act3:三叉路の喜劇―Coppelia―[前編]



「W.makerって人が、君の事メールで教えてくれたの」

 spring――こと、桜木さくらぎ 日和ひよりはそう答えた。



 病院の屋上は最近の建造物には珍しく、屋上に対空砲が設置されていない。代わりに自家発電用のソーラーパネルが、凍り付いた湖面が整然と区分けされているみたいにならんでいる。その間を縫うように張り巡らされたワイヤーに、真っ白なシーツが海鳥の群れのようにはためいていた。


 それを眺めて、springこと日和は手すりにもたれ掛かっていた。春風が金糸のような金髪をかきあげていく。

正面に立った黒瀬は、彼女をじっと見つめていた。

 胸が、高鳴る。

苦しい。

「妹ちゃんには、君が来たら連絡してってお願いしてたんだ。『絶対に来ませんっ』て言ってたけど……やっぱり、来たね」

 微笑む彼女は黒瀬の表情を見るとばつの悪そうな顔をして

「そんなに にらまないでよ。今日は ほら、チェーンソー持ってないでしょ?」

 おどけて両手を開いて見せる。黒瀬は何と言ったものかわからず、ひたすら閉口した。表情は憮然ぶぜんとしていたが、内心は荒海のように乱れきっている。どういう目的で来たのかわからない。それに、アウターワールドでのあの狂ったような彼女の姿と、今目の当たりにしている彼女のギャップには戸惑うしかない。再び耳にしたW.makerの名も気になる。疑念と困惑の固まりを顔面に思いっきり叩きつけられたみたいだった。

「……イジェクター、なんだよね」

 日和はうかがうように、そう言った。

「よくわかんない人から来たメールだけで信用するなんて自分でもおかしいと思う。でも、なんていうかな、やっぱり会ってみたかったんだよね。私の顔をさ、ほら、綺麗に吹き飛ばしてくれた人に」

 彼女は随分――――なんというか、すっきりしていた。あのアウターワールドで見た彼女は凄惨で苦悩に満ちた感情で整った顔立ちを歪ませていたが、今目の前に立つ彼女は、表情も、肢体も、翼でも生えたみたいに自由で、楽しそうだった。

「ごめんね、ゲームの事。記憶がないわけじゃないんだ、君にやっちゃった事。あれ、すごかったねー、バットでバチーンってやられたあと、君が 血しぶき まき散らしながら立ち上がったところ。あぁ、それに私の——ぐちゃぐちゃな所、本当の部分、ここをね、全部見せちゃった事」

 彼女は胸を指してそう言うと、ふっとゆるみきった笑みを浮かべた。時折広告で目にした彼女の笑顔と、今手すりにもたれ掛かった彼女が空を仰ぎ見て浮かべる笑顔は、別人みたいだと思った。その笑顔を見ていると、じわ、と嫌な感覚が胸の内に広がった。いつだったか、自室の窓からのぞき見た、女子高生達の晴れやかな笑顔と、彼女の表情が重なっていた。

 ソーラーパネルの影に立ち尽くしていた黒瀬は、まぶしい陽光と、それを浴びる彼女から、一歩後ずさりした。パネルが作った色濃い影の中に、身を沈ませる。じわじわと胸の内を飲み込もうとしていた薄暗いうずきが、それで少しは引いたような気がした。

「色々、溜まってたんだ――この仕事ってね、自分をさ、 化粧するみたいに着飾らなきゃいけないから。べったべったにね、化粧しなきゃいけないの。それこそ、私を嘘でおぎなってるのか、嘘を私がおぎなってるのか、わかんないくらいに」

 彼女は自分の頬に手をやると、ふに、と頬を掴んで引っ張った。

「……でも、この顔を綺麗さっぱり吹き飛ばされた時、なんか、どうでもいいやって思えたんだ。あーあ、今まで水の中潜ってたみたい。この空も、前とは全然違って見える」

 その仕草はきょとんとした仔犬のよう。初対面の人間に見られている事にもまったく頓着とんちゃくしていなくて、あけすけだった。病室に来た時のいたずらっぽい表情といい、彼女は自分の感情にまっさらに素直なようだった。

