まこまこマコちー ―to the "milky way"!―




それはまだ、平穏な三月の、あたたかい朝の出来事だった。



そのころの黒瀬 眞子くろせ まこの悩みと言えば、「進級したクラスでうまくやれるか」って事。それに、「あたらしい家族とどうしら仲良くなれるか」って事、だった。





 小さい頃からひっこみじあんで、人に話しかけるのが、おそろしく苦手だった。

 幼稚園でも、みんながケラケラ笑っていると、中心からずっとはずれたとこで、なんとなくみんなの笑顔につられてニコニコしてるような子だった。

 まわりの子を引っ張っていったり、中心で軽やかに笑い話をするタイプじゃない。いつもみんなに手を引っ張られては、あちこち連れ回してもらってばかり。


 自分の力で、誰かと"つながった"ことが、いっっっ――かいもないのだ!


 このままじゃダメだー……

 というのはその頃からもうわかっていたらしく、古いアルバムには

 「つよい こ に なる!」

 とか

 「いっぱい ともだち を つくる!」

 と電子ペンで力のこもった決意が書きくわえられていたりする。


 友達が家に来てそれをながめたりすると、「マコちー、もうじゅうぶん強いじゃん」と日本拳法の腕前をほめられたり、「マコちー、クラスだと人気者じゃん」などとにやにやされたりする。


 ちがう。そういうんじゃ、ないのだ。


 たしかに、姉から強要――ううん、"おすすめ"されてはじめた日本拳法は、なぜか妙に上達して地区大会準々決勝まで勝ち昇ってしまった。

 クラスではいつも誰かが横にいて、自分を指さしてはケラケラ笑ってる。


 だけど、それはちがうじゃん。

 なにか、こう……目指していた「強くて、いっぱい友達がいる子」ではない。


 腕っ節が強くなってどうするのか。

 友達はみんな、自分をからかうのが好きなだけじゃん!


これは、ちがう。なんか、ちがう。


  授業中とか、帰りの準備をしているときに、その事実に突然気がついては、この世の終わりみたいな青い顔をして汗をたらたら垂らすのが、マコの日常だった。






そう、変わらなければいけないのだ。


ぱっと顔をあげたマコの前には、木製のりっぱな門扉がそびえ立っている。

さちのうすそうな薄い唇を一つなめ、ごくりと生つばを飲み込んだ。病弱そうな色白のほほを薄ピンクに染めて、すこし癖のある栗色の髪を風にゆらす。セーラー服も、決戦を前にしたみたいに、スカートをバタバタはためかせた。くるみみたいな目には、決意の表情。


 この先にいるのは、モンスターである。

 この広大な屋敷のかげに身をひそめてこちらをじっとうかがっている、なんだかヤバい、モンスターなのだ。



 モンスターの名を、『黒瀬 完爾くろせ かんじ』 という。



 ちょっと前に量子りょうしネットで調べたとき、完爾かんじ、とは『喜んでニッコリ笑う様』という意味だと知った。家で一人でいるときのマコは、ほとんどいつもぼんやりしているのだが、この時ばかりは「ふへ」、と変な笑いが出た。


 いや、これ、まちがってる。まちがってるよ。

 だって――クロセお兄ちゃんがニッコリ笑った所なんて、一回も見たことないんだから!


 いっつも義兄クロセは、顔の皮膚がぐつぐつ煮込んだ卵みたいに固まっていた。下からのぞき込んでくるような、じと、とした目を向けられたことしかない。髪はいつもぼさぼさで、かぶったフードの陰からこぼれ落ちていることすらある。はじめて見たときは女の子かと思ったくらいだ。


 赤ちゃんの頃とかには笑っていたのだろうか? ぜんっぜん想像つかない……たぶん、あのむすっとした、ふてくされたみたいな顔のまま生まれてきたにちがいない。



「……なに考えてるのー、わたし。だめ、だめ、そんなこと考えちゃ、ダメ……!」



 門扉の前に突っ立っていたマコは、頼りないソプラノの声でつぶやいた。両手で顔をおおってぷるぷる震える。バカなこと考えちゃ、ダメ。あんな顔の赤ちゃんなんかいたら、ぜったい、橋の下にぽいっと捨てられちゃうに決まってる――――いやいや、そういう事じゃないってば! ダメ! 笑っちゃダメ!


