十一:ナミカゲ

「で、ナミカゲって?」

 比恵が慌てふためくさまを見ているうちに心の落ち着きを取り戻した榊は、自分から話題を戻す余裕を手に入れた。今は顔に軽い笑みのようなものも浮いている。


 比恵はピタッと軽く振り回していた腕を止めると、一歩踏み出した片足を元の位置に行儀よく戻し、拳を口に当ててコホンと咳払いした。顔は取り乱したことを恥じるかのように少し眉が吊り上がって、無理に取り繕ったように見えた。

「――失礼しました……。ナミカゲとは名の通り、あちこちに漂う陰の気なのですが、元は人間の憎しみや恨み、嫉妬といった負の感情から生まれるのです。それが心に隙がある人間に取り憑き、その人間を操るというわけです」

 今ではすっかりまた元の物静かな様子を取り戻している。榊は話を聞いているうちに少し合点がいってきた。彼女は続ける。


「そのナミカゲは日があるうちは宿主の奥深くに潜み、取り憑かれた人間も意識を奪われることなく、普通の日常生活を送れます。しかし夜になると表面に表れ出て宿主を操り、そこらの人間を襲って精気を吸い、自らの糧とします。奪われた人間は衰弱はしますが、その時点ではよほどのことがない限り死ぬことはありません。精気をあちこちで吸い、充分に成長したナミカゲが内部より宿主の体を食い破ると――これは臓腑の疾患と外の目には映りますが――最後には利用された宿主は死に、分裂して増えたナミカゲは外に出ることでまた夜闇の中を漂い、取り憑く相手を探すのです」


 その話を聞いて榊は今は完全に納得した。黒い消し炭のようなものが表面に表れたナミカゲで、あの男は操られていたのだ。どう考えても平凡なサラリーマンといった風体の男で、だいそれた犯罪を起こすようには見えなかった。それを仕方がない事とはいえ、容赦なく頭部にハイキックを見舞ったことを榊は胸にチクリと少し後悔した。

 今説明を受けた内容と、先ほどの恐ろしい体験、近頃話題になった不審者騒ぎのことなどを互いに突き合わせて思いを巡らせた榊だが、ふと疑問が湧いた。


「そのナミカゲってのは昔から? 最近ここらでそれが原因らしい不審者騒ぎが起こり始めたのは数ヶ月前の事だけど。それに、そんな話他所でも聞いた事ないけど」

「そこです」比恵はこくりと頷いた。「ナミカゲの発生自体は昔から特殊な条件がある各所で起こっています――この町でも発生源に心当たりがないでもないですが――。しかし、いずれにせよあちこちを飛び回ったり、人に取り憑くほどの力を持つに至ることはまれでした。――ただ、去年南の櫛野神社の御神木の楠様が落雷でやられたでしょう」

 榊ははっとした。あれは神社関係だけでなく、街全体の話題になった。真っ二つになったうちの半分が折れて倒れ、もう半分は生き残ったのだ。割れた断面から新たな芽が生えてきたが、痛ましい事だった。幹に巻かれていたしめ縄も完全に焼き切れてしまったのだ。

「――それによって主祭神である楠様が力を失われ、現在休養に入られたため、街全体の霊場の力が弱まり、ナミカゲが自由に動き回れるようになったのです。楠様が充分に力を取り戻されるまで、まだ当分この状況が続くでしょう」


「なるほど……」

 榊はごくりと唾を飲んだ。先ほどまでただ何となく自分や周囲が巻き込まれるかもしれない物騒なことが時々街で起きている程度にしか考えていなかったが、思ったよりはるかにこの街は危険な状態に陥っているらしい。何よりそれまで普通に過ごしていた人々が突如取り憑かれ、操られるというのが恐ろしい。先の目をむき、呻き声を上げていた男性の朝昼過ごしているであろう平凡な生活とのギャップを思うと、榊は取り憑いたナミカゲへの嫌悪からぞくりと怖気をふるうのを感じた。

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