act3:三叉路の喜劇―Coppelia―[後編]

 そうして、彼女がはりきって過ごした一週間は、黒瀬にとってあっという間に過ぎていった。毎日、ただ単調にランニングや通信教育、それに食事といったルーチンをこなしていただけの黒瀬には、日々新しい事に挑戦するのは精神的に酷く疲れた(とりわけ料理は実際に怪我もするので一番気が重かった)。


 この先の未来の事や、過去の出来事、それに屋敷にこもって犠牲にしてきたこれまでの時間ばかりを想ってもんもんとしていた夜も、今では疲れであっという間に眠ってしまう。外の世界って、こんなにも一生懸命にならないと生きていけないのか? ――――とてもやっていけそうにないと、黒瀬は辟易へきえきしていた。


 そんなある夜、珍しく目がさえていた黒瀬は、ホットココアでも飲んで落ち着こうと階下に向かった。昼間、とんでもない目にあって神経が高ぶっていたのだ。コーディが呼んだヘアアーティストだかなんだか知らないが、ゲイ臭い上に常に興奮気味の男が、黒瀬の髪を散々いじくった挙げ句、彼の精神をひっかきましていったのだ。いわく「汚い髪で芸術的じゃない」だの、「太陽を浴びてないからゾンビみたいな顔色だ」だの……そうまで言ってできあがった髪型を見たら、ただのさっぱりしたショートヘアーだったので黒瀬は怒り狂いそうになったが、仕事を終えると男はさっさと引き上げていった。きっと、客を怒らせるのには慣れているのだろう。アーティストというのはどいつもこいつも難儀で迷惑な奴らばかりだ。コーディが何か言っていたが返事もせずにふて寝して、今に至る。


 階段を下りていると、リビングに明かりが灯っているのが見えた。消し忘れたかと思って目を凝らすと、人影が見えた。コーディが、椅子に座って、首をひねりながらウィンドウを操作するような仕草をしていたのだ。何か作業をしているらしい。

 また見つかったら姿勢を正せだの、はっきりと喋れだのうるさいに違いない。最近はまるで口うるさい教育係だ。黒瀬はこっそりキッチンに行き、手短にココアを作ってさっさとひきあげようとした。

 だが、途中でふっと思案顔になると、難しそうな顔でしばらく悩んでから、リビングを振り返った。そこにいる彼女は、疲れを知らぬ英雄ヘーロースというわけでもないらしく、濁った目をしぱしぱさせている。

 テーブルの上に黙ってココアを置いた黒瀬を、コーディぱっと見上げて、小さな唇を半開きにしてから、きゅっと結んだ。濁っていた瞳が、透明感のあるエメラルド色に塗り変わる。

「飲めませんよ。私、現実の事象には関われないんです」

 黒瀬は今更思い出して、気まずそうに口元を蠢かせてから、「俺のだよ」とぶっきらぼうに言って手元にたぐり寄せた。ふーふーと冷まして、「何やってる?」と誤魔化すように尋ねた。

「デートプランを。彼女が全部決めてくるでしょうけれど、きっとあなたの障害については考慮していないでしょうから。あまり遠くなくて、落ち着いた場所を探してるんです」

 ココアに口をつけていた黒瀬は、驚いたように彼女を見た。それから何か言おうとして口を開き、結局何も言わずにカップを置いた。多分に迷惑な面はあるが、彼女はどうやら、彼女なりのやり方で自分の事を考えてくれているんじゃないかと思った。誰かにそんな事をされた経験がないので、本当にそうなのかは、わからないが。でも実際、遠い場所は黒瀬の足ではやはり辛いし、明るく華やかな場所は針の筵にいるみたいに落ち着かない。彼女はそれを、知っている。

「(……変なやつ)」

 疑問が頭をもたげたが、そんなことを直接聞く程、黒瀬も馬鹿じゃない。タマネギの皮を剥いて中身を見つけようとするようなものだ。答えがない問いは、つまらない事実だけしか残さない。うわべだけの答えなんて、虚しくなるだけだ。

「……なぁ、なにかお前にしてやれる事ってないか」

 気づくとそう口走っていた。言ってから、自分が随分馬鹿らしい事をしてると気づき、気恥ずかしくなった。彼女はOS、機械なんだぞ? 車の音声案内を口説くようなものだ。馬鹿馬鹿しい。また無表情に一蹴されるんじゃないかと、伺うように彼女の顔を見上げた。

 コーディはじっとこちらを見つめていた。

 何を考えているのだろうか、彼女は何も口にせず黙って黒瀬を見つめ続け、黒瀬も彼女から目が離せなくなった。しばらくして、誤魔化すように黒瀬はココアに口をつけ、明後日の方向を見た。

「……そうですね」

 コーディもまた、手元の作業に視線を戻し、

「強いて言うなら、デート」

 何か言いよどむみたいに、彼女の言葉が途切れ、黒瀬はふと顔を上げた。

「――――行ってきてください。必ず。私の計画を無駄にしないよう」

 いぶかしげな顔をしていた彼が、それは、と言いよどむと

「絶対ですよ。それが一番、いいですから」

 返事をせずに、黒瀬はカップをテーブルに置いた。波紋が広がって、それから、自分の顔が写った。毎晩顔を洗う時に洗面台の鏡で見る表情とは違う。緊張感が薄れた、気の抜けた表情をしていた。自分をいつも包み込んでいた、慢性的な不安感のようなものが、抜け落ちているのに気づく。泣き出したくなるような、いたたまれないような、自分がこの世界に存在してはいけないような、そんな恐れが、今この瞬間だけは、朝を迎えた霞のように消え去っていた。

「(……ココアのおかげか)」

 別に他に心当たりなどないのだから、そうに違いない。むっと口をへの字にすると、またもう一口、カップをあおった。




 20年ほど前から、地下街の建設はブームになっていた。40年前の極東戦争以来、都市開発は常にミサイル攻撃を想定していて、シェルターとして兼用できる地下街の建設は政府から奨励されていた。ブームを経た今では、地下街は今や地下にあるもう一つの王国だ。居住区もあるし、学校を始めとした公共施設も揃い、場所によっては観光地だってある。地上の文化に縛られない自由な文化発展を遂げていて、地上ではアングラ扱いの文化が地下ではメインカルチャーとなっているのも珍しくない。

「……帰りたくなってきた」

 指定第九地区の地下街は他の地区の地下街に比べて電子的な発展が進んでいる。天井を覆う透過スクリーンは地上と全く遜色ない青空を映し出し、軒を連ねる店舗は全面フィルター張りでそれぞれの店舗の映像宣伝を常に流している。呼び込みの店員はホログラムだ。ディスプレイやフィルターは艶があるので、それが地上と地下を区別する一つの区切りになる。地下街全体が艶やかに滑らかな光をたたえているのだ。地上と違い、どこか精巧な 作り物めいている。

 黒瀬は辺りをきょろきょろしながら有名メーカーの並ぶアウトレットモールの通りを歩いていた。時刻は朝十時。照明は居住区以外は常に一定で、乳白色の柔らかい光が、雑踏とそれに紛れる黒瀬を照らしている。


『何言ってるんです? あと十五分ですよ、急いでください』


 彼の傍らで宙に浮いたコーディが急かす。彼女はシックな黒のショートドレスにアップロールの髪をしていて、なぜか彼女の格好の方が気合いが入っている。


『あんなに起こしたのに、起きなかったらですよ。あれだけ早くねなさいと言ったのに、一体何を考えてるんです?』

「……いや、昨日寝れなかったんだよ」

『言い訳しないで』

「いや、言い訳とかじゃ」

『スピード落とさないで。走って』


黒瀬の方は流行だというスーツを着崩したようなジャケットにミリタリーパンツである。先ほどショーウィンドウに反射した自分の姿を見たかぎりこの上なく違和感を感じたが「そういうものです」とコーディに強く押されて閉口したばかりだ。



