第8話 陣外恭一郎
サイレンの音に、周囲の人々が集まり始めた。
「ほらほら。急いだ方が良いんじゃないかなぁ」
大袈裟に眉をしかめ、恭一郎が呟く。
ちっ――慈恩は舌を打つと、アクセルを踏み込んだ。
ライトは点灯させていない。
これならば万が一、後ろのナンバープレートを見られても番号は分からないだろう。
必要以上に目立たぬよう、努めて落ち着いて、且つ急いで――慈恩は車を発進させた。
公園を抜けた路地を右に曲がり、不自然にならぬようにライトを点灯させる。
ブレーキ音を響かせること無く、路地を縫うように曲がっていく。静かなアクセルワークであるが、瞬く間に速度を上げ、サイレンの気配を振り切った。
「上手いもんだな。これなら
「日本の警察は警告も無く撃たねぇからな。こんなのガザの町中逃げるのに比べたら、屁でも無い」
慈恩が鼻を鳴らした。
「ガザ?パレスチナの?」
「昔、中東で宅配便の運転手やってたんだよ」
吐き捨てるように、慈恩がうそぶく。
「そんな事より――この男、知り合いなんですか?」
慈恩は、横目で恭一郎を睨み、真琴に訊ねる。
「助けてもらったんです」
「助けてもらった?」
はい――と、真琴が鼻を啜る。
「――あっ!」
「どうした?」
慈恩が振り向く。
「そういえば――じ、じんがいさん……でしたっけ?さっきナイフで刺されて――それに車で――」
先程の光景を思い出し、真琴が息を呑む。
「おまえ、怪我してるのか?」
「大丈夫なんですか?」
真琴が身を乗り出す。
「――あぁ……大丈夫、大丈夫。あんなのかすり傷だから」
白い歯を覗かせて、恭一郎が微笑む。小癪な事に、それが少しも嫌味に見えない。
「だって……だって、あんなに沢山、血が――」
「あっ、あれ?あれ、特殊撮影だから。ほら
「嘘です。あんなに沢山、血が――」
確かに、アスファルトに残されていた血痕は、かすり傷なんて代物では無い。あれでは現着した警察だって放ってはおかないだろう。
「おい。それよりお前、腕が折れただろう」
先程、慈恩の蹴りを受け、確実に骨が折れた筈である。
「それもCGだから」
「っんなわけあるか!」
折れたかどうか、蹴った慈恩が良く分かっている。
「病院に行こう」
慈恩がハンドルを切った。
「おいおい。だから、かすり傷だから大丈夫だって言ってるでしょ」
恭一郎が慌てて身を起こす。
「理由はどうであれ、依頼人を助けてもらったんだ」
それに――と、横目で恭一郎のトレンチを睨んだ。
「――あの出血じゃ、そうして軽口叩いてるのが不思議なくらいなんだがな」
「だから、これはCGだって言って――」
「煩い。怪我人は黙ってろ」
「そうですよ。とにかくお医者さんに行きましょう」
真琴は自分のバッグからハンカチを取り出し、恭一郎の額の汚れを拭った。
「ナースは好きだけど、医者は嫌いなんだ」
女医さんなら歓迎だけど――と、微笑む。
「どうせ訳ありなんだろ?安心しろ、口の堅い医者を知っているから」
慈恩の言葉に、恭一郎は諦めたように息を吐いた。
「ここに来る前、木村さんの職場――大学と、自宅のアパートに寄って来ました。まるで台風でも突っ込んだみたいにめちゃめちゃにされてた」
「そ、そんな――だってこの間はいつもと変わりなく、片付いて……」
恭一郎の汗を拭いていた、真琴の手がとまった。
「そこに、この男が現れやがった」
「じゃあ、あなたが健吾の部屋を?」
恭一郎の額の上で、真琴の手が震える。
「おいおい、誤解を招くような物言いをするなよ。僕じゃないから」
信じてくれと、恭一郎がすがるように真琴を見つめる。
