【前編】第二話「異変」ーThe Night Hawkー

 


 ハードロックの、低いドラムの音がする。


 誰もいない格納庫。航空基地の荒れたコンクリートに、巨大なパイプが半分埋まったような覆いがかぶさっている。まぶしい朝の日差しも入り口でためらい、格納庫は薄暗闇に覆われている。

 空を駆けるときは轟音を上げる戦闘機も、今は眠ったようにひっそりと、格納庫の暗闇に横たわる。



 ドラムンベースが、激しく打ち鳴らされる。



 薄暗闇に、一人の男が座り込んでいる。武骨なコンテナに腰を下ろし、ある種の芸術家が自身の内にある闇に没頭するように、膝の間に顔をうずめていた。両耳から垂れる、インナーイヤフォンの赤いケーブル。かすかに漏れる、激しいビートのリズム。


 男はグリーンのパイロットスーツに身を包んでいた。襟口まできっちり上げていないと上官に口やかましくののしられるジャケットの胸元を、大きくあけている。首筋には、蒼い龍の紋様が彫られていた。彼は周囲のうす暗闇に埋めるように、ただ自分をうち振るわせる、激しい音の波に、体を揺らしていた。



「おい。ここで何してる」



 軍靴がコンクリートを叩く、固い足音。激しい音のうねりが、断ち切られる。

 肩を揺らす男は、視界に入ってきたつま先に一瞬目をやると、顔も上げずに、また瞼をおろした。自分だけの暗闇に、戻っていく。



「そろそろ最終ブリーフィングがはじまる。お前、また欠席するんじゃないだろうな」



 激しいハードロックに、閉ざした瞼の暗闇がうねる。黒い波に身を任せ、それ以外の全てを遮断シャットアウト

 脳を揺さぶる鋭い旋律は、同僚のうるさい声を押し流していく。



「おい……聞いてんのか!?」



 苛立った声。それにあわせたように、「よせよ」と横から別の声がかかる。



「ほっとけ、無駄だよ。そいつ」



 奥歯の間から打ち鳴らしたような、舌打ちの音が聞こえた。心底憎らしそうに。だが同時に、そこには諦めのため息が混ざっている。

 同僚たちの足音が、遠ざかっていく。



「放っておいてもいつか消える……前の部隊でも……」


「独断専行野郎が……あちこちたらい回しにされる厄介者…………」



 吐き捨てるような話し声が、ヴォーカルのすさまじいシャウトの合間から漏れ聞こえた。肩を揺らす。知ったことか。くだらない。しみったれた地上に、脚を縛り付けられた連中の、汚泥おでいのような言葉。



「たまにいるよ……群れの中では生きられない。だが社会に放たれても生きていけない。そんな野郎が……」



 心を閉ざせば耳も閉ざせる。男はそう信じている。だがその時ばかりは、音楽の音量を上げた。いや、理由などない。ただ、もっと自分の奥へ、自分のずっと、奥底へ、もぐり込みたかっただけ。


 暗闇でたった一人----男は肩を、揺らし続ける。







■ ■ ■ ■ ■










 手を握るべきなんだろうか----





 昼も十二時を過ぎると、窓から射し込む光はずいぶん穏やかだった。清潔な白に覆われた病室には、暖かな空気がのんびりと漂う。


 射し込む陽光はかすかに黄色がかっていた。開け放たれた窓から乾いた風がすべりこむ。花瓶で花が揺られ、花びら一つ、風に踊る。


 ひらひらとベッドに舞い降りた花弁は、そこに横たわる"少女"の小指に、かすかにふれた。


 「ぅん--」とかすかな吐息を漏らすと、彼女は小さな手で、つややかな黒髪をかく。陶器のように白く、雪のように柔らかそうなおでこが顔を出す。


 コーディだ。


 いつも大きく見開かれ、凛としていた瞳は、今はいだ水面のように静かに閉ざされていた。まどろみのゆりかごで揺れる彼女は、安心しきって、まるで子供のように眠っていた。



 病室の端で、ため息を一つ。



 フードをすっぽりと被ったクロセが、ぼんやりとした顔で彼女の寝顔を眺めている。



 相も変わらず、何も思ってなくても不服そうな面構つらがまえ。今はものげに、寝顔へ投げやっている。考え事をしてるのだ。ひきこもりも十年も続けていれば、役にも立たない哲学に没頭ぼっとうするものだが、今うつらうつらと考えているのは人生訓ではなく、ベッドで眠るコーディのことである。



