【前編】第四話:「借り物」-Talent-

  

  

    

「――ですから、トロリー問題なんです、これは。私たちの前にはレーンの切り替え機があるんです。それで――クロセさんの番です――今まさに電車が向こうから走ってきてて、そのレールの先では工事の人が作業してるんです。五人も。このままでは大変です。みんな死んでしまいます。きっとみんな家族もいるのに」



  

  

 今日も、快晴の空だった。

 病院の屋上に吹く風で、じめついた夏の空気が、涼やかに押し流される。


 陽光をまぶしく照り返す太陽光パネルが、屋上を湖畔のように輝かせていた。干された洗濯物のシーツが、蒼い空におどる。



「――はい、クロセさんの番です」

「……打つの早いよ」

「クロセさんが遅いんです」

「…………」

「はやく」



 パネルとパネルの合間に、クロセとコーディは座り込んでいた。ひび割れたコンクリートにあぐらを組み、クロセは顎に手をやってうなる。向かいにはコーディ。女の子特有の、へたり込むような座り方をして、手元をのぞき込んでいる。


 コーディは色白だ。それなのに、まぶしい陽光にさらされても、涼しい顔をしていた。日向に座って、長く伸びた黒髪を、時折かきあげる。座り方は薄手の病院服が風でひらひらしないように、彼女なりの工夫らしい――最初に屋上に上がってきた瞬間、見事に風にまくり上げられて、昔の――なんだっけ? とにかく大昔の映画に出てるセクシーな女優みたいなポーズを取っていた。それがよっぽどトラウマになったらしい。間が抜けてる。



「……"工事の人"はみんな耳が聞こえないのか? のんきに作業してる場合かよ」



 フードを深く被って、ついでに太陽光パネルが作った影に身を寄せて、クロセは頭をかいた。

 彼女と自分の間にある、日陰と日向――――の、境目にある、オセロ盤。

 オセロのゲームルールを知っているだろうか? "白黒つける"のが目的だ。


 医者の話によると、アウターワールドにあるような複雑な仮想VRゲームは、彼女の脳にとって負担が大きいらしい。"理由はわからないが"疲弊しきってしまった脳を、今は休ませる必要があるのだと。


 かといって日がな一日病院の壁を見つめているだけでは、別の意味で脳は小さくなっていくだろう。適度な刺激が必要です、と主治医が言うので、刺激って? と聞いた答えが、つまり、この『オセロ』というわけだ。



「耳は聞こえますけど、とにかく、そういうのはいいんです」



 コーディは、少なくとも見た目には、濃いまつげの一ミリも動かすことはなかった。裁断機みたいな口調で言う。



「余計な口を挟まないでください。大切なのは、私たちがレーンの"切り替え機"の前にいるってコトです。つまり、切り替え機を引けば――クロセさんの番です――五人は助かります。だけどレールを切り替えた先には、おどろくべき事ですが――別の作業員もいるんです」


「なんで一人でいるんだ? いじめられてるのか?」



 彼女は一瞬、じっとこちらを見た。大きな瞳。水晶でできた時計細工のように、刻々ときらめきが、色を変える。


「え?」


 身じろぎもせず、彼女はそう言った。大きな自己矛盾問題にぶつかった、論理演算装置のようだ。"「私は嘘つきです」""彼は本当の事しか言いません""さて、彼の言っていることは真が? 偽か?"機械がもしそう問われたら? 答えは今の、コーディの顔だ。


「もし、そうだとしたら……かわいそうですけど……」



 むっと、何かに気づいたように、彼女は眉毛を三ミリほど持ち上げた。



「なんで、そう意地悪な質問するんですか?」

「意地悪ってなんだよ。誰だって思うことだろ」

「とにかく余計な口を挟まないでください。これで四度目ですよ。次に同じ事をやったらペナルティですよ」



 ペナルティって、なんだ。

 口を利く度に、ピッと笛を吹いてイエローカードを上げるコーディを連想する。いつものしかめっ面は、審判にはいかにもぴったりな気がする。



「……なにか変なこと考えてませんか?」

「頭の中読むなよ」

「読んでません。変な感じがしたんです――――とにかく、それで、私たちは切り替え機を引くべきでしょうか?」



 パチン、とコーディは白のコマを置いた。見事に一列、ひっくり返された。半分まぶたの閉じた目で、クロセはそれを眺めている。



「でしょうかって?」

「だから、五人を助けるために、一人が死ぬのを承知で、レールの行く先を切り替えてもいいのかって話なんです」

「声を掛けろよ。"逃げろー!"って」

「声なんか届きません。遠くにいるんですから。余計な口を挟むなと――――つまり、私たちがアウターホリッカーを助ける相手を選ぶのは、結局これと同じコトだと言うことです」