 十分もすると、黒瀬はガラスディスプレイのヒダがドレスみたいに折り重なったオブジェが中央にある、噴水広場に出た。コーディが言うには、待ち合せ場所はここだ。他にも待ち合せしている人がたくさんいて、そのほとんどがカップルだった。カップル。意味もなく赤面しそうになって、黒瀬は顔を片手で顔を覆った。


『なんです?』

「いや……汗、かいちゃったから」

その顔は実にしれっとしたものだった。コーディは言外に「ふーん」という目をして、ジロジロと上から下まで彼に目をやるのだった。

『それより背を正してください。下から睨むようによそを見ない。汗をふく時はハンカチで。デート中にそれ、しないでくださいよ』

「…………」

『なんです?』


本当に、うるさい。

ほんとうに、ほんとうに、うるさい。

これまでも何度となくうるさいと言ってきたが、今日ほどうるさいと思った日はない。以前は"家庭教師気取り"程度だったが、今や完全に"口うるさい教育係"気取りだ。そのうちムチを取り出してひざまずくのを要求してくるだろう。


『少し遅れるそうです』

 柱にもたれかかった黒瀬は、それを聞いて少しほっとした。コーディのおかげで確かに少しは外への拒否反応は薄れた。それでもこの辺りの地下街の華やかな雰囲気には慣れない。ここに今日和が来たら、声がひっくり返るに違いない。早鐘を打つ心臓に拳を押しつけて、なんとか落ち着こうとする。

 そうして十分も経った頃だろうか。不意にコーディが傍らに現れ、黒瀬の隣で壁にもたれ掛かった。

「……なんで実体化してるんだ?」

 最近気がついたのだが、彼女はユビキタス機能を有している人間になら見る事も、触れる事も出来るように体のモードを切り替えれるらしい。普段は薄いブルーの半透明で見えているが、この状態になるとはっきりと見えるようになる。手を伸ばせば触れられるし、他の人間にも見えているはずだ。黒瀬はこれを勝手に実体化と呼んでいた。

「お暇なようでしたから」

 コーディは答えになっていないような事を言う。思うに、この状態で日和が来たらまずい事になるような気もする。だからといって、さっさと消えろと言う気にもなれない。二人は黙りこくって、刻々と色を変える噴水のオブジェに照らされていた。そのうち、コーディは髪を整えたり、手をすりあわせてみたり、うかがうようにクロセをちらちらと覗き見たりし始めるが、クロセがそれに気づくことはなかった。ただぼんやりとした顔で、『このまま何もない時間がずっと続けばいいのに』と下らないことを考えていた。

奇しくも、同じ事を"考えている"者がすぐ近くにいたのだが、彼に知る由もない。

しばらくすると、他のカップルが次々と再会を果たす中、二人はほんの一歩足を踏み出せば肩が触れるくらいの距離を保って、まるで他人のように、視線が交錯しないよう、明後日の方向を見つめていた。

「……あ」

 彼女が不意に顔を上げた。辺りの照明がふっと落ちて、突然黒瀬とコーディ以外の人の姿が見えなくなった。真っ暗闇の中で、二人は取り残される。ふと、暗闇でぱっと真っ白な光がはじけた。光の粒子が小さな羽の生えた人間……妖精の姿に変わって、辺りに煌めく色とりどりの光を振りまく。地面に落ちたそれは種となって芽生え、一面を美しい花園に変えた。

 光の芸術だ。地下街の落書きとも言える。時々こうやって、誰とも知れないアーティストが液晶パネルをハックして演出するのだ。商店街のガレージにスプレーで落書きするようなものだが、地下街の人々はむしろこの『電子の落書き』を歓迎していて、偶然花火に居合わせたみたいに喜ぶ。辺りから歓声が聞こえた。その時、不意に誰かに手を捕まれた。

 電撃が走ったみたいだった。

 暗闇に遮られた五感が、指先の触覚を鋭敏にしていたのかも知れない。張り詰めた弦が微かな振動に共振するように、指先から走った感覚が、埋没した記憶にさざ波を立てた。その手の感触は、記憶の中に転がっていた――――ずっと小さな頃、不安に怯えていた時はいつも、この手の感触があった。小さくて、冷たい手の感触は、荒んだ心をいつも癒してくれた。いじめっ子にいじめられた時も、必死にかけっこの練習をして倒れた時も、健常者よりずっと上手に木に登ろうとして怖くて降りられなくなった時も――――

「(俺はこの手を、知っている……)」

 ぱっと、暗闇が晴れた。

 まるでそれまでの出来事が夢だったみたいに、あっという間に世界が日常にまみれた。カップル達が拍手喝采する中、黒瀬は自分の手を見つめた。動かない、感覚のないはずの左手に、添えるように小さな手が置かれていて、碧い瞳のコーディが、じっとこちらを見上げていた。何か、言葉では言い尽くせない、膨大な思いがその瞳には描かれていて、思わず、息が詰まった。

「コーディ――お前」

「来ました」

 彼女がまばたきした。目の輝きはぬぐい去ったように消え去り、代わりに黄金色の光が目の奥で煌めいた。

「アウターホリックです」  

 深海に潜む人魚が身をひるがえしたみたいに、彼女の瞳から、『思いの影』が消えた。手を伸ばせば間にあったかも知れないのに――なぜかそんな、後悔の念がふっとわき上がった。

「デートは中止ですね」

「あ……あぁ、うん」

「彼女には伝えておきます」

 何か言おうと思ったが、何を言えばいいのかわからなかった。よしんば何か言ったとして、意味のある言葉が返ってくるとは思えなかった。

「インサート」

 世界が暗転する。





























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 Zola's backstage

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 認証コード(公開鍵)を確認中..................『マスターキー』を受け付けました。

 

*危険!!*

 このホストから悪意あるウィルス攻撃を受けたという情報があります! 危険なホスト(code:A067)に指定されています。接続を続行する場合は、リスクを確認し、十分な対策を立ててからアクセスしてください。


*警告!!*

 厚生省電網監査委員会より警告が発令されています。本サーバーの管理者は電子風営に関する法律7条に規定された「危険な風営行為の禁止」に抵触したサーバー運営を行っています。本サーバーにおける違法行為で、脳に重大な損傷、後遺症が残る場合があります。全てのアクセス者の情報はセルネットにおける公情報管理法に基づき、許諾無く収集され、公安活動に利用される可能性があります。また、その身分を偽ってアクセス情報を改竄し、攪乱した者には、「特別な情報の取り扱いに関する法律」に基づき、処罰の対象となります。適法可能性は、最大の場合死刑に該当します。



 認証・あなたは18歳以上ですか?

