四:朝のホームルーム

 榊が扉を引き開けて教室に入ると、すでにほとんどが登校を終えた生徒達が集うクラスの中は雑多な喧噪で包まれていた。生徒たちは仲の良い友人と集まって話したり、自席で一人で本を読んだり、両肘を突いた手で宙を仰いだ頭を支えてぼーっとしたりと、それぞれ朝のホームルーム開始までの短い時間を思い思い自由なことをして過ごしている。一角では数人の男子生徒が集まってじゃれ合ってプロレスごっこのようなことをしており、時々どっと歓声と笑い声が上がった。甲高く話される声の他、時々キーッやギギーッっといった机や椅子が押し引きで移動する際、脚が木の床をこする音が響いた。


「榊、おっはー」

 教室の左から二番目、最後列の一つ前の自席に近づく榊を認めて、左隣の席の美幸が腰を少し浮かせ、片手をやや曲げて差し上げて明るい顔で言った。朝練習で汗を流してきたからか、肌は生き生きしており、大きな目も輝き、快活気だ。いつも明るく元気な彼女だが、やはり運動後は格別らしい。軽く胸元のボタンを開けたリボンを付けた襟首、腕を持ち上げた際、ちらと半袖の白いYシャツの制服から覗く上腕の脇近くの部分が爽やかな印象を与える。


「さっきも挨拶しただろ」

 ドサとスポーツバッグを机の上に落とし置き、椅子を引いて榊が席に座りながら横目で美幸に答える。

「もーっ、こういうのはノリが大事なんだよ。何度でも言っていいの」

 机の中に教科書などをしまう作業をしている榊に対し、美幸が挨拶に使ったのと別の方の右手を握り拳にして空中でぶんぶん振り、彼の背中をポカポカ叩くような仕草をして軽く拗ねたような表情をした。

「二人ともさっきまで朝練? よくやるな」


 榊の後ろの最後列の席で川口里さとが座ったまま両腕を投げ出し、だらしなく上半身を机の上に寝そべらせるような姿勢のまま訊いてきた。頭を重ねた手の上に立てて、前の席の榊を見ている。里の左の席――教室の一番左後ろに当たる場所――には机が置いておらず、彼のいる席が美幸の席と共に、教室の一番奥の端に位置することになる。もっとも、いつもだらしない彼にとっては最後列のこの位置がまさにベストポジションなのだろうと思われた。

 榊は椅子に腕を掛けて体全体を左の美幸の方に向け、そちらとの会話にも対応できるようにしながら、首を後ろの里の方に振り向けて言う。

「お前はいつもめんどくさそうだな」

「んー、まあなあ。だるいし」


 里は眼鏡をかけた眼を力なくとろんとさせながら答える。里は榊にとって高校になってからできた友人で、顔の輪郭は四角に近く、頭はやや短めに切った黒髪を上にところどころ立てている。これが果たしてファッションとしてなのか、単に朝起きた際ついていた寝癖を完全に寝かす作業をめんどくさがって途中で放置したものなのか、榊にはわからなかった。恐らくは多少とも前者の意味合いを含めての後者なのかもしれなかった。いつもだるそうにしてはいるが、成績は悪くはなく、運動もどちらかといえば得意な方だった。あと、アニメや‘エロゲー’などの趣味があると話していたが、積極的に話題に乗せることはなく、誰かが話を振ったら答える程度だった。そういう時、体全体を纏うけだるさは消え、やや目も光を持つが、それでも決して度を越して熱くなってしゃべり続けるようなことはない。まるで自分で、他人に自分の趣味の話題で対応する際の臨界点を無意識に定めているかのようで、ある程度まで来ると途端にまた普段の無気力な調子に戻るのだ。節度があると言えば言えるのかもしれなかった。榊が今までに知った何人かの‘オタク’とはやや性質が違うらしく、ひょっとすると一人でひそかに黙々と、他人と積極的に共有しようとすることなく趣味と向かい合う。これこそが本当のオタクなのかとも思いもする反面、単に無気力から来るかもしれないこういう性質をあまり持ち上げて評価するのもおかしいかとも考えていた。