 何かを反芻はんすうするみたいに、彼女は空を見つめ続け、しばらくの後、うん、とうなずいて、こちらに目を向けた。何か言おうと口を開いて、それから少しためらってから、はにかんで、

「ありがと」

 黒瀬は閉口した。

 晴れやかな笑顔を向ける彼女。黒瀬は深くかぶったフードの影から、白い陽光を受けて眩しい彼女の笑顔を見つめる。

戸惑いがあった。


彼女は一体――――誰だ?


ユビキタスや街頭ディスプレイ、テレフィルムで見るspringとは違う。アイドルのspringではない。では彼女自身が言うとおり一般人の桜木日和なのか――――いや、普段の彼女など知りもしないが、たぶん、違うと思う。

 あの、アウターワールドでのぞき込んだ、彼女の瞳。

 あの瞳の奥でれる感傷かんしょう的な色合いが、彼女からはすっかり抜け落ちていた。あるのは、この屋上の空をおおっている快晴の空のような色合いだけだ。

「……おーい」

 springは黒瀬の顔をのぞき込み、鼻先で手を振って見せた。黒瀬はじっと、のっぺりとした黒目を彼女に向ける。

 ――――礼を言われる筋合いなんてない。自分はただ、舞い込んできた災難を必死に振り払っただけだ。やめて欲しいと思った。その笑顔、やめて欲しい。何かを振り払ったかのような彼女の明け透けな笑顔が、胸にちくちくと刺さった。

「……W.makerって誰なんだ?」

 黒瀬はようやくそれだけ尋ねた。反応があったのがうれしいのか、ぱっと表情を明るくして

「え? ううん。全然知らない! メール来ただけでね、知り合いとかじゃないの。気になる?」

 もしそうなら、この話をいっぱいにふくらまして、届けてあげる――――生き生きした表情が迫ってきた。黒瀬は戸惑ってばかりだ。思わずそっぽを向いた顔を、日和は興味深げにのぞきむ。「ふーん」にやりと笑って

「思ったより、かわいい奴だったんだな。君は」

 ……なんなんだ、この女。

 彼女は世界的(と吹聴されている)アイドルであり皆のあこがれの的、つまりは昼の世界に燦然と輝く太陽であって、自分のような陰の世界の住人とはあまりに存在がかけ離れているはずだった――――離れすぎて、もはや別の生き物に思える程。

 彼女が真っ白な光を浴びながら、次第に黒瀬が潜むソーラーパネルの影に歩み寄ってくる。

「俺はイジェクターなんかじゃない」

 思った以上に頑なな声が出た。彼女の足を止めるには十分なくらいの。微かに右手が震えている。思わず握りしめた。くそ、と思った。朝、家を出る時には震えなかったのに。

 日和に目を向けると、彼女は父親に突然ひっぱたかれたような表情をしていた。滑稽にも見えたし、見るに忍びないくらい痛ましい姿にも見えた。黒瀬が吐いた言葉の中から、何か、鋭角の意味を拾い取ったようだった。表情を少し歪めて、取り繕うように笑顔を浮かべてから、不意に顔を伏せた。彼女が落とした視線の先には、黒瀬が潜む暗闇と、目が眩むくらい真っ白な照り返しの、境界線が引かれていた。彼女のつま先はぎりぎり照り返しの世界にとどまっていた。それを見た黒瀬は、どこからわき出たのかわからない、得体の知れない安堵のため息を微かに漏らした。

