act5:懺悔は終末af/a> | ヌ网、ハェ、ォ、エ、ォ、 | ・ ・ク、ヒソ


 次に目を覚した時に感じたのは、遠くに聞こえる太いエンジン音と、背中を小刻みに揺らす振動だった。視界には灰色の天井が見えて、目を動かすと、窓の外を繁華街の色とりどりの景色が流れていた。

「ねえ、訊いていい?」

 身を起こすと、運転席の方から良く通る張りのある声がした。サングラスをした日和が、ハンドルを握っていた。彼女の周りを、速度計やナビゲーションマップを表示した拡張現実ARが、薄い黄色のウィンドウに包まれて、漂っている。交叉点にさしかかると、フロントウィンドウに青色を点灯させた信号のアニメーションが、横切っていった。

 汗でじっとりと濡れていた顔をぬぐった黒瀬は、自分の体から痛みが少し抜けている事に気づいた。「私に処方されてた薬。あなたにあげたの」、微かに振り返った彼女が、口元をもたげてそう言った。痛みは抜けたが酷くけだるい体を、黒瀬はシートに沈めた。それから、視線をさまよわせる。

「ここは……」

住所番号アドレス47xd190、ながれ通り(ストリート)の無人ファミレス――――君、ずっとうわごとでそれ言ってたから、今向かってるんだよ。誰と会うのか知らないけど」

 黒瀬は彼女の顔をじっと見つめてから、ゆっくりと呼吸をもらすと、口を開いた。

「助けて、くれたのか……? 俺、あんたに酷い事をして――」

「コーディって、誰」

 不意打ちだった。

 思わず黙りこくった黒瀬を見て、日和は「やったわ」と、口元だけをもたげたシニカルな笑みを浮かべた。

「キミを驚かせる事ができた」

「……どうして、コーディの名前を」

 日和はくすくすと鈴なりのような笑い声を口に含んだ。

「後ろで何度もその名前を呼んでおいて、よく言うわ。私を前にして他の女の名前を呼ぶひとは、キミが初めてだよ」

 もちろん、冗談だけどね。と彼女はいたずらっぽく付け加えて、後部座席へわずかに視線を流した。黒瀬は自分の口元をおおい、視線をそらす。どうやら、気を失っている間に彼女の夢を見ていたようだ。

 コーディの名を聞いた途端、胸の奥で燃え広がっていた、焦りの熱を思い出す。震えて力の入らない拳を握りしめ、跳ね上がる鼓動をとどめようと、胸に押しつける。

「ただの失恋、ってわけじゃ、ないんでしょ。外側中毒アウターホリックがらみってことは」

 日和の声は穏やかだった。努めてそうしているのが、よくわかった。表面上はまるで興味のない振りをして、でも本当は、黒瀬が苦しんでいる本質を、知ろうとしている。苦しまずにそれを吐き出させるいたわりの言葉を、彼女はよく知っているようだった。そうか、と思った。日和は知っているのだ。この外側中毒アウターホリックというやつを。彼女と自分はまったく生きる世界の違う、境界線のむこう側の存在だと黒瀬は思っていたが、今や、彼女と自分はアウターホリックという一点において、交錯した人生を歩んでいるのだ。

「……あんたは、そうだったのか」

 胸のうずきに、内心喘ぎながら、黒瀬はそうたずねた。日和はまた、皮肉っぽい、乾いた笑みを浮かべる。

「私はちがうわ。お姉ちゃんよ。自殺したの。一年前にね。それがこじれてって、感じ――」

 特に気負った風もなく、彼女はさらりと言ってのけた。そういえば、彼女のゲームワールドにログインした時、彼女は「おねえちゃん」と何度もつぶやいていた。荒縄を首にかけた、人形を手にして。

「それで、キミは?」

 血液型でも訊いているかのような、気軽な調子で彼女はたずねる。黒瀬は、口ごもった。答えたくないと言うわけではなかった。いや、むしろ、外側中毒アウターホリックをよく知る彼女になら、全てを話してしまいたかった。自分の身になにが降りかかり、どんな苦しみを経て、"彼女"と出会い、そして、別れたのか――――この胸の内で暴れ狂う鋭い刃のような激情を、どうか、少しでも和らげて欲しい。

 だが、言葉は口から出なかった。

 わからないのだ。

 自分は、何も、知らない。全ての始まりは、祖父の死だった。その死因を追ってここまで来た。だが、あの時から、何も知らないまま、何もわかっていなかった。驚く程多くの出来事と出会い、驚く程多くの経験を経たはずなのに、何も、知らないまま。

 コーディ。

 一ヶ月以上もの間、彼女と過ごしてきた。それこそ、頭の中にいたのだから、24時間ずっと一緒に。それなのに、彼女の事は何一つ知らないままだった。いったい、この数十日、俺は何をしていたんだ? 突然の出会いに困惑しながら、少しは理解し合えたつもりでいた。だが、突きつけられたのは、突然の別れ――――

