第9話 闇恋錯綜


 開いている――真琴の心臓がどくりと脈打つ。


 今朝、仕事に出かけるとき、確かに鍵はかけた。

 確かである。

 なのに鍵が開いている。

 その意味することに、真琴の心臓が早鐘の如く脈打つ。


 陣外恭一郎が車の外に飛び出した後、ふたりは慈恩の事務所へは向かわず、真琴のアパートへと向かった。

 恭一郎を医者に連れて行くために回り道をした為、思いのほか時間が過ぎていた。

 これならば、真琴のアパートに向かっても、警察も居ないだろうとの慈恩の判断である。

 何より、一刻も早くスマホを手に取り、木村からの連絡の有無を確認したいであろう、真琴の気持ちを察しての事である。

 それでも、遅めの帰宅ラッシュに巻き込まれ、真琴のアパートに着いたのは、夜の九時近くだった。

 アパートに着くまでの車中、ふたりの間に殆ど会話は無かった。

 過度の緊張から解放されたせいだろう。

 気が付けば、後席で真琴が静かに寝息を立てていた。 


 慈恩が真琴に声を掛けたのは、つい五分ほど前。

 五階建てのアパートの下に車を止めてからの事である。

 真琴の部屋は三階の角部屋だった。


「どうしました?」


 ドアに鍵を差したまま、身を固くする真琴に、慈恩が声を掛けた。


「鍵が――」


 と、言い終えるよりも先に、慈恩が動いた。

 静かに――真琴の肩を引き寄せドアから遠ざけ、慈恩は人差し指を口の前に立てた。

 そっとドアノブを握ると、真琴に眼で許可を促す。

 こくり――と、真琴ぎこちなく頷く。

 それを見るや、慈恩が音も無く部屋に滑り込んでいく。

 玄関を入ると、すぐにダイニングキッチン。広くは無いが独り暮らしであれば充分だろう。左側のドアはユニットバスだろうか。

 過美に飾られることも無く、綺麗に整頓されているのが暗がりでも良く分かる。

だが、そんな部屋の中、部屋の装飾とは似つかわしくない、何とも言えぬ、どろりとした磁場のような気配が立ち込めていた。

 まるで獣の臭い――どこか土臭く、咽かえるような生々しい濁り。

 実際に鼻を突く匂いが有るわけではない。

 ただ、慈恩にそう錯覚させるような、異様な気配が満ちているのである。


 瞬間、慈恩には元凶が直ぐに分かった。

 ダイニングに置かれたテーブルの向こうにベッドが見える。

 