 >>>>はい

 >>>>いいえ
















 一面、真っピンクだった。

 降り立ったのはどこかの港のようだった。いつの間にか乗っていたピンクのネオンだらけの船から降ろされた黒瀬は、同じくピンクのネオンでいっぱいの島に行き着いた。港から島を望むと、高層ビルが連なっている地区や、洋風の館や城がそびえる地区、アジア風のど派手な寺のような建物が並ぶ地区、ピラミッドが建設されている地区、それに一見すると温泉街のような地区もある。雑多な文化が小さな島にぎゅうぎゅう詰めに押し込まれて、それを露骨に如何わしいピンク色で覆ったみたいだった。

 港の周りでは様々なコスチュームに身を包んだ女達が、楽しそうに群れて歩き回り、船から下りた男達に時折話しかけている。よく見ると、影の方ではやはり半裸みたいな格好をした男達もいる。薄手のドレスや、ネグリジェ、ボンテージや水着に薄いカーディガンを羽織っている女が多く、時折セーラー服の格好や、メイド服のコスプレした連中も目に入る。目を背けたくなる光景だが、黒瀬の腰ぐらいまでしかない小さな子供の姿もあった。

「はぁい」

 突然足下から声をかけられ、黒瀬はぎょっとした。見ると、堤防に上半身をのせた水着の女が、艶めかしい笑みを浮かべながら手を振っている。どうやら海水浴をしていたらしい。海はいかがわしい桃色に煌めいていた。

「ただの女よりね、気持ちよくできるよ」

 唐突にそう言って、ぽかんとしている黒瀬の前で、女はぐいと体を堤防に起こした。叫びださんばかりに驚いた。彼女は堤防に体を預けると、くてんと身を転がす。彼女の足下が、海水を弾いてびちびちと音を立てる。彼女には足がなかった。代わりに、ヌルリとした魚の尾が生えていた――――人魚だ。

「海の底は気持ちいいよ」

 人魚はそう言って黒瀬の手を取ろうとした。後ずさった彼の背が、誰かに当たる。

「初めては普通の女がいいわよね」

 突然抱きすくめられて、胸に顔を埋める。慌てて自分を抱きしめる女を突き放すと、むき出しの胸を強調するボンテージに身を包んだ女がくすくすと笑っていた。その強調された胸は、一体何がどうなってそうなるか――――乳房が三つ、連なっていた。

 立ちすくむ黒瀬の肩を誰かが掴んだ。ぎょっとした。この空間は、艶めかしくもむき出しの欲望が無軌道にうろついているようで恐ろしかったのだ。

「……行きましょう。時間がありません」

 コーディだった。彼女はいつものミリタリーコート姿で、小さな胸を静かに上下させながら辺りを見渡している。その体が、ふっと青く染まった。宙に浮く。

『アウターホリッカーは島の中央部です』

「お前、何とも思わないの」

『何を思うんです』

 彼女は平静そうに言った。動揺どうようしているこっちがバカか……あるいはうぶみたいで、途端に恥ずかしくなった。それを誤魔化ごまかすためというわけではないが、彼女にだって少しは恥じらいの気持ちがあるはずだと真面目に再考し直した。

遠回しにそれを確認してみる。

「今回は、衣装変えないの」

 前を行く彼女の進行スピードは変わらなかった。返事はない。無視されてしまった。それならそれで良いかと思い、歩き続けていると、ふいに彼女が静止した。勢い余って彼女の横についてしまった黒瀬はその顔を見てぎょっとした。彼女は鼻の上にシワを寄せて、これまで見た事無いような、ドブネズミかゴキブリか――――あるいはアダルト本をこっそり立ち読みしているクソガキでも見るような目をして言った。

『何です?』

 とげとげしいその言い方に、黒瀬は何度か口をぱくぱくと開閉してから、言った。

「…………いや」

 彼女はふん、と鼻でもならしそうな勢いで歩き出した。黒瀬も、おそるおそるその後に続く。

『本ゲームのクリア条件は"正しい選択をしてトゥルーエンドを見る事"です』

「トゥルーエンド? 選択ってどういう事――――っていうか、怒ってないか?」

『プラトニックセレクト呼ばれる"全ての事象は二つの選択に細分化される"という思想に基づいてこのゲームワールドは作られています。選択とはこの世界で取り交わされる選択肢を一つ選び取る事です。ここでは全ての選択がなんらかの結末に結びついています。当然、誤った選択を繰り返せばゲームオーバーもあり得ます。怒っていません』

「選択って何を? わざとややこしく言ってるだろ。怒るなよ、あやまるから」

『選択とは全ての選択です。ここでは人生や人との関わりをノンプレイヤーキャラクターNPCとのやりとりを通して仮想的に再現しようとしています。単純な挨拶あいさつ社交辞令しゃこうじれい程度ならプレイには軽度の影響しか与えられませんが、時折発生する重大な選択をあやまると即座にゲームオーバーになる可能性もあります。あやまるならお好きに』

「ごめん」

『何がです』

「…………」

『結構。いいですか? このゲームでは選択は慎重に行ってください』

 コーディはすっと細めた眼で振り返る。

『私がアウターホリッカーだったら、今のであなたはゲームオーバーでしたよ』




「イジェクターだな」

 嬌声があちこちから漏れ聞こえる通りを、客引きを避けながら何とか抜けていると、突然肩を捕まれた。振り返ると、ザイルのような細いラインが編み込まれたラバースーツを着た女が、カービンライフルを抱えてこちらを睨んでいた。全身をぴったり覆うアンダーウェアの上に、乳房と局所を避けるようにラバースーツが体を覆っている。

『……人工筋肉です。手を離すまで動かないで』

 コーディが忠告する。

『動けば殺されます。そういう、"重大な選択"に設定されています』

 黒瀬の周囲を、同じような格好をした女達が取り囲む。黒瀬は自分の肩に置かれた手と、眼光鋭い女達を見比べて、口に出さずに『言う』。

「ついて行くか、殺されるか意外の選択肢はないか? "殺す"とか」

『……このサーバーは違法な性行為を行うための抜け穴セキュリティホールだらけです。そこを突けば、敵が用意した選択肢の外――"第三の選択肢"を選ぶ事も可能になります。ですがそうした途端とたん、アウターホリッカーはセキュリティホールを閉じてしまうでしょう。つまり』

「――――チャンスは一回、か」

 黒瀬の言葉に、コーディはうなずいて見せた。

「主人が呼んでいる。来てもらうぞ」

 黒瀬は辺りを取り囲む女達を予断よだんなく見回してから、舌打ちした。

 彼女たちにせき立てられるように連れてこられたのは、島で最も高い丘にして中央に位置する、教会だった。もっとも、教会の尖塔に掲げられた十字架は上下逆向きだし、染みだらけの巨大な扉には牛頭の骨がつるされていて、そもそも教会自体が真っ黒に染め上げられていて、とても清廉潔白な神をあがめる場とは思えない。邪悪な者を崇拝する教会だ。煉瓦造りの中の通路は薄暗く、窓の外から差し込む、赤い月の光だけを頼りに歩いた。

 たどり着いたのは広大な講堂だった。説教を垂れるはずの台には青い炎に焼かれる聖書が踊っていて、十字架を背にしたマリア像があるべき場所には、赤黒い十字架の彫られた手足と首を切り落とされた胴体が鎮座している。

『アウターホリッカーです』

 コーディがささやく。彼女の視線を追うと、講堂のど真ん中に置かれた長大な縦長の卓の先で、一人の女がふんぞり返って、足を卓の上に投げ出していた。小柄な女だ。いや、ほとんど幼女と言ってもいい。未発達な体は鈍い銀色の装飾品に覆われている――が、それは胸と股間を最小限におおっているだけだ。投げ出した足は蛇がのたくったようなブーツに覆われていた。銀色の髪は軽いウェーブを描いて彼女が手にした真っ赤なリンゴに滴っている。長く鋭い爪が慈しむように紅いリンゴをさすり、どす黒いルージュの引かれた唇が、あでやかなリンゴの表面に這う。

