第7話 外道乱侮


 居ても立っても居られない――


 真琴が胸に抱えるのは、まさにそんな想いだった。

 青い街灯の光が、真琴の青い影をアスファルトに落とす。

 十二月の空気は堪らなく冷たく、足早に夜を連れてくる。

 コートの襟を立てパンプスのヒールを響かせながら、真琴はひた向きに住宅街を行く。


 定時よりも一時間早く、真琴は会社を出た。

 今朝、ついうっかりと、スマホを部屋に忘れてきてしまった。

 健吾が行方不明になって以来、肌身離さず持っていたスマートフォン。風呂に入るときでも防水パックに入れて傍に置いていたのだが、今日に限って、それを部屋に置いてきてしまった。

 いつ健吾から連絡が入るか分からない。

 そう思うと、スマホを片時も離すことが出来ない。


 だが何故だろう。


 そんな大切なスマホを、今朝に限って忘れてしまった。


 昨夜――真琴は、見知らぬ男たちに連れ去られそうになった。

 どう見ても堅気とは思えぬ、暴力を空気のように纏った男たちは、健吾の行方を捜していた。

 真琴の言葉に耳を貸す気も無く、真琴は何処かへ連れ去られそうになった。

 直接、暴力を振るわれたわけでは無い。

 ただ、彼らの身に纏う暴力の臭いと、その有無を言わさぬ高圧的な言動に、真琴の思考は停止した。

 まるで、裸で猛獣の檻に放り込まれた様なものである。

 今まで、極めて平凡に、普通に生きてきた真琴が到底抗える訳がない。

 二十数年生きてきて、あんなに怖い思いをしたのは初めてだった。

 命の危険と言うよりも、真琴の女としての本能が全開で警鐘を鳴らしていた。

 そこに乱堂慈恩が現れた。

 健吾を探してもらう為に、真琴が雇った探偵が慈恩である。

 慈恩と待ち合わせをしていた時に、工藤らが現れた。

 暴力を生業とする男らを相手に対し、慈恩は余裕を持って彼らを蹴散らした。

 そんな慈恩が、健吾を探すと依頼を受けてくれたからだろうか。


 昨夜、真琴は久々にぐっすりと深い眠りに落ちた。

 その御蔭で寝過ごした真琴は、危うく遅刻しそうになり、スマホを忘れてしまったのだ。

 今夜、健吾の周辺を調べている慈恩から、連絡が入ることになっていた。場合によっては、再び会う必要も生じるかもしれない。

 それに何より気がかりなのは、健吾から連絡が入っているかもしれない事だ。

 それを思うと今日一日、仕事も手につかなかった。

 結果、真琴は体調不良と偽り、会社を早退したのだ。

 駅から続く商店街を抜け、真琴は住宅地を歩いている。

 真琴の住むアパートは、この先にある公園の向こうだった。

 明かりの灯る住宅地を過ぎ、未だ造成中の住宅の外れに、その公園は有った。

 昼間であれば、それなりに人通りも有るのだが、陽が暮れれば歩く人も少ない。 ましてこの季節である。周囲に人影など有る筈も無い。

 だが、ここを抜ければ、アパートは直ぐである。

 見通しが良い公園だった。

 周囲に樹木は殆ど無い。