「……別に、もう、君がイジェクターじゃなくてもいいんだ」

 顔を上げた彼女は、ほんの少し力の抜けた、作り物じゃない笑顔を浮かべて、

「だって、誰もアウターワールドを救うヒーローの本当の名前を知らないって事は、彼は正体をばらしたくないって事だもんね。私に秘密がたくさんあったように、彼にも秘密にしたい事がたくさんあるんだ。いいよ。もう、深くは訊かない」

 その代わり、と彼女は一瞬だけ言いよどんだ。

「デートして」

 黒瀬のこめかみを、ひとしずく汗が滴る。彼女はすらりとしなやかな手をさしのべた。その動きは流れるようにごく自然で、彼女の指先がポケットに突っ込んだ自分の左腕に触れるまで、黒瀬はその動きに気がつかなかった。

 その瞬間、突然思い出したのだ。

 自分の左腕が、役立たずの木偶の坊って事に。

「あっ」

 彼女が小さく上げた戸惑いの声を背にして、伸ばされた手を振り払った黒瀬は、駆けだした。






『な、なぜ逃げるんです』

 気がつくと病院の廊下を息を荒くして駆けていた。ずっと静観を決め込んでいたコーディが宙を飛んで併走する。ずるい、と思った。あまりにがむしゃらに走ったので酸素不足に陥った脳がガキっぽい思考で叫ぶ。ずるい。何がずるいのかわからないが、とにかく今更出てきてどうして逃げるのかなんて当たり前のように質問する彼女が、とてつもなくずるいと感じた。

 結局二時間近くは走りっぱなしで家まで帰ってきてしまった。途中からはランニングハイで何も考えられなかったし、そうなる事を望んでひたすら駆けていた。屋敷の武道場に倒れ込んだ時には、日は既に沈みかけていた。

 薄暗がりの中で、ひたすら天井を見上げていた。自分の醜態について少しでもモノを考えるのは恐ろしくてできなかった。

「……彼女には、何かがあったわけじゃないと思います」

 いつものトレンチコートにプリーツスカート姿の彼女が宙から降りてきて、黒瀬の傍らにへたり込むように座った。

「アウターホリッカーは本人の無意識が引き起こした自殺です。それは現実の苦痛や苦悩が要因で、イジェクトにはそれを擬似的に取り払う儀式的な側面があります。彼女は自分の苦痛や苦悩を取り払ってくれたあなたに何か特別な感情を抱いていたんだと思います。感謝とか、そう言った感情を」

「いきなり来られても」

 黒瀬は自分の目を腕で覆っていう。

「どうすればいいかなんてわからない。おかしいだろ、そんなの」

 自分では冷静な自己分析だと思っていたが、口に出してみると酷く幼稚で道理の通らない言い分だった。恥ずかしくて、かっと頬が熱くなる。

「……これは計算ではなく、あくまで人間的なインパルスを元にして導き出した、私の勝手な憶測ですが」

 彼女は一呼吸分くらい言いよどんだみたいな沈黙を経て、

「あなたは彼女を拒否したのではなく――――自分を恐れているのでは?」

 そんなワケないだろ!!

 黒瀬は口から飛び出そうになった言葉をなんとか飲み込んだ。

そのまま沈黙を続けた。たぶん、彼女の指摘は正しい。多分に正しい。日和に手をさしのべられた時に生じた感情は、舞台に突き出された役者の心境のようなものだ。高揚感と、恐れ。期待と恥らい。思い出すと、手が震える。日照にっしょうと影のコントラストが、目に焼き付いて離れない。あの手を取っていたのなら、自分が身を潜めていた陰の世界から、抜け出せたのだろうか。


 彼女が自分に関心を抱いてくれのは、とてもうれしかったのだ。引きこもりには身に余る光栄だ。久しく感じた事がない、人と関わり合う感覚。アウターワールドで見た彼女の瞳の奥には、自分と同じ"恐れ"が見えたのだ。同類だと思った。いや、それ以上に――――彼女が姿を表した時、友人になれるとすら思った。まるで、天から光が差し込んだように。