「(手を握るべきなのか……?)」



 彼女が目を覚ましたのは、つい昨日のことだ。

 思い出すだけでも恥ずかしいが、今日まで毎日、見舞いに来た時はずっと彼女の手を握っていた。日和が言っていた「手を握って、声をかけてあげる」という意識のない患者に施す最大にして最低限の治療法を真に受けたからだ。いや、声をかけてあげる、の方は実践したことはないが。口を開いても言葉が出てこなかったから。


 で、彼女はなんと奇跡が起きて--

 --いや、奇跡、目覚めたわけだ。


 となると、どうするべきなのか。クロセはフードで陰った目をしぱたかせて、思う。手はもう握らなくて良いのか?



 握ってはいけないのか?



 いかがわしい想いでそんなことを考えているのではない(そう、いかがしくない。絶対)。正直なところ、彼女をいたわる方法というのが、手を握るなんて言う、おそろしく単純な方法以外に、まったく思いつかないのだ。


 人と関わることを避けてくると、病人を見舞う方法もロクに思いつかないわけだ。クロセはため息混じりに額に手をやった。情けない。これでは今度彼女が目覚めたとき、いったい自分はどうしたら



「チューしちゃえばいいのに」



 鬼軍曹に怒鳴りつけられたみたいに、びくんっと背筋が伸びた。


 ぎりぎりと、ゼンマイ回しのおもちゃのように、首を傾ける。


 いた。

 病室の入り口、ほんのわずかに開いた隙間から、一つのアーモンド型の黄色い目がのぞいている。


 目の下には、悪趣味な笑みを浮かべる口元がニヤついていて、首筋は金色のゆるくウェーブがかった髪が垂れていた。

 世界的ネットアイドル(と吹聴されている)、スプリングこと桜木日和の貴重な"いじわる顔"である。



「い……」



 かすれた声をあげるクロセに、彼女はますます笑みを大きくした。いじわるさを通り越して純粋に楽しんでいるようにすら見える。というか、純粋に楽しんでいるのだろう。



「いつから……そこに」



 あのね、と日和はまさにアイドルらしい華やかな笑顔で、ガキの頃の醜態をあげつらう親戚みたいな含み笑いを頬にためて、


「30分前から」


 そんなに。







× × × × ×






「えー! 目さましたの!?」


「……デカいよ、声が」



 最近よく顔を合わせるので、彼女についていろいろわかってきたことがある。とにかく感情豊かである。今目の前で目をまん丸にして、大口をしなやかな手でおおう姿を見ても、それがわかる。



「頭痛いんだから、今」



 一方クロセは、フードを深くかぶりなおして、うるさそうに顔をしかめて返す。


 パステルカラーな目をした"彼女"をイジェクトしてから、ガンガン痛むのだ。目覚めの悪い夢でも見ていたようだった。……どうも他人の"悪夢"につき合ったことに原因がある気がする。ほぼ死んだも同然の状態につき合ったわけで、当然といえば当然か。生きてることに感謝した方がいいくらいなのかもしれないが、それにしてもお騒がせなコーディやつ……。


 日和は不思議そうな顔で顔をのぞき込んでくる。クロセがうっとうしそうにフードを目元に寄せると、むっと口をへの字にして、いきなりフードをひっぺがえす。「ぅぁッ――おいっ」とあわててかぶり直すクロセを無視して、コーディの顔に目をやった。右へ左へのぞきこんで



「寝てるじゃん」


「昨日目が覚めてから、朝まで起きてたから……今なんでフードとったんだよ」



 彼女は興味もなさそうに手をひらひらして返す。なんとなくやったので「べつにいいでしょ」とでも言いたいのか。わけがわからない……! クロセは憮然とした。が、本当の所、最近よく顔を合わせるので、"頭では"なんとなく行動原理が透けて見える気がした。