 端に、まだ新しいあずま屋と水飲み場。それと中央に、樹脂で出来た滑り台とブランコが二つあるだけだった。

 公園全体の見晴らしがよく、子供の安全上は良いのだろう。だが、どこか殺伐とした気がして、真琴はあまり好きになれなかった。

 公園の外れに差し掛かった時、風も無いのにブランコの鎖が揺れる音がした。

 夏場ならいざ知らず、とっぷりと陽は暮れている。

 この寒空に子供の遊ぶ時間では無い。

 有るとすれば、高校生のカップルが制服姿のまま、身を寄せているのだろう。


 だが――ぽつんと灯りの灯る街灯に映し出されたブランコには、若い男が二人、身を預けていた。


 二十代後半だろうか。

 一人は、ミリタリーコートを着た金髪の男。

 もう一人は、今どき流行らないリーゼント。

 二人の男がスマホを弄びながら、真琴を視線で追う。


 瞬間――真琴の脳裏に昨夜の事が思い出された。

 心臓を鷲掴みされたように、胸が苦しくなる。

 空気が冷たい筈なのに、背中に嫌な汗が流れた。

 動悸が激しくなり、手足が痺れたように冷たくなる。

 だがそれでも、真琴は脚を止めなかった。

 それは昨夜の恐怖ゆえの事だった。

 真琴は、男らと視線を合わせぬよう俯き、公園の前を足早に通り過ぎてゆく。

 ねっとりとした視線が、纏わりつくように真琴を追うのが分かる。

 脚を止めたら負けだ――男らの前を通り過ぎる時、動悸の激しさは最高潮に達した。

 心臓が口から飛び出すと言うのが、嘘ではないと思った。

 息をすることすら忘れ、駆け出すように通り過ぎる。

 パンプスの踵がアスファルトを打つ音だけが、嫌に鮮明に響く。

 だが何事も無く、真琴は公園を抜けることが出来た。

 ちらり――と、振り返れば、男らは興味もなさそうに会話を始めていた。

 自意識過剰だったか――自分の取り越し苦労に安堵すると、直ぐに激しい羞恥に襲われた。

 頬が熱くなるのが分かった。

 同時に、緊張が緩んだせいか、膝が笑い始めた。思わずその場にへたり込んでしまいそうになるのを、必死で堪えた。

 それが原因か。

 パンプスの踵を着き損ね、足首を捻った。


「痛っ――」


 道に転がりそうになるのを、辛うじて耐える。


 その時――黒塗りの高級ミニバンが音も立てず、真琴の脇を通り過ぎる。

 ハイブリッド仕様なのだろう。

 かなりのスピードであるにも関わらずエンジン音は聞こえなかった。音もたてず近づいてきたミニバンは、真琴を追い越すと、急ブレーキを踏んだ。

 突如、悲鳴のようなブレーキ音が、周囲に響き渡る。

 助手席側のスライドドアが開くと、中から男が飛び出してきた。

 その顔に見覚えがあった。

 昨夜、工藤らと一緒に居た、スキンヘッドの巨漢だった。

 咄嗟に振り返り、真琴は今来た道に逃げ出そうとした。

 そこへ、公園から先ほどの二人の男が現れた。


「助け――」

「――松井のアニキ、お疲れっす」


 反射的に助けを求める真琴の声を遮り、公園にいた男らが下卑た笑いを浮かべた。