 だが、それは酷い勘違いだった。


 あの、屋上で見た彼女の姿。あの瞳、くもりのない、おびえもない、瞳。あの目はまるで別人だった。自分とはまったく違う、"振り切った"目だった。一体何が彼女をそうさせたのかわからない。だが、あの目を見た時、すさまじい恐怖心が自分の胸から吹き出した。

 自分の不自由な手足や、それで歪んだ精神をさらして、彼女に拒絶されてしまうのを恐れた。逃げ出したのはそういう理由なのだ。あまりの醜悪しゅうあくさと、どうしようもなさに、鼻の奥がつんとした。あ、泣くのか。情けない。奥歯をかみしめる。

「無理だよ。あの手は、取れない。springは、昼の世界の住人なんだから。俺は、こうして、光の当たらない世界で、黙り込んでいるしか生き方を知らない奴なんだから」

 ほんの少し、外の世界へと上向いてきていた自分の気持ちを、急に恥ずかしいと思うようになった。身の程知らず、夢を見すぎた大馬鹿野郎。愚かな自分を、押しつぶしてしまいたい。

 コーディは黒瀬の腕をつかんで、その顔をのぞき込もうとした。彼女が自分に触れられる事に驚く。おそらくは感覚器官や随意ずいい神経をいじくって擬似ぎじ的な感覚をでっち上げているのだろう。手を振り払おうとしたが、体は意思に反して、彼女に顔をさらした。

「つまりあなたは」

 自分がどういう顔をしているのか想像もしたくなかった。彼女は眉一つ変えず、その表情を見つめている。

「知りたいわけですね。『昼の世界』の生き方を」

 きっと、彼女は自分の感覚をはっきりと感じ取っている。そうでなかったから、この意味不明な短いやりとりで、こんなにも的確な台詞を吐けるわけながないし、無表情なのに妙に感傷的なこんな複雑な物言いが出来るはずがない。

「イジェクター、あなたの外の世界に対する恐れを、ほんの少し軽減するお手伝いをします」

 彼女の瞳がかしゃかしゃと切り替わって、削り出す前のダイヤの原石みたいな微かな光を宿したエメラルド色に変わった。

 彼女の手が、ポケットに突っ込んだ黒瀬の動かない左腕に触れた。思わず右手で振り払おうとしたが、彼女の大して力もこもっていないような細い腕にせいされて動かなかった。見ると、彼女は足を崩して、物思いにふけっているように黒瀬の左腕に視線を落としていた。暗い部屋の中で、彼女のきらめく瞳だけが、静かに律動している。彼女が落とした左手の人差し指が、黒瀬の腕を撫ぜた。人の指の腹って、こんなに滑らかなのかと驚いた。微かな温もり、微かな香り。不意に彼女の指が一点で止まる。薄ぼんやりとしていたその指先が、水面に差し込まれるように腕の中にもぐった。びくり、と腕が震えた。引きつるように、手のひらが開いて、五指ががくがくと痙攣けいれんする。一瞬恐怖がにじんだが、痛みも、熱もなくて、まるで心地よい水が流れ込んできたような感覚。彼女の左手は、次第に黒瀬の腕に沈んでいき、彼女の肘までにいたると、そこで止まった。

 不思議な感覚だった。今まで、邪魔な付属品としか思っていなかった腕に、清涼なぬくもりと、鼓動こどうが宿っている。それは自分の鼓動とよく似ていたが、決定的なところが違った。もっと微かで、控えめなで、温かい血が通っている。それが左腕に宿っている。自分の意思と、誰かの意思がない交ぜになったような感覚で、ゆっくりと腕が持ち上がった。腕が眼前にいたると、見せつけるように手首を回したり、握り拳を作ったりした。

