五:昼休み

 チャイムの音が鳴って授業が終わり、昼休みとなった。教師がテクストを鞄にしまい、出席簿を持って教壇から降り、教室から出ていく。ベルが鳴り始めた頃は皆黙って、それぞれノートや教科書を閉じ、筆箱に筆記用具を入れて、机の中に仕舞うガサガサやカチャカチャいう音が時々椅子や机が床に軋む音に混じって聞こえるだけだったが、教師が教室から出ていく頃になると、「あ~、終わった~」「ねぇ、ご飯どこで食べる?」などの声があちこちから漏れ上り、友人に話しかけるために左右後ろに体を振り向けるほか、単純に長時間座り続けることによる体全体の凝り固まりをほぐすために、腕や脚や背中を座ったまま思い切り伸ばす者もおり、それまで黙って授業を聞き、黒板と机の間を頭を縦に振り動かすだけだった生徒達が、今自由にしゃべり、動き出すさまは運動を抑えられていた分子が激しい動きを開始し、域内の温度を急激に上げるかのようだった。教室内の空気が活気を帯びたものになり、今や皆がやがやと楽しそうにしゃべり、購買にパンを買いに行ったり、トイレに行くのか、さっそく立ち上がっては思い思いに教室を出ていく者達もいる。近くの教室からも廊下を通して騒がしい噪音が聞こえてきた。


 トントンと教科書とノートを縦に持って下端を机に打ち付けてきれいに重ね合わせを揃え、机に仕舞い直す美幸。

「さて、ご飯ご飯。榊はどうすんの?」

「あ~、俺今日はここで食うわ。何か風が気持ちいいし」

 美幸の後ろの開け放された窓からふわっと風が入ってくる。初夏のしっとりした若い緑の香りを含んだ瑞々しく、とても柔らかい風だ。真昼となった今の時間は太陽の勢いも強まり、窓から見下ろせる敷地内のアスファルトを叩き付ける陽光の眩しい照り返しが、そこから発するむわっとした熱を示唆し、緑に覆われていないところの数多い校内の敷地の熱による過ごし難さを予想させていた。