 思わず、フードの影に大きなため息を吐いてしまった。

 朝からこの話をずっとしている。つまり、どのアウターホリッカーを助け、どのアウターホリッカーを"見捨てるべき"か。



「あのさ、そんなにややこしい話じゃない。要は、頭のおかしい奴を助けるために、命がけの綱渡りをするようなマネをしないようにしたいってことだよ」

「クロセさんの番」

「あぁ――これおもしろいか?」

「いったい何をもって『頭がおかしい』とするのか。それが問題です。はっきり言って、どのアウターホリッカーも異常な興奮状態であったり、過集中状態にあったりして、とても正常な人間とは言えません。全然おもしろくないです」

「だよな。家から別のボードゲームを持ってくるよ。今日はここまでだ」



 いい加減うんざりしていた。もっと即物的に、たとえば「元犯罪者だったら助けるのはやめよう」とか、「子どもだったら必ず助けよう」とか、そういう簡単な話で終ると思っていた。まさか大昔の誰かが考え出した、使いどころのない哲学問答をするハメになるとは。


 手首に冷たい感触。

 振り返ると、コーディのひんやりした手が、添える程度の力で手首につかまっていた。



「なんでですか」

「なんでって……こんなのやったってつまんないだろ」

「つまんないんですか?」

「いや、コーディが言ったんだろ」

「そんなこと、言ってません」

「……言ったろ、今」

「もういいですから、早く座ってください」



 おかしなことを言うな、とばかりだった。

 やりとりを知らない者が見たら、クロセの方が訳のわからない話をふっかけているように見えるだろう。それくらい、コーディはしれっとした顔をしていた。



「(こいつ……)」

「次、クロセさん白でいいですよ。先行で」



 コマを四つ、コーディは元通りに並べ始めた。白くて丸みを帯びた指が、ぱちぱちとコマを置いていく。

 思わず、ぼやかずにいられない。



「朝から、もう四時間もやってる……」

「良いですか? 四つの隅を取るためには、隅のマスの周囲一マスを相手に取らせる必要があります」



 太陽光パネルの間を風が駆け抜け、コーディの長い髪を揺らしていった。こめかみの髪をかき上げると、毛先がおどる。瞳は冷たい色だが、妙に浮ついた表情をしていた。



「つまり、ココ。隅の周りを全て相手の色にすれば、相手は隅を譲らざる得なくなる。必ず隅がとれるように、取るしかないように、コマを埋め、相手を誘導するのです」

「あぁ、必勝法だよな――相手も同じ必勝方を知らなければ」

「それ、どうしたんです」

「それって?」



 オセロ板をすべっていた指が止まった。

 顔を上げると、コーディが唇を微かにもごつかせている所だった。


 あるいは。

 そう、あるいは可能性として。


 彼女は今日、自分と顔をつき合せてからずっと、を訊きたかったのかもしれない。



「それ」



 盤から離れた指が、まぶたの上を指さした。

 ぽかんとしたクロセの顔。


 青黒く腫れたまぶたの上で、刃物で切り裂いたような傷跡が、ぬらぬらと紅く、かがやいている――――

  

  

  

  

 

  

  


  


■  ■  ■  ■





18時間前……




■  ■  ■  ■

  

   

  

  

 

『厚生省電網監査委員会』





『私たちは、国民一人一人が、健康で幸せな生活を送れるよう、バイオテクノロジーをはじめとした精神に大きな影響を与える技術へ、行政による監視・取り締まりを行っております』


『電網はあなたの生活を豊かに、そして、幸せにします。しかしある日突然、あなたの幸せな生活が全て破壊される凶器にもなりうるのです』


『やめよう、違法な電子ドラッグ』


『電子ドラッグはあなたの生活・家族・命そのものを破壊します』


『海外サーバーを経由した悪質な違法サーバー摘発にご協力ください』


『あなたが導入しようとしているそのバイオデバイス、本当に安全ですか? 安易な服用はあなたを壊します。技術と倫理の境目に――厚生省電網監査委員会』




「――ここのポップコーンくそうまいな。病的に甘ったるい。頭わるくって、最高」


 白と黒の矢印が絡み合うロゴが表示されて、政府公報の映像は終わった。心にも思っていないことを正論としてまくし立てる、白々しい映像だった。温かな家族の映像が流れたり、いきなり暗転して頭を抱えてる妻にスポットライトが当てられたり、なんというか、いかにも古くさい。


 クロセの隣にどっかりとケツを下ろした赤髪の男は、青白いスクリーンの光に照らされながら、ポップコーンをばりばり食っている。


「厚生"省"ってなんだよ、厚生"省"って。労働庁がいまだに労働"庁"でこじーんまりと労働者の権利を守ってる横で、厚生省は大出世だな。脳みそに機械ねじこむゲームなんかが流行るからだ。俺の過重労働を解消するのが先だろうがよ」


 居酒屋でくだを巻く親父のそれだ。一見すると年齢不詳なところがある男。いや、年齢どころか、所属も、目的も、なにもわからない得体の知れなさ。まさかコイツの言う通り、本当に父親なわけ――あるはずない。

 そもそも父は、この手で殺したのだ。

 こいつ、いったい……なんだ?