「人に渦巻くあらゆる欲望は、全てこいつから始まったんだ」

 顔を上げた少女は舌を這わせたリンゴにかじりつくと、子供には似つかわしくない悪意に満ちた笑みを浮かべて、黒瀬にそれを放った。卓を滑った赤い固まりが、黒瀬の前に滑り込む。密が詰まってそうな、黄色いかじり跡が、黒瀬を見上げて止まった。

「遅かったなイジェクター。ここは欲望が支配するみにくはかない世界。君が現れるのを待っていた」

「……お前を排出イジェクトする」

 少女は高らかな哄笑を上げた。甲高い、子供の笑い声が講堂に響いた。

排出イジェクト? 私を? 愚かな……君がイジェクトに来たのではない。私が君を招いたのだ。これは罠だよ、イジェクター。私というアウターホリッカーは甘い甘い禁断のリンゴさ。かじりついたが最後、君は蛇の思うがまま……」

 彼女はそう言って、舌をぺろりと出した。真っ赤なそれは、先が二つに割れていた。うっと黒瀬は息を詰まらせ、目を細める。

「さぁ、席につきたまえ。交渉を始めよう」

 ……どうやら、彼女の言う"交渉"というのが、ゲームの始まりという事のようだ。

 席に着くのは簡単だ。だが、それは相手の用意したステージに上がるということになる。彼女と、彼女の周りでカービンライフルを手にした女用心棒に視線を巡らせる。幼女ガキは問題ない。女用心棒も、ゲームに備えてライフルの銃口を下げている。これならオーバークロックの高速処理で、用心棒達がライフルを上げる前に幼女を殺せるだろう。"第三の選択肢"を使うチャンスだ。

 黒瀬はコーディに目をやった。彼女はうなずき、次の瞬間、腰の裏にずっしりと重い感覚が現れる。手をやると、そこに冷たい黒金の感触があった。拳銃だ。引き抜くと同時にアウターホリッカーの頭へ引き金を引く――――難しい事ではない。両手さえ使えれば、正確に狙いをつけられる自信はあった。周りの武装した女達はまだ気がついていない。余裕綽々の少女の顔を吹き飛ばせると思うと、黒瀬の口角は獰猛に持ち上がった。

「交渉決裂だ。悪いが俺の"選択"はこれだ」

 黒瀬が拳銃を引き抜こうとした瞬間、少女は余裕の笑みから吹き出しそうな声で言葉を紡いだ。

「その選択はよした方が良い。祖父の重要な秘密を一つ、失う事になるぞ」

 黒瀬ははっとして動きを止めた。

 祖父の秘密――――その言葉は黒瀬の耳を突き抜けて、彼の脳を揺り動かした。それは、自分がこの世界に降り立った理由。自分がこんな姿に身をやつした理由だ。

 なぜ、祖父の事を、知っている――――

 少女は肩を揺らす。

「さぁ、席に着くといい……"選択"はこれから始まるんだ」



「君の欲望は何だ、イジェクター?」

 幼女は自らをDr.ドクター と名乗った。食卓の上にあった果物の山をざるごと引き寄せ、ひたすらリンゴだけを引きずり出して、黒いマニキュアでぬらぬらと光る長く鋭い爪を突き立てると、垂れた汁を舐めあげるのだ。

「ここは欲望の引き受け場所。教会では欲望は全て我慢しろと教えられるが、ここじゃ解放しろと私が命じる。君の欲望も全てかなえる事が出来るんだ。君は何が欲しい? 金? 女? 財産? 食い物?」

「何でじいちゃんの事を知ってる」

 彼女の対面、長々とした食卓を挟んだ席で、武装した女達に囲まれた黒瀬は、低い声でそう言った。彼の前には切り分けられたリンゴが皿に盛られていたが、一切手はつけていない。

「それが君の欲望か」

 Dr.は何度も頷いた。

「君の祖父と私には交友関係があった。古い友人、というわけだ」

「お前みたいなガキと俺の爺さんがどうして古い友人になる。ふざけるなよ」

「君はつくづくおもしろい男だ。外側世界アウターワールドの英雄だが、その魂は極めて現実世界に近い。この世界にあるものと現実の世界は、合一であると限らないのを知らないとは……欲望と理想は現実に存在しえないから虚構に存在しえる。これはプレイヤーにはごく常識的な認識だがね」

「俺にとって"ごく常識的"なのは話をする時は要点を話すって事だ」

 黒瀬が吐き捨てた嫌味に、Dr.は感心したように笑みを浮かべた。

「いいぞイジェクター。悪くない。……独立独歩どくりつどっぽ、君は何が正しいのか自分で分かっている」

 人差し指の爪で串刺しにしたリンゴを一囓りし、細い喉で嚥下えんげする。

「ヒントをやろう。君の祖父が所属していた部隊について」

 部隊……? 一瞬何のことだかわからなかったが、屋敷の地下で見た銃や銃弾の散らばった光景がフラッシュバックした。

「戦中、君のお爺さんはSADと呼ばれる諜報部隊インテリジェンスに所属していた。通称、カラス隊」

「S……何?」

「Special Activities Division。難しい事はいい。要は、この部隊が参加していたフォース22とよばれる仮想現実ヴァーチャルリアリティ訓練さえ知っていれば」

 彼女は口元をもたげると、串刺しにしたリンゴを小さな口へ運んだ。

「鴉隊は、40年前の極東戦争時に活躍した民間軍事会社PMCに所属していた。ミコト・セキュリティサービスという名に聞き覚えがあるはずだ」

 全く知らない名だ、と思ったが、唐突にあの……ジョーだとか名乗っていた記者の言葉を思いだす。V-tecLife社について話をしていた時、あの男は、Play fun!12を生み出したV-tecLife社の前身が、ミコトセキュリティサービスという名の民間軍事会社だと言っていた。

「爺ちゃんは傭兵だったって言うのかよ」

「兵士だった。とだけ言っておこう。そんな事はどうでもいい話だ――――ミコトセキュリティサービスは民間軍事会社などと名乗っているが、実態は米軍の下請け企業だ。米軍に依頼されたら、なんでもする。『フォース22計画』も米国が推進していたランドウォーリア計画と呼ばれる次世代兵士計画の一環だった」

 Dr.がその小さな指をつい――と動かすと、教会のあちこちにタスクウィンドウが立ち上がった。ウィンドウは黒瀬に見せつけるように、天井の高いホールの中を動き回る。そこには全身黒づくめの兵士達が素早く動き回るの姿が映し出されている。手に手にライフルを手にした彼らが、グリーンのワイヤーで描き出された3D 空間で射撃をする映像、精神病棟のように潔癖な白に塗りたくられた空間で、体中にチューブやセンサーを取り付けられた男達が、ライフルを構えている映像、フルフェイスのヘルメットに戦闘機のコクピットに表示されるようなヘッドアップディスプレイ《HAD》が映し出されている映像、映像の下には、国際共通語ユニコードで説明が付け加えられている。

「『仮想現実空間VRは、軍に無限の環境を与える』――――フォース22計画の謳い文句さ。君は現実に限界を感じた事はないか?」

「現実の、限界……」

「そう。時間という限界、物質という限界、法という限界、金という限界、それに、命という限界――――我々ミコトセキュリティサービスの研究者達は、その限界を突破する技術を手に入れようとしていた。すなわち、仮想現実ヴァーチャルリアリティを。現実と何ら変わらないもう一つの世界を、好きなように創造し、好きなように編集し、好きなように運用できる――――」