「(なんだ……)」

 胸中に、得体の知れない感情がわき起こった。強烈な既視感きしかん。行ったことのない場所に郷愁きょうしゅうを抱くような、胸が酷く締め付けられる感覚。なぜだろう、この腕に誰かが宿っている感覚が、懐かしくて、涙が出そうなくらい、心の琴線に爪を立てる。

「お腹――」

 彼女はそう言って、少し言いよどんだ。得体の知れない感情と感覚に思いをはせていた黒瀬は。思わず「え?」と聞き返した。

「――――お腹、すいてますよね」

 何を言い出したんだ、こいつ。そう思った矢先、朝から何も食べていないのを思い出す。腹が鳴った。

 


 包丁なんて握るのは久しぶりだった。

 コーディが言うには、左腕が動かないのは、幼少時に導入したPlay fun!12が引き起こしているバグが脳の随意ずいい神経をつかさどる部位を麻痺させているのが原因で、それは決して不治ふじやまいではないらしい。特殊な形ではあるが、”リハビリ”をすれば、自発的に動かす事は可能だという

「私が補助しますから」

 と、彼女は黒瀬の背後で抱きすくめるみたいに立っている。グレーのギンガムチェック柄で小さなフリルのついたエプロンをして、髪をポニーテールに結い上げている。その左腕は、黒瀬の左腕と重なっていて、どうやら彼女の腕の動きに合わせて、黒瀬の腕が動いているようだった。彼女は黒瀬の肩口からひょいと顔をのぞかせながら、

「簡単な運動からしてみましょう。いくつか検討してみた所、料理が一番手軽で効果的なリハビリです。あなたの左腕は私の左腕の動きを追従マスタースレイブしながら刺激を受ける事で、随意ずいい神経の麻痺を回復させるのです」

「おい待て、待てよ、おい」

 彼女は黒瀬の左腕で包丁を握っている。右手でタマネギをまな板に押しつけている黒瀬は、振りかざされたその刃先を食い入るように見つめながら言った。包丁は振り下ろされる前に動きを止める――――が、刃先は常に小刻みに震え続けている。ふらふらと彷徨さまよい、定まらない。入り口のない家に入ろうとおろおろしている人みたいだ。

「お前、本当に料理できるのか」

 タマネギの上に右手を置いている黒瀬はたまった物ではない。親指にでもたたき落とされたら右手も使い物にならなくなってしまう。非難の目を向けると、すぐ耳元でじっとタマネギを見つめ続けていたコーディははっと黒瀬の方を見て、「……可能です」と短く答えた。目の色がかしゃかしゃと色を変え、ちろちろときらめく赤色に変わった。燃えている。小学生が初めて包丁を握った時と同じ目をしている。これはやばい。

「料理の基本とか知ってるんだろうな。調味料入れる順番とか……」

 もちろん。コーディは鼻を鳴らして言った。

「料理のあいうえおですね」

「さしすせそだよ」

 二人の間に沈黙が降り立った。彼らは無言だったが、一本の刃物を挟んで、互いに激しい駆け引きをしていた。黒瀬はじっとコーディの横顔を疑わしげに見つめ、彼女は包丁の刃先をにらみつけたまま黒瀬を無視した。

「いきます」

「ちょ」

 ずだん

 黒瀬の眼前で、タマネギは真っ二つに切断されていた。真ん中から、二つに裂けたタマネギが、ごろりと死体のように転がる。押さえつけた黒瀬の丸めた指の端から、わずかに血がにじんでいた。