「まぁ、それは本当の事だと思う。木村さんの部屋を荒らしたのは、先ほどの連中――甲谷組の連中で間違いない」
「こうたに――組ですか?」
「いわゆる、これモン――」
慈恩が、左の頬を指先でなぞる。
甲谷組――東日本で最大の勢力を誇る広域暴力団『
「これが部屋に、落ちていた」
慈恩は、木村の部屋で拾った金バッジを見せた。
それを見つめる真琴が、握りしめていた手を緩めた。
「甲谷組は最近、中国から骨董品の密輸入なんぞに手を出しているらしい。どうやらその辺りで、木村さんは繋がりが出来たのかもしれない」
「でも……どうして健吾が暴力団なんかと?そんな人じゃありません」
真琴が声を震わせて反論する。
「昼間、大学に行ったとき聞いたんだが、木村さん――どうもその筋の連中絡みの、小遣い稼ぎをしていたらしい」
「――えっ?」
「ほら見ろ。大体、僕は
「結局、てめぇも同類か」
あっ――と、恭一郎が慌てて口を押える。
「……健吾が――」
二人の言葉など耳に入らぬように、真琴が後席に身を沈ませた。
「まさか鈴森さんが会社を早退しているとは思わず、こちらに来るのが送れてしまい、すみませんでした」
恭一郎との悶着の後、慈恩は直ぐに真琴の会社に向かった。
直ぐに携帯に電話をかけたが、真琴は電話にでない。心配になり会社に電話をすると、一時間ほど前に早退したと聞き、急いでアパートに向かったのだ。
「い、いえ。こちらこそ、すみませんでした。まさか――でもなんで……」
健吾と暴力団の関係を聞かされ、真琴は混乱しているようだった。
「おい、陣外――って言ったよな。てめぇ鈴森さんが襲われるのを知っていたのか?」
慈恩が横目で、恭一郎を睨みつける。
「甲谷組の連中と関わりは無さそうだが、手前ぇは何者だ?なんの目的でこの一件に絡んでやがる?」
黙って前方を見たまま、恭一郎は口を開かない。
「――黙ってないで何とか言えよ」
慈恩の身体に、苛立ちと共に怖いものが凝っていく。
肌がピリピリするような空気に、真琴は無意識に身を引いた。
「おい!」
「煩いから黙ってろ――って言ったのは君だろう」
惚けた顔で、恭一郎がしれっと舌を出す。
ちっ――慈恩が舌を打つ。
「さっきの言葉は取り消すから、手前ぇの知ってることを話せ」
「お願いします――は?」
恭一郎の口角が、意地悪く持ち上がる。
「あのな!」
恭一郎を睨みつけた瞬間、慈恩の感情のささくれが、ハンドルに伝わった。
その弾みで、車が激しく蛇行した。
「きゃあ――」
後席で真琴が転がる。
「大丈夫ですか?」
平気です――と真琴が身を立て直す。
「運転手さん。安全運転でお願いしますよ」
ドアに身を寄せ、身体をこちらに向けた恭一郎が、小馬鹿にしたように笑う。
「陣外さんよ。悪ふざけもいい加減にしてくれねぇか」
突然、慈恩の声のトーンが下がった。
一瞬で、車内の空気が張り詰める。
「こっちは真剣にやってるんだ。下手すりゃ、人の生き死にが掛かってるんだ。真面目にやってくれねぇかな」
その言葉に、真琴が身を強張らせ俯く。
不覚――真琴の前で不用意な言葉を使った、自分のうかつさを慈恩は後悔した。
「卵は割れてしまったかい?」
ぽつりと、恭一郎が呟いた。
卵――と、慈恩が眉間に皺をよせる。
「鈴森さんが木村から預かったって言うあれか?」
怪訝そうに眉をしかめる慈恩とは裏腹に、その言葉に真琴は顔を強張らせた。
「手前ぇなにを知ってる?」
「そうか……割れたか――」
言葉を発せぬ真琴の態度を、肯定と受け取ったのか。
そう呟く恭一郎の横顔が、慈恩にはなぜだか、嬉しそうに見えた。
