違う名前を呼ぶ男ーὈδυσσεύς,ΟΔΥΣΣΕΙΑー
電気ショックでも加えられたような、衝撃。
温かな海をただようように、心地よい暗闇。
ずっと浸っていたかったそこから、急激に意識は引き上げられた。
意識が沈む深海の底から、光がかろうじて射す水面へーー冷たい水の底から、まぶしいほどの陽射しがさす天へ。
ミルク色の光が、いっぱいにあふれる。
まぶしい光に目を細めようとするが、まぶたが少しも動かない。
————いや、まぶたは動いていたのだ。すでに閉ざされていただけで。
まぶたを通り抜けて射し込む光に、どうしたものかと困っていると、何かが光を遮った。
それは、手だった。五本の指が、光にかざされている。自分が持ち上げた手だと気づくのに、ずいぶん時間がかかった。そこまでしてようやく、自分に体があることを思い出した。
「
光の中から、歌声が聞こえる。
だれに聴かせるでもない、穏やかな歌声なのに、透き通るような伴奏が聞こえそうな、凛とした歌声だった。
柔らかな陽射しの中で、歌声だけが、きらきらと輝く。
「
光の中に、人影がさす。金糸のような長い髪を、風に揺らす、影。
光をこばむクロセの手を取り、やさしく両手で包み込む。
「
だんだんと、光をこばんでいた目が、落ち着きを取り戻す。穏やかな光を受け入れ、辺りの光景が見えてくる。
真っ白な部屋。柔らかな初夏の風がそよぎ、窓際でカーテンが踊る。
彼女は顔をよせ、歌声をささやく。
「
彼女の言葉に引き上げられるように……ぼんやりと視界をおおう暗闇は晴れ、"現実"へと目を覚ます。
「コーディ……?」
声はおそろしくかすれていて、もうずいぶん長い間、喉は使われていなかったようだった。
それでも、かすかな声に、人影がはっと息をのむのがわかった。
指の先をたどり、陽光に目を細めると、人影の顔が次第に光に照らし出される。
金に染めた長い髪。
つるりとしたおでこを出して、すらりとした顎をちょっと生意気そうにつきだす。
大きなイエローの瞳を片方細めて、心外そうな左右非対称の顔をしていた。シニカルな笑みで、片方の口元をもちあげる。
「悪かったわね、わたしで」
「……spring? あ……日和?」
桜木 日和、その人だった。
彼女はつんと顎を持ち上げて、肩をすくめて見せる。
「コーディちゃんじゃなくて、残念でした!」
ひよりは、べっと舌をだして見せた。思いっきり目をつぶって。
クロセはうめきながら、頭をかく。
潔白の白におおわれた部屋。窓際でゆれるカーテン。乳白色の光が、部屋の中を照らしていた。……どうやらここは、病室らしい。でも、どうしてこんな所……? ぼんやりして、考えがまとまらない。
日和はベッド脇のイスから立つと、ナースコールに手を伸ばした。クロセが目を覚ましたことを告げると、マイクの向こうで医者たちのちょっとした騒ぎが起きていた。
「俺、寝てたのか。……いッ……!」
かすむ目をこすり、ベットから身を起こそうとするクロセは、突然左腕を襲った痛みに顔をしかめた。
「あっ、ちょっとダメダメ!」
跳ねるように振り返った日和は、しなやなか両手をのばして、クロセをベットに押し倒す。
目を開くと、鼻先がふれあうほどの距離に、彼女のアーモンド型の大きな瞳が、のぞきこんでいた。
きらめくビビットなイエローの瞳。
柑橘類みたいな、さわやなか香りが、ふっと彼女の首筋からすべりこんでくる。
「まだ、ダメ。手痛いでしょ?」
長い指が、クロセの指の間に、ほおずりするようにすべり込む。
「幻視痛だって。お医者さんが言ってた」
「————」
なぜかいけないことをしているように、どきん、と鼓動がはねた。
寝不足のネコみたいなクロセの目が、かつてないほどに開かれているのに、小春は「ん?」といぶかしげに、よく動く眉をあげた。
その時、彼女の瞳に、怪しい輝きがきらめいたのを、クロセは見た。
ほんの一瞬——だがまちがいなく、彼女は瞳だけで"笑った"。
「ん〜〜〜〜!」
うわちょ、というクロセの声は、彼女のほおずりにおしつぶされる。
すらりとしているのに驚くほど柔らかな頬が、鼻や唇に所かまわず押しつけられる。
あわてふためいて逃げようとする彼を、
「おかえり、イジェクターさんっ」
「……!! …!? ……??」
二の句も告げず、口をアホみたいにぱくぱくさせているクロセに、日和はそっと顔をよせ、小さく甘いささやきを告げた。
「ね、お邪魔が入る前に……」
なにもできない内に、思いっきりキスされた。やさしく、包み込むような、唇の感触。
まぶたを閉じた日和。まぶたを押し開けたクロセ。
彼女の髪からただよう甘ったるい香りが、胸の奥へと分け入ってくる。せき込みそうなくらい濃密な匂い。せき込もうにも、開いた口は彼女の唇にふさがれていた。熱い温もりが、唇におおいかぶさって、トクトクと脈打っているのが、わかった。
「————っ、なにすんだよ!」
日和の
……わけがわからない!