「やめよう」

 黒瀬は恐ろしくなってまな板から離れようとした。が、コーディの体がするりと黒瀬の右半身にも回り込み、ぐい、とあらがいがたい力でもとの姿勢に戻した。

「簡単にあきらめるべきじゃありません。リハビリとはそういうものです」

「放せよ! お前、本当は料理できないだろ!」

「できます」

 平坦だった彼女の声に、わずかに抑揚よくようがついた。むきになっている。

「長い間麻痺していましたから、クロセさんの左腕はまだ感覚がなまっているんです。そのせいなんです今のは。次は大丈夫です」

「そういう問題じゃないだろ、絶対。お前、包丁を叩きつける奴があるかよ、やった事ないんだろ、出来ない事を俺を巻き込んでするなよ!」

「いきます」

「ちょ」

 ずだん

「痛っ!?」

「……最初はうまくいかないものなんです。でも徐々じょじょに慣れていきますから」

「バカ、もうやめろって!」

「いきます」

 ずだん







 居間でふて腐れながら、黒瀬はカレーをすくった。

盛大なため息を吐く。

「どうですか」

 卓を挟んで座ったコーディは平坦な声でそう言った。正座する彼女は、相変わらずエプロン姿で、目つきだけは真剣だった。黒瀬は黙ってスプーンを掴んだ右手を見せる。先ほど四苦八苦しながら巻いたエイドシール《絆創膏》が群れなして手をおおっていた。コーディは前のめりになっていた姿勢を少し落とし、味の話なんですが、と小さく言った。

「辛いよ」

 いら立ち収まらぬ調子でにべもなく言う。

「カレーなんだから」

 だいたい、カレーなんて、誰が作っても同じ味に決まっている。コーディは短く「そうですか」とつぶやいた。かちゃかちゃと、黒瀬がスプーンと皿で奏でる音を見つめる。

 しばらくして、彼女の視線に気づくと、黒瀬はなんだかいたたまれない気分になった。よく考えると、誰かと食事を取るなんて何年ぶりだろう。祖父とはきょを同じにするだけで、一緒に何かをするという事はなかった。思い返してみれば、誰かと一緒にキッチンに立つなんて、幼い頃に母親と料理をした以来かもしれない。かすかな記憶。

 コーディがふと手を伸ばした。何をされるのかと(右手を血だらけにされた前科があるのだから当然だ)思ったが、彼女はただ黒瀬の左手に触れただけだった。どうせ抵抗しても、彼女の一存いちぞんで体が石みたいに動かなくなるのはわかっていたので、好きなようにさせていた。

「どうですか。何か、変わりませんか」

 指や手のひらの感触を確かめるように、彼女はぜる。

「変わるって……何が」

「少し、動いたり」

 黒瀬は首を振る。

 「そうですか」と、彼女は平坦に言って、また少し肩を落とした。残念がってくれているのだろうか。いくらなんでも気が早いと思う。彼女が言うリハビリの効果が現れるとしても、何ヶ月も練習してからだろう――――もっとも、こんな事を毎日繰り返すなど、絶対にごめんだが。

いや、もう、なにがあっても、絶対に、やらない。

「もし、手が治らなかったら」彼女は顔を上げた。「どうするつもりですか」

換装切断する」

 と、思う。感覚があっても、足と同じで無用の長物ちょうぶつなのは変わりない。感覚だけある動きもしない腕をぶら下げておくくらいなら、最新式の義手でもつけた方が良い――――昔は腕にメスを入れるのが怖かったが、足を切断した今、恐怖は薄れて、そう思い始めていた。

 「そう」と言うと思ったが、彼女は何も言わなかった。視線を落としてじっと手を見つめる。不思議な表情をしていた。なんとも歯がゆそうに口元を歪め、思い詰めたような瞳を震わせている。

 その表情を見ていると、先ほど感じた既視感デジヤヴユを思い出す。彼女の腕が、自分の中に滑り込んでくる感覚。彼女と一つになる感覚。腕に宿ったぬくもりに、なぜか懐かしさを覚える。不思議と嫌悪感も、違和感もなかった。これまでの自分をかんがみれば、そういう事には敏感に拒否感を抱きそうだと思うのだが。