「わからない」

 どれだけの間、日和は沈黙を残していてくれたのだろうか。ようやくこしだした言葉は、かすれきっていて、その上、情けない事に、微かに震えていた。

「俺は、ばかだ……何も分かってないのに、何でも知ったような口を利いて……なんにもわかってなかった、なんにも、なんにも――――」

 胸の内で渦巻いていたどす黒い感情が、自分への怒りの熱に変わっていくのが分かった。奥歯を噛みしめ、拳を握りしめる。自分の愚かさが、許せなかった。のうのうと生きているこの身を、ぐちゃぐちゃに握りつぶしてやりたい――――

「知りたかったんだ。あいつコーディのこと――あいつが俺を、どんどん知っていく。それなのに俺は、弱くて、自分勝手で、情けない、何も知らないただのガキのまま。だから、あいつを知ろうとしたんだ。こそこそ隠れて、嗅ぎ回って――――あいつが隠したがって事を知ろうとして、それで」

 黒瀬の鼻から、血が垂れだしていた。震える、瞳孔。彼自身は、まるで気がついていない。

「それで、俺は、あいつを――――傷つけたんだ」

 支離滅裂な言葉の羅列だった。だが、黒瀬にとってそれは真実だった。自分の言葉が自分を傷つけているのは分かっていた。この意味不明な告白を聞いた日和が、心底自分を軽蔑するであろう事も。だけれど、そうして自分を断罪しなければ、この世にこうして生きている事すら、許せる気がしなかった。


 車は静かに、赤信号に捕まった。


 サイドブレーキを引いた彼女は、ただ呼吸を繰り返し、それから、棘を入念に抜いた言葉を、後部座席へ置いた。

「キミがした事は、人間だったら誰でも、する事だよ。誰かを知ろうとする事も、知られる事に怯える事も、誰だって、すること」

 頼むから、慰めの言葉なんて、掛けないで欲しかった。沈黙意外のどんな言葉も、今は聞きたくなかった。だが、彼女のいたわろうとする心まで否定したくなくて、黒瀬は、必死に口をつぐんだ。

「人に関わる事に、怯えすぎてちゃ、何もわからないまま、誰にも知られないまま、一人で生きるしかなくなるよ」

「だから、そういう人間なんだよ、俺は」

 あふれ出した言葉には、どうしようもなく、どす黒い熱がこもっていた。

「薄暗い、陰の世界の人間で……だから、ずっと一人でいれば良かったんだ。あの屋敷の外になんか、出ないで、じっとしていれば、よかったんだ。バカだったから、わからなかった。昼の世界で、いつか生きられると、思って、それで、あいつを、傷つけた――――」

 日和の答えはなかった。対向車線を走る車のエンジン音だけが、無関心そうに車内に流れていた。

「私ね、替え玉ゴーストアクトなんだ」

 車が再び走り出した時、日和が口にしたのは、まるで脈絡のない話だった。

「キミはぜんぜんアイドルに興味がないみたいだから、わからなかったみたいだけど――。springの本名って、桜木 日和じゃないんだよ。桜木 小春――――私の、お姉ちゃんの名前。ちょっとセルネットで調べたら、すぐにわかることなんだけどね」

 床に注がれていた黒瀬の目が、はっと日和に注がれた。彼女の口元にはもう、貼り付けたような乾いた笑みは浮かんでいなくて、鏡を見つめているような、静かな表情をしていた。

「底抜けに明るくて、誰からも愛されて、ちょっと抜けてるけど、いつも自由に振る舞っている――――お姉ちゃんはそういう人だった。演じてもいないのに、アイドルって感じだった。私とは正反対だったな。実際、アイドルになったらすぐに頂点までのぼり詰めた」

 車は、長いトンネルの中に入った。

 車内に、さっと暗闇が覆い被さった。薄暗い、くすんだオレンジの光が、音を立てて流れ過ぎていく。光を失った運転席。時折フロントガラスで褐色の輝きが煌めくと、微かに彼女の表情が見えたが、その感情までは、読み取る事が出来ない。

「だから、自殺するなんて、思いもしなかったな」

 くすんだオレンジの照明は、黒瀬の表情も、撫ぜるように照らしだす。言葉が出ない。

「今でも、死因は外側中毒アウターホリックだったって事になってる。お父さんも、お母さんも、事務所も、そう言ってる。だけど、そんなはずないって、私にはわかる。あんなに輝いてたお姉ちゃんが、どこか外国の、小さな貸部屋レンタルサーバーで――明かりもろくにない、あんな所で――首を吊ってた――太い、縄で――誕生日だったの―――わたし達の―――」

