二十五:道場への訪問

 榊はその日の昼休み、いつもの通り美幸たちと昼食を食べ終えた後、校舎外の人気のない所に行って、朝メモを取った道場の電話番号にかけてみたが、着信音が鳴るだけで誰も出なかった。


 部活が終わっての夜の学校からの帰り道にも電話をかけてみたがやはり同じで、ここまでで榊はこれは明日直接稽古時間に押しかけてみるしかないと思った。


 翌日の土曜朝にも再度念のためかけてみるが出ない。家でのインターネットでの検索結果に同時に出たマップをチェックして出来るだけ地図を頭に入れ、ホームページに書かれた住所もメモに取る。手持ちのスマホで検索することにより、出先で目的地の地図も住所も画面に出すことが出来るが、どちらかというとアナログ派で、また今回のように初めての場所を訪問するということに関して慎重な榊は、こうして念入りに準備をかけた。


 夕方四時過ぎ。

 体育館内には激しく動き回る部活の生徒達の出す物音と汗と熱気が立ち込め、そこに上部の窓から差し込む、傾きかけ柔らかくなり始めた日差しが、授業が無く、がらんどうの校舎を抱える休日の校内の穏やかな静けさを館内にもたらし、練習に励む運動部員達の活気と混ざり合うことで化学反応を起こし、瞬間が静止したような奇妙な空気を生み出していた。体育館内で発せられる音や掛け声は痴呆めいた長い間隔を持って内に絶え間なく反響している。

 榊は2対2のオフェンス・ディフェンス練習が一段落したところでタオルで汗を拭き、残り三人が水筒で冷たい飲み物を飲みながら軽い休憩ついでに低く談笑する中から抜け出して、腕組みして厳しい眼で部員達の練習を見守っている顧問の森山のもとに向かった。


「――あの、顧問」

「ん、何だ天海」

 口をへの字にした厳しい表情を残したまま、他の部員の練習を見守っていた目を榊の方に向けぎろりと見やる。返事の声の調子は柔らかいのだが、高い上背と、筋肉質で横に広い体格の上の顔に残して貼りつけられたままの厳しい表情を向けられることで榊は思わず気圧されるのを感じた。これから言うことを考えればなおさらだ。


「ちょっと隣町に用事があって早退させてもらいたいんですけど――」

 いつも土曜の練習は六時ごろまで続けられる。森山は片眉をピクと動かした。目を広げ、意外そうな顔で榊を見る。

「それはいいけど、お前明日試合だぞ。大事な用なんか?」

「ちょっと家の用事で――」

 少し気が引けたが、嘘をつくことにした。もう決心は強く定まっていたし、強く問い詰められても必ず理由を答えなければならない義務は感じなかったが、ともあれ一昨日一年生ながら選手に選ばれたばかりだ。できるだけ角が立たぬよう、嘘でも何でも使う気になっていた。


「ん、そうか。それなら仕方ないな」

 あっさり顧問が受け入れた。榊がこの辺りでは誰もが知っている響美神社の息子なのは森山も承知している。何か外せない家の用事があるというのなら何かその関係と彼は考えたのだろう。神主の仕事やその手伝い、お使い事などは一介の高校教師である彼にはどのようなものか想像がつかないだろうし、それを見越してもいた榊の嘘の言い訳であった。


「そんなら山本にも言っとけ。それと明日朝九時に駅前集合だからな。忘れんなよ」

「はい、すみません」

 榊はペコペコしながら森山のもとを辞し、センターとして同じ三年生のレギュラー相手にディフェンス練習をしている山本をコートの外で待った。森山との会話が眼の端に映っていた山本はすぐに様子を察知し、練習を中断して榊のもとに寄る。そこでも早退の意を伝え、山本がその確認をしたところで、榊は他の部員の奇異の目を受けながら体育館を去った。特に一、二年生部員の視線が強く感じられ、榊は彼らの、最下級性にもかかわらず明日の練習試合のレギュラーに選ばれるという恵まれた立場――幸運、あるいは僥倖といってもいいだろう――というのに、よりにもよって前日の練習をほっぽり出して早退するとは何事だという非難するような意識をその背に痛々しく受け止めた。風通しを良くするために扉を開け放しにされたままの体育館を出て、部室へ通じるコンクリートの道を、館内からの目が届かない場所まで歩いた所で、榊は肩を落とし、はあと溜め息を吐いた。今回だけでこの状況なら毎週二回途中で抜け出すとなったらどうなるだろう。気が滅入ったが、差し当たっては初めての道場訪問と見学へと向けて改めて背筋を伸ばし、緊張に気を引き締め直した。