 ほとんど何を言っているのかはわからなかったが、最後のフレーズには聞き覚えがあった。「それって――――」

 「そう」、Dr.は囓りかけのリンゴを皿に載せた。

「この『フォース22計画』は、外側世界アウターワールドの原型なんだよ、イジェクター」

 黒瀬は眉をひそめた。こいつ、何者なんだ――作り話にしては、あまりに聞き覚えのない単語がぽんぽん出てくる。騙すつもりにしては、突拍子がなさ過ぎる。もしこれまでの話が本当なら、現実世界の彼女はただ者ではないのは確かだ。祖父の旧友だと口にしていたが……

「私はこの研究にたずさわった主任研究員の一人だよ。そして君の祖父はこの計画の実験に極めて初期の段階から参加していた被験者だった。言わば……チャーリィとハロルドの関係だよ。この例え、わかるかね?」

 Dr.の思わせぶりな口上に乗るのが嫌で、返事はしなかった。Dr.はどうとったのか、鼻を鳴らして笑った。返事は全く必要としていないようだった。それから一息ついて、なにかを反芻はんすうするように黙り込んだ。

「……だが実験には失敗がつきものだ。むしろ、それを発見する為に実証実験はある。我々のシステムは――はっきり言って法外イリーガルだった。科学者は皆、倫理と発展の境界線上にいる。そこには時々……そう時々、悪魔が入り込む。A・アインシュタインの研究を元に創られた核技術、医療の発達はヒトゲノムを解析し命の再定義を必要としてしまった。そして、我々の研究にも、悪魔が入りこんだ。いや、それだけじゃない」

 Dr.の顔がこちらを向いた。どす黒い感情と理性に揺れる、剣呑けんのんな瞳。

「事故だ――――最悪の事故が起きた。そして、悪魔は解き放たれた」

 悪魔? 黒瀬は眉根を寄せた。

「思わせぶりに言うなよ、何がおきたんだ、悪魔って何だ!」

「君のお爺さんだよ」

 突然現れた祖父の名に、黒瀬は思わず言葉に詰まった。

 Dr.がリンゴに突き刺さっていたナイフを引き抜き、それを黒瀬へと向けた。

「アウターホリッカーを発生させているのは確かに君のお爺さんなんだよ。君のお爺さんが、システムに大量殺人の構造を仕組んだんだ」

 思わず、疑念の塊が口をついて出た。

「で、でたらめ言うな! なんで爺ちゃんが――――!」 

 さぁね、と言わんばかりに、Dr.は玉座に背を預け、両手を開いて見せた。

「ここから先は有料だ。すべては君の"選択"次第だよ、イジェクター」

「ふざけるなよ、お前――――」

「君は誰かを愛した事があるか」

 唐突に尋ねられ、黒瀬はうっと息を詰まらせる。

「人が社会的な生き物である限り、他人と係わりたいという欲望は存在し続ける。数ある欲求の中でも、その欲望は、深い絶望感を伴った、最も強い欲求の一つだ。現実世界にどれだけの人が孤独を味わい、他者との交流を渇望かつぼうしているか君は知っているだろう?」

 黒瀬は閉口する。どうやら、Dr.のいう交渉とやらが始まったらしい。

「……知るかよ、わけのわからない事言ってないで、さっさと本題に入れ」

「もう入っている」

 間髪入れずにDr.は答えた。

「これは愛だよ。愛についての話なのだ。私は愛が欲しい。――――勘違かんちがいするな、私にだけ向けられ、私だけが満たされる愛ではない。欲する者に分けへだてなく、枯れる事のない泉のように愛を注ぐ『愛の担い手』が必要なのだ。私のこの、世界にはな」

 …………何、言ってるんだ、こいつ。「愛が欲しい」なんて台詞を、まるで「必要な物資を一ダースそろえたい」とでも言ってるかのような即物的な口調で話す。愛の担い手って……なんだ?

「君はかつて統一半島で実験された『セルロースのゴースト』実験を知っているかね?」

「……知らない。何が言いたいんだよお前」

「人の認知実験だよ。極めて精巧に作られた人工知能を、人間そっくりのロボットに搭載して、被験者と交流させるのだ。被験者は最初はロボットに興味を見せるが、時間の経過と共に無関心になる。ところが同じ被験者に今度は人間の脳を培養ばいようした豚と交流させると、永続的に豚に興味を失うことなく、それどころか愛情すら抱くという。そういう実験だ」

 どこかで聞いた。通信教育の歴史の項目で見た気がする。アジア大戦時の混乱に乗じて行われた、非人道的な実験に関する項目、だったはずだ。

「人間はA.I.に欲情はできても、愛情は抱けないのだよ。だが例え姿は豚でも、『魂』と呼ばれる論理化できない構成要件がそこに存在すれば、愛だって芽生える」

「宗教の話をしてんのか? 宗教は好きじゃない」

「私もだイジェクター。愛は極めて有機的な事象じしょう連続の行き着く所にあって、神の専売特許じゃない。だが私のA.I.ではそれは再現不可能なのだ。これまでだって、様々な方法でそれを再現しようと試みた。極めて人間らしい思考、選択による結末の変化――――だが全て失敗に終った。君だって、愛を渇望かつぼうしているが、私のA.I.達にあわい恋心をいだいたりしないだろう?」

 黒瀬は目を細めた。Dr.をねめつける。こいつの言説はのらりくらりとしていてわけがわからないし、気にくわない。が、今のは分かった――――自分は、侮辱されたのだ。恥も外聞もなく、この如何わしい島で娼婦を買いあさる男共と同じ、"愛を渇望する"奴なのだお前は――――こいつはそう言ったのだ。

「あぁ、いい目をしているな。そういう目だよ。そういう目をした連中が、私の世界を訪れるのだ。失ってしまった、あるいは最初から手にした事もない愛情にえて、求めて、渇望かつぼうして――――」

「おいッ!!」

 感情の任せるままに、卓に拳を叩きつけた。空っぽの食器達が、ぶつかり合って不協和音をあげる。

「何が欲しいのかさっさと言え! 爺ちゃんの情報の代わりに、何が欲しいんだよ、お前は」

 Dr.はふっと口元を歪める。

 次の瞬間、突然背もたれに預けていた背中をがばっと起こし、彼女は凄まじい跳躍ちょうやく力で黒瀬の眼前に飛び込んできた。慌てて立ち上がろうとした彼の胸ぐらを掴み、らんらんと輝く真っ赤な相貌そうぼうで見あげる。

「彼女が欲しい」

 黒瀬は、生唾を嚥下えんげした。

 懐に潜られすぎた。Dr.がその気になれば、その鋭い爪で黒瀬の喉をかききるなど造作もなく出来るだろう。これだけ近づかれては、避ける術がない。喉元をなぞる鋭い爪の感触を見つめながら、緊張に震える声でつぶやく。

「彼女って、誰だ……」

「彼女さ。歴史上最も精巧な『魂』の模造品。人間の寵愛を受けるに値するデジタルな生命体。無限の愛の泉にして、そして――――今は君の相棒なんだろう? イジェクター」

 Dr.が舌なめずりをする。黒瀬の思考がふいに、その可能性にぶつかった。この小さな悪魔が言う、魂の模造品とやらに。無限の愛の泉、人間の寵愛を受けるに値する、デジタルな生命体。それはつまり、アウターワールドにしか存在しない、極めて人間『らしい』、人間ではない生き物――――

