二十二:遅れた夕食
家に帰り着いた榊はガラガラと引き戸を開けて玄関に入る。先ほどの危難から逃れてきたばかり、しかも自分からやれると思って身を投じたことが原因だから、疲労の他にすっかり意気消沈して帰宅時の挨拶の声も出なかった。
ドタドタドタと水色の長袖シャツに青のショートスカートを着た禊が玄関を走ってきた。
「どうしたのお兄ちゃん、こんなに遅くなっちゃって」
榊が下駄箱の上の置時計を見るともう九時過ぎだった。
「――ああ、ごめん。ちょっと長い間立ち読みしていてな。――ただいま」
やっとの思いで言い訳と挨拶の低い声を出すと、靴を脱いで家に上がり込んだ。禊は少し不服そうだったが、とにかく先に進み、廊下の左側二番目のドアを開けて中に入る。そこはソファーなどが置かれた広い洋間のリビングで家族団欒の場所だ。廊下飲もう少し進んだところに入り口ドアがあるダイニングキッチンとは、間にある引き戸を通して部屋続きになっている。榊が妹の後に続いて入ると、入って右手の、入り口手前側の壁際に置かれたソファーに、彼らの父親が足を組んで背を後ろにもたせかけたくつろいだ調子で座り、新聞を広げて読んでいた。向かいの39インチの黒の液晶テレビがつけっぱなしになっている。母親は少し離れたところに置いてあるチェアに座って時々夫とテレビの間にチラチラと穏やかな目を走らせながら、膝に開いた料理雑誌を読んでいる。
「お~う榊、お帰り」
父
「ただいま」
榊はくつろいだ父親の様子を見てやっとほっと息をついた。やはり存在感のある父が家にいると家の雰囲気が違う。時々出張でいなくなるのだが(会社の仕事の他、神主としての用事でいなくなることもよくあった)、数日ぶりに見るときの安心感は格別だ。恐らく父のくつろいだ気分がこちらにも伝染するのだろう。先ほどの恐ろしい体験から来た灰色の荒んだ気持ちが、肌色に近い木の暖色系を基調とするリビング内を天井の照明灯が柔らかく反射しながら照らし出し、家族全員揃った団欒の空気を一層強く演出することによってどんどん癒された。もうほとんどさっきの危うかった格闘を忘れかけているほどだ。
禊がボンと父の隣に尻をダイブさせる形で軽くジャンプして革ソファの柔らかいクッションの上に飛び降り座った。そこに新聞を持ちながら座った父親の体も一緒になってぼよんぼよんと揺れる。
「ねー、トランプしよー」
禊が向きを変えて両膝でソファの上に乗り、父親の肩と首の辺りに両手を掛けてねだるような声で言う。普段しっかり者で、学校でも真面目と思われている妹だったが、家族の中での甘えたがりは相当だった。父親が新聞から離した左手で娘の首の後ろ辺りを撫でて、
「それはいいが――、榊、お前まだ晩ご飯食べてないんじゃないのか」
途中で榊の方を向いて言った。
「そうよ禊。後にしなさい。――でもどっちみちもうかなり遅いけど」
母親が口を出した。
「――わかった、急いで食べるよ」
妹の不満そうな顔がこちらに向けられるのを予期して、榊はバッグを床に置くとそのまま続き間になっているダイニングに向かう。と、ダイニングへの引き戸のそばに座っていた母が手にしていた料理雑誌を床に置き、ついと立ち上がった。
「今夜はすき焼きだったのよ。あなたが普通に帰れればよかったのだけれど」
そのまま引き戸を開けて先にさっさと入る。テーブルの上には真ん中に移動式のガスコンロの上に乗った蓋の閉じられた鍋、あと榊の席にだけ空の茶碗が伏せられて置いてあり、残りはきれいに片づけられていた。榊はずきんと胸が痛むのを感じた。榊がいればきっと満面の笑みではしゃいだに違いない禊の物足りなさそうなさっき過ぎた食事風景が目に浮かんだのだ。母がさっと伏せた茶碗を取り、炊飯器の方に向かう。
「――そのお鍋の蓋取って、コンロの火をつけて。もう残りの具は全部放り込んであるから」
言われたとおりにする。中にはきれいに筋の通った高くて柔らかそうな牛肉や、白菜、シラタキ、椎茸、豆腐などが入っている。まだ鍋全体はほんのり温かく、榊が火をつけるとすぐにくつくつとダシが煮立ち始め、いい匂いが漂いだした。母親が置いてくれた湯気を立てる白ご飯を前に、箸でかき混ぜながら(もう食べるのは榊一人だから直接自分の箸でかき回して問題ない)、全体が煮立って温まるのを待つ―ただし、肉が硬くなり過ぎない程度にだ。部活の練習の後、先ほどあれだけ恐ろしい思いの戦いをしたため、腹はペコペコだった。席に座って身を乗り出して鍋をかき混ぜる榊を和子はしばらく立って見ていたが、
「じゃ、ご飯のおかわりは自分でしなさいね」
言うとまたさっきのリビングの椅子に戻っていった。――間の戸は開け放しにしてだ。こうすると榊も食事をしたまま三人と間接的に団欒の時を過ごせる。
すっかり煮立ったすき焼きとほかほか白ご飯の匂いが榊の空腹を最大限に刺激した。火を保温程度のとろ火に弱めるとザッと立ち上がり、冷蔵庫からよく冷えた麦茶をコップに注いで飲むと、席に戻り肉の一片を口にした――うまい。柔らかい肉のたんぱく質が深い満足感とともに疲労した体に染み入るのを感じ、ダシが味覚と嗅覚を強く刺激する。続いてご飯に手を付け――榊はがつがつと食べ始めた。
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