 すっと手を離した彼女は、「残ってますよ」とカレーに目を向けて言った。思い出したように、黒瀬はスプーンを動かし始めた。食べながら、「もしかして『ごちそうさま』を言うべきなのだろうか?」と思いつく。しかしなんだか小っずかしい。それに料理を主導的にやったのは自分の方で、むしろコーディは右手をずたずたにしただけだ。言う必要なんてないだろうと結論づけたが、結局食べ終わってコーディと目があった時、自然と「ごちそうさま」が口をついて出た。照明の光を反射する彼女の濡れた瞳に、幼い頃、母が向けてくれていた瞳を見たような気がしたのだ。自分でもほとんど、無意識だったが。


 彼女は不意を突かれたようで目をまん丸にしていたが、すぐに視線をどこかよくわからない方へ落として、「はい」とだけ答えた。


 それじゃ、と皿を台所に持って行こうとこの場を去りかけた黒瀬の手を、いきなりコーディが引っ張った。たたらを踏んで振り返ると、彼女は真剣な表情で黒瀬を上から下までじろじろ見つめた。なんだ? 自分が何か変な格好をしているのかと不安になって、黒瀬は思わず自分の服装を見渡す。いつものトレーニングパンツに、フードパーカーだ。何も問題はない。

「ダサいですね」

 首をひねっていた黒瀬に、彼女はぴしゃりと言い放った。

「は?」

 彼女はきっと黒瀬を見上げると、言った。

「ダサい」





ネートです」

 彼女はおそらくノリノリだったと思う。

 既にその始まりの宣言からしてそうだったが、無表情に押し隠していた本性が一気に吹き出したようで、彼女は黒瀬をオモチャのように右往左往させた。

「外を歩き回るならまず服装ですが、現在のファッションはセルコミューン状に好みが分かれ、何がより高位で何が下位で何が一般的なのもかも判別が難しい状態です。そこで、そうして分極化する前の段階のファッション傾向をベースに、モダンアレンジを加える事でクロセさんに適したファッションを見つけましょう」

 突然と真っ白な空白の空間に『インサート』された黒瀬を、ずらりと螺旋らせん状にパイプが取り囲み、そこに無数の服が押し合いへし合いしながら雪崩なだれこんで来た。すっかり異世界に迷い込んだみたいに辺りを見渡す黒瀬が動揺どうようして

「な、なにするつもりだよ」

「例えばこれ」

 いつの間にやら、奇抜なドレスを身にまとったコーディが現れ、人差し指を動かして、服の群れから一着飛び出させた。黒瀬に試着するみたいに重なる。うわっと悲鳴を上げて避けようとするが、体の全面にぴったりとはりついて離れない。

「1950年代から流行ったモッズファッションの潮流をくんだ形です。40年前の東アジア戦争時に使われたミリタリーパーカーを使って再現しています。基調は暗い色なので明るいアクセントをつけると良いでしょう」

 黒瀬を中心にして丸く円陣を組んだ色とりどりのネクタイやスカーフが、次々と順番に黒瀬の胸元を飾る。気にくわないのかコーディが無表情にため息を漏らして首を傾げると、その度に凄い速さで円陣が回転し、彼女の好みを検索するみたいに時々ぴたっと止まった。

「ふぅーん……やっぱりちょっとこっちに変えましょう」

「な、なぁ、おい」

「あぁ、これは悪くないですね。でももう少し軽い感じだと親しみやすいですし」

「こんな格好、これ……派手だろ、これ」

「表情も性格も暗いですし、雰囲気がどうしても重めなんですから、これくらい問題じゃありません。さて、これに合うアンダーと靴を探さないと。あ、動かないでくださいイメージが崩れます」