「事情は飲み込めたな? ん?」


 男は勝手に納得すると、指に突いたチョコレートをなめとって後ろ手を振った。

 映写室のカーテン越しに映っていた人影が立ち上がり、粛々と姿を消す。

 ――昼間の老人のような、小柄な影ではなかった。



「なんの説明にもなってないだろ。なんなんだよ、これ」

「察しの悪いやつだな? まぁ難しい話してもわからんか」



 警戒心で鋭く細められた眼を、クロセはひくつかせた。こいつ、ふざけるのも大概にしておけよ。

 にらみつけられるのに気づいた風もなく、男は胸ポケットさぐった。スーツは安物でないはないようだが、なぜか妙にすすけていた。



「お前、火持ってるだろ。貸せ」



 手をさし出してくる。

 指の先に細かな傷が走っていて、中指と人差し指の付け根に独特の皮膚の盛り上がりがあった。



「……持ってない」

「バカ言うなよ、貸せ」



 ポケットに手を突っ込んだままのクロセに、アカギは昔からの親友をなじるように



「12の頃から吸ってるだろ。爺さんが疼痛とうつう治療のために吸ってた医療用大麻かっぱらって。今さら禁煙もクソもあるか――出せ」



 赤城の顔を、クロセはじっと見上げたままだった。それでもこめかみから、わずかに汗が吹き出るのがわかる。

 こいつ――俺の事を、知ってる。

 ジッポを投げやると、ほくほくと笑顔を浮かべてアカギは肩を叩いてきた。迷惑そうな顔をするクロセを前に、紫煙をくゆらせる。



「なにが目的だよ」



 それっきり黙ったままだったので、クロセはこちらから打って出ることにした。ポケットの中で拳を握りしめ、なるべく震えていない声を絞り出した――そのつもりだ。いまだに、家の外の人間と話すのは



「身内以外の人間と話すと身体が震えるだろ。ムリするなよ」



 見えない壁にぶち当たったみたいに、クロセは顔を上げた。

 男は立ち上る紫煙を見上げながら、



「尋常小学校、一年のころ――クラスでイジメられてることを担任に話したことがあったろ? あの時教師に冷たくあしらわれたのが原因だよ。六歳のガキにはショックだったんだろうなぁ……ま、チクリは別に恥ずかしい事じゃないさ。むしろ今だったら手が出てるだろ? そっちのがよっぽどマズい。忘れろよ、いじめなんて公務員の査定にえらく響くからな、認めたくなかったのさ。教師である前に"しょーもない人"だったわけだ、あのメガネの教師。でも、もういいだろ? アイツ、この間の"全世界同時アウターホリック危機"で、崩壊したビルの下にいたから、振ってきたガラスの窓に切り裂かれてバラバラ。他の死体と区別つかなくて、共同墓地にまとめてポイだ」



 見開かれた目をぶるぶるとふるわせるクロセに、男は口元を持ち上げて見せた。

 詐欺師の愛想笑いのように、軽薄な笑み。



「俺か? 好きに呼んでいいぞ。世界中、どいつもこいつも好き勝手な名前をつけてやがるんだ。スリット、シッター、ペースメイカー、ナインテール、シックスティーシックス――モサドは俺の事をオルターと呼んでて、俺はそいつが気に入ってるんだ。だから日本じゃ、大田って名乗ってたこともある」


 一方的にべらべらと言葉を並べ立てる。

 この男が、今口からはき出しているのが、意味を伝えるための"言語"だとは思えない。 ざらついた砂を噛むように、意味のない言葉が流れていく。



「……おい冗談だよ!」



 閉園後の、誰もいない遊園地でハシャぐ、ガキみたいだった。

 薄暗闇の中、肩を親しげに叩かれた。節くれ立った鶏ガラのような手をさし出し、



「赤城だ。赤城 僚。下の名前はまだんだ。アカギでいい。とかつけるなよ、笑えるから」



 クロセはポケットに手を突っ込んだままだった。餌をさし出されてもにらみつけたままの、虚勢をはる猫のように。

 言葉もニヤついた笑顔も、何一つ好きになれない。全身から猜疑心を駆り立てる臭気をはなっているような男だ。

 終始そうであったように、アカギは勝手に楽しそうに大笑いして、勝手に楽しそうに肩を叩いた。



「そんなに嫌そうな顔すんなって。俺だって好きできたわけじゃない。――ほら、こいつが領収書だ」



 いきなり紙切れを放られた。思わず片手で受け取ると、間髪入れずに紙束を膝の上に置かれた。拳くらいの分厚さで、ずっしりと思い。目を凝らして、愕然とした。

 札束だ。

 一つ、二つ、三つ――どんどん膝の上にのせられ、抱えきれずに床にこぼす。

 印字された偉人が、床から無数の目になってこちらを見上げている。



「あぁ悪ぃ、これごとやればよかったな」アカギはボロボロの紙袋を渡してきた。百貨店の名前が印字された、その辺によくある袋だ。中身はもちろん、金がぎっしり詰まっている。

「ちょ――ちょっとま」

「細かいのがないな。ドルと、元、あとは……フラン、英ドル、ランド」



 ポケットのあちこちから、くしゃくしゃになった紙幣が出てくる。恐ろしく雑な手品のようだった。指も切れそうな札束のまわりに、紙くず同然に扱われたシ種々様々な紙幣が転がっていく。



