七:不穏な黒い男との格闘
夜9時40分。妙子伯母の家の玄関の引き戸を開けて、外に出る榊。
「わざわざありがとうね、榊ちゃん」
「おう、また来いよ」
伯母夫婦の労いの言葉を受けて榊は玄関を後にした。この辺りは敷地が広い上、敷地内で植物を育てている家が多く、伯母夫婦の家でもタイルの敷石が敷き詰められた玄関前の道の上に様々な植物が枝と葉を両側から鬱蒼と繁らせ、翳を作っていた。家から届くの明かりも玄関道の中ほどまで来るとそれらの植物に遮られる形で弱くしか届かず、さらに緑のトンネルをくぐって門から外の道路に出ると周囲は闇に多く覆われていた。丘の上のここらへんは街灯が少なく、今榊が立っている場所からも目には入るが、間隔が離れているためその光はうっすらとしか届かない。住民たちの平均年齢が高く、夜は早めに就寝する家が多いため、各戸から発せられる生活の明りも少なく、月も今は厚い雲に覆われていた。
初夏の時期のこの夜分、緑が多く、むき出しの土が地面を多く占める丘の上の住宅地は少し冷え込む。自宅を出るときに薄手のジャケットを着てきた榊だったが、目の前に広がる暗鬱たる風景に改めてぶるっと身を震わせた。明日の朝練習のことも考え、急ぐ足取りで自宅へと下る道を取る。
と、坂の起伏が激しく、入り組んだこの辺りの細道の一つをズボンのポケットに両手を突っ込んで歩いてひょいと曲がると、黒々した道に一本だけ立っている街灯の下に、何やら背の低く腰を屈めた黒い人影らしき物体が立っているのが見えた。
びくっとする榊。ポケットに両手を突っ込んだまま思わず背筋を伸ばし、一瞬後じさりかけた。スポーツのために日々体を鍛え、加えて心身が充実していく伸び盛りの高校一年生の年齢の彼にはそれなりに血気もある。しかしそれでも両側の塀や空き地から草木が生い茂って伸びた、人気のない暗い道に何をするともなくただぽつんと立っている人影を見るのは不気味であった。
道の入り際で立ち尽くして相手を観察する榊。いつの間にか背筋を冷たいものが走り、両手はそっとポケットから抜き放されていた。よく見ると男は身長は160センチほど。髪の頭頂部が禿げ上がっており、何やら眼鏡をかけ、スーツを着ているように見える。見える、というのは男の体全体が消し炭のように黒く、真下の男を照らす街灯の光でようやく輪郭の細部が見分けられるというところだからだ。男は腰を曲げて顔を俯け、両手をだらんと下げた状態でじっと光の照らされた地面の辺りを見つめている。
『あー、あー』
地面のあらぬ方を見ていた男が奇妙な呻き声を上げると、じっと観察されているのに気付いたのか、ゆっくり頭をもたげ、そちらを見る榊の方に顔を振り向けた。両腕を持ち上げて、榊の方に差し伸ばしながらゆっくりと歩いてくる。黒い輪郭からも、うっすらと眼鏡越しの目がぐるんと上向いているのがわかる。今や全体黒の微妙な色調の違いから判別するしかないが、通常なら‘白目をむいている’というやつだろう。
『あー、あー』
今や榊ははっきり恐怖していた。背筋ばかりか、胸の筋肉までぞわぞわして、微妙に呼吸を圧迫して息遣いが浅く、荒くなっている。体中の毛もちりちりしており、榊は思った。逃げたい、逃げたい、逃げたい。
しかしそこで榊は思い留まった。家に帰るにはこの道が最短で、しかも通い慣れている。この辺りの起伏に富み、坂と狭い階段が入り組んだ道を暗い中通ると、転んだりしてどんな怪我をしないとも限らない。そして何といっても彼の若い血気溢れる反撥精神が、その場から身を翻して逃げ出させることを拒否させた。以前禊が持って帰った、PTAのプリントに描かれた人相描きの絵と文章で書かれた特徴と合致している。昼間美幸と幸子が言っていたのとは違うが、それはともかく現に目の前のこの男が危険人物なのには違いない。榊は別段社会悪を倒してヒーローになりたいという妄想をする男ではなかったが、禊や美幸たちのためにも今のうちに倒して警察に引き渡す方がいい。榊は決意すると、眉を上げぐっと相手を睨みつけて、両手を拳に握って持ち上げ、体全体をアップライトに構えた。
震えが止まった。正直まだ怖くないわけではなかったが、よく見ると相手は自分よりはるかに背が低い上に、体中の肉がたるんでおり(黒い輪郭からもそれはわかる)、動きは緩慢だ。恐怖の元は白目をむいたまま、訳のわからない呻き声を上げてこんな夜中に迫ってくる得体の知れなさだが、それさえ何とか克服すれば常識で考えて勝てない相手ではない。
『うー、あー』
相手が近づいてくる。昔友達の家でやったテレビゲームのゾンビの動きそっくりだ。緩慢で腕を伸ばしてゆっくり迫ってきて――
きっと相手を睨みつけて観察し、攻撃のチャンスを窺っているうちに、最後に残った恐怖も飛んで行った。行動に向かう集中力だけが榊を支配している。格闘技を習ったことはないし、喧嘩も小学生の頃以来したことはないが、中学時代から今も、クラスメイトや部活仲間と遊びでしている格闘技ごっこである程度のコツは掴んでいるつもりだ。無論きちんと習った相手に通用するはずもないが、この相手なら確実に何とかなる。足はいつの間にかテレビの試合で見たステップを真似てピョンピョン飛び跳ねていた。
『あー、あぁ~』
――今!
榊は左足を一歩踏み込むと、右足を大きく上げ、相手の頭に叩き付けた。馬鹿のようにだらんと手を伸ばしたままの相手は一切防御する術を持たず、まともに側頭に蹴りが入った。素人の自分でもわかる――いい蹴りだ。腰が入り、軸足にきちんと重心が乗った状態から体全体の重みがまともに相手の頭に衝撃を与える。今まで友人との格闘技ごっこでは頭に入れるどころか、相手に腕でガードしてもらってすら本気で蹴りつけたことはないが、相手に食い込んだ足の甲のヒット部から来る腰へのじわっとした衝撃の手応えは、常々榊が本気で相手を蹴ったらそうであろうと想像していたものと同じであった。
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