 彼女は「なんとなく」人にちょっかいを出すのが好きなのだ。

 団子虫が丸まるのを見たくて手を出す子供と同じである。クロセは団子虫がかわいそうなのでそういうことはしない。



「おっきいねぇ、すごい……」



 日和はコーディのまつげをいじっていた。コーディのまつげは長くて濃い。大きな目が一割くらいさらに大きく見える程。日和が興味を示すのもわかる気はするが、「うぅん……」と目元をこするコーディにいたく感動してなんども繰り返すのはどうなのか。



「お、おい……」


「いいね、かわいい女の子が寝てるのって、いいね」



 日和はにんまりしていた。

 クロセは不気味そうに、彼女を見やる。



「……なーんだ。最近キミが疲れてるみたいだからさ、一週間くらいお休みもらって、代わりに看病してあげようと思ったのに」



 んー、と、背伸びして日和は言った。代わりに、と言っておいて、どうやら彼女もお疲れの様子だ。


 クロセは頭をかいた。正直なところ、日和は理解しがたい所のある、自分と対局に位置するだと思っている。だけどたまに見せる彼女らしい、自然な優しさには、何度も助けられてきた(……気がする)。最近は特にだ。でも何かお返しできるようなことはなにもない。ばつが悪かった。



「え? なになに?」



 小さな声で「……ありがとう」と言うクロセに、彼女は手を耳にやって頬におしつけてくる。ぐ、とクロセは嫌そうな顔になる。こいつ、聞こえてたろ、絶対……



「あーあ、暇になっちゃったなぁ」



 彼女はさっさとパイプ椅子をもってくると、クロセと2ミリくらいしか距離を空けずに座って、すぐとなりでニコニコしながらそう言った。肩を揺らして、なんどかクロセの肩にぶつけてくる。何がそんなに楽しいのか。



「……疲れてんの、日和の方だろ。ずっと働きづめだったから」



 愚にもつかない事を言って、クロセはベッドの片隅に設置されたテレフィルムに目をやった。

 壁からは、青白い人影の立体映像フォログラムが浮かんでいる。シルクのドレスを着て、大胆に開いたすき間スリットからしなやかな脚を見せながら、華やかな歌声とともに、日和--ではなくて--"スプリング"が歌声を響かせる。

「春が過ぎても止まらない!? 15万人の歓声を前にスプリングが大熱唱!」と白々しいほどに明るいキャスターの声がかぶさった。


「ツアーだっけ? よく知らないけど……」


 立体映像フォログラムに視線をとられている彼の横顔を、日和は唇をつきだして、半分閉じた目で見ている。



「……あのさぁ」


「なに?」



 とクロセは気の抜けた返事をした。



「普通、こういう時は--」



 途中まで言い掛けて、日和は「……もういい」とぷいとそっぽを向いてしまう。なんなんだ?



『さぁここで! おしよせた15万人を圧倒した、スプリングの登場シーンを、テレフィルム初公開です!』



 キャスターのうきうきした声とともに、映像は真っ暗闇に覆われた舞台と、小型のドローン達を映したものに変わった。


 妖精をかたどったドローンだった。丸っこい顔に、透明の小さな羽を生やしている。実際には機体の末端に回転翼フィンでもついているのだろうが、見た目には愛嬌のある顔に見える。

 無機質な目、黄色にちかちかと点滅させてまたたく。それからドローンは、真っ暗な舞台にぱっと飛び上がる。


 暗闇の中で黄色の光が明滅しながらクルクル輪を描く。妖精達はなぜか一枚の大きなシルクの布を持っていて、彼らにあわせて布にくるまれた何かが姿を現す。


 現れたのは、あられもない姿で、腕で胸と股間だけを覆ったスプリングの姿。


 クロセはぎょっとしたが、映像の中の彼女に恥じている様子はなく、むしろ美しい肢体を誇るようだった。

 するどいやいばのような歌い出しで、勢いよくエレクトロポップを歌い始める。見事なモデル歩きで舞台を歩み出す。妖精型のドローンが、取り払われた布をつかみ上げ、Springを祝福するように、くるくると辺りを旋回した。観客の大歓声に答えるように両手を広げたその瞬間、布は彼女の体へと滑り込んだ。