 にやにやと薄ら笑いを浮かべた男たちは、スキンヘッド――松井にわざとらしい 挨拶をすると、道を遮るように真琴の前に立ちはだかった。


「……嫌だ――」


 どくん――心臓が締め付けられる。


 胸がきゅっと痛み、身体が硬直した。

 そこへ松井が、後ろから真琴の腕を掴んだ。


「――っア……」


 悲鳴を上げようとした真琴の口を、ヤニ臭いグローブのような手が塞いだ。


「昨日は世話んなったな」


 耳元でドスを利かせ、松井が笑う。


「昨夜の話の続きをしようか――」


 車の中から、工藤も顔を出した。顔には大きなガーゼが貼られている。

 重い鉛が圧し掛かったように、手足が重くなるのを真琴は感じた。

 恐怖と絶望が、真琴の心を塗り潰していく。

 昨夜は、約束があった慈恩が助けに来てくれた。

 だが慈恩が、今の状況を知る筈も無い。

 膝ががくがくと震え、崩れ落ちそうになる。

 松井がそれを許さなかった。丸太のような腕が、華奢な真琴の身体を抱えた。


 健吾――真琴は思わず唇を噛みしめた。


 その時だった。


「いけないな。優美さも繊細さもないイカ臭い手で、可愛い女の子に触れるなんて、それだけで死刑になっても文句は言えないよ」


 突然、ミニバンの影から長身の男が姿を現した。


「その性欲の権化のような手を、さっさと離せ。妊娠でもしたらどうするんだ」


 栗色の髪をした若い男が、流れるように波打つ髪をかき上げた。


「――んっだ、テメェはぁ?」


 突然の乱入者に一番近くにいたリーゼント――山木が大袈裟に首を傾げ、現れた男を見上げる。

 金髪の男――道夫もその隣に立ち、無言で威嚇する。

 それに対し男は、爽やかな微笑みを浮かべ、悠然と山木らを見下ろしている。

 ほっそりとした長身。若い男の方が頭半分は背が高い。

 肌の色は陶器のように白く、唇だけが紅い。

 彫り深く、切れ長の瞳は薄ら青味が掛かっている。

 昨夜、真琴を襲った中にいた裕也のような、薄っぺらな色男とはレベルが違う。

 まるでギリシャ彫刻を思わせるような美しい顔立ちをしていた。

 黒のタートルに、黒のスキニー。足元まで黒で統一した上に、白いトレンチを重ねた着こなしは、まるでモデルの様である。

 つい数時間前、慈恩の前に現れたあの男だった。


「ほら、その腐った豚足みたいな汚い手、さっさと離して。そのコの可愛い顔が酢味噌臭くなって、腐ったらどうする」


 手をひらひらさせ、形の良い眉を露骨にしかめた。


「なんだと!」


 松井が、怒りに頬を染める。


「ほら、どいてどいて――」


 眼の前にいるチンピラ二人には眼もくれず、虫でも掃うように左右に追いたてる。


「ちっ。なんだ、テメェ!色男ぶって女の前でカッコつけてんのか?」


 その態度に、黙していた山木が、唾を吐き捨てる。


「汚いな。そんな鳥の糞みたいなのがコートにでも当たってみろ。腐って穴が開く。そしたら産業廃棄物として滅却処分ものだ。そしたら指落としたくらいじゃ、責任とれないよ」