すっかり混乱して息を荒くするクロセに、彼女はきょとんとして、人差し指を立てて見せた。
「……ウブな
「おま……おまえ、なぁ! おまえ……!」
何か言いたいことが山のように積み重なっているのだが、喉元に来ると全部くずれて「おまえ」しか言葉が出ない。
なさけない奴。どこかで冷静な自分が呆れていた。あのな、今時キスぐらいで、慌てるなよ。
「キスぐらいで、そんなにあわてないでよ」
まったく同じことを言われる。
「うる、さい……なぁ!」
「前に一回したじゃん。一回したら、二回も三回も、おんなじだってば」
平然とそう言う彼女が、クロセには『お忍びで地球にやってきた別の星のお姫様か何か』にしか見えなかった。
完全に生きてきた常識が違う。クロセはへっと鼻をならし、吐き捨てるように
「あんたは今まで何百回してきたのか知らないけど、俺は」
「私はこの間したのがはじめてだけど?」
クロセは彼女の顔を見上げた。
まったくの平静な顔を、思わぬヤブヘビに出くわしたクロセに向ける。
「今のが二回目」
窓からの陽光が、病室にただようほこりをきらきらと輝かせていた。
髪を押さえながら、じっとこちらを見つめていた大きなイエローの瞳が、いたずらっぽく細められる。「なーんちゃって」と、彼女は笑って見せたが、それが本当に嘘なのか、それとも本当なのか、クロセには読みとる気力がなかった。
「……そんなことより、コーディは?」
頭をがりがりとかいて、クロセはイラだたしげにそう言った。
とげのある言い方をしたかったわけではなかったが、なにより彼女のことが、心配だった。
「キミと一緒に気絶してた子のことだよね」
日和の表情が、曇った。
「キミと一緒に病院に運び込まれてから、まだ眠ったままだって、お医者さんが言ってたよ。でも命の危険はもうないって。目が覚めるのに、ずいぶん時間がかかるみたいだけど……」
「時間がかかるって……待ってくれよ、俺たちはどれくらい眠ってたんだ?」
その質問に、彼女は口をつぐんだ。前のめりにはしゃいでいた雰囲気が、冷や水を浴びたように、静かになった。
「五年」
ぽつりと、彼女は言った。
「五年? 五年って……創造主(ワールドメイカー)を倒してから、あれから五年経ったって言うのか?」
「……自分で見て、確かめて」
ベッド脇にあった手鏡を、クロセに手渡す。クロセは手を伸ばすのに、躊躇した。五年? 深い眠りについていたのはわかっていた。だが、五年?
過ぎ去っていった年月に、頭がまるでついていかない。あの時、自分は16才だった。それが、いま……
震える手で鏡をつかむ。ためらう気持ちを生唾と一緒に飲み下す。
ギラつく鏡面で反射光が揺れる。おそるおそる、のぞき込む。
そこには、かつての自分とは、似ても似つかぬ、成人した自分の姿が————
————映ってるわけなかった。
いつもの自分の、いつもの眠たげな、スレた捨て猫のような顔。
ぼさぼさの黒髪が、目深にかぶっていて、間抜けにも目を見開いていた。
「……おまえなぁ!」
鏡を布団に叩きつけると、日和は体をくの字に曲げて、大きな目を糸のように細めていた。
「おっかしー、キミ、ほんとに純粋だね」
「ふざけんな! 笑うのをやめろ!」
けらけらと笑い転げる彼女に顔を赤くして、クロセは怒鳴った。
「笑うのをやめろだって、ひー……まだ一ヶ月しか経ってないから、安心してっ」
それすらも、彼女の腹筋をけいれんさせるのに一役買ったようだった。
むかっぱらが立って仕方なかった。が、目の端に涙をためて笑う彼女に、
「私の前で他の女の名前を呼ぶからよ。これで二回だもん」
と逆に長い指でくちびるをつつかれると、なぜか言葉が引っ込んでしまった。
また、いたずらっぽく瞳をきらめかせる彼女を見ていると、こいつ……とクロセは内心ひとりごちた。こいつ、手慣れてやがる……相手を怒らせないギリギリのラインを狙って、しっぽをふって逃げる逃げるウサギのように。
押し黙るクロセに気づくと、日和は急に、ずぃ、と顔をよせてきた。大きな瞳でこちらをのぞき込みながら
「ね、コーディちゃんってさ、かわいい子だよね」
ぎょっとしたクロセに、彼女は目の端で流し目を送った。おかしそうに。
「……コーディに会ったのかよ」
「つい最近やっとね。ちょっと頬こけてるけど、ほっぺたがふくふくしてて、なんかカワイイって感じ」
「ふくふく?」