 電車に揺られて四駅。土曜の夕刻の列車内にはそこそこの人が乗っていたが、窓から入る、傾き始め、赤みがかった陽に照らされて気だるい空気が漂っていた。道場を訪問するため用意してきた私服に着替えた榊は立って吊り革を手で掴みながら、ぼーっと、時々民家やビルが途切れて垣間見ることが出来る遠くの山々の尾根にその陽の光が落ち込んで照らすさまを眺めていた。時々数人連れが仲間同士の会話の途中で高い声を上げるが、それさえもこの場の空気に吸収されて孤独に漂い消え、まどろんだ雰囲気を強めるのに役立っている。日曜はしばしば遊びに行くことがあるとはいえ、月から土までずっとバスケの練習に明け暮れ、家と学校の間を往復するばかりだった榊には新鮮な感覚だった。皆が練習に励んでいる間、自分だけ抜け出してこのようなことをしているという背徳の喜びもないわけでもなかった。


 電車が着いたので降りて改札を通ると、構内壁に設置されたプレート地図の前に行き、しばし手にした地図のメモと見比べた後、一方の出口を取って外へ出る。立岡市は子供の頃から何度も遊びに来ているが、この駅で降りるのは初めてだった。いつも行くごみごみ建物が建ち並んだ繁華街の方と違い、一目だだっ広い印象を与える地域だった。駅を出てすぐの所にスーパーやら本屋やらが入った大きな複合型のショッピングセンターがあるが、それ以外は、瓦塀に囲まれた大きな敷地内に豊かな緑を湛えた和風屋敷や、木々や竹が生い茂った林の空き地、上の枝葉で地面に大きな影を作るほど縁に木々が植え込まれた公園が広がっている住宅地で、所々お地蔵様が祀られている。駅から一足出てこの光景を見た榊はほぉと息をついた。草木の緑が多い中、見渡す辺りの色合いは屋根と塀上に葺かれた瓦の黒が基調で、いかにもしっとりと落ち着いた雰囲気だ。ショッピングセンターのやたら大きな駐車場も、その辺りへの見通しの良さが与える視覚的な広さの印象のほか、この地域にある買い物の場所として、恐らくある程度の大きさでは唯一のこの場所へと辺りの人が車で多く押しかける事情を想起させ、それだけにちょっとした田舎めいた風情を感じさせた。大きな場所ではあるのだが、人々の生活の糧としてひなびた感じで辺りに溶け込んでいる。

 これらの光景を目にした榊の表情は思わず緩んだ。今度禊を連れてきてやろう。きっとあいつも喜ぶぞ――。彼の顔には軽い笑顔のようなものまで浮かんだ。仮に本来の目的である道場の件が上手くいかなくても、これを見て知れただけで来たかいがあったものだ。すでに榊の頭からバスケの部活の練習を途中で抜け出したことによる負い目は、それどころか先ほどまで自分が参加していたそのバスケの部活の事さえきれいさっぱり飛び去っていた。


 榊は取ってあった地図のメモの通り左に道を取る。車一台だけ通れる道幅で、左右の家の塀から繁って出た樹の枝葉が緑の陰を作る。緑に覆われたこの辺りは空気が清々しく涼しい。髪の毛こそ茶髪に染めてはいるが、神社の息子として生まれ、より感性が強められた榊の日本人としての深い本能が、ここを歩くうち、辺りの風景や空気から入り込んでくる刺激に触れ、強く励起されるようだった。


 ほどなくして榊は目指す場所を見つけた。周囲の民家よりなお一層塀で囲った敷地が広く、中に向かって開け放された木造りの大きな外門の上に縦掛けで小さな‘藤間’の表札。門の右側には長さ1・8メートルほどの縦に打ち付けられた木の板に‘藤間合気道 捕縄術道場’とある。その前に佇んだ榊は緊張で硬くなり、ごくりと唾を呑んだ。

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