「あ~、一時間目古文か~」

 頭を投げ出した手の上に乗せながら、軽く頭と眼を天井に振り仰いで里が声を出す。

「お前古文は苦手じゃないだろ」

「そうだけど、ちょっとめんどいじゃん。お前はすらすら何でも分かってるよな。やっぱあれか――?」

「榊は神社の神主さんの息子だもんね!」

 美幸が席から少し身を乗り出して、里がしゃべっている途中に強引に割り込んできた。里はちらと美幸を見ると、後の会話は任せるというように目を軽く閉じて、手に乗せた顎と首をだらんとした。

「あー、小さい頃からいろいろ古文書とか見せられたり話聞かされたりしたからな。将来跡継いで神主になるかは知らないけど、一応今もちょこちょこ本とかで勉強はしてるんだ」

「え~、なになに~。天海君の神社の話? 響美ひびみ神社だっけ? 神主さんの息子さんってすごいね~」


 美幸の前の席の黒田加代子が後ろを向いて話しかけてきた。首辺りまでかかるショートヘアで眼鏡をかけている。顔立ちは整っているが、全体に特徴がなく、地味で大人しい感じの子だ。美術部所属だが、美幸とは高校入学後すぐに仲良くなり、自分から積極的に男子に話しかけることはないが、こうやって美幸が榊達と話していると、それに加わる感じで話に入ってくる。クラスでは席の近いこの4人同士で話をすることが多かった。


「まあ、神主ったってうちの小さい神社じゃそれだけじゃやっていけないし、普段はサラリーマン勤めだけどな。妹がよく手伝ってるんだ」

「えー、巫女さんってことー? いいなー」

「そうそう! 禊ちゃんすっごく可愛いのよ!」

 またも目を輝かせて美幸が大声で割り込んでくる。

「可愛いし、頭も良いし、素直でいい子だし、ほんと私の妹に欲しいぐらい!」

「お前なあ――」

 榊がたしなめるように口を開き始めると、それまで半分眠っているようだった里が薄く眼を開き、

「榊も禊も神社や神道の用語だよな?」

口を出してきた。

「――え、ああ、まあな――」

 いきなりの里の発言に意外そうに目をやる三人。里は今は目をはっきり開き、上目づかいに三人の方を見ている。

「榊は神事に用いる植物で、禊は自分の体を水で洗い清めることだっけ」

「――おお、よく知ってるな」

 ちょっと頭を引き、驚きを示して榊が答える。美幸と加代子もも目を丸くして里の意外な知識の披露に驚いた。


「エロゲで覚えた」

 言うと、また顎と首の力を抜いてこてんと頭を重ねた手の上にゆだねて目を閉じた。三人を沈黙が覆う。


「はい、みんなー。席に着いてー」

 チャイムが鳴ると同時に、教室に入ってきた担任の田畑教師が教壇の上に出席簿を置いてその後ろに立ち、声を上げた。40位の年齢で、身長は180センチほど。肩幅が広くがっちりしており、四角い顔立ちに角刈りの頭が威圧的な風貌だが、草食動物を思わせるクリッとした目がその印象を大分やわらげており、体の他の部分とのギャップでかえっておかしみを感じさせるもととなっていた。榊自身は口にしたことはないが、一部生徒の間で『カバ』というあだ名がついているらしい。まだ席に着きそこねた生徒達が会話を中断して慌ただしく自席に戻るのを見渡して待っている。そのまま寝ている里を別として、三人も急いで前に向き直り、椅子を前に引き寄せてきちんと席に着き直す。


 皆が席に着いたのを確認すると、教室を見渡しながら口を開く。

「えー、これからホームルームだが、その前にまず一言。以前から報告が寄せられている不審者情報だが、昨夜もうちの生徒ではないが、目撃があったそうだ。皆も夜道には気を付けるように。では、これからホームルームを行う――」

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