第6話 霧中暗索

 

 木村健吾の評判は、すこぶる平凡であった。


 北関東の地方都市で育った木村は、自営業を営む両親のもと、次男として生を受けた。

 五つ離れた兄と、三つ下の妹がいる。妹は既に関西で就職しているし、実家の稼業は所帯を持った兄が跡を継ぐ予定のようだ。

 そういう意味では、木村は縛られるものも無く、研究員として働くことが出来る環境に有った。

 鈴森真琴とは同じ県の出身ではあるが、地元に居たころに接点は無く、共通の交友関係も特には無かった。

 実家に帰っている様子が無い事は、既に真琴が確認していた。

 関西に居る妹の所とも考えられるが、彼氏と同棲中らしく、その線も薄いだろう。

 翌日。慈恩は手始めに、木村の職場である大学を訪ねた。

 ここは真琴と木村の母校であり、木村に至っては学籍の有った頃と合わせれば、八年も通っていることになる。

 木村の人となりを調べるには、最も適している場所だった。

 研究室の同僚を中心に、慈恩は聞き込みを始めた。

 予想通り、誰もが木村の失踪の理由に首を傾げ、心当たりはないと答えるばかりであった。

 聞き込んだ限りでは、人当たりも悪くなく、まじめで研究熱心。派手さは無いが地道に物事を積み重ねていく性格は、教授たちからの信頼も厚く、同僚からの評判も高かい。

 だが、中井という同僚の男から返ってきた言葉は違った。

 外面が良くて、要領がいいだけですよ――木村と学生時代から同期だった中井は、吐き捨てるように言った。

 慈恩に声を掛けられると、身を固くすくませた中井だったが、丁寧な営業用・・・ボイス・・・に警戒心が薄れたのか一転、饒舌に話し始めた。

 色が白く線の細い男だった。慈恩と話しながらも、頻りに眉間に皺を刻む姿は、神経質な研究者気質とでも言うべきか。


「――上の人間や、女子の前でだけ調子よくやってるんですよ」


 面白みに欠け付き合いが悪い――慈恩が聞いてもいないようなことを、中井は呟き続けた。


 みっともない――中井から視線を外すと、慈恩は声に出さず呟いた。


「なにか言いましたか?」

「いや、なにも」


 口に拳を当て、慈恩は咳払いした。

 男の嫉妬――木村に対する、やっかみからの言葉だろう。

 在学中から交際していた木村と真琴の関係は、有名だったらしい。

 はっきりと言葉にこそしないが、真琴に対しての横恋慕――木村への嫉妬心が言葉の端々に滲み出ている。

 閉塞的な環境での男の嫉妬に、慈恩は呆れかえるしかなかった。

 まだ毒を吐き続ける中井に礼を言うと、慈恩は背を向けた。


 特にこれと言った収穫も無く、諦めかけていた時に、飯嶋ゆかりと言うポニーテールの、若い女性職員から話を聞くことが出来た。

 彼女は、真琴と木村の所属していたサークルに在籍していたという。

 木村と同期の彼女は現在、母校である大学で事務員として勤務している。

 学生時代から二人の関係を知るゆかりは、

 木村が親しくする数少ない同僚であった。


「木村君、彼女との結婚に焦りを感じていたみたいですよ」


 先程の中井のとは違い、ゆかりは慈恩に対し物怖じすることもなかった。

 それどころか、紅いフレームの眼鏡の向こうに光る瞳は、好奇と期待に満ちている。


