二日目

/2027年の幕間


「――あら、また煉ちゃんが?」

「はい、今度はキリン組の誠二くんを突き飛ばして。本当に暴れん坊で……」

「困ったわねえ。癇癪かんしゃく持ってるようには見えないんだけど。むしろちょっと心配になるくらい大人しい子じゃなかった?」

「そうなんですよ。運動は得意なんですけど、すごく静かと言いますか、とにかく主張しない子で」

「保護者の方はなんて? 何か子育てで上手くいってない事とかは?」

「御両親はお二人とも仕事が忙しいようで、あまり煉ちゃんに接してあげられてないみたいです。向こうの親御さんは、子供同士の喧嘩だからと許してくれましたけど」

「あぁ~……大変ねえ、それは」

「煉ちゃん、今回も一緒にいた留美ちゃんを庇ったからみたいで。いい子だとは思うんですけど……」

「そこよ、そこ。本当、どうしたものかしら」

「……はい……」


◇◆


 十年前。2027年、春。

 よく晴れた青空の下、街一番の見晴らしを誇る丘の上。そこに、和気藹々とした声が溢れていた。

 平塚市立七雲ななぐも幼稚園。その児童達である。今日はカリキュラムの一つとして、クラス揃って園外のスケッチへと出掛けていた。

 真面目に絵と風景に向かい合っている子供、一段落し友達と楽しそうに話している子供、スケッチもそこそこに丘を駆けまわり叱られている子供。暖かな春の日差しの中、その姿は様々だ。

 その園児達が絵を描いている大小のグループの中、やや離れた場所に、一人の児童がいた。芝生に腰掛け、クレヨンを動かしている。

 平板な表情で風景とスケッチブックを交互に見詰めている。何を思っているのかは窺い知れないが、動く手は素早い。

 そこに――。


「その雲なに? とびうお?」


 突然の襲来だった。何時の間に近づいたのだろう、別の児童が一人、脇からスケッチブックをのぞき込んでいた。


「……わ」

「おどかしちゃった? ごめんね!」

「ううん、だいじょうぶ、です。えっと、めい子ちゃん」

「うんうん、あづまめい子。れんちゃん何かいてるの? おそら?」


 同じクラスの児童だった。吾妻芽衣子。身ぎれいに整えられた髪にスモッグ、よく喋る、利発な子供だった。


「ここからみえる、まちを……」

「へえー。めい子の絵もよ。このまち! もっとこの絵、みてもいい?」

「えっ。いや、まだ、その……」

「……? どうしたのれんちゃん。お腹いたい?」

「なんでも、ないです」


 歯切れが悪い。この児童――明道煉は、先日男子相手に喧嘩をした。結果としてそこまで大事にはならなかったが、だが煉によるこうした事態は初めてではない。度々揉め事を起こしている。それにより、現在周りの児童から少々浮いてしまっていた。

 そして煉自身、最近はそのことですっかり気落ちしてしまっていた。

 そうした意味で、芽依子の物怖じしない行動は、多少奇異だったと言える。


「せいじくんのこと? もう許してくれたじゃない。気にしてないとおもうよ」

「でも、せいじくん、いつも、るみちゃんに意地悪してました、から。おとといも、るみちゃん嫌がってたのに、ですから……」

「せいじくん、るみちゃんのこと好きなのよ」

「えっ」

「みんなしってるわ。しらないの?」 

「……そう、なんですか?」

「そうよ。好きだからいじわるしてたの。男の子ってああなのよ。よねー」


 芽依子がぷりぷりとした様子で言い飛ばす。彼女にとってはいつものことであり、その様子も楽しそうである。しかし。


「……わかんないです」

「えっ」

「わかんなかった、です。そんなの、全然分かんなかったです。れん、何してもみんなイヤそうで……でもその『りゆう』も分からなくて……だから、みんなが喜ぶこと、いつも全然分かんないです……!」