「ジュビアン……はもう解体したか。じゃ、残りは暗号通貨ビットマネーで。そっちのアカウントに送金するぞ。よし、送金終わり。これで締めて、3333万3333円 33銭、小数点以下はビットマネーで調整してあるからそっちで確認しろよ。終わりっ」



 立ち上がったアカギは、ショーを終えた手品師のように腕を広げて見せ、あっさり立ち去ろうとする。「ちょっと待てよ!」クロセは金を床に放り投げて、声を荒げた。舞い上がった札が、スクリーンの青白い光を受けて、宙を舞う。



「お前、なんなんだよ。こんな金受け取れるか! 何が目的で、何しに来たんだ!?」



 振り返った赤城の顔には、表情らしい表情がなかった。何の感慨もない。ただつまんだタバコから、紫煙が立ち上るだけだった。



「俺はスパイだよ」



 真顔だった。

 冗談とも思えない気軽さで、おそらく赤城は、職に就いていなかったとしても、まったく同じ言い方で自己紹介しただろう。そう思わせる、"確固たる気軽さ"が、アカギの表情にはあった。



「『公然の多重スパイ』って言ってさ、世界に何人かいるんだ。そのうちの一人。麻戸の爺さんにお前の世話を焼けと言われてここにいる。まぁもうそれもこれで終わり。金を渡したらもう二度と会うことはないだろうよ。その金か? それはお前の戸籍代。お前を引き取る代わりに、あのかわいい子、なんて名前――あ、マコだっけ? あの子の母親から支払ってもらった代金だよ。お前の一生についた値だ。使いすぎるとあっという間に無くなるぞ。無駄遣いするなよ」



 微かに唇をひらき、知らず目に力を込めたクロセは、アカギが最初に放ってよこした紙切れを思い出した。慌てて拾い上げ、くしゃくしゃになった紙を広げる。


『戸籍謄本(原本)』


 緑の印字が、すぐに目に入った。自分の名前がしっかりと刻まれ、その下の家族構成の欄に、得体の知れない黒塗りがあった。

 「続柄」の欄だけ、埋まっている。



『父』




「――――ふざけんなッ!」



 紙切れを投げ捨て、吐き捨てた。

 怒りで肩が持ち上がるのがわかった。

 アカギの表情はまったく変わっていない。短くなったタバコを平然とその辺に投げ捨てた。オレンジの火花が暗闇に散る。



「こいつ、見てみろよ」



 アカギが宙を叩き、タスクウィンドウを取り出した。雑に投げてよこす。



「この間見つけたんだ。最高だぜ」



 褐色がかった、紅いウィンドウに縁取られて、ガスマスクを被った男が、こちらを見つめている。マスクに、レインコート、腕時計マルチロールが青白い光を放っている。ゴミ質の装備が、濡れて深い陰影を刻む。


 上から下へ、ゆっくりとウィンドウに全身が映る。次の瞬間、EJECTERの文字がサブリミナルのように瞬間的に映った。眼を細める。


 分厚いサウンドに、無茶苦茶に打ち鳴らされるドラムスの音が響き渡ると、真っ黒な影が画面を駆け、周囲を飛び交う弾丸のあめあられをくぐり抜け、見事な背面ジャンプを決めた。ここでようやく気づく。排出者イジェクターだ――戦っている自分の姿を客観的に見ることなどないし、こんな作り物めいたスタイリッシュさとは無縁の、泥臭くて血なまぐさい記憶しかないので、わからなかった。


 黒いしたたりのような排出者イジェクターは黄色一色のどこかに飛び降りた。切り抜き絵のように真っ黒な敵に囲まれ、ガスマスクの男は素早く格闘の構えを取る。直後、襲いかかって来た敵を--



排出者イジェクターのファンサイトだよ」



 肩を叩かれた。親しげに顔を寄せたアカギは意味のない笑いを漏らし、ウィンドウを操作する。



「この辺りのコメントが最高なんだ」



 指さした部分が小さな電子音と共に拡大される。クロセの目がぎゅっと引き絞られた。戦闘機が灰色の空を駆け巡る映像、カウボーイ達と撃ち合いを繰り広げる排出者の映像の下に、テキストが次々と滑り込んでくる。



「このハブサイトの登録者数、7000万人超えてるんだとよ。すげぇよ。みんな排出者イジェクターのファンで、早く会いたくて仕方ないって。ここ! ここなんか最高だ――『バカな中毒者が増えればいい。このサイトで毎日新しい排出者イジェクターを拝めるだろう』」



 賛同者がすくなくないのか、このテキストはずいぶん大きく表示されていた。言葉が汚かったり、丁寧だったり、多少の違いはあれど、誰もが同じ事を言っていた。『排出者はつぎ、いつ現れる?』『外側中毒者はまだ出てこないのか?』 