「えっち」



 耳元のささやき声に、ぎょっとする。振り返ると鼻先が触れるような距離に日和が顔を寄せていた。アーモンド型の大きな目の下で、意地の悪そうな笑みを浮かべ、眉尻を下げてみせる。よっぽど嬉しいのか、小バカにしたいのか、両方入り交じった光で瞳はきらきらと揺れていた。


 くっくと彼女がのどの奥で笑う。



「なんだよ……いって!」



 日和はクロセの頬をつつく。クロセが顔を背けようとするわずかな間に、彼女の指は模様ワンポイントを描く。目をぱちぱちして迷惑そうにしているクロセの頬には、ラメ入りのライトイエローで"ハート"が描かれていた。拡張現実ARの光線で手書きタッチマークされたのだ。



「……? お、お前、今なんかしたろ!」


「ぜーんぜん興味なさそうな顔しといてさ」



 ぷぷぷ、と指さして頬を膨らませる日和。彼女の手を払い、クロセはうなった。

こいつ……。



「これ、リハーサル一回だけだったから、すっごいドキドキだったのよねー」



 彼女が指さす"Spring"は、力強い歌声をきびきびと曲に乗せている。言葉とは裏腹に、その笑顔には、表情から指先まで自信に満ちあふれているようだ。


 横でまだケラケラと笑っている彼女とはまるで別人に見える……こいついつまで笑ってんだ?


 ドローンが彼女に巻き付けた布は、クリームでデコレーションするようにひだを刻み、"Spring"を包み込む。そうして優雅なドレスを身にまとった彼女は、さらに伸びやかなに、しなやかな手足を広げてみせる。



「……なんか、女神ビーナスの誕生みたいだな」



 昔、量子通信教育ネットエドゥケーションで聞きかじった美術の講義を思い出す。美術になど1ミリも興味はなかったが、たくさんの天使に祝福されながら現れる貴婦人の画――あれは印象に残っていた。


 一歩間違えれば下品とも取られかねないのに、彼女の情熱的な歌う姿からは、劣情混じりの妖艶さと自分への誇り高い自信があふれていて、自然と綺麗だと思わされた。この演出(っていうのか? よくわからないが)は見事だ。



「ほんとっ?」



 なんとなく口に出してみただけだったが、耳元数センチにいる日和には十分伝わったらしい。彼女の表情がぱぁっと華やかになる。

 う、余計なことを言った……とクロセは内心舌打ちした。いや、内心したし、実際にもした。

 だが彼女はきゃっきゃとはしゃぎだし、



「どのへんが? ねぇ、どのへんが!?」



 はしゃぐ彼女をなだめるのは大変だった。

 やっぱり最近わかったのだが、彼女は嬉しいことがあるといきなり子供っぽくなる。はしゃぎまわり、ドンッと細い肩で体をぶつけてくる。じゃれてるつもりかも知れないが、ダンスで見た目以上に鍛えられている彼女の体当たりは、けっこう痛い。



「ねぇねぇ!」


「い、痛い ……ていうか、耳元で言うなよ、頭が痛いって言ってんだろっ」


「はい! クイズです。このテレフィルムの中のスプリングちゃんと、私、日和ちゃん。なにが違うでしょう?」



 ……こっちの日和"ちゃん"は幼児退行を起こしている。

 と言うわけにもいかない。クロセはのろのろと彼女とテレフィルムを見比べた。



「……顔」



 思ったことをそのまま言った。正確には"表情"、と言いたかったのだが、元ひきこもりは語彙が恐ろしく貧困だった。そしてそれはそのまま、この場合では致命的だった。


 急に静かになったかたわらに、いぶかしく思って目をやる。

 ぎょっとした。


 さっきまでニコニコしていた彼女の顔は、氷が敷き詰められたような真顔で、切れ長の目の端が、刃のようにこちらを見据えていた。


 ちょっと表情を変えただけで、眉一つ動かさずに心臓を一突きする殺し屋みたいな顔になるのだから、すごい。すごいというか……これは……。


 彼女は無言ですっ--と立ち上がると、病室の端にあったパイプ椅子をもう一つひっつかみ、がちゃん、と乱暴にクロセの横に広げた。冷や汗を垂らすクロセの横で、深々と腰をおろすと、