「暗いって……」

「これも悪くないんですが……」

「はぁ⁉︎ こんなの着れるわけねーだろ!」

「は? こんなものくらい着れなくて何を着るんです?」

「パーカーとトレーニングパンツ」

「あぁ、あのボロ切れ」


ボロ切れ。


「原始人が着るようなボロ切れを私の横で着るのは我慢なりません」


原始人。


「二度と口にしないでくださいね」


二度と口にするな。





ひとしきり着せ替えを”たのしんだ”あと、彼女はふーむとアゴにてをやり、

「そうですね、やっぱり最初に戻しましょう」


こいつ……


「あまり汎用性がないのはよくありませんね。デートに行くとしたらどんなシチュエーションにも映えるようでないと」

「デート!? スプリ――日和の話か!? なんだよそれ、俺は行かないって!」

「いいえ、行ってもらいます」

 彼女はぴしゃりと言って、黒瀬がそれに猛然と反論しようとすると、

「今のあなたはルサンチマンです。springは酸っぱいブドウ」

「ルサ……何? ブドウ?」

「あなたは高い所に生えているブドウが食べられなくて悔し紛れに『どうせあんなの酸っぱいに決まってる』って言っていじけてるみっともないキツネです。はっきり言って、とても、かっこわるい」

 唖然とする黒瀬を置いてけぼりにして、コーディはさらに次のジャケットを滑り込ませてくる。髪の色や目の色を変えたり遣りたい放題だ。




 翌日から次々と玄関に商品が積み重ねっていった。受け取りのサインだけで手首が痛くなってしまった。とりあえず受け取って中身をのぞくと、昨日さんざんぱら黒瀬をオモチャにしてようやく合点いったらしい服の数々が入っていた。一般家屋いっぱんかおくと比べたらはるかに広い玄関が、積み重なった衣服でいっぱいになってしまった。

「……なぁ、お前さ、服好きだろ」

「いいえ」

彼女の返事は、実になめらかなものだった。

「ただ今必要なものを、最適に選択・実行しているだけです。フードパーカーにトレーニングパンツだけで昼間に外は歩けません。これは計画のほんの一端です」

 コーディはぴしゃりと言うと、手をぱんぱん鳴らして

「さぁ、開封したら居間に並べて、実際に着てみてください」

 また試着するのか!? 黒瀬は目を剥いたが、彼女はかまうことなくさっさと居間に向かってしまった。彼は頭をかいて、積み重なった衣服の入った箱群れを見上げる。彼女に手綱を握られてる気分はウンザリする。だが反論する余地もない。そもそも舌戦は苦手なのだ。いっそどうにでもなれと、投げやりな気分だった。

 箱をいっぱいに抱えて何度も居間と玄関を往復してから、箱の中身を畳の上に並べた。殺風景だった部屋が、モノクロからカラーになったみたいにカラフルな衣服達に彩られる。コーディはその群れを歩き回りながら、ふむふむとなにやら考えている様子だ。黒瀬はスウィートスモークをくわえて、柱の一つにもたれ掛かると、その様子を眺めた。

 部屋の向こうには仏間が見える。光の当たらないあの部屋に比べると、衣服だらけのこの部屋は随分けばけばしい。こんなのは趣味じゃない。異質な物が部屋の中に入っている気分は、誰かに自室の中をのぞかれているような嫌悪感があった。だが、代わりにコーディが、楽しそうにしている。表情は動かないが、彼女の瞳が、くるくるとめまぐるしく、パステルカラーに色を変えていた。嫌悪感に埋もれていた忘れかけていた感覚が、どうにかこうにか頭をもたげてくる。

「(今、俺は誰かと一緒に住んでるんだな……)」

 部屋を誰かに明け渡す日が来るなんて、祖父が死んで以来思いもしなかった。この広い屋敷は全部祖父と自分の物で、自分の唯一の世界で、だからこそ安寧あんねいとした、誰にも邪魔されない世界だった。一人になると途端とたんに持てあましたこの広い屋敷の部屋が一つ、今彼女の手に渡っている。それで彼女が幸福そうなら、まぁ、それでいいかな、と煙をはき出した。


「デート、楽しんできてくださいね」

「だから、行かないって……」

「行くんです」

「…………」

「…………」

「…………」


「行くんです」



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