ぐりぐりと顔をこすったマコは、ほっぺたを桜色に染めて、もう一度門扉を見上げた。

 かたわらの桜の木から、一輪の花びらがひらひらと落ちてきて、彼女の少しクセのついた、ハーフみたいな栗色の髪に落ちた。いつも下がっている眉尻を、かろうじて地面と平行になるくらいもちあげて、ふんす、と鼻息をはいた。唇を、きゅっと結ぶ。


変わるんだ

変わらなきゃいけないんだ


マコはインターフォンのスイッチに指をかけた。あとちょっと押し込めば、それでコールがなって、彼が出てくるはずなのだ。


 でもそう思うと、指先がぷるぷる震えた。あぁ、悪いくせだ。いつもいっつも、大したことでもないようなことで緊張して、体がぷるぷる震える。


 そういえば、あれは高校に入ったばかりの時だ。消しゴムを忘れて、配られたプリントに名前も書けずに、プルプルしていた事があった。となりのミヤビちゃんが大笑いして声をかけてくれなかったら、あのまま脂汗をたらすヘンな生き物になるところだった。ミヤビちゃんが後で言うには、よっぽどおかしな子に見えたらしい。あの時は黒髪セミロングのみやびちゃんが、金髪をふわふわさせた大天使さまにしか見えなかったな――――


「……お前、なにしてんの」


は、

――――と、固まった。


 ぎりぎりと、動かない首を声の方にまげると、扉から顔を出したクロセが、いぶかしげな顔をしてこちらを見ていた。


「あ、だ、あぇ……」

「……用もないのに他人ひとん家の前でつっ立ってんなよな」


ぷい、と視線をそらして、門のわきに置いてあった牛乳瓶をつかみ上げる。髪、いつ切ったんだろう。いつもぼっさぼさなのに、今日は幾分かましな髪型になっている。つまらなさそうな、つんとした顔つきで、めんどくさそうにため息をつく。目鼻立ちはしっかりしているけれど、野良猫みたいな目つきをしてて、不健康そうな、女の子みたいな、白い顔。黒瀬、完爾だ。


わたしの、おにいちゃん――――


「あっ――――」


言葉に詰まると、つまらなそうな顔を、さらに迷惑そうな顔に変えて、クロセはこちらを見た。

「く、ろせ、さん……」

「……今日は五秒か」

 何かにうんざりしたように、クロセは言った。


「はぇ?」

きょとんとするマコに、クロセはうっとうしそうに手を振った。「なんでもねぇよ」。それっきり、二人は見つめ合っていた。いや、クロセからすれば、見つめ合う"しかなかった"と言うべきだろう。マコは鼻の頭からほっぺまで、じりじりと赤くして、うつむいてばかりだったからだ。クロセがぼさぼさの髪を書き始めると、突然マコはばっと顔を上げ、


「わた、わ――――わたしね! あ……わたしなん、ですけど、あの、きのう……昨日おさしみ作ったんです」


「…………」


クロセはあきれ顔を通りこして、困惑顔でこちらを見ていた。みるみる内にマコの顔は赤くなっていく。


「あ、な、そ――――すごくないですか!?」

「なにが」

 間髪入れなかった。

 即答だ。


たぶん、顔を見たときから、その言葉が頭に浮かんでいたに違いない。「なに?」「なにが?」「なにがしたいの?」眞子の脳内で、おそろしく嫌そうな顔をしたクロセが、"悪意語変化系三種"でたたみかけてくる。