「うわっ--ちょっ!」



 どか、としなやかな脚をのせてきた。相変わらず冷たい目をしている。



めた」



 艶々した唇が、むくれた声を出す。

 そうだろうな……見りゃわかるよ……。



「なに? あたしが拡張現実ARで顔を修正したとでも言いたいわけ?」



 ぐいぐいと、彼女の固いヒールの先が顎の下を突いてくる。



「いや、そんなこと一言も」


「正解は髪でした」


「……は?」


「か、み」



  見せつけるように彼女は金色の髪をゆらした。いまさらに気づく。そういえば以前の日和はストレートの髪を二つに分けて、むき卵みたいなデコを晒していた気がする。今の彼女は、品のいいハーフのお嬢様みたいに、背中くらいある髪を緩くウェーブさせている。赤いリボンで結い上げているのが、髪の色とよく似合っていた。



「あぁ、髪型」


「そ、似合うでしょ」



 ふふん、と彼女は鼻を鳴らし、髪をかいた。合点承知がいったと言った調子にうなずいた彼に、満足そうな笑みを浮かべる。「どう? 前よりかわいくなったでしょ?」と一般人がいったら白い目を向けられそうなことを自信満々に言う。

 クロセはいまいちピンとこない顔で



「さぁ……髪型とか、よくわからないし」



 ぐり、とヒールのつま先が顎の下にめりこんだ。

 ぐぉ、とぐえ、の間くらいの声がでる。



「つまんない」



 日和はすっかりへそを曲げた。足蹴にされたこっちの方がへそを曲げたい。

 長い手足をばたばたさせて



「どっか連れてけ!」



 こうなるとただのわめくガキである。目覚めないコーディの手前、いつも二人して沈鬱な顔を並べていたのをかなぐり捨てるように、彼女はワーワーわめきちらす。両耳をふさいだクロセの額には脂汗が浮かんでいた。頭痛が悪化する……!



「いきなり言われたって無理だって、まだコーディは入院中なんだぞ!」



 ゲシゲシ蹴りやられながら、クロセは必死に叫んだ。気がつくと、ぴたりと蹴りの猛襲は止まっていた。おそるおそる瞼を開けると



「……ふーん」



 確かに、ウェーブした錦糸きんしのような髪は、彼女によく似合っていた。気の強い、傍若無人なお嬢様然とした、半分閉じた目が、ゆらつく髪の間からのぞいている。一般人とは、迫力が違う。



「コーディちゃんには"貸り"があるって言ってたよね」



 試すような口調だった。クロセはなんと答えたものかわからず、とりあえず浅くうなずく。「深くうなずかなければ言質は取られまい」と浅知恵を働かせているのである。



「すごいねぇ、ちゃんと目を覚まさせてあげたんだもんね……貸りは必ず、返す主義なんだ?」



 余計な返事はしない方がいいぞ、と理性が告げていたが、刺すような紫色の瞳に射抜かれては、黙っておく方が針のむしろというものだ。「うん」、と「おん」、の間くらいの曖昧な返事をする。



「そういえば、ほかにも貸しのある子がいたよねぇー……」



 指をくるくる回して



「デートすっぽかしたり? スポーツカーに乗せてもらったり? の看病まで手伝わせてた娘がいなかったけ? あっれー?」



 いったい誰のことかしら? とばかりに、本人お気に入りの髪に指をはわせる。いじりまわす。クロセは冷や汗が額に沸々ふつふつと浮かぶのを自覚する。これまでの冗談めいた調子と、今の台詞に込められた"本気"のほどが違うことに気づいたのだ。


 嫌みったらしい、歌うような調子だったのに、"他の娘"の所だけは異様に力がこもっていた。


 普段年上ぶって余裕のある顔をしているが、それはコーディを心配するクロセをおもんぱかってかぶっていた"仮面"らしい。実際の所……彼女はずっと不満を貯めていたのだ。その怨念おんねんが、言葉の端々に込められていた。