 虚勢でも怯えるでもなく、男は平然と言い放つ。


「調子こいてんなよ!」 


 我慢の限界か。山木が拳を振り上げた。

 なんの躊躇いも無く、男の顔面を狙った。


 だが――


 それよりも速く男の拳が、山木の鼻面に叩き込まれていた。

 顔を大きく仰け反らせ、山木が公園の柵に背中を打ち付けた。


「正当防衛だからね」

「――野郎!」


 道夫が懐に手を入れた瞬間、無造作に突き出した男の皮靴が、腹にめり込んだ。


「ぐぼっ……」


 鈍く呻きながら、道夫はアスファルトに沈んだ。

 男の手には、道夫が懐から抜いたばかりのナイフが握られている。


「これまた同じく」


 正当防衛――と、男が微笑む。


 全ては、一瞬の出来事だった。いずれの場合も、明らかに男の方が後から動いていた。

 だがそれでも、無造作に放った男の攻撃の方が速く重かった。


「この餓鬼ぃ!」


 それを見た松井の頭部が怒りに染まる。

 ぎりと、身体に力がこもった。


「――……っ」


 真琴の顔が苦痛に歪む。


「だからさ、その汚い手を離せって言ってるんだよ」


 それを見た男の顔が一変。

 能面のような無表情に、氷のような殺気が覗く。


「げぁあ!」


 その殺気に当てられたか。

 松井が奇声を上げ、真琴の身体を背後に突き離した。


 一瞬――男の視線が、真琴を追った。

 その瞬間――松井が動いた。


 始めから狙っていたのだ。

 その体格からは想像もできない俊敏さである。

 昨夜、慈恩にあしらわれた時とは違う。

 学生時代、ラグビー部に居た松井のタックルは重戦車のぶちかましの如く、速くて重かった。

 男の腰元に、絶妙のタイミングでぶちかました。

 現役の関取のぶちかましにも負けない――そんな自負のあるタックルが空を切った。

 怒りと興奮で赤く染まるスキンヘッドに、ぽんと手を添え、男は宙に跳んだ。

 まるで体操選手が跳馬を跳ぶような鮮やかなフォームで、スキンヘッドを飛び越 えると、男は真琴の前に立った。


「――っ」


 突如、眼の前に現れた長身の男に、真琴が息を呑む。余りの事態の展開に思考が追いつかない。

 そんな事など意に介さないかのように、男が真琴を見つめる。

 思わず頬を紅く染め、真琴が視線を逸らす。

 男は構わず、真琴に顔を近づけると二度、三度と鼻をひくつかせた。

 このような状況とは言え、モデルのように美しい男に匂いをかがれ、真琴は羞恥に身を反らす。


「君が、鈴森真琴さんだね」

「は、はい……」


 慈恩の同僚だろうか――名前を呼ばれたことで、真琴は思った。


「美味しそうだ」

「――えっ?」

「んん――っ。やっぱり甘い良い香りだね。でも、まだ青さが残る」


 何を言っているのか――言い知れぬ不安に、真琴の鼓動が高まる。

 男が浮かべる爽やかな笑顔は、何とも場違いなほどに優しく甘い。

 もしも、時と場所が違えばその笑みに、心が揺れたかもしれない。

 だがその甘い瞳の奥に、仄かに滲むギラつく光に、真琴は気が付かなかった。

 それでも男の笑顔で、真琴の心に落ち着きが戻った。


「――あ、あなたは……慈恩さんの――」

「さぁ、行こうか」


 それでも戸惑いを隠せない真琴をよそに、白馬の王子よろしく男の白い指が差し出された。


「ちょっと待てや!」


 松井が怒りに身を震わせ、立ち上がった。


「餓鬼が、舐めたことしやがって!」


 渾身のタックルが空振りに終わり、松井は顔面からアスファルトに突っ込んだ。

 額から血を流し、スキンヘッドが鬼の形相で立ち上がった。

 だが流石に暴力で飯を喰っているだけはある。二度も無闇に仕掛けるほど馬鹿では無い。

 眼前いるにやけた優男が見た目とは裏腹に、場馴れしていることを確信した。

 刃渡りは三〇センチを超えるだろう。懐から映画でしか見たこと無いような、仰々しいサバイバルナイフを取り出すと、男と真琴に見せつけるように刃を返す。

 普通、人は刃物を見せつけられると身が固まる。身近な凶器である刃物の怖さを、誰しも体感的に知っているからだ。