「焦り……ですか?」

 慈恩はそれに気が付かぬよう、わざとらしく咳払いをすると、寒くも無いのにフライトジャケットの襟を立てた。


「理系ならばともかく、文系の研究員ですから、お給料の方はあまり高くないでしょ。だから結婚するには不安があったみたい」


 なぜだか申し訳なさそうに言った。

 昨夜、真琴が婚約とか言っていたのを思い出す。

 慈恩はとびっきりの営業スマイルで、ゆかりに話を促した。

 目元を綻ばせれば、どことなく人懐っこい笑顔を作れるのだが、まるでゴリラのようにごつい身体と鋭い眼差しは、初対面の人間には威圧的にとられやすい。

 だがそのような事、ゆかりは関係が無いようだった。単にこのネタを誰かと話したくて仕方がないのだ。


「真琴ちゃんの方は、結婚にはまだ拘りがなかったみたいだけど、木村君の方がね――ほら彼、固いところあるから」


 ゆかりがため息交じりに微笑む。


「ふむ……」


 結婚に踏み切るためのフトコロ事情に難があったとしても、突然いなくなる動機としては考えにくい。まさかマリッジブルーと言うわけでもあるまい。

 悩みや苦労はあったのだろうが、どう考えても、木村は幸せだったはずだ。


「あのぉ――」

「なに?」


 ゆかりの眼が、好奇の期待に輝く。


「因みに一つお尋ねしたいのですが。木村さんはなにか面倒事――トラブルに巻き込まれていたとか……聞いてませんかね?」

「いいえ……」


 ゆかりは申し訳なさそうに首を振った。

 慈恩が丁重に礼を言うと、ゆかりはその場を後にした。


「手掛かりなしか――」


 木村のアパートにでも行ってみるか――と、溜息を一つ。

 暫し、立ち去るタイトスカートの丸みを見つめ、期待外れに肩を落とすと、慈恩は背を向けて歩き出しかけたその時――・


「――あっ!」


 立ち去り際の彼女が声を上げた。


「なにっ!」


 慈恩が脊椎反射の速さで振り返る。

 周囲には学生らしき姿が数人。

 一瞬、人目を気にするように周囲を探る慈恩の瞳は、獲物を狩る野獣の様だった。


「思い出した!」


 そんな慈恩の様子など知る由も無く、ゆかりが踵を返すと、ヒールを鳴らし小走りで駆け寄ってくる。


「なにか思い出しました?」

「トラブルってほどでもないのかな――」

「なんです?」


 思わず慈恩が身を乗り出す。傍から見れば、襲い掛かっているように見えたかもしれない。

 遠巻きにコチラを見つめる学生の視線が痛い。


「ココだけの話ですけど――」


 わざとらしく声を潜める。


「木村君、大学に内緒でアルバイトしていたみたいですよ」

「バイト?」


 大学の就業規定に触れなければ、特に問題は無いだろう。


「どのようなアルバイトを?」


 ゆかりは首を振る。


「その、バイト先でなにかトラブルが?」


 その問いに、彼女は首を傾げた。


「よくは知らないんですけど。そのバイト先、どうもヤバい系・・・・だったみたいで」

「ヤバい系?」

「詳しくは教えてくれなかったけど――」


 朱く彩られたネイルを、自分の頬に当てると、ゆかりは線を描くように上から下へ降ろした。


「いわゆる、怖い人絡みだって」


 そう答えるゆかりの眼は、嬉々としていた。


 