 平坦な表情だった。何を思っているのかは窺い知れない。だが、その口ぶりには力が込められていた。

 話しながらも、煉の手はまた動き始めていた。スケッチブックの青空に、白い雲が描き込まれていく。


「あ、雲……。やっぱり!」


 答えを返せなかった芽依子が、その絵に気づいた。今日の春空には、もこもことした見事な綿雲が浮かんでいた。だが煉が描いているのは、羽根の様なうろこ雲。


「だめ、ですか」


 煉が手を止める。


「もこもこした雲だけど、よくみるとひらひらしてて、花びらみたいです。うまくかけないけど、この、かわいい雲をかきたいんです。だめ、ですか」


 その目は虚空を見つめていた。他人と同じように物が見えない。よかれと思ってしたことが全く上手くいかない。立つ瀬のなさに打ちのめされた子供の目。

 芽依子はスケッチブックへ視線を下げた。数秒の後、こともなげに言った。


「……いいんじゃない?」

「えっ……」

「しゅしゅっとしてキレイだとおもう!」


 全く、何のてらいも含みもない感想だった。幼児ゆえの気紛れである。

 だがそれが……その言葉が、煉にもたらしたものは、どれ程だったか。


「えっ、あ、はい……あ、ありがとうございます」


 煉の口ぶりから、力は抜けていた。だがそこには暖かいものが込められていた。


「うん! ね、めいこのはどう? じしんあるの」

「めいこちゃん、絵、じょうずですよね。あの、もこもこした雲も、かわいいと思います」


 いそいそとスケッチブックが開かれる。そしてそれを見て、詰まりながらも煉は言った。その目には光があった。


「うぇっ……あ、ありがと」


 芽依子は思わず目を逸らしてしまった。予想外だった。傍から見れば、すごく上手い絵、と云うほどの物ではない。

 絵は描くのは好きだったが、褒められたのは初めてだった。


「で、でも、めいこ、そこまで絵うまくないわよ。たっくんや、みさきちゃんのほうがじょうずだし……」

「うん、れんはすきです、けど……たっくんや、みさきちゃんのほうがカチっとしてて、ずっとじょうずです」

「はっきりいわないでよ!」


 人と人との出会いは、巡り合わせである。

 煉が、少し笑った気がした。


◇◆


「えー何だよーのその絵ー。犬がブタじゃーん!」

「ミドリくんはセンスがわるいです。がブタさんだからワンちゃんもブタさんにみえるんです」

「な、なんだよー! ブタばかにすんなよカワイイだろー!」


 その日から、煉の友達は増えた。

 元々運動神経が高く目立つのと、加えて繊細さも良い方向に発揮された。意外な付き合いの良さも相まってすぐに人気者になった。

 いつしか平坦だった表情も消え、笑い、怒り、驚き、様々な気持ちをくるくると外へ表すようになった。


◇◆


「うまくかけたわ! どう?」

「わあ……じょうずだと思います!」


 芽依子はあの日の写生以来、たくさんの絵を描くようになった。そしてその腕も、格段に上達していた。


「さいきんね、おとうさんもおかあさんもめい子の絵、ほめてくれるの。めい子はうまいなーって。えへへ」

「はい、めいちゃん、いっぱい描いてます。もうみさきちゃんくらいうまいです!」


 煉のクラス、オオワシ組で最も絵が得意な児童である。


「でしょでしょ? めいこね、もうすぐ、おとうとが生まれるの。おねえちゃんになるんだって」

「おとうと……れん、ひとりっ子だからうらやましいです」

「パパね、めい子がうまれるときも男のこがよかったみたいなの、シツレイしちゃう。いいおねえちゃんになって、やっぱり女の子でよかったっていわせるわ」

「いわせるです、できると思います」


 恐れるもののなかった、否、煉にとっての『恐れるもの』が解消された幼少時代。それは彼女たちが最も安らいでいられた時期だった。

 煉が両親の都合で神奈川を去るまで、その日々に終わりはなかった。


◇◆


「――煉ちゃん、よかったわねえ。すっかり明るくなって」

「ええ本当に。一時はどうなるかと思ったんですけど、大分落ち着いてくれて」

「あの様子なら引っ越し先でも問題なさそうね。肩の荷が下りたわ~」

「私たちよりはきっと園のお友達のお陰でしょうけどね」

「でも芽依子ちゃんも残念ね。よりによってお別れの日に絶対安静かぜっぴきなんて。仲良かったのに」

「はい。でもお話しするなら電話もありますし、その辺りは大丈夫ですよ」

「そうね」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る