 それ・・は真琴のベッドから発せられていた。

 正確に言えば、ベッドの上にある黒い塊から獣臭は発せられていた。

 薄闇に包まれた部屋にあってなお、更に濃い闇の塊――一見それは、膝を抱えてうずくまる人間のシルエットに見える。

 だが、その量感が大きく異なる。

 それ・・の発する気配がそう見せているだけなのかもしれない。まるで人間大の巨大な達磨。

 ずんぐりとした闇の塊のなかで、燐光のような薄緑の球体が対をなし、じっと慈恩を見つめていた。

 なんだこれは――慈恩の全身から、冷たい嫌な汗が噴きだす。

 こんな感覚は初めてだった。

 慈恩の良く知る、人の放つ殺気とは明らかに異なる。

 人間の発する殺気は基本、温度を伴わない。それは己の感情を押し殺し、殺意をナイフのように研ぐからなのかもしれない。

 だが、今この部屋を満たしている感覚は、それとは根本的に違う。

 まるで野生の獣の舌で舐められているような温さ。

 生々しく、湿り気のある本能的なもの。

 だが、野生の獣のもつ純粋な本能とも違う。

 本能的でありながらもどろりと濁った、感情を匂わせるこの感覚は――人間の持つ情念に似ている。

 仄かに光る眼が、暗闇の中から静かに慈恩の様子を窺っている。

 それを受け、全身がぞわぞわと総毛だっていく。


 こいつはヤバい――慈恩の本能が警鐘を鳴らす。


 その時だった。


「乱堂さん――」


 耐えかねた真琴が中に入ってきた。


「駄目だ!」


 真琴を部屋の外に押し出そうと、慈恩が背を向けたとき――


「――ま…こと……」


 ぬちゃりと、湿った音をたて、黒い塊がくぐもった言葉を発した。


「えっ?」


 びくりと、真琴の身体が震えた。


「け……健吾……」

「なにぃ?」


 一瞬、慈恩が振り返る。

 その僅かな隙をついて、真琴が部屋に転がり込んだ。


「健吾!健吾なんでしょ?ねぇ!」


 ダイニングにあるマットの上に膝を着き、真琴が叫んだ。


「――ま――こと……」


 もぞりと、闇が身じろぎすると、ベッドが軋んだ。


「一週間も、どこに行ってたのよ」


 真琴の声が湿っていた。


「心配したんだよ。黙っていなくなるし……健吾を探して、変な男たちは来るし――このまま会えなくなるかと思ったら、どんだけ怖かったか――」


 恋人に会えた安堵からか、涙を堪えながら、真琴が肩を震わせる。


「たま、ご……」

「え?」

「たまご――どうした?」


 湿った音をたてているが、言葉がはっきりしてきた。


「卵って――あの石の事?」


 木村の言葉に一瞬、真琴の声に緊張が走る。


「そう……だ――ぐいずも・・・・の卵だ」

「ぐいずも?」


 耳慣れぬ単語に、慈恩が反応する。


「あ、あれは――」


 言い澱む真琴に、木村の放つ獣臭が濃度を増した。


「あれを……どうした?」


 いつの間にか、木村の声は明瞭に発せられている。


「――あれは……」

「どうした?」


 優しく諭すように、木村が問いかける。


「――わ、割れちゃ……た……」

「なんだと!」


 消え入りそうに呟く真琴の声を掻き消さんばかりに、木村が声を荒げた。


「割れただと?あれ程、大事にあずかれといったのに、お前はなんてことを!」


 薄緑の瞳が光を増し、闇が激昂する。


「ご、ごめんなさい――」


 真琴が反射的に身を竦める。


「ちょっと待てよ」


 震える真琴の肩に、柔らかな温もりが広がった。


「あんた木村健吾だろ?鈴森真琴さんの恋人の」


 今まで静観していた慈恩が、肩を抱くようにして真琴を立たせた。


「突然姿をくらませた挙げ句、散々心配させた彼女に向かって言うセリフがそれか?」


 呆れたように、慈恩が鼻を鳴らす。


「何より、身勝手な彼氏の尻拭いのせいで、恐い連中に拉致られそうになった彼女に対して『悪かったな』とか『心配かけたな』とか頭のひとつも下げるのが先だろ。石っころの心配なんざ後にしろよ」