「コーディを寄越せってのかよ……!?」

 Dr.は正解を引き当てたのをほめるみたいに、黒瀬の頬をその小さく冷たい手で撫でた。

「私の名前はDr.ピグマリオン。理想を現実に変える男。愛を作り出す奇術師。君の相棒は愛の餓鬼達を救う救世主になるんだ」

 ぱっと手を離した彼女は、卓の上で舞い踊るようにくるりと回った。

「あぁ、君にも見えないか? 全ての人々は遂に愛情を自由に、無限に得られるようになるのだ。有志遙か以前より続いてきた愛憎の歴史は終わりを告げ、人々は皆、エゴにまみれた自らの欲望を堪え忍ぶ必要がなくなる。これからは好きなように愛情を作り上げ、好きなように愛し、愛され、そしていくつもの愛を同時に育む事が出来るのだ。これこそ、人類が望んできた愛の溢れる世界だ。誰も苦しむことなく、欲するがままに愛を得られる。そう、まさに愛ですら手に入れる事が出来たなら、あぁ、アウターワールドはより完璧な世界となる。ここはもう外側の世界などではない、ここはまさに――――楽園だ」

 黒瀬は発狂したかのようなDr.の姿に、動揺するように震える瞳を向けていた。おそるおそる、うかがうように、背後に浮かぶコーディに視線を向ける。彼女は淡々とした表情をしていた。

『彼は私のA.I.を解析するつもりのようです。私のプログラムを応用して、人間により近いA.I.を作るのでしょう』

「お前を解析するって……」

 黒瀬は声に出さず、戸惑う。

「あいつ、狂ってるんだよな……? なんでお前が……」

『彼の言うとおり、私はおそらく、歴史上最も精巧に再現された人間の模造品プログラムです』

 なんだよ、それ。黒瀬が口にしようとすると、Dr.が先んじて言った。

「君がコーディと呼ぶ彼女は、戦時中、とある法外イリーガルな方法で製造されたこの世界で最も精巧なA.I.……いや、人間の生き写しと呼んでも言い。アウターワールドに転写された人の命そのもの。彼女が私の手に移れば、デジタル世界に人間の精神が転写される。人間の命が自由に創造できるようになるのだ」

 Dr.は背中に生えた小さな翼を羽ばたかせて、宙に座るように腰掛けた。

「さぁ、条件は示した。君はどうするかね。そこにいるんだろう――――? 君の脳の中に、彼女は」

 Dr.が黒瀬の頭を指さす。指先を見つめながら、冷たい汗がじわりと吹き出すのを感じた。

 祖父の秘密は知りたい。祖父は自分をこれまで形作ってきたいわばひな形であり、目標であり、生きる指針だった。その祖父に大量殺人の嫌疑がかけられている。そんなもの、真実でないと信じてはいても、祖父が死の直前何を思ってアウターワールドにいたのかは未だわからない。一方で、過去に重大な何かがあったという事は、これまでに出てきたいくつもの証拠が裏付けている。これから進もうとする道に陰りがかかったままなのだ。間違っているかも知れない地図を手にして、どうして広大な「昼の世界」を歩けるだろうか。なんとしても祖父の嫌疑を晴らし、地図が間違っていない事を証明しなくてはならない。


 だが、コーディはどうなる


『悪くない取引です』

 傍らに浮かんだ彼女がそう言った。

「やめろよ……黙っててくれ」

『引き渡すべきです、排出者イジェクター私の生きる理由アイデンティティーはあなたです。イジェクターの存在と目的が私を存在させる。彼の有している情報の有用性と希少性をかんがみれば、あなたのおじいさまならまよわず私を』

「黙ってろッ!」

 はっきりと口にしてしまった。思わず口を押さえ、それからぬぐうように離した。

「イジェクター……断る理由はないと思うが」

 Dr.は頭を指さして、

「ここに得体の知れない生き物がいる事は不快だったんだろう? 私ならシステムをソフト面から切り離せる。君は平凡な日常に戻り、その上祖父の本当の目的と過去を知る。記憶を走査するに、君は孤独に安心感を覚えるタイプじゃなかったかな?」

「……お前が爺さんの過去を本当に知っているとどうして言い切れる。全部嘘じゃないのか」

「それは彼女に訊きたまえ」

 黒瀬がコーディを見ると、彼女はやはり淡々と

『おそらく彼は嘘をついていません。Dr.の古い記憶領域に、意図的にロックされた情報網があり、確かにそこにはイジェクターの情報らしき痕跡こんせきが確認されます。捏造ねつぞうされたものにしては、この情報網は記憶領域の奥に入り込みすぎています。彼は本当に、前イジェクターの過去と目的を知っていると推測されます』

 黒瀬は歯噛みして頭を抱えた。いきなりボールを転がされて、ゴールを決めろと言われている気分だ。それも、ゴールを決めたら試合相手は皆処刑される、みたいな、酷い条件で。

「……コーディがお前の手に渡ったら、どうなるんだ」

 教育を施す。Dr.の無邪気な声がホールに木霊する。

「男達の――開発が進めば女達の求愛に応えられるよう、それに適した教育が施される。時に従順じゅうじゅんで、時に引っかき回すような、そんなルール付けをするんだ。本当の愛をささげられる、極めて精巧せいこうな『愛』の模造品もぞうひんとしてね」

「……ここにいる連中みたいな、ダッチワイフにするつもりかよ」

「それは間違いだよ。全くの間違いだ。君はこれがどれだけ素晴らしい創造か分かっていないようだ。彼女は物言わぬダッチワイフじゃない。真実の愛を受けとめる、マグダラの聖母マリアとなるのだ。だから彼女は人形ではなく、むしろ神に近しい存在に」

「どう言ったって」黒瀬は語気を強める。「結局ダッチワイフと同じだ。娼婦に仕立て上げるんだろ」

「……いいだろう。そう思うなら思えばいい」

 Dr.は声色を低くしてそう言った。

「彼女を娼婦にして祖父の情報を得るか、ここで永遠に祖父の情報を失うか。二つに一つだ。ネゴは無し。どちらか"選択"したまえ」

 黒瀬は彼女をにらみつけながら、唇の端を噛む。

わかっている。

所詮コーディはプログラムなのだ。

いくら精巧だと言っても、所詮は作り物の模造品。ただのA.I.だ。コーディだってそれが分かっているから、悪くない取引だなどと平然と言ってのけるのだ。

 コーディの表情は凛として動かない。柔らかな羽毛に包まれた氷のようだ。何を思っているのか、考えているのか。今Dr.が口にした意味を、彼女はどう思っているのだろう。誰とも知らぬ男をただひたすらに愛する人形に――――『愛の模造品』になるのに嫌悪感を感じないのだろうか。

「…………」

 何を迷っている。冷静になれ。冷徹になれ。下らない感傷は押し殺して実益じつえきに徹しろ。お前が今抱いている感傷は、長年使ってきた家具や車に抱く感傷と同じだ。まったくガキが「捨てるなんてかわいそう」などとのたまうようなものだ。筋金入りの博愛主義者でもない限り、そんな感傷は無用の長物。対して爺さんの情報の価値を考えてみろ。他にどうやって爺さんの過去を知り得るって言うんだ? それにあの脳の中でうろちょろしている女を、一生頭の中で飼うわけにもいかないはずだ。よく考えろ。最良の結論は、もう、でているはずだ――――お前の爺さんなら、迷わない。

「……本当にじいちゃんの事を教えてくれるんだな」

 こし出すように口にした言葉を聞いた途端、Dr.は満面の笑みを浮かべた。

「交渉成立だな、イジェクター」

 Dr.が宙に手をかざすと、透過ブルーのタスクウィンドウがその手中に現れた。それを裏返しに机の上に伏せると、長い爪ではじいて黒瀬の方へ飛ばした。机に写り込んだウィンドウが、黒瀬の前にすべり込む。