 慈恩が木村のアパートに着いたとき、既に陽は傾き始めていた。

木村のアパートは大学から二つ先の駅だった。

 築十年ほどの白い五階建ては、意外なほど洒落た作りをしていた。

貧乏研究員の薄給生活を想像していた慈恩の期待は、大きく外れた。

 木村の部屋は、四階の角部屋だった。どちらかと言えば上等な部類だろう。

 ちっ――自分の事務所を想い、慈恩は無意識に舌を打つ。

 鍵は昨夜のうちに、真琴より預かっている。

 薄い革の手袋をはめると、慈恩は鍵穴に鍵を差しこんだ。

 ノブに手を掛けた時、微かな違和感を感じた。

 案の定、鍵が掛かっていない。

 真琴がこの部屋に様子を見に来たのは三日前。その際に、間違いなく鍵は掛けたと言っていた。

 慈恩が躊躇したのは一瞬だった。

 音をたてずドアを開くと、土足のまま滑るように部屋に入った。

 まるで猫科の肉食獣のように、足音ひとつ立てない。気配を殺し、室内を窺う。

 1LDKのワンルーム。

 人の気配は無い。

 だが、ひと目見て部屋が荒らされているのが分かる。

 玄関のすぐ右にあるユニットバスのドアは開け放たれたまま。

 キッチン、サイドボードは言うに及ばず。部屋中のありとあらゆる収納が乱暴に開けられ、中の物が乱雑に引きずり出されている。

 元は綺麗に整頓されていたのだろう。

 本棚はひっくり返され、本が全て床に散らばっている。

 ベッドのマットレスやソファーなどは刃物で切り裂かれ、ご丁寧にも中身のウレタンまで掻き出してある。

 部屋の中に台風が飛び込んだとしても、もう少しマシだろう。

 壁紙まで引っぺがすほどの念の入り様に、管理人が見たら間違いなく、泡を吹いて卒倒するだろう。

 それでも、物を踏まぬように気を付けながら、慈恩は部屋に踏み込んだ。

 ベッドであったはずの残骸の脇から、ガラス製の割れたフォトフレームを拾い上げた。

 遊園地でキャラクターの着ぐるみに囲まれ、嬉しそうに写る真琴と、爽やかな笑顔の青年が笑っていた。

 真琴に見せられた写真と同じ――木村健吾だった。

 確かに、生真面目そうではあるが、マリッジブルーで失踪しそうな風には見えない。寧ろ、どちらかといえば芯は強そうである。

 フレームから写真を剥がし、丁寧にガラスを掃うと、慈恩はその写真をポケットにしまった。

 キッチンでは、冷蔵庫の扉が半開きのままだった。中の氷が融け、冷蔵庫の下に水たまりを作っている。

 その上に、中途半端に握り潰されたビールの缶が転がっていた。

 間違いなく、この部屋を荒らした人間が飲んだものだろう。

 見れば、冷蔵庫の周辺だけ散乱した物がどかされ、そこにパソコンラックから持ってきたであろう椅子が置かれていた。

 ここで偉そうにふんぞり返っていた奴が、冷蔵庫から取り出したビールを片手に、三下に家探しさせた――大方、そんなところだろう。

 昨夜、真琴を襲った連中は、ここにきて真琴の情報を手に入れたのだろうか。

 だとすれば、どこまでの情報を手に入れているのだろう。

 恐らく、住んでいる住所から、職場のまで掴んでいると考えたほうがよいだろう。


 ――真琴が危ない。


 慈恩の脳裏に昨夜の、怯える真琴の顔が浮かんだ。

 直ぐに真琴のスマホに連絡を入れる。

 だが、幾らならしても繋がる気配は無かった。

 真琴は仕事に行っている。この時間なら、急げば終業に間に合うだろう。

 慈恩が急ぎ玄関に向かった時、ユニットバスの扉の下に、光る何かを見つけた。

 それは金色に『甲』の一字の書かれたバッジだった。


「はん。ドジめ」


 嬉々とした顔で慈恩はそれをポケットに入れると、部屋を飛び出した。


 それに気が付いたのは、その直後だった。


 蜘蛛の糸が、一本だけ纏わりついたような微かな気配――。

 自分が動いたことにより生じる、僅かな空気の乱れよりも、尚も微かなその感触――。 

 気のせいと断じても不思議でないそれは、耳元で囁く甘い吐息のような生臭さを持っていた。

 だが慈恩は口角を微かに持ち上げただけで、それを無視した。

 纏わりついていたそれが変化したのは、アパート脇に停めたRV車のロックを解除した時だった。

 突如、慈恩の全身に纏わりついていたそれが、氷の荊と化した。

 痺れるほど冷たい針が、慈恩の全身を撫でるように奔った。

 その感触を、慈恩は良く知っていた。

 頭でなく本能に刻まれたそれは――殺気。

 それも、捕食者が獲物に牙を立てる寸前のそれだ。


「面倒臭せぇな――」


 慈恩は振り返ることもせず、押し殺した声で言った。