「あ、だから、あの……お魚屋さん! おうちの近くの! ここから近い!」

「……あのさぁ、大した用がないなら」

「本当ですよ! すごい近いんです、商店街があって! あ、あそこの喫茶店の制服、かわいいんですよっ。 わたし、あそこでバイトしてるんです、こんど来てくださいね!」


 本格的にクロセは困惑している。

 いきなり全裸になり始めたおっさんでも見ているかのように。ちょっと眉根がぴくぴくしているのを見ると、怒りっぽい彼はキレそうになっている自分を必死に押さえようとしているのがわかった。あ、これはまずいですよ! 頭の中の理性担当の自分が警報をかき鳴らしながら叫んだ。カンカンカンカン――――頭の中が緊急警報でいっぱいになり、考えるより前に勝手に口が言葉をはき出す。どんどん落ちてくる眉尻を、めいっぱいに広げた目で押し上げて、彼女は顔を真っ赤にしながら、


「あっ、ちが……ちがうんです。あそこの魚屋さん、いつもお魚くれて、わたし、いつももらって申し訳ないから、ちょっと困ちゃってて、いまは商店街を通らないように裏の通りを行ってるんですけど、けど夜になるとすごく暗くて、一人で歩くのこわ――――あ、この話、やめますね、やめますやめます、あ、あ、はは」


どんどん顔色がくもって、入道雲がもくもくと上がりはじめたクロセに、マコは地面にでも落ちそうな眉尻を伏せた。要点、要点を話さなきゃ。要点、要点、要点、要tm。ようt、m


 ……あれ、要点ってなんだっけ?


「――――今日、わたし、ごはん作るんです。料理、こう見えて得意なんです、え、へへ……あ、自慢っぽいですよね、こんなの……あんまり期待されても困っちゃうんですけど、でもわたし意外とーーーあぁ! ちょ、ちょ、ちょっと待ってください!」


牛乳をひっつかんで、さっさと門の向こうに引っこもうとするクロセの手を――あ、ちがっ……手をつかむとか、できない――手じゃなくて、そでを、ほんの少し――ちょこんとだけ、つまんだ。弱々しい力だった。拳法の試合じゃ、おそろしく硬くできるはずの小さな手が、ぷるぷる震えて、クロセのフードパーカーの袖が揺れていた。


「……俺、やることあるんだけど」


ふりはらわなかったのは、かなり優しいと思う。

 絶対、私、めんどくさいやつだ。そう思えば思うほど、桜色の唇は、口の中に逃げ込んでいき、ちいさくなっていった。

「……き、今日、夕飯、たべに来ませんか……?」

「いかない」

 即答だった。眞子のまん丸な目がもっとまん丸に押し開かれた。

 言葉が続かなかった。なんとか、うまく、言葉をつなげて、このやりとりを笑い話にして、気軽な調子で、「じゃぁまた今度! 明日とかどうです?」とか、そういう冗談めかした感じで、もう一回誘えば……


「じゃ、そういうことで」

「あ! あっ……あぅぅ、ああ! 牛乳!」


ほんの少し申し訳なさそうな顔を浮かべていたが、それでもつきあいきれずに部屋に引っ込もうとしたクロセに、眞子は口をあわあわさせて叫んだ。


「牛乳! あさ飲むの、えらいですよね! 健康にいいですもんねっ」

「……お前、頭だいじょうぶ?」


 わたしが訊きたいことを! わたしの方こそ、訊きたいことをぉ!

 わたしだって、わたしだって、自分の頭がまともじゃないことくらいわかってる! 大混乱して瞳がぐるぐるしているのに、言葉はかってに口から飛びだしていく。


「わたしも、わたしも飲まなきゃなーって、思ってて……思ってたんですけど、あの、それは、おねえちゃんが『おっぱいが大きくなるぞ〜』ってこないだ言ってたし、わたしの胸……あ!! 違っ……あ、あぁ……!」


なにもしてないのに火にくべたように顔を赤くして、すっぱだかを覗かれたように胸を両手で抱え込んだ彼女に、クロセはもう、隠しもせず、大きな大きなため息をついた。


 あ、ダメだ、嫌われた、私……


「牛乳、好きなの」

ぶちぎれるかと思ったクロセは、しかしそれでも、ため息と共に肩の力をぬいて、おざなりな合いの手をさしのべてくれた。

 でもそれはあまりに意外すぎて、「え?」としか返事ができなかった。


 ほんとの事言うと、牛乳はきらいだ。

 あの動物臭い味というか、小学校の味というか……苦手だ。だけどここでそんな事言えるほど、眞子は脳天気ではなかった。なんと言おうか。大好きなんです! と笑ってみせれば、もしかして、お兄ちゃんも、笑ってくれるかもーーーー