「さぁおいで『コーディ』」

 Dr.が誘うように手をさしのべた。傍らで、わずかにコーディが自分に眼を向けたのがわかった。が、それに視線を返す事は出来なかった。どんな思いで彼女を見つめればいいのかわからない。奴隷商人のような目か、哀れみの目か、あるいは目的のためには手段を選ばない冷徹漢の目か。何も言える事もなかった。こんな状況で謝罪の言葉を口にする程、黒瀬は愚劣ではなかった。恥知らずでは、あったかもしれない。

 彼女が黒瀬に眼を向けたのはほんの一瞬だった。黒瀬は脂汗を浮かべて床を見つめるに徹し、悪い夢が覚めるのを待つ。彼女は視線を逸らすと、Dr.の元に滑るように飛んでいった

「おぉ……素晴らしい。完璧だ。君はまさに、完璧だよ、コーディ」

 Dr.は傍らに降り立った彼女に手を伸ばし、その肢体をなで回した。体中を舐め取るように顔をなでつけ、大きく息を吸い込む。その痴態はまさに老いた男のそれで、現実のDr.が老齢の変態野郎だというのが黒瀬にもすぐに分かった。

 その背後で、武装した女がコーディの手を静かに取り、両手に手錠を落とした。重い金属が、耳障りな金属音を立てる――――コーディはまるで人形のように無表情だった。

 黒瀬は手元に滑りこんで来たタスクウィンドウに指をつける。裏返せば、祖父の情報が得られる。そこに全てが書いてあるはずだ。祖父があの屋敷から姿を消して以来、ずっと求め続けてきた物の全てが。

 薄っぺらい、ウィンドウだった。

「さぁ、何か話してごらん」

 Dr.がそう語りかけても、コーディはやはり人形のように押し黙ったままだった。

「……そう、それでいい」

 Dr.は心底うれしそうにそう囁いた。

「こんな時、人間は何も言わない」

 コーディの細い喉にDr.の指がう。

「さぁ、言葉はもういらない」

 感触を確かめるようにうごめき、柔らかな肌を堪能たんのうした指先は、彼女のあごの下をい、その口元を持ち上げた。淫猥いんわいな手つきに合わせて、Dr.の顎もなまめかしく上がり、その真っ黒なルージュに染まった小さな唇が、ほんの少し開いて、コーディの唇を支配するみたいに、飲み込もうとしてからみつき



 炸裂音がした


 

 高熱の固まりがDr.とコーディの唇の間を裂いて飛翔ひしょうし、その背後に立っていた武装した女のみぞおちをえぐる。Dr.が爬虫類はちゅうるいのような目をぐるりと炸裂音の方に向けると同時に、撃たれた女が腹を押さえて崩れ落ちる。彼女の背後にかかげられていた、黒い逆十字架の描かれた胴体に、鮮烈せんれつな紅い血が、絵筆を振るったように飛び散った。

 Dr.が目にしたのは、両手でしっかりと拳銃を握りしめたイジェクターの姿だった。コーディが、何かを叫ぼうと唇を振るわせる。その瞬間、武装した女達が素早く反応し、抱えていたライフルを人外な速さで黒瀬に構える。

「オーバークロック」

 ガスマスク越しのくぐもった声。

 世界の流動が滞る。

 全ての力学運動は黒瀬の前にひれ伏して、彼の前ではその全能性を喪失する。

 今まさにライフルから845m/secで弾き出された弾丸が黒瀬に猛然と襲いかからんとする緊張の極み、その一瞬が切り取られ、濃密な三秒間が始まる。

 テーブルクロスをひっつかむ

 長机の向こう、Dr.の背後に控えた女達がにわか色めき立つ。彼女たちが一斉に発砲した弾丸の雨あられへ向けて、黒瀬はクロスを一気に引き揚げた。真っ白なシルクの波が、ホールの暗闇に高々と舞い、発砲の閃光に煌めく銀食器と、紅く艶やかな林檎を暗闇にまき散らす。

 白い波を切り裂いて迫る弾丸。

 その弾道は、まるで手に取るように精確に把握できた。

 熱く燃えたぎるような本能や肉体とは正反対に冷え切った理性が、身体を弾道から最も効率的に避けるルートを瞬時に割り出す。真横にステップジャンプした黒瀬は、空気を裂く甲高い鳴き声を上げる黄金色の弾丸を、ほんの数ミリの距離を残してすり抜ける。だが無数の弾丸の群れは、一発目を回避した黒瀬を逃すまいとさらに次弾、次弾と迫り来る。マスク越しの黒瀬の目が、白目を血走らせながら迫る弾丸を視界に捉える。回避のステップを、無骨な舞いのように刻む。一発、二発、三発――――ほんの少しかすりでもしたら全てのバランスは崩れて、一気に無数の弾丸が全身を切り裂いて血だまりに伏す事になるであろうそのステップを、焦りと恐怖、そしてそれ以上の熱情の狭間で刻んでいく。弾丸が切り裂いたテーブルクロスの裂け目の向こうで、勝利を確信して射撃中止の合図をする女達を目にする。

 黒金の拳銃を引き揚げる

 狙う先は、敵弾が切り開いたテーブルクロスの穴の向こう

 敵の弾丸が開けた穴を通して、その向こうで数に頼んで強者を気取る敵を撃ち殺す――――もはやそんな事が可能かどうかなどという疑念すら浮かばなかった。やる。やれる。だがら、やるのだ。弾丸を避けるステップの合間に、スタッカートのように射撃のステップを刻み込んだ。踏み込む前足、安定させ、片手で構えた拳銃の銃口を、テーブルクロスに無数に開いた創口の一つに指し向ける。敵ははためくクロスに阻まれてこちらの姿を捉え切れていない。目を凝らしている姿が見える。その顔に、銃口を、向ける。


 撃った


 最初の一発が着弾する前に、発砲の反動を利用して次の標的に狙いをつける。クロスの向こうで上がった炸裂音に目を剥く女を穴の向こうに捉え、再び発砲。さらにその横で驚愕に目を見開きながらライフルをこちらに向けようとする女に、跳ね上がった銃口をそのまま向ける。三度目の発砲音が黒瀬の手中で跳ねる。そこに至ってようやく、最初の一人目に弾丸が着弾した。黄金色の弾丸がたたき割った頭蓋が、骨の破片をまき散らしながら真っ赤な鮮血をばらまく。砕けた眼下からこぼれ落ちた眼球が宙を舞う。そこで二人目の敵にも着弾。信じられないとばかりに見開かれた相貌を挽きつぶすように眉間へ弾丸がねじ込まれ、真っ赤な鮮血が舞う。同時に黒瀬は四人目の敵に向けて弾丸を放った。


 そして時は急速に力を取り戻す


 濃密だった三秒間は終わりを告げ、正常な四秒目に向けて時間は凄まじい速さで進み出す。いくつもの出来事が同時に、一瞬で起こった。

 まるでチェーンガンのような連射音が黒瀬の手元から響き渡り、機械じみた精確さで発射された何発もの弾丸が、最後に残った女の身体をズタズタに切り裂く。光源のない薄暗い部屋は、放たれた閃光に何度も真っ白に染まり、その光に、女達の体から吹き出した鮮血が艶やかに煌めいた。