 刻々と増え続ける登録者数のカウンター。繰り上がっていく数字が物語っていた。


 クロセにとって、あの戦いは排出イジェクトだった。

 だが他の人間にとって、あれはまさにお遊びゲームなのだ。


 真実は命がけの殺し合いに過ぎないのに、こうして流れる映像は、まるで共感映画トレイサーのPVか、新曲のミュージックビデオのようで、仮想現実VRのように、つかみ所がない。空の上の楽園と大して違いない。この映像には交わされる命の重みが影のように存在せず、はき出す血の紅も、情けない悲鳴やうめきも、どこにも存在していない。

 ここでは、外側中毒者アウターホリッカーは、排出者を呼び出す引き替えチケット程度の価値しかない。

 実際に命を持ち、排出に失敗すれば死ぬという実感が、どこにもない。



「……こんなもの俺に見せて、どうしたいんだよ」



 やっとの事でそうつぶやいた。アカギはじっとこちらを見て、それから、ウィンドウを投げやるように消した。



「次は何だっけ。目的――が聞きたいんだったか?」



 つきあえよ。そう言って、アカギはスクリーンの外に出て行く。

 待てと怒鳴っても歩みをゆるめる様子はなかった。劇場の外に出ると、アーケードの側にあった空き地に向かった。



「殴れ」



 唐突に振り返った赤城は、シュッシュと口で言いながら、シャドーボクシングの真似をした。



「は?」



 意味がわからない。



「おい殴れよ。え? 怖いのか?」



 肩を二、三度小突かれる。おいっ、と思わず声を荒げると、アカギはうれしそうにわめき散らした。



「現実はクソみたいだよな」 

「おい、やめろよ!」

「思い通りにならないことだらけだろ? ん? そうだろ? 知ってるぜ、排出者イジェクター


 いら立っていた黒瀬の顔が焦りに歪むのを、アカギは心底おかしそうに観察していた。何度も軽いパンチを入れて、鬱陶しそうに黒瀬が身を守るのを眺める。



「世界を救ってくれてどうもありがとう、このクソ野郎! 余計なことをしてくれたな! はは、冗談さ。で、ところで、お前はどうなんだ? あぁ? 何か素晴らしい事があったか? この手も!」



一際強く、腕に衝撃が走った。肘の関節が衝撃にねじれ、痺れるような痛みが弾ける。



「この脚も!」



 膝の裏を正確に蹴られた。ふざけた構えなのに、蹴りの直前になるまでほとんど動作の"走り"が見えない。ただ訓練を積んだだけではこんな蹴りは出せない。これは――相手を正確に打ち倒すための蹴りだ。悪ふざけの暴力じゃない。



「結局世界がひっくりかえってもお前の手足は動かないまま。なのにいまだに、奴隷のように世界のためにご奉仕を続けてるわけだ?」



 アカギの拳を振り払おうとしたが、次第に勢いが強くなり、ねじ込むような角度に変わっていく。肩や胸、脇腹、刺すような衝撃がつぎつぎと襲いかかる。



「普通の生活にもどりたい? だが"普通"ってなんだ? もうお前は世界の裏側を知っちまった! 普通の生活なんかどこにも存在しない。あ!? そうだろ! お前はもう、"普通"じゃないんだ!!」



 アカギの肘が曲がった瞬間、拳の向きでこめかみを狙ってくるのがわかった。

 放たれたフックとほぼ同時に、アカギの脇腹へ上半身を潜り込ませる。


 同時に引き寄せていた拳を、胸骨の下へねじ込んだ。


 下から斜め上へ、体重を乗せて持ち上げる。確かな手応え。腹の肉の隙間を打って、肝臓を叩く感触がした。頭上で、アカギがたばこ臭い息をうっと詰まらせたのがわかった。



「――――ぁあ、クソッいいぞ! もっとやれよ! はっ、息ができねぇ」



 アカギは大笑いだった。何がおかしいのかわからないが、自分の頭で何かが"プッツン"したのがわかった。



「何言ってんのか、わっかんねーんだよ……ッ!」

「じゃわからせてやる」



 アカギの威力を増したストレート。クロセは上半身を後退して《スウェーで》紙一重に避けると、肩を軽く動かしフェイントをかける。


 目の前でニヤつくこの男は、間違いなく拳闘インファイトをやり込んでる。


 ふざけているにしてもパンチに体重がそれとなく乗っているし、酔っぱらいのようなステップも、衝撃インパクトの瞬間だけは重心がまったくブレていない。チンピラとは違う。正式な訓練を積んでないと、こういうパンチは打てない。

 だからこそ、肩を動かした時点で、まちがいなく防御か回避の反応をするはずだった。関節は心臓から離れた部位ごとに順番に動く。肘打ちだろうがフックだろうが、何をするにしても、大本の関節である肩は必ず動く。経験が豊富であればあるほど、肩の動きを無意識に見ている。


 実際、アカギは身体の見事なバネをつかって上半身を後方に傾けたスウェー。そしてゴム紐に引かれたように戻って来る。反撃のストレートパンチを備えて。だが、その顔に向かって、思い切り右ストレートを打ち込んだ。綺麗なカウンターだ。鼻っぱしをへし折る感触。もろに一撃を入れた。顔を上げる。