 黒瀬の脳裏には、彼女が作り出したという、あのゲームワールドの薄暗い世界が浮かんでいた。真っ暗な部屋の中で、たった一人、泣き崩れていた彼女の姿。

 ふぅ、と彼女が小さく息を吐く音がした。

 バックミラーに、顔をさっと手でぬぐう日和の姿が見えた。

「――――私は、助けてって、言って欲しかったな。本当はとっても苦しいのって、教えて欲しかった。でも、できなかったんだよね。それがきっと、お姉ちゃんの優しさだったんだと思う。私も、みんなも、元気で明るくて、悩みなんて一つもないお姉ちゃんの笑顔が、大好き、だったから」

 トンネルが終わり、視界が開けた。

 その先にあったのは繁華街だった。道の両脇を睥睨するように高層ビルが建ち並び、青い空をその巨体で遮っている。その壁面を一面覆った大型ディスプレイが、大音響の音楽とともに、きらびやかな映像を映し出していた。"spring"のコンサート風景だった。現実拡張ARで会場をまるで別世界のように塗り替え、極彩色の光が飛び交う。観客達はその世界観に酔いしれ、歓声を上げて一体化している。そしてその中央で歌い踊るのは、晴れやかな表情のspringだ。

「知ろうとしないと、手遅れになる時もある」

 明るい、日の光に照らし出された彼女の表情は、曇ってはいなかった。どこか凛とした表情だった。

「私は手遅れになってから、こうして、お姉ちゃんの替え玉ゴーストアクトを演じて、少しでもお姉ちゃんが思ってた事とか、考えてた事とか、体験した事とか、知ろうとしてる。でも、やっぱり手遅れだよね――――波に洗い流された、砂浜に描いた絵をなぞってるみたい。どんなに演じても、私は、お姉ちゃんにはなれない」

 知ってる? と軽い調子で彼女は訊いた。

「springの人気って、昔よりも、もうずっと、落ち込んでるんだ。キミも、知らないでしょ」

 また、いたずらっぽく笑みを浮かべて見せた。ようやく、黒瀬にもわかった。彼女は、つらい時、苦しい時に、笑顔になる。彼女の笑顔は、彼女の本当の顔を隠す、仮面マスクなのだ。きっと、彼女の姉がそうであったように。

 それから彼女は、ふっと笑顔をかき消して、静かな声で言った。

「私、君にゲームから追い出された時、思ったの。『自分の人生を生きてみようかな』って」

 ふっと、彼女は窓の外に目をやった。流れゆく街並みは、代わり映えしないspringの晴れやかな笑顔であふれていた。街道をあるく人群れは、それを横目に、色とりどりの拡張現実ウィンドウを広げて、華やかな雑踏を刻んでいる。

「見てよ、この世界。嘘、嘘、嘘――――全部作り物。拡張現実ARの看板で空はいっぱい。みんな自分の生活を着飾って、アウターワールドでひけらかしてる。ビルにならんだディスプレイは、お金を儲けたい誰かが作ったキレイな景色ばっかり。そこには私が映ってる。私じゃない、ウソみたいな私が」

 不意に、彼女はおどけて「なかなか詩人でしょ」とピンク色の唇を傾けて見せた。その目はすこしも、おかしそうじゃなかった。

「私、世界をとりまくウソの一つになるところだった。でも、世界は変わった。私はウソつきな世界に押しつぶされて死んじゃうはずだったけど、私は生きてる」

 だれのおかげかな? そう言って彼女はフロントウィンドウに目をうつした。黒瀬は、なんだかいたたまれない気持ちになって、ちいさく唸った。

「私、世界がこわかったんだと思う。私のおねえちゃんを奪っていった世界が。だけどキミの目を見たとき、『俺と同じだ』ってキミに言われたとき、私、わかった。一人じゃなかったんだって。みんな、自分以外の、思い通りにならない世界に怯えてる。量子ネットじゃみんな、みじめな自分を笑われないように、一生懸命自分を取りつくろってる。いじめられたり、孤独だったり、そんな世界から逃げ出したくて、アウターワールドに閉じこもってる。あそこには、理想があるから。なりたい自分があって、安心できる世界があって……でも、全部嘘。嘘に取り囲まれて、いつの間にか自分自身も嘘になる」

 真正面をじっと見つめて語っていた彼女が、ちらりとこちらに目を向けた。ぴたりと、目が合う。なぜか頬が熱くなった。彼女の瞳はいたずらっぽく笑っていた。それはディスプレイの笑顔とは違う。目の奧のそこが輝いていて、まっすぐに彼女の高鳴る気持ちが映っていたから。

