に押しつけられた。頭の中が霞がかっていて、考えるのがおっくうだった。とりあえず、履く。

「ここは……?」

「は? お前、自分の足で来たんだろ」

 覚えていない。

 黙り込んだのをどう思ったのか、赤城が手近の折れ曲がった看板を持ち上げて見せた。

 白地に青い文字でこう書いてある。

 "行政指定都市:指定第九地区"

「第九地区――」

 かつて、ここにはV-tecLife社があったはずだった。

 だが辺りを見渡しても、かつて電子の光で賑わった都市の姿はなかった。雨ざらしになったコンクリをむき出しにする建物や、放置されて煤にまみれた車、地面を割って伸びる植物のツル――もう何年も前にうち捨てられた、ゴーストタウンそのものだった。

「V-tecLife社が本社を鞍替えしたら、この辺りの企業も軒並み撤退――まるでデトロイドだな」

 赤城はぼやくように言った。

「……俺をつけてたのか?」

 頭をかいていた赤城は「なに?」とすっとんきょうな声を上げて

「お前……正気かよ。見張ってたらこんなトコに来る前に止めるに決まってんだろ? お前こそ何やってる? どうやってここまで来たんだ」

 もちろん答えられるはずがなかった。

「おい、ホントに夢遊病か? この指見ろよ。見ろって――そう、目で追え」

 のぞき込んでくる赤城の目は、垂れ目だが妙に眼光がするどかった。ひとしきり頭をいじられたり、口にいきなり手をつっこまれたりしたが、どうやら問題はなかったようで、「わけわからん」という顔で、肩を叩かれた。

「もういい。行こうぜ」

 背を向けて歩き出した赤城に、クロセは「どこへ」とうなった。車の中に半身を滑り込ませ、赤城はふり返った。

「夕飯だよ――腹、減ってるだろ」

 減ってない、と言おうとして、腹の虫の方が先に返事をした。


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