「おやおや。思いのほか鈍くは無いんだね」


 慈恩のすぐ背後で、想像よりも半音高い声が応じた。

 振り向きざま慈恩は、鞭のようにしなるバックハンドブローを放った。

 その様子に、昨夜のチンピラ相手のような余裕はない。

 苛立ちも隠さない、容赦のない一撃だった。

 何処に当たろうとも構わない。

 どこかに当たれば、間違いなく相手の戦意を刈り取る一撃――だが、絶対の自信を持って放ったそれが、虚しく空を切った。

 声の主が紙一重で後ろに身を躱した。

 だが、慈恩は止まらない。

 踏み込むと、そのままフック気味の左のストレートを放った。


「危ないなぁ。当たったらどうするんだよ」

「なっ――」


 柔志狼の岩のような拳は、白くしなやかな掌に掴まれていた。


「おぉ、怖わ」


 緩く波打つ栗色の髪が揺れる。

 モデルのような優男が、にっこりと笑った。

 身長は慈恩より高い。一八〇は超えているだろう。だが、肉の厚みで言えば慈恩の半分と言っても過言では無い。

 年齢は二〇代後半と言ったところか。それよりも若くも見えるし、或いはずっと上と言われれば、そうとも見える。

 眉は細く、目元涼やか。肌の色は白いが、化粧でもしているのかと疑いたくなるほど唇は朱い。

 老若問わず、一〇人女が居れば、その全員が間違いなく眼を奪われるような美しい顔立ちをしていた。

 黒のタートルに白いトレンチを重ねた、優男に、慈恩の拳を受け止めることが出来るなど、誰が想像できただろう。

 当の本人である慈恩が、信じられずにいる。


 だが――。


「手前ぇ――」


 いつもの陽気さは何処へやら。男を見上げる慈恩の眼が、冷たく細められる。


 その時――慈恩の身体が緩んだ。


 次の瞬間――慈恩の拳を掴んだままの男の身体が、大きく右に崩れた。


「ホント、危ないなぁ」


 ふわり――と、一瞬早く、男は自ら宙を舞うと、何事も無かったように慈恩の前に立った。

 先程と違うのは、慈恩の拳が下を向いたぐらいである。だが、その拳は、未だ男の掌に掴まれたままである。

 慈恩は身体を緩めると、手首の返しで男の身体を崩して見せた。

 常人であれば、何が起こったかも分からぬうちに、地面に転がる筈である。だが眼前の男は、それを一瞬早く読み、自ら宙に跳ぶと、その力を逃がしたのだ。


「何者だ?」

「僕かい?」


 男が場違いなほど、屈託のない笑みを浮かべた。


「なかなか使うけど、それだけじゃ――無理だな」

「手前ぇは誰だ?」

「どうにも会話が噛みあわない気がするんだけど、気のせいかな」


 ちっ――慈恩が舌打ちと同時に、右の蹴りを放とうとした、まさにその時だった。


「――君じゃ無理だ」


 その言葉に、慈恩が蹴りを止めた。


「なにがだ?」

「この一件、君では荷が重い。悪い事は言わないから、手を引いた方が良いよ」


 あっけらかんと、男が微笑んだ。これだけで、若い女なら一瞬で恋に堕ちるかもしれない。


「手前ぇは何者で、何を知っている?木村の居場所を知っているのか?」


 慈恩の眼に獰猛な殺気が籠る。気の弱い者なら、その場で腰を抜かしかねない。


「この件から手を引く君が、知る必要ないでしょ」

「引くと誰が言った?」

「引かないとも言ってないよね」


 男が無邪気に笑う。


「おい優男。力ずくって言葉、知ってるかい――」


 言うや否や、慈恩が動いた。


「おぉ――」


 微かに、慈恩が動くと、男の身体の重心が右に寄った。

 一瞬、その僅かな重心の乱れが、男の自由を奪った。

 そこに、慈恩が右の回し蹴りを放つ。

 だが男は、それを無造作に持ち上げた左腕で受けた。

 不十分な体勢とは言え、容赦のない丸太のような蹴りである。

 適当に受けたのであれば、腕の骨は愚か、肋骨まで持っていきかねない。

 慈恩の脛に、男の骨の折れた感触が響く。

 案の定、蹴りを受けた腕は、前腕の真ん中辺りから折れた。

 だがその瞬間、男は慈恩の蹴りの勢いを受けて、大きく右に跳んでいた。

 ここで漸く、慈恩の拳を離したのだ。

 三メートルほど、離れたところに立つと、


「忠告はしたから」


 そう微笑むと、風のように走り去った。


「あの野郎――」

 後も追わず、慈恩は己の拳を見つめる。

 あの男が掴んでいた指の跡――まるでそれは、獣の牙の跡。

 肉食獣のあぎとに齧られたように、慈恩の岩のような拳には、赤い穴が五つ穿たれていた。


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