一日目

1 岡山・倉敷 Ⅰ

 見惚みとれてしまった。

 その子の手から離れた風船が、あっという間に母親の頭上高く昇ってしまう瞬間に。彼女がガードレールに足を掛け、跳び、掴み取った動作があまりに迷いなく滑らかだったから。

 吾妻芽依子あづまめいこは、その少女の姿に見惚れてしまったのだ。


「すみません。よそ見してしまって」

「いえいえ、こちらも不注意だったもので。何か却ってごめんなさいね」


 謝る芽依子へにこやかに対応した女性は、そのまま子供の手を引いて去って行った。ふう。息をく。

 お互いの前方不注意による軽い衝突。よくある話と言えばその通りである。


「お姉ちゃん、ありがとう!」

「はいはーい、今度は気をつけてくださいね」


 手を振る子供に、たった今風船をその手へと引き戻した人物も、笑顔で応える。


「……あの、ありがとうございます。ちょっとぶつかってしまって。助かりました」

「え? わっ。ああ、いえそんなそんな。大丈夫です!」


 改めて向き合った。綺麗な人……いや、可愛らしい子だと、芽依子は思った。歳の頃は自分と同じ位だろうか。髪はポニーテルにまとめており、ぱっちりとした瞳につるりとした肌。クロップドパンツに空色のブラウスも、涼しげで可愛らしい。

 服のコーディネイトはそう負けているとも思わないが、その発せられる華やいだ雰囲気には、なんとなく罰の悪さを感じてしまう。

 にっこりとした表情と一瞬、目が合う。何だろう。どこかで見た様な……。

 だが芽依子は一瞬感じたそんな事を頭から振り払った。


「では、それじゃこれで」


 きびすを返す。別に急いでいる訳でもないのだが、本当に只何となく、居心地が悪かった。それに……出来ることなら、早めに帰りたい。

 だが、その時。


「……めいちゃん?」


 その少女が芽依子に向かってそう言った。


「やっぱり! 吾妻芽依子ちゃんですよね!? わあ久しぶり! どうして岡山に!?」

「えっ、ちょ、何……!?」


 芽依子は面食らう。今あったばかりのこの子は、自分を知っているのか?

 思い出せない。しかし彼女の困惑をよそに、この少女は非常に嬉しそうだ。何だというのだ。一体何がそんなに楽し――。

 ――いや待て、彼女の呼び方には覚えがある。この顔だちも、確かに記憶に残っている。誰だったか。誰……そうだ。


「……明道さん?」


 ◇◆


 明道煉みょうどうれんが岡山県倉敷市の自宅マンションを出たのは、遡ること約一時間半。午後四時を過ぎた辺りだった。七月も終盤、2037年の夏休みが始まって一週間が過ぎた頃である。


「じゃあ、行ってきます。お土産はバウムクーヘンでいいですか?」

「はぁい、行ってらっしゃい。お爺ちゃんにもよろしくね」


 家主であり保護者である叔母の、力の抜けた返答。掃除の行き届いた室内は、埃もなく、空調も概ね快適。夕暮れと言うにはまだまだ明るい夏の午後、少々弛緩した空気も、むしろ平穏の証と言えた。

 テレビでは、丁度番組の合間のニュースが流れている。先日関東で起きた遊園地の設備事故や政治家の不祥事、岡山市内で起きたマンションの小火ぼや騒ぎや、地方のマスコットキャラなどが画面を賑わせていた。


『マリアナ諸島近海を北上中の台風7号は依然勢力を強め、日本へ接近中です。週末から月曜にかけて上陸の見込みと――』


 天気予報に切り替わったテレビ音声を聞きながら、煉は指先を目の前の空間にスライド。途端にポンと音を立てて、空中に半透明の薄板、タッチクリーン式ホログラムが現れる。予定の確認だ。煉の指がこぶし大のホログラムをリズミカルに叩く度、リマインダーを始め新しい表示が現れては消えて行く。

 ……時間も電車の予約も問題なし、忘れ物も大丈夫。荷物の入った黒い犬型のリュックが、僅かに揺れる。


れん

「はい?」

「気をつけて行ってきなさいね。何かあっても無茶しないように」


 首だけこちらに向けて、叔母はそう送り出した。

 高校に入学して初めての夏休み、ついに計画していた神奈川までのひとり旅、出発当日である。関東まで足を運ぶことは幾度かあったが、この岡山からの距離を一人で、というのは煉にとって初の体験だった。