 それはある意味、銃を見せつけられるより効果的かもしれない。日常で銃に接することの無い人間に、その怖さを想像することは出来ないからだ。

 ナイフによる痛みも怖さも、容易に想像が出来た。

 案の定、心に余裕の生まれたはずの真琴は、再び身を固くした。


「にいちゃんよ!その綺麗な顔、地べたにこすり付けて、泣いて謝るなら見逃してやってもいいぜ!」


 松井が薄ら笑いを浮かべる。


「もっとも、鼻を削ぎ落して綺麗な顔を切り刻んでからだけどよ!」


 自分の言葉に酔ったのか。松井の笑みがサディスティクに歪む。


「土下座なら、君の仕事だろ?今しがたしたばかりなのに、もう忘れたかい?」


 男の悪意の欠片もなさそうな物言いが、松井を挑発した。


「――っなっら!」


 顔を怒りと血で赤く染め、松井がナイフを突き込む。


「ちょっとだけ離れてて」


 真琴を公園の方に押しやり、男はひらりとナイフを躱す。


「光物は好きじゃないんだけどな」


 嘲るように、男が鼻を鳴らす。


「舐めんな!」


 松井のナイフ捌きは、流石であった。

 手慣れた様子で刃を突く。

 だが、そのこと如くが、虚しく宙を切る。

 男が、ダンスのステップを踏むように、軽やかにナイフを躱す。

 それとは対照的に、松井の息が上がっていた。

 鼻が潰れ、血が垂れている。

 これでは呼吸もままならないのであろう。


「苦しそうだねぇ。冬だと言うのに、不細工が余計に暑苦しくなって存在そのものが最早犯罪レベルだ。腕の良い美容整形を紹介してあげるよ」


 ねぇ――と、余裕の笑顔で真琴に振り向いた。


 ――その時だった。


 ドン――。


 男の身体が微かによろめいた。


「ひっ――」


 真琴の悲鳴に、男が自分の腰の辺りを見つめた。


「あら……」


 何時の間に立ち上がったのか。そこには自慢のリーゼントを乱した山木が、男の脇に抱きつくようにして立っていた。


「ば、馬鹿がよ――な、舐めすぎなんだよ!」


 精一杯、押し殺した山木の声が上擦っていた。

 男の白いトレンチに、朱い華が咲いた。

 それは真琴の見ている前で、見る見るうちに大きく広がっていく。


「痛いなぁ――」


 男がため息を一つ――無造作に山木を殴り飛ばした。

 男の腰元――白いコートから、木製の突起が生えていた。

 朱い華はそれを中心に、鮮やかに広がっていく。

 その朱がトレンチを伝わり、ぽたりと、男の足元にも華を咲かせた。

 男が突起を掴むと、眉一つ動かさず引き抜いた。


「――こんなモノで……お気に入りのコートが台無しだ」


 男がそれを投げ捨てると、乾いた音が響いた。

 それは刃渡り二十センチ程の匕首ドスだった。


「き……きゃ、きゃぁぁ――!」


 真琴が口元を押さえ、その場に崩れ落ちた。


「大丈夫だから、大きな声で騒がないで」


 男が真琴に向かい、平然と歩み寄る。


「ねっ、この通り心配いらないから――」


 先程と寸分も違わぬ、爽やかな瞳で微笑んだ。

 それは何とも違和感のある、奇妙で凄絶な光景だった。


「化物んか!」


 そこに、スキンヘッドが、ナイフを腰だめに突っ込む。


「失礼な奴だ。鏡を見て絶望してから言え。僕が化物なら、君は道端のウンコだな」 


 突き込まれたナイフを躱し、松井のがら空きの後頭部に向け、男が拳を振り降ろそうとしたその時――


「――あっ!」


 突如、音も無く動き出したハイブリッド仕様のミニバンが、何の躊躇も無く、背後から男を跳ね飛ばした。

 鈍く湿った音が、真琴の耳に残る。


「おい!何してやがる!早くしろ!」


 ミニバンから、苛立つように工藤が顔を出した。


「騒ぎが大きくなるだろが!」


 辺りにひと気は無くとも、住宅地である。

 この騒ぎでは既に誰かが通報していてもおかしくない。

 その言葉に、松井が慌てて真琴を立たせる。

 道夫も、山木の肩を借りながら、ふらふらと立ち上がる。

 松井が、膝に力が入らぬ真琴を、半ば抱えるようにミニバンのスライドドアに押し込もうとした。


 その時だった。


 水平対向独特の低い咆哮を上げ、ヘッドライトの明かりが薄闇を引き裂いた。

