二十六:道場で迎える女性

 榊はスマホを取り出して時刻をチェックした。五時十分。意外と早く着いた。部活から抜け出して一時間ほどで着いたことになる。電車のタイミングはあるにせよ、これくらいの時間なら余裕を持って部活から道場に通うことが出来そうだ。ただ、今回の初めての訪問で、道に迷う事態を考慮して時間の余裕を取ったため、見学させてもらうつもりの六時からの稽古時間までには随分早く着き過ぎてしまった。しかしその分先に稽古内容や雰囲気などの説明を受けて入門の判断の助けになるかもしれない。とにかく突っ立っていても仕方がないので、どきどきしながら木の門扉の左側の柱に取り付けてある古ぼけたインターフォンを鳴らしてみた。


「――はい?」

 案に相違して、若い女性の声が出た。この家の娘さんかもしれないが、恐らく道場主の杵造という人と違い、稽古とは無関係だろう。上手く話の内容が伝わるかどぎまぎしながら、榊は出来るだけ相手に聞き取りやすいようハキハキした声で小さなインターフォンの送話部に話しかけた。


「――あの、道場のホームページを見たんですが――」

 一瞬得心したような明るい息遣いがインターフォン越しにもはっきり伝わった。「――まあそうですか。どうぞお通りください。正面の母屋の方へどうぞ」

 ――よかった、うまくこの人にも伝わったようだ。普段からこういう道場への訪問者の応対をしているのに違いない。

 榊は開け放しの木の門をくぐって敷地に入った。――広い。広大な敷地だ。こんなに大きく敷地がとられている理由はすぐわかった。右手の方に木造りの広い平屋の建物がある。外装は簡素で張り重ねられた木の板の継ぎ目がそのまま出ており、一定の間隔で規則正しく水平に同じ高さで曇りガラスの窓がいくつも取り付けられている。どう考えても居住用でなく、道場用の建物だ。正面に平屋の古びた和風建築の一軒家が見えるが、この母屋に住み、同じ敷地内のあちらの道場で直接指導しているのだろう。そこで榊は敷地内への門扉が開け放しになっている理由が理解できた。恐らく稽古時間近くになると道場に自由に出入りできるようにしているのだろう。この辺り一帯の住宅地の緑の多く、閑静で古風な空気と合わせて、こういう開放的な道場経営のあり方は榊の心をほっと安心させ、落ち着かせる効果があった。敷地内の空いた場所には木々や丈の低い植物の植え込みがあり、また点々と植木鉢の盆栽なども置かれており、むき出しの土の地面の所々は、伸び過ぎないようにたまに手入れがされているという程度の雑草が自由に生えているが、それもまた完璧に整地をしようとせずにある程度まであるがまま、気楽に生命を受け入れようとする家主の態度が感じられ、殺伐とさせず、見る人の心をその緑で穏やかにする効果があった。榊は地面の土や苔から立ち上るひんやりした空気の微香を鼻に楽しみながら、門から母屋まで続いている敷石の上を歩いて家の前へと進んだ。


 玄関口に着くと、引き戸の縦のアルミ材の隙間の暗褐色の曇りガラス越しにいかにも女性らしい柔らかな輪郭の人影が見え、榊が着くのとほぼ同時に、その女性の手によってあちらからガラガラと戸が開けられた。


 榊は一目見た瞬間ハッとさせられた。――美しい。月並みだが、まずこの言葉が頭に浮かんだ。榊より少し上位のようだが、可愛いというのでなく、美しい――。色白で、背が女性にしては高く、榊よりはかすかに低いが、178センチはあるだろう。その長身と服装からまずスタイルに目が行く。亜麻色に控えめな白や赤や青や黄の花柄があつらえられたノースリーブのロングスカートのワンピースを着ているが、体にフィットしたその服装が大きな胸、細くくびれた腰、これもよく膨らんだヒップのラインをくっくり浮き上がらせている。脚も長い。――そして何というか、体全体がピンとしており、榊には言い表せない独特の雰囲気があった。艶のある黒髪の後ろの長さは肩より少し下くらいまで、前髪は眉のあたりで平行に断裁されている(いわゆる‘ぱっつん’というやつだ)。眼は大きく、端の方が優しく下がっており、穏やかなのだが、長い睫毛、細くきりっとした眉、真っ直ぐ通った鼻筋、小さく薄くも赤くはっきりした唇、先が少し尖った顎が、どこか近寄りがたい鋭い気品のようなものを醸し出しており、柔らかな眼と相互に相手に与える印象を混淆させており、そのギャップがまたまじまじと見つめさせるいわく言い難い魅了の雰囲気を作っていた。箱庭のように整って、小さく完全にまとまって完成された美しさの比恵とは違い――榊はどうしても思いもかけぬ美しい女性との邂逅という点で、比恵との比較をせずにおられなかった――、こちらはもっと直截的に放射して人に訴えかける美がある。単に立った佇まいから与えるその人のなりの印象に落ち着いた風情があり、同世代の女性に比べて大人びた彼女のもとからは、視覚的な美しさばかりでなく、いかにも女性らしい甘いいい匂いも彼の方に漂ってきた。


 相手が引き戸に手を掛けたまま、眼を合わせた榊に対してぱちくりと眼を大きく一層広げ、不思議そうな顔をしている。榊はその途端、ごく近くに顔がある目の前の相手に今まで完全に見とれていたことに気づいた。

「――え、ええと――、ホームページで道場のことを知って――」

 榊は慌ててポケットから取り出したスマホを軽く相手の方に突き出し、それを振りかざしながら夢中で言った。見とれていたことを悟られないように、相手に対して(自分自身に対しても)ごまかすためにした動作だが、そうしたあとで、インターネットのホームページ検索→スマートフォンのつながりの連想という、脈絡は通っているが、他の人間には気付かれたところでこの際何の意味もない示唆に対して、自身馬鹿らしく、また恥ずかしいと思うばかりだった。


 相手はまた一瞬きょとんとして、突き出されたスマートフォンに目をやったが、すぐに柔らかな眼の表情に戻ると、

「何はともあれ、お上がりください」

軽く優しげな微笑みを浮かべて榊を招き入れた。

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