「ありがとございます! では」


 元気よく敬礼して、家を出た。

 神奈川県平塚市。相模湾に面し、いわゆる湘南にも類する目的地は、幼少時に引っ越してしまった煉の生まれ故郷だ。そこに居を構える祖父に、八月半ばまで世話になる。何という事はない、旅と言うより「夏休みの間、田舎の祖父の家で過ごす」そういう計画である。違うと言えば、平塚はあまり田舎ではない。それだけだ。

 そう、単純に考えれば「旅行」とは少し違う。しかしそれでも煉はこれから神奈川への移動と、そこで過ごす日々を旅と捉えていたし、故に「旅行」だとも考えていた。数えてほぼ五年ぶりの郷里への訪れは、煉にそういった感慨を呼び起こさせていたのだ。

 朝から続く晴天の下、気温は高かったが、気持ちもまた高揚していた。


 倉敷から岡山市までは徒歩と電車で約一時間。さほど混んでいない車内で、煉は何気なく自らの膝を撫でた。

 「」叔母の言葉はこれのことも含んでいるのは間違いないだろう。マイペースなようでいて、よく見ている。そして優しい。叔母らしい言い方だった。

 高校生の女子が、一人旅はともかく夏休みを田舎の祖父の家で過ごす。考えてみれば少しミスマッチなイベントだなと自分でも苦笑してしまう。

 岡山にだって友人はいるし、色々楽しく過ごす術には事欠かない。しかし中学三年の冬からこっち、自らの精神状態を考えれば、こうしてみるのも良いだろうと決めた話なのだ。

 自分で思い立って自分で計画した。資金の為にアルバイトもした。思い出もある田舎で自分を見つめ直せれば、何かが変わるかもしれない。

 手元にポップアップしたホロスクリーンが、メッセージアプリへの着信を告げる。


『もう出発した頃か~? 昼寝で寝坊なんてするなよー(笑) 透一』


 十年前に引っ越した市だが、今の時代、インターネットの発達は地方間の距離を大きく縮めている。昨晩もチャットで話したこの友人を始め、あの時共に過ごした幼馴染の何人かは、今でも交流がある。彼ら、彼女らと直に顔を合わせるのも、この旅で楽しみにしている予定の一つだ。


『万年寝ぼすけのミドリくんじゃないんですから。この間だって送ってくれた画像、読み込めないデータでしたよ。もっとしっかりしませんと(笑)』


 顔文字で締めくくった返事を送った所で、電車は岡山に到着した。

 そろそろ夕方とは言え、夏の時期はまだまだ日が高い。明るい夕陽ゆうひの下、部活帰りの学生や定時上がりの会社員で、少しづつ通りが賑わって行く時間帯である。倉敷と比べてそこまで差がある訳ではないが、県の中心なのだと実感した。

 岡山駅を出たところで、煉は時刻を確認した。寝台特急の出発まで、映画と食事で過ごす予定である。シリーズを追っている、ハリウッドの最新作が上映中なのだ。


 ――ん。バッチリ。


 上映まで三十分。丁度いい時間だ。数年前この辺りに出来たシネコンは、煉のお気に入りである。慣れた道のり、桃太郎大通ももたろうおおどおりを北に曲がった時だった。


「あっ」


 目の前の光景を認識するよりも先、耳に飛び込んできたのは小さな叫び声だった。

 そして直後に、目に飛び込んでくる状況。二、三メートルほど前方。五歳くらいの男の子と、何らかの不注意だったのだろう、手から離れてしまった風船。隣には子供の手を引いている母親。そして近くには、母親より更に若い女性、いや少女か。

 既に風船は母親の頭を通り越し、更に空高く昇ろうとしている。

 考えるより先に煉は動いていた。反射的に、感じた。

 一歩、駆け出す。二歩、跳ぶ。三歩、そのままガードレールを足場に更に跳んだ。

 手を伸ばす。天に向かうその風船が、煉にはとてもゆっくりに見えた。


 ◇◆


「すみません、助かりました。ありがとうございます」

「お姉ちゃん! ありがとう!」

「いえいえ、今度は気をつけてくださいね」


 頭を下げる母親と、興奮気味に礼を言う子供を、煉は笑顔で見送った。手に握られた風船が上下に揺れる。また手放さなければいいのだが、とは思うものの、微笑ましい姿である。