 視界が吹き飛んだ。



 頭が九十度横を向き、ボルトを締めるように上半身までねじれた。一瞬平衡感覚を失い、足の裏の感覚がなくなる。



「下半身がまだまだだな」



 地面に歯を立てるように、崩れ落ちそうな足で身体を支える。だが視界を元に戻した瞬間、ニヤついたアカギの素早いジャブが鼻面を襲った。アカギは鼻血を吹き出していたが、ためらいも困惑もなく、ただ笑っていた。

 イカれてる。

 本能に焼きごてを当てられたような確信だった。

 まともな奴なら、カウンターの一撃を食らった時点で少しは痛みにためらう。だが、こいつ――まともじゃない。殴られながら、そのままの勢いで殴りかかってきた。痛みを感じていないのか?




 もうそこからはむちゃくちゃだった。




 異様な光景だったろう。男が二人、ポンプ施設を前にして空き地で殴り合ってるのだ。一人は左腕を吊ってるし、一人は鼻血を垂らしながら笑ってる。

 口にたまった血をはき出すと、固い塊もついでに口から飛び出した。奥歯が折れたか。だが喪失感よりも、全身にみなぎる熱の方がすさまじい。

 なぜか、"安心"していた。

 それは自分の家にいる安心感だとか、母親の膝の上で眠る安心感だとかとはかけ離れていた。

 赤城はこちらを殺す気はない。痛みへの準備が整っていないうちに、殴りかかってくることもない。

 奇妙なことに、この暴力は、信頼とルールにのっとって行われていた。

 赤城はこちらの攻撃をほとんど避けなかったし、命に関わる内臓への一撃を加えようとしなかった。ただ、"痛めつける"。口の中を切って血をまき散らし、鼻血を吹き出し、殴った拳が切れて、その手で血をぬぐう。痛みだ。こんなにイカれた男なのに、なぜかこの男が言いたいことがわかった。痛みを知り、痛みを与える。恐ろしいことに、これは痺れるほど濃密なコミュニケーションだった。

 ひきこもりには強烈なほどに。








「何か理由をつけなきゃ人も殴れないような奴はクソだ。空想世界の暴力なんて暴力じゃない、ここだ。ここで感じる痛み、憎しみ、握りしめた拳--コレが俺たちが生きている証なんだ。夢の世界は夜だけでたくさんだ。今の俺たちにはそれがわかる。だろ?」



 赤城が買って来たスポーツ飲料は、口の中にたまった血を吐き出すのにほとんど吐き捨てた。コンクリートの地面にケツを沈め、抱えた膝の中に頭を落とす。まぶたの上から血がこぼれた。目の端に血が垂れる感覚は懐かしい。まぶたの上はよく切れるし、派手に血も出る。素手ハードパンチで殴り合ったりすればなおさらだ。



「お前は、イカれてる」



 古くさいLED電灯の下で、ぶしつけな真っ白な光に照らされて、赤城は大笑いした。同じようにケツを下ろし、ゆるく開いた膝に肘を乗せ



「お前みたいな奴は見てられないんだよ。世界に振り回されてるのに、悪態の一つもつきやしねぇ。理性がお前自身を脅しつけ、恐怖も怒りも麻痺していく。そうなったら人間としてはもう、終わりだ」



 赤城は最後にニヒルな笑みを浮かべると、立ち上がって、ぱっぱと土を払った。



「これで、二度と会うこともねーだろ。いいか、忘れるなよ、この"痛み"。これが俺たちを現実につなぎとめる。それをわすれたら? 周りにいる連中と同じ、夢の世界の住人さ――ほら、血止めの軟膏」



 延々と垂れてくる血をぬぐっては流れ、ぬぐっては流れしていると、にゅ、と視界の上からチューブを渡された。



「……いったい何なんだよ、あんた」

「麻戸の爺さんの命令で来た、時代遅れで――雑用まがいのスパイ。爺さんは厚生省の役人で、俺はそのエージェント。遠くから見守ってくれと言われたが、そんなのフェアじゃないだろ」



 だからといって殴り合いをする? やっぱりイカれてるとしか思えない。こちらの思考をよみとったように、赤城は次第に声を上げて笑い、肩を叩いた。



「おい、こんなモンとれ――いいか、誰にも文句を言わせるな。お前は自由だ」



 深く被り直していたフードをとっぱらわれた。顔をのぞき込まれる。赤城の目は瞳が小さく、猛禽類のような鋭さを帯びている。



「くだらない名前に縛られるなよ。スパイだとか、オルターだとか、排出者だとかな」

「……何が言いたいんだよ、お前」

「お前は自由だってことさ」



 床に放り出していたジャケットを拾い上げると、赤城は肩に掛けて、暗闇にむけて歩き出す。

 背中が見えなくなるまで、クロセは呆然と、見送っていた。


   

   

  

 

     

   


 

     

■  ■  ■  ■     

  

     

   

     

  

   

   

