八:得体の知れなさからの逃走

 ガクンと相手が膝をついて倒れ込んだ。素人の榊でも格闘技についてかじった知識でわかる。脳が揺らされて、足腰を支える筋肉への神経の伝達が遮断されたのだ。両手を地面について倒れている相手を見て榊は一瞬躊躇した。彼は本来暴力を好む男ではない。このまま誰か人を呼ぶべきか。しかし早くも片手を上げ、ゆっくりと震える膝を立てようとする相手を見て榊は決心がついた。このままだとどこかに逃げられるかもしれない。それに、さっきは気づかなかったが、このむいた目、呻き声は何かの薬中患者かも知れない。だとしたら先ほど与えたダメージからもすぐに回復してしまうだろう。そうなったら手遅れだ。激昂した相手は何をするかわからない。今ここでとどめを刺しておかなければ。ちらと再び榊の脳裏に愛する妹の禊の笑顔が浮かんだ。相変わらず男の全身を覆う靄のような黒さが不気味ではあるが。


 榊は再びもう一歩左足を踏み込み、利き足の右足で地面から数十センチのところにある相手の頭を思いっきり蹴り上げた――サッカーボールキックだ。これで気を失わせるか行動不能にしてそれから人を呼べばいい。


「――えっ?」


 我ながら間抜けな声を上げたものだと思う――それもこんな喧嘩中にだ。しかし、思わず声を漏らさずにはおられなかった。――彼が思いっきり振り上げた足は空を切ったのだ。それも相手の予期せぬ動きでかわされたとか、自分が狙いを外したというのではない。右足は確かに相手の顔面の位置に入った。――しかしそのままそこでぶつからずに、‘入った’という比喩表現そのままに、相手の顔面を通って頭をすり抜けてゆき――そのまま最後の踵ごと完全に相手の頭を通り抜けてしまった。榊の驚きの声はまず予期した衝撃の手応えが足に伝わらなかったこと――そして、それを確認するために改めてよく見やったら、視覚的にもあり得ないことに、相手の頭を足がするっとすり抜けてしまったことからだった。


 ガシッと相手の上に上げていた左手で足首を下から掴まれると、榊は青ざめた。相手の体を通り抜けたありえない出来事は今はともかく、この状態は確実にやばい。このまま相手に掴んだ足を持ち上げて前に進まれたら、片足の彼はバランスを崩して転倒させられるし、――この相手に限ってなさそうだが――引き倒してヒールホールドなどの関節技――榊はやはり、学校仲間と時々ふざけて行う格闘ごっこで、それらの技を互いにかけ合ったりすることで覚えていた――にも入られるかもしれない。しかし彼にとって幸いなことに、相手はそのままフーフー荒い息をついてゆっくり膝をついて立ち上がりはしたが、彼の足首をどうこうすることなく、途中で一度掴んだ左手のまま指を動かし、持ち替えて掴み直しただけで、地面の低い所に榊の足首を留めたままだった。


「――放せっ! 放せっ!」

 バランスを失った体勢のまま、榊は右足を必死に膝や股関節を曲げたり伸ばしたりしてもぎ取ろうとする。しかし、相手の身長に見合った小さな手の握りは意外に強くガッチリ握って離さない。


「――ッ!」

 榊は空いた左足をけんけんのようにピョンと前に跳び進めて、左拳で相手の顔面を握った。――が、それはまたしても相手の顔面をすり抜けた。

 ガシッ。今度は相手が右手で榊の左手首を掴んだ。榊は右足と左腕を相手に掴まれ、完全に体の自由を失ったことになる。バスケの筋トレで鍛えた体幹の強さで何とかバランスを失わず立ち続けられている程度だ。右拳で必死に相手の顔面を殴るが、それも空しく宙を切るばかりだ。相手がハァハァ言いながらぬぅっと黒い顔面を近づけてくると、生温かく、ヤニ臭い口臭が顔にかかった。


「――~ッッ!!」

 榊はもう無我夢中にもがいた。全身をねじりながら、ぶんぶん掴まれた右足と左手を振り回す。と、肘を強く曲げた拍子で左手首が外れ、続いて踵を大きく引きつけて足首を曲げたら右足が外れた。相手は掴んだ手首と足首をもぎ取られたが、特に改めて先ほどの有利な状況を再現するために襲い直すという事をせずに口を半開きにし、ぼーっとしている。まるで榊を襲ったのは何らかの本能によるものだが、格闘に関する技術スキルを持ち合わせるわけでなく、ただ、その稚拙な戦術のまま、その時その時の行き当たりばったりで相手に向かっているというだけで、改めて掴んだ攻めを振りほどかれると、どうするかの先の見通しが立たず、判断停止したかのようだった。


 ダッと振り向いて走って逃げた。全身が怖気だっている。体毛も髪の毛も逆立っている。とにかく怖かった。恐ろしかった。瞳孔は見開き、歯がガチガチいっている。後ろの方で相手の、『あ~』という低い呻き声が聞こえた気がするが、もう構わなかった。ただただその場から走って逃げ出したかった。

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