 アスファルトを切りつけるタイヤの悲鳴が響くと、黒いRVが急停車する。

 刹那――運転席の扉が派手に開いたかと思うと、黒い影が飛び出した。


「困るんだよな。人の依頼人に勝手な事されちゃよ!」


 営業用スマイルを怒りに引きつらせ、乱堂慈恩が奔る。


「手前ぇは――」


 言いかける松井の顔面を、ミニバンのドアに叩きつけ、真琴の身体を抱き寄せる。


「……あっ――ら、らんどう……乱堂さん――」


 安堵の為か、真琴の眼に大粒の涙が浮かんだ。


「まったく。携帯には出ないし、会社には居ねぇし――」


 慈恩も安堵の溜息をつく。

 にやりと、口角を持ち上げると、真琴の頭をポンと叩いた。


「……ご、ごめんなさい」


 真琴が体重を預けるように、慈恩の胸に飛び込んだ。


「な、ん、何だ手前ぇは!」


 道夫に肩を貸しながら、顔を歪めた山木がいきり立つ。


「頭が悪いのか、耳が悪いのか?この子は俺の客だって言ったろ」


 苛立つ慈恩のひと睨みで、山木の腰が引けた。


「こっちもな、聞きたいことが有るんだ。色々と教えちゃもらえないかい――」


 ずい――と、真琴を支えながら、ミニバンからこちらを見つめる工藤に向かい、脚を踏み出した。


 ――その時だった。


 遠くの方からサイレンの音が聞こえた。

 これだけの騒ぎである。

 誰かが警察に通報したのだろう。


「おい!乗れ!」


 ミニバンから、工藤が苛立つように叫ぶ。


「これで二度目だ。この落とし前は必ず付けさせるからな。忘れるなよ手前ぇ」


 蛇のようなねちっこい眼で、工藤が慈恩を睨む。


「勘違いするなよ。お前こそ俺の客に手を出したのは二度目だ。落とし前はつけてもらうぜチンピラ」


 慈恩の視線と工藤の視線が交錯する。


「出せ!」


 松井らを乗せ、ミニバンがアスファルトにタイヤを焦がす。


「俺たちも行こう」


 ミニバンが角を曲がるのを見送ると、慈恩が言った。

 サイレンの音がすぐ近くまで来ていた。


「で、でも――」


 真琴が困ったように、辺りを見回す。


 居ない――。


「どうした?早くしないと警察が来るぞ」


 慈恩が、真琴の肩を抱くようにして車に促すも、真琴の足取りは重い。


「――居ないの」

「誰が?」

「助けてくれた人が……」

「助けてくれた奴がいるのか?」


 真琴が頷いた。

 確かに足元には、血溜りらしき染みが残っている。

 連中の中に、それほどの出血をしている奴はいなかった。


「兎に角、話は後だ。今はとりあえず車に乗って」

「でも――」


 サイレンの音が近づき、赤色灯の光が見え始めた。


「早く!」


 慈恩に急かされ、真琴が渋々と後席に乗り込んだ。


「ひとまず、俺の事務所へ。そこなら安全だ」


 慈恩が運転席に乗り込み、ハンドルを握る。


「――その前に、わたしの部屋によってもらえませんか?」

「なぜ?」

「スマホを忘れてしまって……」


 健吾からいつ連絡が来るかわからない。

その一言で、慈恩は察した。


「取敢えず、今は駄目だ。一度、事務所に行き、落ち着いた頃取りにこよう」

「……はい」


 気持ちは分かる。

 だが、この近くにある真琴のアパートに寄っていたのでは、警察に引っ掛かる可能性がある。

 それは避けたい。

 肩を落とす真琴をバックミラーで見やり、慈恩がアクセルを踏み込もうと脚に力を込めると、水平対向が咆哮を上げる。


その瞬間――突然、助手席のドアが開いた。


そこへ、ひらりと軽やかに男が飛び込んできた。


「さぁ、出してくれ。出発進行だ!」

「な、なんだ?なんで手前ぇが!」

「――よ、良かった……無事だったんですね」


 真琴が両手で顔を覆い、涙を浮かべた。


「――えっ?ああぁん?」


 慈恩が、助手席と後席を交互に見つめ眉をしかめる。


「ほらほら、速くしないとお巡りさん来ちゃうよぉ」


 栗色の髪をかき上げ、男――陣外恭一郎じんがいきょういちろうが爽やかに微笑んだ。

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