 まぶたの上に冷たい感触が触れ、ふいに意識が引き戻される。

 あの夜の暗闇から、屋上のまぶしいほどの照り返しに、白く染まる。



「……だいじょうぶですか」



 コーディの小さな手が、傷跡に伸ばされていた。かすかに痛みが走り、びくりと震えた。鼻先で見上げる彼女の瞳。初夏の風にまつげが揺れていた。「ああ」とも「うん」ともつかない、曖昧な返事でごまかすと、伸ばされた手をそれとなく払った。



「――――あっ、ホントに¥ê¥Ý¡¼¥È¤ò¹¹¿·¤·¤Þ¤·¤¿¡ª; ¢£」



 かけられた声に振り返ると、屋上の入り口を背にして、スーツ姿の男が立っている。

 おしろいを塗りたくった白い狐面が、本来顔があるべき場所を覆っている。突き出した鼻先、紅く一筆書きされた隈取りの中で、金色の瞳が、じっとこちらを見つめて













<プロジェクト違反を検知しました>

<.................メモリの連続性にfalseが含まれています>













<Mary`s roomの解析結果を解凍・参照中..............................>












<プログラムが修正を行っています>




<■------------------------------------->2%




<■■■■■■----------------------------->32%




<■■■■■■■■■■---------------------->47%




<■■■■■■■■■■■■■■■■■■■------->85%



















「あっ、ホントにここにいた」



 長く続くトンネルが、突然途切れたみたいだった。

 白くぼやける視界が、本来の色を取り戻すと、そこにいたのは、真っ白なセーラー服がまぶしい、マコだった。



「すごいですね、こんな所で……今日、三十度超えてますよ」



 ぼやくように言って、汗をぬぐう。外にいるクロセとコーディに驚いているようだ。顎先から伝ったしずくが、頬を白くぬらし、地面にシミを作る。

 溶けかかったアイスを、しゃく、と齧り、彼女はぺたぺたと歩み寄ってくる。



「はい、着替えです」

「あぁ――ありがとう」



 手提げカバンをさし出されて、クロセは素直に礼を言った。誰もコーディの面倒をみる者がいないので、これまで大抵の面倒はクロセが見てきたが、下着そのほかはさすがに手が出せない。眞子や日和の好意に甘えるばかりだ。



「あ、オセロだ。なつかしー……けど、なんでオセロ?」



 オセロ盤の側にしゃがんで、マコは小首をかしげる。セーラー服の胸のフックが取れていて、妙にあられもない格好だった。隙間から肩紐まで見えて、クロセはそれとなく視線をそらした。



「脳のリハビリ」



 コーディの頭を指す。黒髪の間から、コーディは上目遣いでクロセとマコを見比べて、微かに顎を引いた――もしかして、頭を下げたつもりなのだろうか。でもそれは、俺以外にはぜったいわからないぞ、とクロセは念じる。



「あぁ、リハビリ――」



 と言ったところで、マコの動きは鈍くなった。目をぱちぱちしているコーディを、遠慮がちにうかがう。

 そう言えば、起きているコーディに会うのは、これで初めてかもしれない。マコは定期的に着替えを運んでくれていたが、コーディは寝ていることが多いし、決まった時間以外は面会謝絶だ。



「た――食べますかっ」



 ぐい、と唐突に、マコは齧っていたソーダのアイスを突き出した。いや、なぜ――とクロセは思ったが、余計な口を挟んで面倒に巻き込まれるのが嫌で黙って推移を見守ることにする。


 コーディは困惑気味にびくりと肩をふるわせた。彼女にしては、相当驚いたと見える。マコを見ると、また瞳の黒目がぐるぐると渦を巻いていた。コミュニケーションに詰まって、またパニクったか。



「……冷たい」



 おそるおそる、ほんの少しアイスを齧ったコーディは、目をぱちぱして、そのままの感想を述べた。一応喜んでいるようだが、言葉足らずというか、情緒不足というか……。



「よかった」



 マコはほっとしたようだった。どこにほっとする要素があったのかわからないが。


 なんというか、ささいなやり取りですら緊張感がただよう二人だ。内心焦っていたクロセは、じくじくと染みる汗をぬぐった。


 マコは残ったアイスをしゃくしゃく齧って、一ミリも表情を変えないコーディと、明らかに焦っている義兄を見比べた。



「……お二人は、どういう関係なんですか」



 遠慮なしの右ストレートを叩きこんできた。

 ぐ、とクロセは言葉に詰まる。



 いつか訊かれるだろうとは思っていた。そりゃそうだろう。義理とはいえ、ある日突然兄が病院に運び込まれた挙げ句、見も知らぬ女の世話を焼き始めたのだ。疑問に思わない方がどうかしてる。