「だけどまつげがすっごく長くて、びっくりしちゃった。ほら、私のよりながいんだよ? 品のいい子猫みたいでさ。目が大きくてーーきっとまばたきするだけで、みんなドキドキしちゃうよね」
「…………」
まぁ、たしかに……彼女の目は吸い込まれそうな深みがあった。
深宇宙の星々を望遠鏡でのぞき込むような、不思議な魅力があったのだ。
コーディの瞳を思い返していると、ひよりがじっとこちらを見つめているのに気がついた。
「…………」
「……あ、ごめん。なんだった?」
べつに。
と日和はまた、つんと形のいい鼻をそっぽむかせてしまった。
「あのさ、あいつは……あいつは命の恩人なんだよ。返しきれないくらい、借りがある。あいつに……コーディに、会わなきゃいけないんだ」
体を起こすと、しみるような痛みが骨の髄まで突き刺さった。奥歯を食いしばって耐えると、ひんやりと手が、頬に当てられた。
「バッカみたい。かっこつけちゃってさ」
日和の瞳は陽光よりも明るい色をしていたが、のぞき込んでくる彼女のそれは、妙に落ち着いていた。心の中を見透かされているような気がして、クロセは口ごもった。
「……とにかく、会いたいんだよ」
痛みで言葉が弱々しくなった気がした。はいはい、と日和は肩をすくめて、立ち上がろうとするクロセを支えてくれた。
「わかってるよ。最初っから、そんなこと……」
■ ■ ■ ■ ■
それはベッドと言うよりも、アンドロイド(機械人形)を調整するための精密検査室みたいだった。
真っ白なベッドに、時が止まったように、静かに横たわる体。
精巧な、陶器でできた人形のように、白く端正な顔立ち。高くはないがすらりとた鼻は天をさし、アーモンド型の大きな目は、長いまつげに閉ざされていて、誰もいない病室で、ぴくりとも動かない。
コーディだ。
彼女にかけられた薄手のシーツですら、一つのシワもない。
ベッドのまわりには心電図から脳波、電気抵抗値や神経インパルス量まで、無数の波形が波打つウィンドウが、青白い光を発しながら漂っていた。
刻々と変化する数値は、しかし本当に、わずかな値しか変化していないことを示していた。さざ波さえ忘れてしまった、水面のように。
「……運び込まれてきたときは、一度心臓が止まったし、意識も一回も回復しなかった。ほとんど死んでたって、お医者さんは言ってたよ」
観察窓を挟んで、クロセは彼女を見つめていた。
まばたきも忘れた瞳は、穏やかだが、目にした物を受け入れるのに、必死に感情を押さえ込んでいるようだった。
その横で、日和もまた、窓の向こうの青白いウィンドウを、瞳に映す。
「でも……それはキミも同じ。っていうか、キミは銃で撃たれたりして、本当に何度も心臓が止まってた。私がここにきたのは、キミが運び込まれてから18時間も経ってたけど、まだ手術してたから」
「俺が、いけなかったのか……?」
クロセの生傷が残る手が、窓に押しつけられた。窓には、蝋で固めたようなコーディの横顔が映っていた。
「あそこから引っ張り出したから……現実に、帰るために」
日和は彼を横目に見下ろしていた。
「そう、キミは帰ってきた。ここでちゃんと生きてるし、私と話もできてる。お医者さんがそれを奇跡と呼んだとしても、私はそれを信じない。だって、キミが帰ってくるって信じてたし。わたしと一緒に現実に立ち向かう、相棒だもんね」
クロセは力なく首を振った。
「そんなに良いもんじゃないよ……本当に、ひどい戦いで……俺はじたばたするばっかりで、血反吐ばっかり吐いて……最後には、コーディに助けられたんだ」
脳裏に、生々しいほどの記憶がフラッシュバックする。
手のひらを打つ銃の反動、火薬の焼ける臭い、鳩尾にたたき込まれるワールドメイカーの一撃、ぴくりとも動かない体に、冷たい床の感触。
そして————自分の手に重ねられた、コーディの冷たい、小さな掌の温もり
「……えいっ」
「ぅわ!?」
突然、首筋に冷たい指先が滑り込んできた。
ぎょっとしてみると、日和がいたずらっぽく目を細めていた。
優しい声音で、でも背中をたたくように
「しっかりしなよ。キミは世界中の人を何億人も救ったんだ。あと一人くらい、助けられるよ」
返事はできなかった。
あの時自分は、世界のことなど知ったことではなかった。ただ、自分の大切な人を奪い、そしてまさにその時奪っていこうとする敵を、倒す。
ただそれだけしか、頭にはなかったのだ。