「ママあのお姉ちゃんすごかったね! にめーとるくらい跳んだ! にめーとる!」

「ねえ。かっこよかったねえ」


 うん、良い事をした。さすがに二メートルは跳んでいないが、ガッツポーズを取る。結果は元より、今のジャンプは結構気持ち良かった。中学の頃やっていたバスケでも、中々ない位の集中とパフォーマンスだった。

 そう、問題ない。煉は複雑な胸中で、僅かに視線を落とす。

 膝には何の支障もない。完治とまではいかないが、やはりこの程度ならばどうという事もないのだ。

 ……だからこれは無茶じゃない。無茶じゃありません。煉は自分に言い聞かせた。


「……あの、ありがとうございます。ちょっとぶつかってしまって。助かりました」

「えっ? わ、ああ、いえそんなそんな! 大丈夫です!」


 とっさに声をかけられ、思い切り素っ頓狂な声を上げてしまった。確か先ほど母親の隣にいた、一瞬だけ視界に入った少女だ。

 しまった、忘れていた。少々恥ずかしく悦に入っていた最中なのも手伝って、自分でも「これはない」と思う様な返事である。何が大丈夫だと言うのか。落ち着け、落ち着け。

 少女の恰好は肩口で切り揃えたボブカットにベージュのカットソー、細身のロングパンツ。自分と同じくらいな歳の子だ。シャープなまなじりの瞳が、何だか猫みたいだと煉は感じた。きれいな子だとも思う。ただ少し疲れているのだろうか、顔色には若干の陰りが見えた。


「あの、それじゃこれで……」


 少女は軽く会釈して去ろうとした。

 その仕草が、具体的に何を思い出させたのかは定かではない。強いて言うなら、昔一緒に過ごした時の空気、としか言いようがない。だがその空気と雰囲気が、煉の記憶にかちりとハマったのだ。


「……めいちゃん?」

「えっ?」


 一たび記憶の残滓ざんしを掴んでしまえば、後は一気に当時の面影が重なってくる。


「やっぱり! 吾妻芽依子ちゃんですよね!? わあ久しぶり! どうして岡山に!?」

「えっ、ちょ、何……」


 そこまで言った所で女子の目が驚きに丸くなり、そして呟きがこぼれた。彼女も気が付いたのだ。


「明道さん……?」


◇◆


「本当に偶然ですね! 元気でした?」

「え、ええ……」


 歩道での再会から数十分、通りから多少奥まった所にあるカフェで、煉と芽依子は向かい合っていた。席に、アイスコーヒーとクリームソーダが運ばれてくる。


「どうして岡山に? 旅行ですか? 引っ越してきたって訳じゃないですよね」

「え、ええと、父が単身赴任で。ちょっと様子を見に来た帰りなのだけど……」

「ああ、なるほど。お父さん、こっちの方のお仕事だったんですね。へえー……」


 木目調のシックな色合いと八十年代風の内装でまとめられた店内は独特の空気を醸し出しており、BGM代わりのラジオも上手く調和して、郷愁きょうしゅう的な雰囲気を作っていた。メニューの味も相まって、市内のカフェでも煉行きつけの一店である。


『だからですね、この喜多見一羽いちは女史の事故。これを陰謀と捉える人が……』


 ラジオの音声が、丁度会話の切れた所に挟まる。煉は、はっとした。


「わ、ごめんなさい。わたし一人で喋っちゃってました。舞い上がってましたね。いけないいけない」

「い、いえ。それは大丈夫……」


 夏休みとは言え、平日の夕暮れ時。店内は部活帰りの学生やサラリーマン同士の打ち合わせなどで、多すぎず少な過ぎず、心地の良い賑わいを見せていた。

 二人の間に走った沈黙に、背後席の無関係な談笑が被さる。


 ――しまった。強引に誘いすぎちゃったでしょうか……?


 芽依子は幼稚園時代の付き合いの中でも、現在連絡のつかなかった幼馴染だ。だが煉にとっては、幼少時の彼女との思い出は現在に至るまで宝物であり、今でも大事な友人の一人だと考えていた。それだけに、こうして誘って、却って彼女への負担になる事は避けたかった。


「……ねえ。明道さんは、どうして岡山に? 引越し先、こっちだった?」

「えっ」


 しかし、その沈黙を破ったのは芽依子の方だった。

 芽依子の瞳には、煉の様子を窺うような暗さと、その奥に閃くわずかな勇気の光があった。全力のパスだ。煉は息を整えた。応えなければならない。


「んー……最初に引っ越したのは長野だったんですけどね、まあそっちでもまた都合がありまして。中学上がる前に岡山に越してきたんです。最初は、こんな田舎ーって思ったんですけどね、慣れれば中々バカに出来ませんねぇ。住めば都です、ほんと」