 コーディを見ると、じっとこちらを見上げるばかりだった。いつもの無表情に、汗の粒がフツフツと浮かんでいる。どうしましょう、と視線が訴えていた。



「……どうして一緒に運ばれてきたんですか? どうしてお兄ちゃんがお世話を? なんの病気なんでしょう? そういえばまだ、名前も訊いてない……」



 くくく……と眉尻を下げたまま眉間にシワが寄っていく。器用な……。しかし、なんと説明したものか。『死んだ祖父ちゃんが排出者イジェクターだったから俺が代わりをしてるんだ。コーディはサポート役で、ちょっと前まで外側世界の中枢サーバーをしてたんだけどそのせいで脳みそがボロボロになったから入院してるんだ』


 額に手をやった。

 荒唐無稽こうとうむけいすぎる。


 コーディと思わず顔を見合わせるが、困惑気味だった彼女の視線は「なんとかしてください」といった感じにやや険しくなっていた。俺が説明するのかよ……



「……あのー、もしかして、お兄ちゃんのカノ」

従姉妹いとこ



 いらぬ詮索せんさくをされる前に先手を打つ。マコは「えっ!?」と声をあげ



「じゃぁ、私の従姉妹でもあるってことですか……?」



 まじまじとコーディを見つめ、コーディはまっすぐにそれを受け止めた。受け止めたが、ジリジリと後退する獣のように、だんだんと視線がクロセに上がってくる。

 まずい……事態は悪化している気がする。



「ぜんぜん知らなかったです……親戚なのに……」



 マコは明後日の方へ、いぶかしげな目をやる。マコは、受け答えはおっとりしているが、何か野生の勘のようなものをもっているらしい。

 もっと頑張ってください! とコーディの視線と汗が訴えている。やや眉尻が上がっているので、相当焦っていると見える。そんな目で見られても、クロセだって口が上手いわけじゃないのだ。というか、この場にいる誰もが、しゃべるのは苦手だ。口下手が口下手を責め合う地獄。



「色々……複雑なんだよ」

「複雑……」

「あの、隠し子だから、祖父ちゃんの」



 一瞬の間があった。

 マコの瞳がすごい勢いで大きくなり、じっと事の成り行きを見守っていたコーディの毛がびりびりと逆立った。



「か、かく……」

「……とにかく、そういう事で、複雑だから」



 マコは口をあわあわさせて、コーディとクロセを見比べていた。コーディは珍しく目を剥いて、『視線は人を殺せる』と信じている人のように、クロセをあらゆる角度からにらみつけていた。

 思わず出た一言で、まさに口からでまかせである。余計な詮索せんさくを避けたかったのだが、逆に地雷を踏み抜いた感覚がある。



「か、かく……」



 マコはしばらく目をぱちくりしていたが、結局それ以上言及することはなかった。つまり、結果的に上手い言い訳だったわけで、クロセとしては褒めて欲しいくらいだった。だがコーディはまだ、『視線は人を殺せる』と信じているようだ――心なしか、視線を向けられている所が熱くなってきたような気がする。



「あの、えっと……でも、これからは、"家族"ってコトですよね?」



 マコは物事の良い面を見ることにしたようだった。

 おずおずと、コーディに手をさし出す。コーディは殺意のこもった目をさっと戻し、その手を見つめていた。どうしたものか思案しているようだった。これ以上余計な詮索をされるとマズイ――手をにぎり返すように言外に伝えると、戸惑いつつも、彼女は小さな手を重ねた。


 えへへ、とマコは嬉しそうに笑った。

 振り回される手を冷然と見つめていたコーディも、笑顔につられたようだった。


 真っ青な空に、ぽんっと煙が弾けた。


 ほっと一息ついていたクロセが振り返る。



「試し花火ですねー」



 マコがまぶしそうに空を見上げて言った。



「試し花火?」

「今晩、お祭りありますから」



 お祭り――何年ぶりかに聞いた単語の気がする。

 毎年、夏のこの時期になると、くぐもった音がよく響いていた。あれは花火だったのか……。もしかしたら、無意識に目に入れないようにしてたのかもしれない。お祭りと言えば、通りに並んだ出店や、行き交う楽しげな人々がつきものだからだ。



「行きましょう、お祭り」



 コーディがすっくと立ち上がったので驚いた。まったくの無表情なので、意図がわからず「……は?」と困惑してしまう。



「いいですねーっ」



 マコはすぐにわかったらしい。ぴょんっと立ち上がって、コーディの両手を自分の手で包んだ。



「花火がすごく綺麗ですよ。私は……先にミヤビちゃんと約束してるんですけど、ちょうど、花火が上がるくらいにミヤビちゃん帰っちゃうから、向こうで合流しましょう」

「いや、体調的に人混みは……」


 クロセの言葉は二人の声にかき消され


「ちょうどいい刺激になるでしょう」

「ねーっ、いいですよねー」

「あくまでもリハビリの一環ですが」



 コーディはやや鼻高々に言った。もっともらしい理由を述べたつもりのようだが、明らかにこじつけている。



「浴衣もってきますよっ。お姉ちゃんのだからちょっと大きいけど、帯でしめれば――きっと似合いますねぇ!」



 楽しそうにマコが言うと、コーディの瞳がきらっと輝くのが見えた。これは何を言っても無駄かも、と思った頃には、二人は連れだって屋上から去っていく所だった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る