二十四:捕縄術への関心

 榊はその日は妹にねだられる形でもう二回家族と他のトランプゲームをした後、風呂に入って寝た。朝はそのまま寝過ごしたが、今度は目覚ましでちゃんと起きられるように意識して、しかもそれを少し早い時間に設定してだ。部活の練習と、ナミカゲと初めて本格的に戦った後走って逃げてきた疲れから熟睡した。



 翌朝デジタル時計のピピピピピピッという甲高い音が、榊を眠りの深い泥沼から引き上げた。完全なる睡眠の黒い淵から覚醒への過程の夢うつつの状態に至った時、それは神経を撫で回すような、何とも言えずざらついた不快な音に変化して彼の頭の中に沁み込む。榊は閉じた目の眉根を寄せたしかめ面で、しばしの輾転反側をした後、ぱちっと目覚めた。五時四十分だ。いつもより少し早く、眠かったが、元々毎朝これくらいの時間帯に起きているので、昨夜のうちに一旦決心をすればどうということはなかった。榊は身を起こすと、枕元の目覚まし時計の頭をバシッと叩き、いつまでも甲高く鳴りすさぶ音を止めると軽く伸びをした。――それに今日は金曜だ。今日を乗り切れば、明日は授業はないし、部活も昼からの練習だから朝のうちぐっすり眠れる。目の端を白く打つ、カーテンの隙間と布越しに部屋の中に差し込む朝日はキラキラと明るかった。雀もチュンチュンと可愛らしく鳴いている。


 榊はパジャマのまま階段を降り、廊下の突きあたりの洗面所で冷たい水で顔を洗い、寝てる間に顔に浮き出た脂分や垢を洗い流しさっぱりし、同時にその刺激で今度こそはっきりと寝ぼけた目を覚醒されるとリビングに向かった。そこでは早朝のニュースと娯楽がないまぜになった朝の景気づけのための明るく楽しいテンションの番組テレビがつけ放しになり、間の戸を開けた状態で母親が普段早起きする兄妹のためにご飯を作っている。


 降りてきた榊に気づいた母がエプロンがかかったほっそりした体を捻り、ちょっと驚いたように目を大きく開いて声をかけてきた。

「あら、今日は少し早くない?」

「あー、ちょっと調べものしたくて」

 いつもの息子の起きてくる時間に合わせての料理をしていた母に答えると、榊はそのままリビングの角の端に小型の黒の専用デスクにしつらえられた、たまに所用の調べものに用いられる以外は普段滅多に一家に使われることのないパソコンの方に向かった。若い榊と禊もゲームはおろか、遊びのネットサーフィンもまずしない。電源を入れてこれも黒のセットのデスクチェアに寄りかかって起動を待つ。本当は昨夜ゲーム途中にたまたま目に入った時代劇が終わった直後に調べたかったが、家族がいたし、調べるところを知られたくなかった。母親はそういうことを詮索する人ではなかったが、父は見ている内容からコミュニケーションを取ろうと悪気無く近づいてくるし、禊は単純に構ってほしくて首に抱き付いたりして寄ってくる。自室に籠った後スマホで調べるのも出来たが、やはりパソコンの方が大きな画面で集中して調べられるし、何より昨日は疲れて眠くもあった。そこでこうしていつもよりさらに早起きして調べにかかるというわけだ。


 起動してインターネットを立ち上げると、出てきた検索エンジンサイトに榊は少し考え込んだ後、【捕縛術】と打ち込んだ。昨夜の時代劇での捕り物場面に榊はまさに求めているものを見出した。縄一本で相手を制圧する技術。考えてみれば子供の頃から折に触れ眼にした時代劇中で幾度となくそういう場面はあった。思い付かなかったのが不思議なほどだ。劇中では十手で剣を捻ったり、直接相手の腕を素手で掴んでいたが、とにかくこれを身に付ければ何らかの力になることは間違いない。


 ずらっと並んで出た検索結果のトップには‘捕縄術’という解説記事が出た。――‘捕縛’でなく‘捕縄’か。そういえばそんな名前も聞いたことがあるような気がする。解説を読むことも考えたが、これは文字では簡単に理解できそうにない。とりあえず改めて【捕縄術】と打ち込むと、検索ワードを打ち込む欄に【捕縄術 道場】という検索候補が出た。初めはふとどういうものか調べてみようと思った程度だが、なるほど、考えてみれば道場もあるのか。榊はマウスのアイコンを乗せてクリックした。


 ざっと色々な道場の一覧が出てくる。思ったより多いようだ。と、いってもほとんどは専門の道場を構えているのでなく、伝統武芸を受け継ぐ会のものだが、榊からしても容易に想像がつく無名性と世間の興味の埒外では仕方ないことなのかもしれないと思った。とはいっても、それでも多く、また埋もれているものもあるかもしれないので、次はすでに出ている検索候補の次に榊の住んでいる街――【今駒市】を打ち込み加えた。


 ぱっと出てくる。――意外だ。すぐ隣の立岡市――ここよりもう一回り大きく、賑やかな市だ――に道場がある。道場の名前は藤間道場といった。同時に出てくるマップに位置を示す印も出ているが、とりあえずは道場のホームページを開いてみる。


