九:打ち捨てられた神社

 滅茶苦茶に走って逃げた。伯母の家に飛び込むことは考えなかった。親戚の暖かい家庭の中にあの得体の知れないものを持ち込むのが怖かったのだ。そこらの狭い坂道や階段を、あの男から逃れたい一心で必死に駆け上って走り回った。普段からランニングで基礎体力をつけていることが心強かった。いくらでも走れる。


 走って走って走って――


 いつのまにか住宅が建ち並んだこの丘のてっぺん近くまで来ていた。ここもアスファルトで舗装された道路は通っているが、人家が建ち並んでいるのは下の方だ。今上ってきた道がさらに先に続いて向かい側に下り降りる形になっている。ここも申し訳程度にぽつんと一本だけ街灯が立っているが、都合よく雲間が晴れ、月明かりが上から差してきた。小山の上から見る月明かりの光景は幻想的で、手前の方はあちこちに生い茂る植物を照らしてその葉の緑を瑞々しく浮かび上がらせ、目を先に転じて今や相当な高さのこの場所から遮るものもなく下の街の眺望を見下ろすと、ビルや家庭の光がまばゆく光る街を、月が高くより柔らかな光を投げかけ一面照らし出す様は光の海に沈んだ中を覗き込むようであった。視線を上げ、はるか地平にある山々の丘陵を見通し、さらに上の、視界の多くを占める夜空に浮かんだ雲に月の光が淡く反射しているところを見ると、榊の心は徐々に落ち着き、癒された。風が吹き、走り続けることによって火照った体に浮いた汗にかかることで彼の体を心地よく冷やした。こうやってここに立ち尽くして月明かりの風景を眺めていると、先ほどまでの体験が嘘のようだった。白く光る月明かりの様と黒い男の対比が一層そう思わせるのかもしれなかった。


 緑がこんもりと繁った小山がさらに小高く今いる丘の頂上部にあり、ふと気づくとその裾の縁に小さな鳥居が立っている。むき出しの木の表面はささくれ立ち、ところどころ腐ってぼろぼろでまだ崩れていないのが不思議なほどだった。鬱蒼とした木立の中に立つそれの内を覗き込むと、月明かりを通して、地面を削って作られた段差に細い丸太を組み合わせた木枠で固めて作られた体の、幅の狭い階段が上に向かって続いている。どうやらもうずっと放置されている廃神社らしい。


 榊は何となく入ってみることにした。また月が雲に閉ざされれば、灯りのない木立に覆われた参道は真っ暗闇になるが、その危険を押しても入ってみようという気にさせた。一つは神社の家に生まれた息子としての好奇心からであり、もう一つは先ほどの恐ろしい体験からの心を落ち着ける拠り所を得たいという思いからだった。やはり彼にとって神社は特別な存在であった。


 腐葉土と樹々の香りがつーんと匂う参道を、段差の不規則な階段で登っていくと、下が土の地面の開けた広場に出た。頭上はかっぽりと開け、月とその光を反射する雲が浮かぶ夜空を見上げられる。正面には拝殿もあり、込み入った林の中の暗がりを予想していた榊には予期せぬ開放感であった。


 広場を少し進み、月明かりの下きょろきょろ辺りを見渡していると、来た参道の方に振り向いた途端、ザァッと強い風が上空を吹いた。ざわざわと広場を覆う林の木々が大きく揺れる。ふと振り向くとそこに少女が立っていた。

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