 榊が覗き込むようにした階下の外の敷地を合わせるように首を振り向けてチラと見た美幸は言わんとするところを理解したらしく、

「そうね、じゃああたしもここで食べる。日陰で涼しいし」

大きな目を開き、パッと顔を明るくして答える。口を大きく開けた際白い歯が見えた。

「え~、美幸がここで食べるんならあたしも一緒に食べる」

「外に行くのはだるいしな~」

 加代子が後ろを向きながら答え、授業が終わると早くも机の上に腕を投げ出し、その上に頭を横たえていた里もこもった低い声を上げた。

 それぞれ後ろのロッカーに各自持参の弁当を取りに行き、机をお互い突きつけ合わせて席に着く。 


「ね、そういえば不審者ってどんなんだろうね」

 可愛らしく切られたたこさんウィンナーを箸で口に放り込みながら美幸がふと口をきいた。朝のホームルーム前に担任が口にしたことについて言っている。

「そういや、うちの禊もPTAからだって学校で配られた不審者注意のプリント持って帰ってきてたな」

「え~、怖~い。どんな人なんだろう。やっぱ痴漢とか? あっ、刃物振り回したりして。怖~い」

 加代子が自分で自分の言った想像に怯えて、箸でおかずをつまみながら縮み上がっている。

「ん~、禊がもらってきたプリントには4~50くらいの禿げたちびっこいスーツ着たサラリーマンの絵が描かれてたけどな。なんでも『あ~』とか『う~』とか唸るんだとよ」

「え~、あたしが聞いた話じゃ若いOLさんだって」

 おかずを箸でひょいひょいつまみながら次々口に放り込みながら美幸が言う。

「え、私の聞いたところでは若い男の人だって。ガテン系とかそういうの?」

「お前は何か聞いてねーの?」

 榊が梅干しの入ったご飯を箸でかきこみながら、左にちらと目をやって訊く。


「知らね……」

弁当をもそもそと食べながら里がぼそっとした声を上げる。眼が細められ、とろんとしており、いかにもけだるげだ。

「あんたねぇ、確かに昼間は眠いけど、もうちょっとしゃきっとしなさいよ」

 早くも弁当の大半を食べ終えた美幸が眉を上げて里を睨みつける。

「昨日も夜中までゲームやって眠いんだよ……」

箸と口を一定のペースで動かしながら、美幸の剣幕が気にならぬように目をとろんとさせたまま低く答える。ここでいう‘ゲーム’がエロゲの事というのは、それを聞く三人ともが全員承知だった。

「あんたがいつもだるそうなのって夜中までゲームしてるから? そんなの関係なしにいつもぐでーっとしてるのかと思ってたわ」

 美幸が相変わらずきつい顔と声音で畳み掛ける。まさに榊が抱いたのと同じ感想であった。


「……」

 里は美幸の声が耳に入っているのか、どうなのか、とろんとした目のまま箸と食べる口だけを動かし続ける。もはや何の反応も返しはしなかった。

 ハァと美幸は溜息をつくが、榊は里のこういうマイペースさが好きだった。何だかんだいって場を和ませる雰囲気がある。美幸も本気で怒っているわけではないようだった。早くも食べ終えた空の弁当箱をしまい直し、水筒に手を伸ばし、蓋のコップに冷たいウーロン茶を注ぐ。

「でもあれだな、美幸、お前だったら襲われても走って逃げれるんじゃね?」

榊が軽く間をとりなすように口を出すと、

「そうそう!美幸ちゃん脚速いもん! いいな~、ピューッだよっ!」

加代子が快活に賛同した。

「あ~、まあできれば会わないに越したことはないけどね。加代子は気を付けなよ?」

 腕を掛けた椅子の背に、脚を組んで斜めにに寄りかかり、ウーロン茶を口にしながら答える。その時折しも窓から吹いてきた少し強い風が、美幸の涼しげなくつろいだ姿勢と合わせて一幅の絵をなしていた。外では陽光が樹の緑に反射してキラキラ輝いている。

「え~、美術部時々遅くなるからやだな~。一人で夜道帰るの怖いよ~」

「榊、あんた送ってやりなさいよ」

「馬鹿、いつも時間が合うわけじゃないだろ。できるだけ明るいところ通って帰るんだな。あと防犯ブザーとか持つといいんじゃね?」

 三人が話している間、里は黙々と箸と口を動かし、いつの間にか食べ終わると、こてんといつものように机の上に突っ伏して横になった。


 そこにぶわっと一陣の強い風が窓から流れ込み、瑞々しい香りが皆の鼻を打つとともに、横になった里の黒髪を持ち上げ、通り過ぎた後に数十本まとめた細い束を彼の頭にピンと立てて残していった。いわゆるアホ毛だ。だるそうに眼を閉じて横になったままの里はそれに気づかない。水筒のコップに口をつけていた美幸がそれを認めて、口にしたウーロン茶を戻さないように手に口を当てると、むせてしまったように、鍛えられてすらりとした上体を曲げ、胸をドンドンと拳で叩く。やがて、それが一通り落ち着くと、プププププとこらえきれないように、口に手を当てたまま身をよじらせて笑いを吹き出し始めた。何事かと彼女の様子を見守っていた榊と加代子も、横になる里の方を見ると事情に気づいた。思わず吹き出し、三人はやがて大声で笑い始めてしまった。

 一人気付かず寝たままの里を残したその騒がしい一角に、教室にいた他の生徒勢が思わず目をやると、美幸が机の上に突っ伏した里の方を指指し、空いた手をお腹に当ててゲラゲラ笑っている。周りの二人も一緒になって笑い出しているその原因に皆が気づくと、全体がつられ、やがて出払った生徒で半分ほども空いた、初夏の昼下がりの緩んだ空気が支配する教室内は20人ほどの男女生徒の甲高い、大きな笑い声に包まれた。

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