 開くと白地に大小の文字が書かれているだけの簡素な作りだ。インターネット世界に疎い榊でもこれは特に手慣れた人が作ったものではないと思ってしまう。しかし、それだけにこういう武道場の紹介には素朴で誠実さを感じさせるのも確かだ。一番上には太くでかい黒字で『藤間合気道・捕縄術道場』とあり、すぐ下に小さな字で『道場主 藤間杵造』といういかめしい名前。『ここは日本の武道たる合気道と捕縄術を学ぶことが出来る道場であり~』と、それぞれの武道についての簡潔な説明文が紹介の形で書かれれており、そこから先は目立つように黄色で少しフォントを変えて『初心者歓迎!』という字が途中に踊り、また黒字に戻って『誰でも手軽に学ぶことが出来ます』などともあるが、榊が目に止めたのは少し下にスクロールさせたところに細い枠線で分かりやすく図表の形で作られた稽古の時間帯だった。道場の稽古日には水曜と土曜の二日間が設定されており、水曜は七時~八時、土曜は六時~七時に捕縄術の稽古が設定されている。なお、水曜は八時~九時半が合気道(一般)、土曜の七時~八時が合気道(少年の部、中学生以下)、これも八時~九時半が合気道(一般)となっている。なお、捕縄術の月謝は月五千円だ。榊は考え込んだ。稽古時間が合気道の一般の部より短いのはマイナーだから仕方ないとして、水曜は七時から、土曜は六時から通わなければいけないのか。隣の市にあることを考えれば電車に乗らなければいけないし、(榊もよく遊びに行く街であり、ホームページの一番下にある住所の番地を見る限り、四駅というところだろう)現地の駅から道場までの所要時間はまだわからないとしても、学校から駅までの移動時間も考えて見繕ったところ、どう考えても一時間以上前に学校を出なければならない。水曜はもちろん、この辺りでは強豪校の今駒高校のバスケ部は土曜の午後も練習があった。思えば昨日練習試合とはいえ選手に選ばれたばかりだ。その最中に榊にとってはやむを得ない事とは言っても、理由を知らない顧問やキャプテンやチームメートとの練習の只中に抜け出すことが出来るだろうか。彼らも榊の真面目さとバスケット愛は十分に理解してくれているはずだが、それでもやる気がなくなったと誤解されても仕方ない。


 さらに榊には道場に通うこと自体に対する躊躇の思いがないではなかった。今まで経験した武道と呼べるものは中学校で習った柔道しかなく、このようないかにも厳格そうな伝統武芸はまた習うのに必要な作法や礼儀といったものが必要だろう。そして日々厳しい体育会系のバスケ部で練習しているとはいえ、こちらは同年代の生徒達の学校内でなくより広い社会の町道場だ。大人が多く来ているだろうし、武道場となれば全く違う気構えが必要になるに違いない。部活のバスケットボールとの両立にも不安がある。


 ――しかし、としばらく考え込んだ後榊は思った。やらないわけにはいかない。縄を預けてくれた比恵への思いもあるし(厳しい真剣な表情で縄を突き出してよこした比恵の整った白い顔と小柄で華奢な体を思い出して榊はぶるっと震えた)、ここまで来ると意地もあった。今まで二度ナミカゲから逃げている。このまま偶然に霊縄で勝てるのを期待して、そうでなければ何もできずに逃げ回るだけなど嫌だ。放置して禊や美幸の身を危険に晒したくないという思いは当然今もあるが、今やそれ以上に、負けず嫌いの血気の思いが榊の心を動かしていた。こんなに近くにこのような珍しい道場があるのも何かの縁かもしれない。


 とりあえず一度見学させてもらおう。場所と電話番号は――

「榊、ご飯出来たわよ」

 その時ダイニングキッチンとリビングの開け放しになっていた敷居から母親が呼びかけた。ほぼ同時にトントントンと禊が裸足で体重の軽い軽やかな足音で階段を降りてくる音が聞こえてくる。

「――あ、うん――」

 榊は急いでデスクの上に備え付けられてあるメモ用紙の方に手を伸ばすと、そこに紐で結び付けられているペンキャップからちびた鉛筆を引っこ抜くと、電話番号のメモを取った。


 じゃーっと洗面所で禊が顔を洗う音がする。榊がパソコンの電源を切り、ちぎったメモ用紙をパジャマのポケットに突っ込んでダイニングに行くのと、禊が廊下から同じく入ってくるのがほぼ同時だった。

「熱心に調べてたようだけど何かあったの?」

 母が朝食の白ご飯、おひたし、卵焼きを並べながら言う。

「ううん、何でもない」

 禊が冷蔵庫から取り出してコップに注いで飲んだ牛乳のパックを、続いて自分も手に取り、一杯注いで飲んだ後、朝食の席に着きながら榊は答えた。そうしながら彼は思った――とにかく今日の内に思い切って電話して明日の稽古日に見学させてもらえないか訊いてみよう――。今日は週末とはいえ、当然バスケの練習もいつも通りハードにある。――何かと忙しい日になりそうだと榊は思った。

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