 ライフルが次々と床に落ちて、叩きつけられたフレームががちゃがちゃと音を立てた。右から左へなぎ払ったように、女達はもんどり打って崩れ落ちる。

 天井に向けて舞い上がっていたテーブルクロスが、後から訪れた静寂と沈黙を引き連れて、はためきながら、全ての事態を微動だにせず静観していたDr.の背後に滑り落ちていった。

 真っ白なクロスは、彼女たちの亡骸を覆い隠し、一瞬の惨劇に、静かな終止符ピリオドが打たれた。


 後には、コーディを抱くDr.の姿だけが残った。


「……どういうつもりかね」

 Dr.は不作法な闖入ちんにゅう者でも見るような目で黒瀬を見つめた。同じ言葉を、別の意味で問いたげな視線を、コーディも投げかけている。どうして。そう言いたげな視線を受けた彼は、ただじっとDr.の眉間に銃口を向けたまま、こわばらせた肩を怒らせて、言った。

「交渉決裂だ」

 片手でタスクウィンドウを指で弾き、Dr.の方へと飛ばした。彼女――彼?――がそれを指で止め、肩をすくめる。「私のかわいい娘達を殺す前に決断して欲しかったね」。黒瀬は答えず、テーブルの上を歩いて接近する。

「……ぅう、くぉ――!」

 テーブルの上に血を流して突っ伏していた女が、かたわらに転がったライフルに手を伸ばそうとした。黒瀬はそれに目も向けずに無造作に片手で撃ち放つ。暗闇を切り裂く鋭い閃光と炸裂音。びくんっと女の体が跳ね、頭蓋の骨が血と共に舞い上がった。

 そしてDr.の目前まで迫った彼は、血しぶきにまみれたガスマスク越しの目と、手にした拳銃を、その幼い未成熟な頭にねじ込むように向ける。彼の身体から獰猛な怒りが揺らめき立つ。身体から発せられたその劣情まみれの憎しみの熱が、遠慮容赦なく押しつけた銃口からにじみ出ていた。

 迷惑そうだったDr.の口元。

 そこに、ニヤついた笑みが、浮かびあがった。

 それは次第に高らかな哄笑へ変わり、幼い少女の甲高い笑い声がホール中を蹂躙するように駆け巡った。マスクの奥で困惑と怒りがない交ぜになって眉根をねじり上げた黒瀬が、喉の奥の熱をはき出すように叫ぶ。

「何がおかしい!!」

 ゆっくりと

 Dr.の視線が、黒瀬の瞳の奥へと降り立つ。

「君は踊っているんだ。アウターワールドという深淵しんえんの上で――おかしいだろう?」

「なめてるのか、お前……!?」

銃口を幼いひたいにねじこむ。ごり、と皮膚が頭蓋をすべる感触。冷たい銃把じゅうはが、ぶるぶると震えていた。Dr.の笑みは、それを見てさらに切り裂かされたような嘲笑ちょうしょうに変わる。

「気づかせようとしているんだ。排出者イジェクター。アウターワールドが生まれた事で、世界は変わってしまった。それは君自身も、そうなんだよ」

「そうかよ、長話につきあうのはうんざりだ」

 ざらついた銃把に力がこもる。引き金を引き絞った。

「お前を排出する」

排出者イジェクターを映していたDr.の瞳孔が、瞳に映る者をすすりあげるように、見開かれる。

「なんのために?」

 引き金にかけた指が、止まる。

Dr.は晴れやかな笑みを向けた。瞳の中に映っていた排出者イジェクターの姿はもはやどこにもなく、その瞳はガスマスクのレンズを射抜き、その先にある"クロセ"の目を、見つめていた。まぶたを振るわせる、無力な少年の姿を。

「君も気づいている真実――まさにアウターワールドが変えてしまった――この世界そのものの姿なんだよ。思い出すんだ、アウターワールドに関わった人々はどうなった? 君自身は? 全ての登場人物がそこに帰結する。君のお爺さんも、君も、私も、そして――彼女も」

 Dr.の視線は、コーディに向けられていた。彼女は氷のように無表情だったが、ほんのわずかにその氷は溶けだしていた。唇を、噛んでいる。

「君はお爺さんを知るためには悪くない働きをしている。だが最も重要な事を見逃している。目をそらしているからだ。本当は私からヒントをもらう必要などない。君は気づいているし、知ってもいる」

黒瀬の瞳がぎゅっと見開かれる。

 震える瞳孔、噛みしめられる奥歯

「アウターワールドはなんなのか。君は何なのか。なぜ排出者などという世迷よまごとのような英雄を演じているのか。なぜ演じられるのか。覚えていないのか? どうして君の腕は、脚は、動かない? なぜ君はここにいる?


    なぜ


    君は


    彼女を


    守った?






 引き金にかける指に力がこもる

 だめだ

 いますぐ押しつぶせ

 ――いますぐ!!


 ふっと、Dr.は皮肉めいた笑みを浮かべた。口角が持ち上がったその顔が、クロセの煮えくりかえった腹を熱く熱した。

「イジェクター――――トゥルーエンド、おめでとう」

 黒瀬の見開いた目が痙攣けいれんし、さらに大きく見開かれた。血走った目がマスク越しにDr.を凝視ぎょうしする。コーディは二人にさっと視線を交わし、

『……イジェクター、落ち着いてください。どうしたんです』

 だがそのコーディの勤めて冷静たらんとする声が、はち切れそうになっていた緊張の糸に最後の衝撃を与えてしまった。

『――――ッ!? イジェクター!!』

 彼女の叫びと同時に炸裂音が響き渡り、小さな悪魔の頭には鉛の弾丸がたたき込まれる。目をひきつぶして、脳をはじき飛ばした。世界が暗転し、ゲームの電源は落とされる。





















 [題名] Helo there!

 [from] Dr.<xx_xxxx@u-tokyo.jp>

 [to]  黒瀬 完爾<xxxxxx@v-tec_life.co.jp>

[Date] Thu 21 Spr 2078 20:28:50 +0900


 このメールは秘匿ひとく回線で送られ、閲覧えつらんは君しかできないよう、フィルターがかけられている。君の頭の中にいる、小さな妖精に見えないようにね。


 さて、君がこれから祖父の秘密を求めるなら、君は同時に外側世界アウターワールドの真実を見つめざるを得ないだろう。それに君がどう結論を下すのか、今から楽しみでならない。なぜならそれは、否応もなく君自身の真実と向き合うことになるからだ。

 君は、コーディを守った。

 その意味を、もう一度よく考えることだ。なぜ頭の中に得体の知れない人格を迎え入れ、それを許している? 捨てることも出来たのに、なぜ残しておいた? 君はそんなことができる人物だったか?

いいか、君の脳は、今や君の物ではない。

真実を求めるなら、他人の領域を侵せ。

そして自分の中の、真実を見つけろ。それが答えだ。現状を破壊するかもしれない。これまで信じてきたもの、手に入れたもの全てを失うかも知れない。それでも真実が、知りたいのなら。

 私はその手助けをする気はない。だが、せめてもの餞別せんべつというのは必要だ。これから死地へおもむこうという若者には、それくらいのむくいが必要だと私は考える。


 彼女をスリープモードにするスクリプトを用意した。


 彼女に知られたくない事をする時に活用すると良い。浮気したり、隠し事をしたり、逆に――――隠し事を探ったりする時に。

 それともう一つ、ヒントをやろう。 


『コーディの本当の名は、"アマタ"だ』


 君の幸運を祈っていてるよ。きっと茨の道だろうから。

 あぁ、それと最後に。

『W.makerには逆らうな』



 では、よい終末を、排出者イジェクター


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