二十一:逃亡

『あ~、あぁ~』

 ナミカゲが引かれて腰を曲げた体勢のまま、後ろの右足を進め、自由な右腕を半身はんみごとぬぅっと伸ばしてきた。掴んだ腕を引くために、腰を落としたまま、相手の正面にまともに左半身を晒した状態のため、避けることがかなわず、相手の伸ばされた手が榊の無防備な左の首筋にぴたと触れた。ゾワゾワゾワッと寒気がする。冷たい。昨日サラリーマンのナミカゲに足と手を掴まれた時は衣服越しだったから気付かなかったが、こんなに冷たいものだったのだ。確かに今両手でつかんでいる相手の左腕も冷たくはあるが、直接首筋の動脈近くを指先で撫で回されると、ほとんど氷のように思われた。


「――ひぃっ!」

 榊は思わず逃げるように身を引いて、伸ばされた手を避けるために相手の外側にあたる右側に回り込んだ。しかし、男の手首を掴んだまま位置を入れ替えようとしたため動きがもたつき、相手が行う、上体を捻りながら、榊の首筋につけた指先の手を伸ばしてののろのろした追いすがる動きにたやすく追いつかれてしまった。

 触れ直した指先からまさぐるようにして榊の首を掴もうとし、それに呼応するタイミングで口を開けるとぬぅっと顔を寄せてくる。唖然とした榊の目に入る相手の口の中も歯も黒かったが、その時理解した。――吸血鬼のように相手の首筋に口を当てて精気を吸うのだ。それを悟った瞬間、榊の体全体からどっと冷たい汗が出た。何とか首をひねって相手の手を避けはしたが、大きく開いた目に怯えが混じり込んだ。そしてまた改めて気付かされた――確かに霊縄で縛った付近はこちらからも触れることが出来ると気づいたが、それでもどうやって戦えばいいのかわからない。触れるためには先に霊縄を当てる必要があり、しかし相手もその間動いて攻撃してきて、その都度縄で防御して――


 迫る手と顔に混乱と焦燥を感じた榊がふと気付くと、いつの間にか相手の手首に巻き付けた霊縄の光が弱まっている。右手の手首と左手の指先で触れてはいるが、そこからつながる体内に感じる脈動が薄い。――恐らくは手で触れる面積が減ったからというより焦りで集中力が削がれたからだろう。それに気づいた榊はぎょっと眼を見開き、まさにその瞬間背中がどんと壁に当たった。――しまった、ここは狭い路地というのに目の前の相手と霊縄の様子に気を取られて周囲の状況を忘れていた。ちらとぶつかった後ろの壁を見やって完全にテンパった榊は、続けて両手に違和感を感じた。何か急にすがりを断ち切られたような――榊が見やると縄の光が今度は完全に失われていた――どうやらさっき体勢を崩し、壁に背を打ち付けた衝撃で最後の集中力も失われたらしい。両手に感じる霊気の脈動は完全に消え、残るはざらざらした触感だけだった。元の古びた藁縄の外観に戻って、ナミカゲの手首に二重に巻き付いた霊縄が解かれることもなくはらりと落ちる。同時に相手の手首を掴んでいた彼の両手の握りもすかっと空を切った。霊縄の戒めが無くなって、ナミカゲが空体化した状態に戻ったのだ。


「――っ!」

 掴んでいた手首の支えを失ってがくんと後ろに倒れ込み、尻餅をつくところだったが、今度は後ろの壁に救われた。どんと空いていた少しの空間から来る弱い衝撃が背中にあっただけだ。


『あ~、あぁあ~』

 左手が自由になった相手は少しスピードを増したように見えた。相変わらず左手首からはシューシュー白い煙が強く立ち上っており、縄で縛られたところから先の部分はダランとしているが、‘痛み’と一部の拘束が無くなったのは大きいのだろう。両腕をブランブラン小さく振る動きを加えながら近づいてきた。


 ――榊の決断は早かった。さっとしゃがみこんでアスファルトの地面に落ちた霊縄を拾うと、壁とナミカゲの狭い空間の隙間を左に体を滑らせて抜け出した。続けて迷うことなくさっと身を翻して走り始める。――この速い決断はバスケの試合の経験によるもので、また、素早く身を動かして抜け出すことができたのもそのトレーニングのおかげだった。


 いったん高い上背で肉迫してくる相手の前から抜け出すと、その頭は不思議と冷静だった。ダダダダダダッっとやや前屈みになって一散に走り、のそのそと後ろから追ってくるナミカゲから距離を取ると、地面に置いたスポーツバッグをさっと拾う。一瞬腰に来る衝撃と共に、バッグの重みが体を片側にぐらつかせたが、肩に掛けることなく、把手を持って片手にぶら下げたまま、元来た路地裏の入り口の方へと大通りに向かって走り去る。


 ――榊はこのままでは戦えないと見るや、迷わず逃げることを選択したのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る