「そうだったの。それで今日会うなんて、何だかすごい偶然ね」


 芽依子が少し笑った。上手く繋げることが出来たようだ。煉の顔もほころんだ。


「それでね、夏休みでしょう? 神奈川に行くんです。今から」

「神奈川? もしかして平塚に?」

「はい。向こうのお爺ちゃんの家にですね、八月半ばまで遊びに行こうかなと。それで駅に出た所に、めいちゃんとバッタリって訳です」

「ふぅん……でも、何だか意外。明道さん垢抜けてるし、夏休みに親戚の家にって、ちょっと思いつかなかったな」

「あはは、めいちゃんもそう思います? それは……少し長くなりますけど、いいですか? 中三の頃、ちょっと膝壊してしまって」

「え?」


 怪我と言った。聞いていいの? と、芽依子が瞳で問いかける。煉も目で答えた。

 ――大丈夫。聞いてください。


「中学に入ってから、わたしバスケ始めたんです。最初は何となくだったんですけど、これがハマっちゃって。部活も楽しかったんですが……中学最後の大会で派手にやってしまいまして」


 若干、おどけて言う。やや自虐的だが、そこに暗い含みは薄い。


「結構、大がかりな手術でした。今も膝に、稼働補助用の電動チップ入れてます」


 少しだけ、視線を落とす。専用のファンデーションで手術痕を隠した膝があった。


「まあ、今はもう殆ど治ってるんですけどね。激しいスポーツをするには、少し動く範囲が狭まってるってだけで。……けど、それから高校生になってもまだ燻ってて。バスケに復帰出来ないってのは、もう自分の中で整理出来たつもりだったんですけど」


 事実だった。全快とはいかないが、リハビリもこなし充分に回復している。しかし、高校入学以後、煉は何を試してみても、夢中になることが出来ない日々を送っていた。だがバスケを断念せざるを得なかったから、と言うのも少し違う。

 中学の頃はあんなに打ち込んでいたバスケにすら、関心を持たなくなった。練習風景を見ても、なぜ自分はこのスポーツにああも熱心になっていたんだと言う思いすら、頭をよぎる。そんな自分に気付いてしまった事が酷くショックだったし、戸惑った。


「だからまあ、自分探しって奴です。心機一転、夏の出会いが君を変えるー! ……みたいな」


 最後の部分で、少しはにかんだ。あっけらかんとした笑みだった。言った事は事実だし、悩みもあるが、それはそれとしてまずこの夏休みを楽しみたい。そういった笑顔だった。

 クリームソーダのアイスを崩して口に運ぶ。店内は冷房が効いていたが、この季節に相応しい、冷たい甘さが心地よかった。


「そんなことがあったの……」

「ごめんなさい、いきなりこんな話しちゃって。リアクションに困りますよねー。気にしないでください。むしろスルーしちゃって」


 煉の顔がわずかに赤く染まる。言った後で照れが襲って来たようだった。その煉を見て、意を決したように、芽依子が切り出した。


「あ、あの明道さん」

「はい?」


 ソーダでのどを潤しながら、煉が芽依子を見た。


「神奈川に行くのなら、私も帰る所だから。その、よかったらだけど、一緒に行ってもいい……かしら……?」

「いいですよ」

「そうよね。ごめんなさい変なこと……えっ?」

「もちろん! わたしは全然OKです。むしろ大歓迎!」


 驚いた芽依子が、更に目を見張る。非常に意外そうな反応だった。


「あ、でもわたし予約してるの寝台特急です。一緒に行けるのは嬉しいし、楽しそうだけど……めいちゃん、お金大丈夫ですか?」

「それは大丈夫。お財布には余裕あるから」

「わ、それは頼もしいですね……」

「……でも、そうね、ちょっと驚いちゃった。ありがとう、よろしくお願いします」


 芽依子が安心した様に目を細めた。少しは緊張も解けただろうか。ならばと煉は畳み掛ける。


「じゃあ、出発までご飯にしましょうか。ここでもいいんですけど、わたし美味しいとこ知ってるんです。せっかく岡山来たんだから、名物案内しちゃいます!」


 立ち上がった煉が手を引いて、勘定に向かう。一人旅がいきなり一人旅ではなくなってしまったが、煉は気にしなかった。

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