「さっきから訳の分からねぇことばかり言いやがって。こっちの質問に答えろ」
横目で慈恩が睨みつける。
「そもそも――あれはどういう意味なんだ?」
「あれ?」
「この一件、俺には荷が重いとか言ったな。無理だと。てめぇみたいな優男が、なにを知っている?」
「悪い事は言わない。木村健吾の事は諦めるんだ」
助手席のドアに身を預けた恭一郎が、誰にでも無く言う。
「なに?」
「どういう事です?」
真琴が身を乗り出し、恭一郎を覗き込む。
「恐らく君の知っている木村健悟と言う男は、すでに存在しない」
「それって……あの人たちに……」
飲み込んだ自分の言葉に、真琴が激しく身を震わせる。
「それは無いな。それなら、奴らが君を拉致る意味が無い」
「それなら……なぜ――」
「おそらく木村自身の身柄を押さえるための人質――もしくは…そうか、卵か!」
慈恩が声を上げた。
「奴らは、その卵とやらを探しているってことだな」
慈恩の言葉に、恭一郎が口角を上げる。
「なら、その卵をあの人たちに渡せば、健吾は帰って来るんですか?」
「でも、割れてしまった」
恭一郎の口元に、サディスティクな笑みが浮かぶ。
「あっ――」
その言葉に、真琴は再び俯いた。
「やい陣外。てめぇ、何を知っている?その卵とかってやつは、いたいなんなんだ?」
「さっき自分で言ったろ。甲谷組が中国辺りから、骨董の密輸入しているって」
「その卵が、骨董品だっていうのか?」
「まぁ、そういうことにしておこう」
「なら、木村――は、その密輸のブツに手をだした。そういう事なのか」
「まぁ、そんなところだろう」
「てめぇも、その品を狙ってる――そう思っていいのかな?」
「当たらずとも遠からず。いや、面倒臭いから正解と思ってもらってもいいかな」
恭一郎が髪をかき上げた。
「なら――」
「君、そこの筋肉ダルマ」
慈恩の言葉を、恭一郎が遮った。
「死にたくなければこの一件から手を引いた方が良い――と言っても、君は聞く耳を貸す玉じゃ無いよな」
「なんだと?」
「チンピラ相手なら、彼女のボディガード程度には充分だろ」
「なにぃ!」
「
「なんだ偉そうに。そんなこと、てめぇに言われるまでも無ぇ」
慈恩が鼻息を荒くする。
「真琴ちゃん――君はそうだな、
嬉々とした恭一郎が、あれやこれやと捲し立てる。
「なんだ手前は?病院の栄養士か?それともなきゃ、グルメ気取りの健康ヲタクか?」
呆れたように慈恩が吐き捨てる。
「グルメ?成程そうだな……僕は
満足したように、恭一郎が頷いた。
「恥ずかしげも無く、よく言うぜ」
慈恩は呆れてため息をついた。
「では、傷も良くなったことだし。僕はこのへんで失礼させてもらいます」
「なにっ?」
言うや否や、車内に突風が渦巻いた。
恭一郎が助手席のドアを開いたのだ。
「
ドアに預けていた背中を滑らせるようにして、陣外恭一郎は走行中の車外に飛び出した。
「おい!」
「きゃぁ――」
慈恩が急ブレーキを踏むと、AWDの車体が悲鳴を上げ、ABSが急制動を掛ける。
周囲にほかの車がいないのは幸いとはいえ、時速は七十キロは出ている。
コントロールを失いかけた車体を、巧みなハンドルさばきで慈恩が安定させる。
それでも車が止まったのは、恭一郎が飛び出してから三十メートルは先だった。
慈恩は外に飛びだし、周囲を探すが、恭一郎の姿はどこにもなかった。
「なに者なんだ――」
慈恩は、自分の肌が粟立っているのに気が付いていなかった。
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