十:少女比恵

 榊は後方3メートルほどの距離に突如音もなく現れた少女の姿に一瞬びくっとしたが、なぜかは知らないが、それほどの恐怖は感じず、すぐに落ち着いて相手を観察することができた。

 それは相手の容姿にあったのかもしれない。顔つきや骨格の感じは14~5歳ほどだが、身長は150センチそこそこしかなく、長い袖と地面に余る豊かな裾を持った赤い着物を着ている。物静かにじっと目を閉じているのだが、その小さな顔の作りは恐ろしく整っていた。顎の先にかけて収まってゆく細い面立ちで、小さい鼻の筋はよく通っている。閉じられた小さな口の唇は濃い紅色で、細い眉は閉じた眼に合わせて緩やかに眉尻に向かって下がっており、睫毛は長く、涼やかな目元だった。月明かりの下で見る色白の肌はきめ細やかさの中にもぴんとした張りがある。とてつもなく長い黒髪をしており、肩の前後を通って下がった髪は地面についてもなお数十センチも余り、それらは地面の上で、頭上の月明かりの強い光を濡れたような瑞々しい黒で反射しながらばらけて横たわっていた。妹と同じほどの年齢で、しかも随分な小柄のため、異性として見るには遠いはずだったのに、その小さく華奢な身体にまとめられた各要素があまりに調和して統合されているため、そのじっと目を閉じたまま物言わぬ顔を見つめているうちに榊の心臓はどきどきいい、息も荒くなってきた。


 少女は目を穏やかに閉じたままじっと顔を榊の方に向けていたが、やがて、

「‘ナミカゲ’に襲われたようですね?」

小さな口を少し開いて声を出した。細い声なのだが、鈴のように高く張りがあり、その響きは榊の耳に心地よく届いた。


 榊は少女の容姿と声にぼーっと心を奪われていたが、数秒して頭の中で無意識に何度も反芻されていた相手の言葉からその蠱惑的な響きの要素を取り去り、ようやく意味を抽出して文内容を理解するに至った。とはいっても、依然何のことを言っているのかわからない。


「――え、えと、ナミカゲって?」

 ようやく声を出した。


 少女はもし目が開いていれば視線を榊の目に向けていたであろう顔の角度でじっと榊の発言を待っていたが、

「放浪する翳――浪翳ナミカゲです。私には見えます、あなたの体全体に薄くついた陰の気の残滓が――。特に左手首と右足首に強くまとわりついていますね」

途中でちらと榊の顔から目を逸らし、体の指摘した箇所に閉じたままの目の視線を移した。


「えっ?」

 榊は慌てて言われた場所を見たが、別段変わりがあるようには見えない。

「無理です。残った陰の気そのものは普通の人間には見えないのですから」

 少女は穏やかながらもきっぱりした声で言った。やや顔を俯け、眉を少し吊り上げて厳しい面立ちを作った今も目は閉じられたままで、榊はこの少女はずっと目を閉じたままなのだと気づいた。


 少女は続けた。

「申し遅れました。私の名前は比恵ヒエと申します。この今は朽ち果てた神社の――彼女はぐるりと辺りを見渡して示して見せた――山の神様を助ける配祀神をしておりました」

 彼女は細い腕を持ち上げ、境内の入り口から向かって右の奥手にある巨大なイチョウの木を指差して見せたが、その時もう一方の手で軽くたくし上げた着物の豊かな袖がしゅるりと滑って腰辺りに斜めに垂れた。


 榊の頭脳は、少女が日常で慣れ親しんだ言葉を使うによってようやく普段の正常な働きを取り戻してきた。配祀神とは――普段榊の周囲では配神と呼ぶことが多いが――、神社で中心的に祭られている主祭神――主神――に添えて祭られているその他の神様のことだ。恐らく比恵と名乗った彼女が指差したイチョウの木がその本体で――


「――神様!?」

思わず素っ頓狂な声を出してしまった。

 目を見開いて見つめる榊にじっと黙って‘視線’を合わせていたが、

「はい、そうです。今の人は信じがたいとは思いますが、今はこうして山の神様がいなくなったこの神社を一人守っております」

両手を体の前に揃え、ぺこりと頭を下げた。


 榊は少女の美しさに魅惑されながらも、まじまじと驚きの目で見つめる。そんな彼に対して比恵がさらに口を開く。

「あなたは響美神社の方ですね?」

「!?」

 驚いて一瞬後じさりした。そんな榊に対して比恵は少し困ったように眉を顰め、慌てて言葉を継ぐ。榊は驚きと、自分の素性を見透かされたことに対する若干の恐怖からも、彼女のそういった仕草が可愛いと思った。

「――驚かせてすみません。あなたの体から発する気がとてもよく知っているものでしたので――。あなたの響美の狸の神様と私たちはとても仲良くさせていただいておりましたのよ」

 足を踏み出し両手を持ち上げて、初めて見せる焦った体全体の激しい動きに榊は親しみを覚え、初めて彼は彼女に接することに安らいだ落ち着きを見出すことができた。

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