「マコちー! 軌道バス来ちゃうよー!」


 後ろから、声がした。

 あっと振り返る、桜の陰から、友達のみやびちゃんが手を振っていた。

 いつも、この桜の木の前で待ち合わせするのだ。彼女はクルミ型のぱっちりした目を細めて、ちょっとにやにやしていた。みやびちゃんは、クラスの友達の中でも、あわあわしている自分を見るのが、一番大好きな子だ。木陰から今までのやりとりを見守っていたに違いない。顔がさらに、あつくなった。


背後でばたん、と扉が閉まる音がした。


振り返ると、まるで最初からそうであったみたいに、大きな門はしずかに扉を閉ざしていた。

いっきに、体の力がぬけた。

 意気消沈して、顔をうつむかせる。あぁ……おわった。

「なーにしてーんのっ?」

みやびちゃんはセミロングの黒髪をさらさらと揺らして、両手を背中に回して跳ねるようにやってきた。いろいろ言いたいことはあったけれど……

「……なんでもない」

しょぼくれてそう言った。みやびちゃんは悪い子じゃない。今見たことをみんなに言いふらしたりする子じゃない。悪気はないけど、ただ楽しんでいるだけなのだ……いや、それって、十分悪気はあるかもしれないけど。

「元気だしなよー!」

みやびちゃんはお嬢様みたいに綺麗な顔してるのに、もう小学生みたいな無邪気な笑顔で、『ぱしんっ』とお尻をたたいた。とびあがって驚いた。みやびちゃんはそれに、ますます声をあげて笑った。


「マコちーさ、ナンパとか向いてないんじゃない?」

「な、ナンパ? ちが――ぜんぜんちがうよーっ」

「ま、ま、まぁさ。学校行きながら、じっくり聞かせてよ」

「話す事なんてないよー……」


肩を落とすマコの背中を抱いて、みやびちゃんはけらけら笑った。近づいてくる軌道バスに向かって歩き出すと、がっくりと疲れがあふれてきた。あぁ、またダメだった。まともに話もできなかった。もうダメだ、完全に嫌われた……


「おい」


ん? と、先に気がついたのはみやびちゃんだった。

彼女につられてふりかえると、いきなり胸の間に、冷たいビンが飛び込んできた。小さく悲鳴を上げて、なんとか受け止めると、それは白く揺れる、牛乳ビンだった。


「もう来んなよ」

大きな門から、腕だけ顔をだして、クロセが手を振っていた。


 ぱたん、と扉が閉まると同時に、軌道バスが背後で止まった。ぽかんと口を開いた眞子は、桜散る道のただ中で、牛乳瓶のひんやりとした冷たさを、胸に抱きしめていた。






「……眞子ちーさぁ」

軌道バスの座席で、眞子はじっと牛乳瓶を見つめていた。みやびちゃんは何か言いたげだったけど、その前に、眞子はきゅっと結んでいた唇を開いて、思い切って牛乳瓶の口をあけた。

動物臭いにおいがひろがった。小さいころは、飲めなかった。先生が給食を残すことにすごく厳しくて、クラスでずーっと一人、牛乳ビンとにらみあっこしてた、いやーな記憶がよみがえる。


 けど、一つ息を吸ってから

 おもいっきり瓶をあおった。


白くて、きんーーと冷たい味が、のどの奥を駆け抜けていった。

顔をもどしたマコは、くちびるについた白いあとを、手の甲でぎゅっとぬぐった。その目は大きく開かれていて、春の優しい日差しが、瞳の中できらきらと煌めいていた。


 また、明日もこよう


「……眞子ちーってさ」

にやにや顔を、ちょっとあきれ顔にして、みやびちゃんが言った。



「つよい子だよねぇ、案外さぁ……」




  

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