「乱堂さん――」


 首を振り訴えかける真琴を、慈恩が制した。


「木村さんよ、ちょっとスジが違うんじゃないかい?」


 慈恩が舌を打つ。


「誰だ?」


 木村――がぽつりと呟く。


「誰だったら文句が無いんだい?警察か弁護士か?それとも大統領か?」


 木村が言葉に込めた思いを察したうえで、慈恩が挑発する。


「ははぁ――そういう事か」


 ベッドを軋ませ、木村がのっそりと床に下りた。


「尻の軽い女め――」


 自嘲気味に笑った。

 ベッドの上ではあれ程の量感を窺わせていたはずが、そこに立つのは中肉中背のシルエットだった。


「ち、違うの健吾。この人は、乱堂さんは健吾を探すために雇った探偵さ――」

「だまれ!」


 木村の怒声が、空気を震わせた。


「ほんの少し姿を隠しただけで、もうすぐに違う男か――」


 くつくつと、泥を捏ねるように木村が肩を震わせた。


「誤解よ!だからこの人は探偵さんなのよ」

「待つんだ」


 前に出ようとする真琴の肩を、慈恩が押さえる。

 木村を中心に、瘴気を纏った闇が、濃度を増していくようだ。


「黙れこのビッチが!俺がどれだけ苦しんでいたかも知らず、直ぐに新しい男か――」


 爛――と、木村の双眸が妖しく揺らめく。


「違うの。聞いて健吾!」

「よせ、何か様子が変だ。危ない」


 木村に近づこうと身を捩らせる真琴を、慈恩が止める。


「離して乱堂さん」

「駄目だ。なにか異様だ。変なのが分からないのか」

「分からないよ。なんで?折角、健吾がそこにいるのに――」


 真琴が慈恩の手を振り払おうとするが、それは適わなかった。


「俺の眼の前で乳繰り合うのか?どこまでもふざけた真似を!このくされ売女が!」


 その瞬間、感情の爆発に合わせたように、木村の身体が大きく膨れ上がった。

着ていた服が、音をたてて裂ける。


 中肉中背だった木村の体躯が、二回りは大きく膨れ上がった。

 その量感は、先ほどまでベッドの上にあったそれだった。

 木村は獣のように跳ねると、四メートルはあったダイニングルームを、一気に飛び越した。


 ぎひやぁ!