「私ね!」と、いきなり彼女は両手を天井に伸ばした。

 ぎょっとして、思わず黒瀬はハンドルをつかむ。

「私、そんな世界、全部けっとばしてやるんだ!」

「お、おま――俺、免許もってない!」

「つかまえた!」

 は? と振り返った顔に、彼女が両腕をいっぱいにひろげて、おおいかぶさった。なめらかで、やわらかい肌が、ぎゅっと体を抱きしめる。 息が詰まるくらい、黒瀬の体が痺れ上がった。

「私、本当の世界を生きる。本当の私を、本当の世界を、生きるんだ」

 その背中を、彼女はゆっくりと、やさしく、撫でた。やわらかさを感じるように、黒瀬の顔に頬をよせ、くしゃくしゃにほおずりする。

「キミのした事って、実はすごく勇気のいる事だったと思うよ。ただ、やり方が間違っていただけで――――自動運転よ」

 そう言われて、黒瀬は慌ててハンドルを手放した。目をまん丸にした彼は、はぁはぁと息を息を荒くして、シートに背中を押しつける。springは笑っていた。サングラスをとって、眉尻をさげてケラケラと笑った。「ほんとにウブなんだね」。

 車は速度を落とし、脇道にそれた。そこにあったのは、かつて黒瀬がジョーと密会し、そしてコーディについて、語った無人ファミレスだ。

「キミはぜったい、コーディって子と話さないとだめだよ。このまま別れちゃ、絶対だめ。真正面からぶつかって。私と一緒に、戦おう。この本当の世界を、生きるために」

 駐車場に車を止めた日和は、そう言いながら、黒瀬に無針注射を手渡した。胴体部分のケースに、薬品名が書いてある。

「発作が来たら使って。でも急いでね、薬の効果は長くは持たないから」

 手の中に押し込められた、無針注射を見つめる。これを受け取るだけの価値が、自分にあるのだろうか。

「日和、俺」

「大丈夫」

 どうしても、無針注射を握ることができない黒瀬の手を、白くてしなやかな日和の手が覆った。顔をあげると、皮肉っぽくも、乾いてもいない、でもPVで見せるような軽々しくもない、彼女の本当の笑顔がそこにあった。微かに持ち上がった口元、僅かに細められた目。濡れたような瞳に、明確な意思が据えてある。

「やれるよ――Ejecterなんでしょ、キミは」

 この時初めて、黒瀬は排出者イジェクターという呼び名と、自分の存在が、ぴったりと一致したように感じた。どこか輪郭のぼやけていた自分と、アウターワールドあの世界の自分が、重ね合わさり、明確に、"ここ"に存在していた。

 手中にあった、日和から渡された無針注射を握りしめる。

 それに、と日和は何か言おうとしていたが、黒瀬の目を見ると、少し驚いたように瞼を押し上げてから、表情をもどして、うなずいた。

「ね、ちょっと――」

 黒瀬の頬に手を当てると、運転席から身を乗り出して、黒瀬の頬に唇を押しつけた。とっさに事だったので、すっかりされるがままだった。彼女の唇は、思ったよりも、ずっと柔らかかった。頬に温もりを、鼻先に甘い果実のような香りを残し、彼女は言った。

「これ、嫌がらせだから」

「は?」

「行ってらっしゃい、イジェクターさん」

 黒瀬は動揺して、頬が熱くなるのが分かったが、彼女の軽々しい表情から、からかわれたのだとすぐにわかった。表情をただし、ありがとうとだけ言付けると、車から降りて、ファミレスへ向かった。

 その背をじっと見つめていた日和は、開いたウィンドウに肘をついて、つぶやく。

「……それに、大好きなんでしょ、その娘コーディのこと」






 日和の乗った車が駐車場から離れたのと入れ替わりに、黒塗りの乗用車セダンが乗り込んできた。それはゆっくりと、中を観察するようにファミレスの周囲を巡った後、店内がよく見える角度の位置に、エンジンを掛けたまま停車する。

対象パピィがポイントに入った』

 車の窓がゆっくりと開いた。イヤフォンを耳に押しつけ、運転席の老齢の男は、じっとファミレスの中へ視線を注いでいる。金縁眼鏡の老眼鏡に、落ちくぼんだ目、鋭い眼光、シワが深く刻まれた顔つき。そこに黒瀬がいたのなら、この男が知り合いである事に気づくのに随分かかっただろう。なにせ、この男が祖父の死の謎を告げに来たのは、一ヶ月以上も前の事だ。

対象2コーギーに接触』

 男の耳元で、イヤフォンがわれた声でささやく。

『まだ消すな。待機しろ』

『本当にやるのか? 本社のバックアップがないが』

『問題ない。合図で消せ』

 低く、抑揚のない会話を聞き遂げた男は、コートの中に手を突っ込み、そこから黒金の回転式拳銃リボルバーを取り出した。弾の装填を確認すると、音を立ててシリンダーを銃身にたたき込んだ。




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