今更英雄面して胸をはるなんて、できはるはずがない。
「……中に行ってみよ」
「え?」と言う間もなく、彼女は病室脇のパネルを操作して、扉を開けてしまった。
「いいのかよ」
「窓の外からながめてたいなら、止めないけど?」
「…………」
二人はベッドの脇にたった。
近づいてみると、ようやく、彼女の薄い胸が、ほんのわずかに、上下しているのが、わかった。
まどろむような、穏やかすぎる呼吸。長かった黒髪は、首筋くらいになっていた。少し突き出された薄い桜色の唇が、わずかでも動く気がして、じっと見つめるが、閉ざされたまま、動くことはなかった。
それでも
それでも、手を伸ばせば、彼女の頬に指先は触れた。
目を閉じる。
頼りないが、でも確かにそこにある感触に、じんわりと胸の奥底が熱くなった。
あぁ————俺は、生きてるんだ。
奴を、倒したんだ————
自分でも、まったく気がつかなかった。だがこの瞬間、初めて、クロセはそう思ったのだ。
勝利の喜びではなかった。ただ、自分がここにいて、彼女がここにいる。そのことだけが、胸の奥で、ぽたぽたと、こぼれる涙のように、想いを落とした。
「……さて、手をにぎってもらいましょうか」
日和が、大きな目をつまらなそうに半分閉ざして、手をパンとならした。
「え?」
「意識がない人を目覚めさせる方法。手をにぎって、話しかけてあげる。意識がなくても、ちゃんと聞こえてるんだって」
へぇ……とクロセは感心した。
「そういえば、横で日和が歌ってるの、聞こえてた」
「え? ほんと?」
大きなイエローの瞳をぱちくりして、彼女はぴょんと跳ねた。
「なに歌ってるの聞こえた? 1stアルバムの曲? 2ndかな?」
「なんか……世界共通語(ユニオンコード)の……しずかな、綺麗な声だった。天使が唄ってたみたいな」
言ってから、はっと顔が赤くなる。なにシャレたこと言ってんだよ、俺……
目に見えて、日和はうれしそうに笑顔になった。
クロセに肩をよせる。
「avenueかな? drumthinking? あ、でも私の歌って、あんまり静かじゃないか」
「アーメイ……グレースって、言ってた気がする」
日和はきょとんとした。
それから恥ずかしそうに、頬をこすって、瞳を落とした。
「それ、私が鼻歌で歌ってたのだ……アメイジング・グレイスだね。『過ちを犯した私を、許してくれてありがとう』って、歌。お姉ちゃんが聖歌隊にいた頃、よく歌ってくれて、好きなんだ」
やぱり、神様にお祈りする歌が、効くのかもね、こういうのって。はにかんだ笑顔で言う彼女に、クロセは言葉に詰まった。
「もしかして……俺に歌ってくれてたのか?」
「……チャリティーコンサートしてあげたんだから、感謝してよね。出演料タダよ? この一ヶ月間」
「一ヶ月? 毎日歌ってたのか!」
驚くクロセに、あっと日和は口を押さえた。
「……よけいなこと言っちゃう。私っておしゃべりだなぁ……」
「日和、あのさ、俺……」
「あっ! いい! やめて!」
思わず日和に向き直ったクロセに、彼女はぶんぶんと両手を振った。
「……お礼はさ、やっぱり、いい。今度は、キミがやる番」
彼女はコーディに掌を向けた。
静かに眠る彼女の顔を見つめ、クロセは傍らで、ひざを突いた。
小さな手に、自分の両手を重ねる。
「コーディ……」
言いたいことが、いっぱいあった。だが、何一つ言葉にならなかった。
首を振って頭をかくクロセの横で、日和がパン、と手をたたいた。
「さん、はい!」
「……は?」
口を半開きにしたクロセに、日和はもう一度、手をたたいた。
「さん、はい」
「ちょっと待て……歌わせる気か? 俺に!?」
「だって、聞こえたんでしょ」
ななめ上にきょろっと目を向けて、彼女はからかうように肩をすくめた。うれしそうに
「レッスン、してあげる」
なにか反論したくて、口をぱくぱくする。が、小さく息を吐いて肩を落とすと、コーディの静かな寝顔に目をむけた。
「なんて歌詞だっけ」
クロセが観念したと見るや、満面の笑みで、彼女は歌詞はそらんじた。その歌の一節一節を頭に刻み込む。
たどたどしい歌声が、病室をただよい始めると、誰も見ていない脳波系の波が、大きく波打った。
まるで、胸の高鳴りのように。
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