 グローブのように膨れ上がった手が、真琴を薙ぐように襲う。

 その先端には、鋭い爪がぎらりと光る。


「きゃあ!」

「ちぃ!」


 真琴を庇った慈恩の背を、木村の爪が切り裂いた。

 そのまま真琴を抱えるようにして、慈恩は床に転がる。


「大丈夫か?」

「は、はい」


 乱堂の背中越しに、眼を血走らせた木村が見えた。


「乱堂さん!」


 その声に、慈恩は振り返る。

 そこに、ごつごつした岩のような拳が迫る。

 寸前で身を躱す慈恩――だが、背後には真琴がいた。

 くっ――慈恩が両腕でガードを固め、その拳を正面から受けた。

 まるで岩石を叩きつけられたようだった。

 鈍い音をたて、八〇キロはある慈恩の身体が弾かれたように吹き飛んだ。

 ダイニングルームを横切り、ベッドの足元にある液晶テレビに慈恩の身体が叩きつけられた。


「乱堂さん!」


 ぐふゅる――獣のような声を噛み殺し、木村がゆっくりと向き直る。


「まぁことぉ……」


 明瞭になった発音が、再び濡れたようにくぐもる。


「――どうして……」


 後退る拍子に、キッチンカウンターの上にあった照明のリモコンに真琴の肘が触れた。

 天井に備え付けられたLEDの照明が、辺りを照らし出す。


「け、健ご――」


 真琴が息を呑む。

 そこには、青黒い皮膚を剥きだしにした異形がいた。

 大きく見開かれた眼尻には、裂けた皮膚から血が流れる。

 口吻は引きつり、発達した犬歯が牙のように覗く。発音が不明瞭なのはこの為だろうか。

 筋肉が肥大したためか、骨格が歪んでいるのか。木村健吾の面影は確かにあるのだが、真琴の良く知る恋人とは、似ても似つかぬその姿は、異形の一言しかなかった。


 鬼――引きつれた笑みを浮かべ、眼を剥きだして近づく姿。

 その頭部に角こそ生やしていないものの、真琴には想像上の鬼を思わせる姿だった。


「ど、どうして?――なんで、健吾がそんな姿に――」


 真琴が見つめる間にも、木村の身体の中で変化は続いている。

 身体の内側から筋肉が盛り上がり、ついていけなくなった皮膚が避けると、血を噴き出す。

 それに合わせるように、関節がごつごつと節くれだってゆく。

 千切れた服を僅かに身に纏い、青黒い肌を血に染めた木村が、ゆっくりと近づいてくる。


 かはぁ――


 恍惚の表情を浮かべ、木村が息を吐く。


「さいこうに、気持ちいいんだ」


 掌で顔を撫でると、血に塗れたそれを、歪に長くなった舌で舐めていく。


「こんなに、気持ちがいいなんて――さすがほうらいの実……」


 木村が、無邪気に笑った。


「ねぇ……健吾、どうしちゃったの?ねぇ――」


 自分を抱きしめるようにして、真琴が身を震わせる。


「これこそしこうていが求めた、不ろうふ死の源だよ。俺のけんきゅうは間違ってなかったぁぁぁ――んだぁ!」

「そ、それって――健吾は――」

「これで、ろんぶん書いて、発表すればおれはきょうじゅになれる。そしたら――結婚できるんだぞぞぞぉ」

「そんなこと――」

「でももうどうでも良いんだ」

「なにがよ!そんな事より、病院。病院に行って診てもら――」


 がぁっ!


 木村の腕の一振りで、ダイニングテーブルが吹き飛んだ。

 冷蔵庫に当たり、テーブルが砕ける。


「さいこうに、気持ちよいんだ。だから――黙れ――と、木村が叫んだ。

「い、いや――嫌だ――」


 唇を噛みしめて、真琴が首を振る。


「すごい。さいこうだ。からだの芯から力が漲る――このかんかく、お前にわかるか?」


 下卑た声を上げて笑う木村の股間が、異常なまでに巨大にそそり立っていた。


「わからなくても、いいよ。まことは、おれと一つになるんだから」

「――なっ、なに……?」


 ゆっくりと木村が近づいてくる。


「ぐいずもになるのは、さいこうだけど――腹が減るんだ」


 すでに、愛しい男の面影は無く、ごつごつと歪な異形でしかない。

 だがそれでも、真琴にとっては紛れも無く木村健吾なのだ。

 そんな鬼の顔が、生臭い息のかかるところまで近づいた。


「腹が減るんだ」


 木村がべろりと、唇を舐めあげる。


「たまらなく、腹が減る」


 避けた唇が口角を上げ、獰猛な牙をみせつける。


「おまえのような、いんばいでも、美味しく喰ってやる。腹にしまえば、みんな――肉だ」


 鼻先で舐めるように顔を突出し、木村が鼻をひくつかせる。

 反射的に真琴が顔を背けた。


「おや?」


 僅かに視線を落とした木村が首を傾げる。


「お前――もしかして――」

「な、なに?」


 鋭い爪先で、木村が真琴の下腹部をさし示した。


「ははぁ――そうか、そうか」


 そう呟くと、くつくつと肩を揺らして笑った。

 訳が分からず真琴は、涙を堪えながら怯えるしかできなかった。


「喰うのはやめだ。いっしょに――」


 木村の手が、真琴の肩に伸びたその時――

 木村の後頭部が微かに揺れた。

 砕けた液晶テレビが床に散乱する。


「んん?」


 木村が振り返った。

 その顔面に向けて、ワークブーツが叩き込まれた。


「乱堂さん!」


 容赦のない慈恩の上段蹴りが、木村の顔面を蹴りぬいた。

 羆の首でもへし折りそうな、乱堂の蹴りをまともに受けても、木村の身体は僅かによろめいただけだ。


「化けもんかよ!」


 続けざま。絶妙の角度で、左のローを叩きこむ。

 膝裏を織られた木村の身体が、微かに崩れた。


 がぁっ!


