十五:寝坊の慌ただしい朝

 翌朝、榊はトントンとせわしなく部屋のドアをノックする音と禊の焦ったような呼び声で目が覚めた。

「お兄ちゃん、早く起きないと遅刻しちゃうよ!」


「――ん、あ? ――」

 ごそごそ身を動かし、呆けた頭を枕から持ち上げて首を回すと、すでにカーテンの隙間から見る太陽はかなり高く上っていた。箪笥の上の置時計を見ると8時前だ。

「――!

 うわ、やべっ!」

 慌ただしく身を起こす。妙に体に触れる服の質感が硬いから自分の体を見下ろしたら、昨夜外出する時着た服のままだ。着替えるのもすっかり忘れてそのまま眠り込んでしまった。

「悪りい禊! 起きたからもう行ってくれ!」

「――う、うん」

 禊がドア越しに戸惑ったように返事すると、少し間を置いてトントントンと階段を下りていく音が続いた。


 榊は急いでベッドから足を下ろし、慌ただしく着替える。スポーツバッグの中の教科書やノートを入れ替えた時、ふと床に落ちた古びた藁縄に目が止まった。昨夜受け取った霊縄だ。榊は一瞬迷った後、それも一緒に鞄に突っ込んだ。


 自室を出て、2階の畳の共用間に飛び込むと、ベランダから干されているバスケットユニフォームとジャージを取り込んでバッグに詰め込み、ダダダダダッと階段を急いで降りる。台所のテーブル上には榊の席の前にラップがかけられた冷めたトーストと目玉焼きが置いてあるだけで、すでに母が後片付けの洗い物をしていた。

「あら、ようやく起きたの? 朝練習にも行かずにずっと眠ってたから禊に起こしに行ってもらったのよ」

「うん、ごめん」

 榊は目玉焼きを大急ぎで口にかきこみ、牛乳で流し込んだ。トーストを手にして走り去ろうとする。

「お弁当忘れてるわよ。昨夜疲れたのかもしれないけど、部活も無理せずほどほどにね」

「うん、わかった。ありがとう」

 トーストを口にくわえて玄関で靴を履き、引き戸を開けて外に飛び出す。手で口にくわえていたパンを持ち直して齧りながら走るが、榊にとってのいつもの朝と違うのは、日が高く昇っており、街はすでに通勤、通学に向かう人たちで活発に活動を開始していることだ。気温も高い。鳥居をくぐって道路に出ると人々のざわめき声や、車のエンジン音、時に鳴らされるクラクションの音が耳を打った。いつも早朝の清涼な空気と静けさに慣れた榊にはそれらが全て自分を圧して迫ってくるように感じた。


 走って学校に向かうと、何とか朝のホームルーム前に教室に着くことができた。

「お、榊、おっはー」

 ガラッと扉を開けた榊が上気しながら教室に入ると、それを認めた美幸が机の上に足を組んで座った状態から片手を上げて、高い声で快活に挨拶した。焦りの気持ちと、ペース配分を考えなかったことからここに来るまでに榊はだいぶ息を切らしていた。

 榊は教室の中を進みながら、すれ違うクラスメートたちと挨拶を交わす。奥の自席に近づくと、机の上に突っ伏したままの里がだるそうな目で軽く顔を上げた。加代子は後ろの美幸の方に向かって座ったまま、近づいてくる榊に挨拶する。

「榊君、おはよう」

「おう、おはよう」

 榊は誰ともなしに三人にまとめて挨拶した。


 汗をかき、息を切らした体の上にしわくちゃに乱れた服装を着ている榊の様子を見た美幸が目を細めた。

「――ん、ん~?」

 眉根を寄せて口を平たく横に広げて引き結んでいる。


「あんた、朝会わなかったけどひょっとして今登校したとこ? もしかして朝練休んだ?」

 美幸の言葉を聞いた加代子が意外そうな顔で榊を見る。再び机に突っ伏していた里もちらりと興味深そうに榊の方を見上げた。

「――あ、ああ、昨夜ちょっと色々あってな。夜寝るのが遅くなってそのまま寝過ごしちまった」

「ふ~ん……」

 顔は戻したが、なおも少し目を細めたままじろじろと榊の方を見つめ続ける。理由は呑み込めたが、納得いかないという表情だ。


「エロゲでもやってたか」

 榊の後ろの席でぼそっと里が呟く。すると机の上に座る美幸が体ごと里の方に向き、強い剣幕で怒鳴りつけた。

「あんたねえ、榊はそんな人間じゃないの!」

 それを受けた里は、亀が内にこもるように腕を曲げてその中に頭をうつぶせに閉じ込めた。榊はそのやりとりの脇で、スポーツバッグから授業に使う一式を取り出して机に入れ(バッグに放り込んだ縄が外に飛び出して周りの目を引かないよう注意深くした)、後ろのロッカーにバッグを運ぶ。

 ――エロゲか――榊は思った。――エロゲはやったことがないが、里から聞く話や、色々なところから断片的に得る情報からどんなものかはおぼろげに理解している。月夜の下の神社で着物を着た美少女の神の化身と話すなど、まさにエロゲの展開でしかない。今思い返しても、月明かりの下比恵が立つ姿は、里が前見せてくれた雑誌のエロゲ画像(一枚絵とか言っていた)と同じ一幅の絵だった。彼女の美しさを思うと意識がとりとめもなくさまよいそうだったが、一日をそれで過ごすわけにいかないと、榊は努めて考えないようにした。それでも、そのあまりに幻想的な出会いに、彼の頭は朝の教室の騒がしい喧騒から時に離れていた。そんな彼が机に教科書やノートやらを入れている時から心ここにあらずといった風ということに気づいた美幸は、途中で亀になって身を守った里へ怒りを向けるのをやめて、訝しさと不満の入り混じった目でじっと隣の席の榊の方を見据えた。


 ホームルーム開始のチャイムが鳴って田畑教師が入ってきた。教室内の皆はあわただしく自席に戻るか、きちんと座り直す。美幸もぴょこんと机から床に着地して椅子に座り直すが、その間もぼーっとした榊の方をかすかに眉をひそめて見つめたままだった。

「あー、今日もホームルームを始める前に一つ。昨日朝に言った不審者騒ぎだが、昨夜も現れたそうだ」


 榊が頬杖をついた頭をびくっと持ち上げた。目を見開き、まじまじと教壇に立った田畑の方を見つめる。昨夜榊自身が襲われたのは十時前くらいの時間だ。あれからあの取り憑かれた男が伯母の家付近で人を襲ったのか。

「十二時ごろ、駅前の方で二十代の背の高い若い男が三十代のサラリーマンを襲い、サラリーマンは大事はないが、一時的に病院に搬送されたそうだ。男は逃げ出し、捕まっていないようだが、皆も暗くなってからはあまり外を出歩かないように」


 榊は頬杖から頭を浮かせたまま、口を開けて呆然と、前に視線を向けながらショックを受けていた。昨夜比恵から説明を受けていた通りだが、ナミカゲが一体だけでなくいろんな人間に取り憑き、しかも現実に被害者を出しているという事態がやっと呑み込めた。この街は思った以上に危険に晒されているようだ。

 今しがたの話に驚きの眼差しで担任教師の方を見つめる彼を、美幸は隣の席から険しい顔でじっと見つめ続けていた。

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