"自分の話題が『他の女の子』に取り上げられるのがきらい"----彼女の事が、また一つ新しくわかった。


 もはや我慢の限界ということだろう。

 彼女がねじねじしていた髪が引きちぎれそうになったところで音をあげた。



「ほんとに!? えーでもつき合わせるみたいで悪いなぁー!」



 わかったわかったどこへでもいいから行こう、と言うと、彼女は途端とたんに華やいだ表情をみせた。「まいったなぁ」とばかりにおデコを こすっているが、クロセは頬をひくつかせてそれを眺めていた。

 またこいつの手のひらの上で踊らされた……



「じゃぁ、明後日あさってのお昼、"百合花の硝子塔グラス・リリィ"に集合ね!」



 いきなりウィンドウを押しつけられた。拡張現実ARの黄色いウィンドウには、指定第八地区の立体地図と、赤い点が表示されている。



百合花の硝子塔グラス・リリィ?」



 クロセはしかめっつらになった。

 最近よくテレフィルムで聞く名前だ。



 グラス・リリィ--都会のど真ん中にこの間できた、いかにも観光客が好きそうなガラスで出来た巨大なタワーだ。

 赤外線の不透過技術だとか、強度の問題だとかが最近解決されたお陰で、なんでもかんでもガラスで作るのが最近のはやりだった。その集大成が、グラス・リリィ。


 その名の通り百合ゆりの花をかたどったデザインで、すべてガラスで造られたタワーなのだ。「見上げると水の中にいるみたい」とはCMのひょうだが、クロセは鼻白はなじろんでいた。水の中がいいのなら、海にでも飛び込めばいい。



 結局の所、いかにもキラキラしてそうな、金持ちかカップルがうじゃうじゃいそうなのが、クロセが鼻にしわを寄せた理由である。



「けっこう良いところだよ? 屋上にテラスがあってさ、そこからの眺めが最高なんだ」



 高いところが好きなら富士山にでも登ればいい。



「なんか言った?」



クロセは首を振って返す。



「今度さ、あそこで飛行機が飛ぶんだって! シューってスモークが出てさ、航空ショーってやつ? 間近で見られるんだよ? すごくない?」



 ついこの間、ジェット旅客機につっこまれた身としては、迫力は数段劣る気がした。



「じゃ、明後日あさってね! 十一時ぴったりね。遅れないでね。遅刻は罰金。おしゃれしてきて。私もめいっぱいかわいい格好かっこしてくから!」



 それじゃね、バイバイ! 

 ヨーヨーが引っ張られるみたいに、彼女はあっという間に病室を出ていった。最後に投げキスをよこすのを忘れないのが彼女らしい。



「嵐みたいなやつ……」



 閉じた扉をぼうぜんと見つめながら、クロセはつぶやいた。いずれにせよ、文字通り頭痛の種が消えてくれたお陰で、きしきしと痛む頭がこれ以上悪化するのは防げるだろう。トレーニングパーカーのフードを深く被ると、彼はぐったりとパイプ椅子にもたれ掛かった。


 ノックの音がした



「……んだよ、まだ何かあんのかよ!」



 いい加減我慢の限界でクロセが怒鳴ると、扉ががらりと開いた。

 恰幅かっぷくのいい、入院患者たちから密かに"ブルドック"と名付けられる強面こわもての婦長さんが、ぎろりと部屋をのぞき込んでいた。



「この部屋がうるさいって苦情が来てるんですがっ」



 脂汗がにじむのがわかった。



「あ、はい……」


「病院では、静かにッ!!!!」



 お前の方がよっぽどうるさいよ、と思えるような声をあびあせかけると、婦長さんはぴしゃりと扉を閉めた。

 あとには、コーディの静かな寝息と、硬直こうちょくして脂汗を垂らすクロセだけが残った。



『みんな、元気ー!?』



 テレフィルムの中で、一曲歌い終えたスプリングが晴れやかな笑顔で大歓声に応えていた。



『なんだよ元気ないぞ ! 今日は盛り上がっていくよー!!』


 さらなる大歓声がテレフィルムからとどろく中、クロセはパイプ椅子からずるずると崩れ落ちていった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る