 木村のフルスイングした拳が、沈み込んだ慈恩の髪を引きちぎる。


「しゃっ!」


 空を切る腕を掴み、慈恩が背負うように木村を投げ落とした。

 床に叩きつけられても、木村の鋭い爪は慈恩の腕に喰いこみ離さなかった。


「しつこいと嫌われるぜ!」


 踵を落とそうと、木村の顔面に向かい、慈恩が足を持ち上げた。


 その瞬間――信じられないような膂力で、慈恩の身体が宙に浮いた。

 床に倒れながらも離さなかった慈恩の腕を、木村が力任せに振り回したのだ、

 その常識はずれな腕力に、今度は慈恩が床に叩きつけられた。


 きゃぁ――耳朶の奥で鳴り響く真琴の悲鳴が、辛うじてとった受け身の衝撃と重なる。

 そのまま上から圧し掛かる木村に対し、慈恩が腕を取る。

 腕を極めながら、木村の首を両足で抱え込むようにロックする。

 柔道で言う三角締め――肩の関節を極めながら、頸動脈を圧迫する技である。

 首筋の頸動脈を締めれば、たちまち脳への血流は遮断され、意識が飛ぶ。いわゆる『落ちる』のだ。

 角度もタイミングも完璧だった。 

 しかし――木村の首筋が、倍以上に膨れ上がった。


「ウソだろ……」


 首筋の筋肉が隆起し、慈恩の足を押し返す。これではまるで、首と言うよりも、丸太である。

 頸動脈のポイントも完全にずらされてしまった。


 ぎひゃ。


 木村が笑った。

 慈恩の背筋を、戦慄が走る。

 ロックした足を解き、全力で脱出を図る。

 同時に、次の一瞬に起こる出来事に対し、慈恩は両腕を交差させ、頭部を固めた。

 それは例えるならば、全力で叩きつけられた砲丸の球だろうか。或いは、鋼鉄の雪駄を履いた関取の四股踏みに例えても良いかもしれない。


 ぐちゅ。

 ぎちっ。

 めきっ。


 怖ろしく固く、恐ろしく重たい塊が叩きつけられた。


 骨の軋む音。

 肉の潰れる音。

 床の割れる音。


 それが同時に和音を奏でる。

 慈恩の上に跨った木村が、握りしめた拳を力任せに叩きつけた。

 ガードの上からでも構わない。

 まるで速射砲のように慈恩に向けて拳の雨を降らせていく。


「嫌ぁぁ!止めて!もうやめて健吾!」


 真琴の悲鳴が虚しく響き渡る。


「――やめた」


 そう呟いたのは木村でなく、乱打の下の慈恩だった。


「恨むなよ」


 それは誰に向けられた言葉なのか――

 次の瞬間、慈恩が腰を跳ね上げた。

 それに合わせるように、ガードしていた慈恩の腕が、木村の拳を捌く。

 拳を叩きつけるため、前のめりになっていた身体が崩れ、木村の体が一気に崩れた。

 鬼の形相が、慈恩に迫る。

 見開かれた木村の眼尻に、慈恩が指を突き込んだ。

 慈恩の指が眼窩の骨をひっかけると、一瞬、木村の眼球が、零れ落ちんばかりに浮き上がる。

 慈恩は引っ掛けた指先で、木村を横に投げ崩した。


 っぎゃぃぃっぃ!


 奇声をを上げ、木村が床の上を転がる。

 それを、慈恩が追った。


「じゃぁ!」


 握り込んだ拳から突き出した両の親指を、身を起こした木村の耳朶に突き入れた。

 そのまま鼻頭に向かって、慈恩が額を叩きつける。

 仰け反るようにして、異形の肉体が倒れていく。

 並みの人間なら、確実に死んでいるはずだ。


「健吾!」


 近寄ろうとする真琴を、血濡れた慈恩の腕が制した。


「これでも駄目とはな――」


 満身創痍なはずの慈恩の顔に、嬉々とした笑みが浮かんでいた。


「――ら、乱堂さ……ん」


 ぞくりと、真琴の背を冷たいものが奔った。異形と化した恋人よりも、眼の前にいる探偵に恐怖を感じていた。


「来るぞ!」


 そんな真琴の震えを、慈恩の声が現実に引き戻す。

 膝を折り、仰け反った木村の身体が、ゆっくりとフイルムの逆回しのように起き上がってきた。


「ひっ――」


 思わず真琴が息を呑んだ。


「なんだこりゃ……」


 こちらを見つめる木村の眼尻から、何か得体の知れない白いものが湧きだしていた。

 ちょうど慈恩が指を突き入れた場所――そこから白い綿のようなものが吹き出し、まるで生きているように蠢いている。

 それだけでは無い。

 その白い綿のようなものは、慈恩が潰した鼻の穴からも、両方の耳からも湧き出していた。

 その白いものが、まるで意志が有るかのように、殺意を剥きだしにして鎌首をもたげる。

 うっ――真琴が胃からこみ上げる物を必死で堪えた。


「たちの悪い冗談だろ――」


 さすがの慈恩も頬を引きつらせる。

 のっそりと木村が立ち上がるよりも早く、真琴を庇うように慈恩が立ちはだかった。


「大丈夫かい?」


 なにこれ――その時真琴は、こみ上げる吐き気と共に下腹部に何とも言えぬ熱を感じていた。

 それが脈打つようにリズムを刻み、下から胃を突き上げる。

 心配する慈恩に、真琴は頷くしかできなかった。

 そんな真琴の様子などお構いなしに、木村が足を引き摺りながら近づいてくる。


「――あ、あれ、なんなんです?ねえ乱堂さん、健吾はどうしちゃったの!」


 庇うように立つ慈恩の背中を揺らし、真琴が悲鳴に近い叫びを上げるのは、吐き気と熱を誤魔化すためでもあった。


「わからん。だけどな、ひとつ言えることはかなりヤバいってことかな」


 呆れたように、慈恩が鼻で笑う。


「離れろ!」


 木村の身体が、前に崩れるように走りだした。

 左手で真琴を突き放すと、右手で脇にあった椅子を掴む。

 両手を大きく伸ばし襲い来る木村の頭部を、木製の椅子で殴りつけた。

 椅子は木端微塵に壊れるも、木村は止まらなかった。

 両手で慈恩の頭を鷲掴みにすると、口を大きく開き歯を剥きだしにした。

 木村の顔から湧き出すモノも、敵意を露わにいきり立つ。

 慈恩を喰うつもりなのか。

 唇の端が切れ、血が噴き出すのも構わず、木村の凶牙が慈恩に迫る。


「喰われるかよ!」


 逆に、慈恩は、迫りくる頭部と顎を上下で挟むように掴むと、体捌きで捻るようにして木村を投げ落とした。


「逃げるぞ」


 呆然と立ち尽くす真琴の手を取り、慈恩が玄関に向かう。


「待って――」


 だが、真琴はそれを拒んだ。


「死にたいのか!」

「違う。違うの――乱堂さん。ほら聞いて――」


 真琴が床に倒れる木村を見つめていた。


「――こ――して……くれ……」


 それは床に倒れる木村の口から洩れていた。


「健吾。どうしたの?なに?」


 真琴が足を踏み出すも、掴んだ慈恩の手が許さない。


「……ころ――ぃてく……れ――」


 嗚咽交じりに、木村が何かを呟いている。


「――おれ、お……殺し――てく――れ……」

「えっ?」

「お、れを――殺して……くれ――」


 木村ははっきりと、そう呟いた。


「な、なにを――健吾、なにを言ってるのよ!」


 真琴が泣いていた。

 緩慢な動きで、木村が立ち上がった。

 鬼を思わせる異形はそのままだが、あの不気味な白いムース状のものは姿を消していた。

 それと同時に、下腹部の熱が消えていることに、真琴は気が付いていなかった。


「頼む。おれを殺してくれ――」


 見開かれた木村の眼から、大粒の涙が零れ落ちた。


「まこと……」


 そこに宿る光は紛れも無く、真琴の良く知る木村健吾だった。


「健吾ぉ……」

「駄目だぁ」


 繋ぎ止めようと手を伸ばす真琴を振り切るように、木村は背を向けて走り出した。

 ベッドを飛び越えると窓を開け、振り返りもせず三階の窓から闇に飛び出した。


「けんごぉ!」


 真琴の叫びを、窓から吹き付ける十二月の風が掻き消していく。

 俺を殺してくれ――陳腐で使い古された、ざらついた捨て台詞を残したその声に、慈恩は憶えがあった。

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