Ⅱ:新ユング派

 マックは片方の口端を吊り上げてニヤリとまた大きく笑うと、彼の方に顔を向けようとせず、カウンターに肘をついた手に持ったグラスをじっと眺めている俺を置いて、くるりとまたスツールを回転させて右隣のエマの方を向き、今度はひとしきり中世のヒエロニムス・ボスについてひとしきり語り始めた。ウィリアム・ブレイクと同じく、いかにもマックが好みそうな`サイケな’画家だが、芸術家同士の妻とはいえ、女相手にする話題にするにはいささか色気のない画家だ。


 俺はウォッカの入ったグラスを手首でくるくると回転させ、その無色透明の液体を中に湛えた円筒形のグラス表面に、薄暗いバーのあちこちから飛んで来る照明がキラキラと反射するのを何気なく眺めていたが、マックとエマよりさらに向こう、右奥の円形のテーブル席の周りについた連中がどっと一斉に声を上げるのが耳に届いてきた。見ると、背が低めのぽっちゃり太ったデブが席から立ち上がり、口から唾でも飛ばしそうな勢いで何やら熱弁をふるっている。同じデブとはいっても、顔や腕にそれほど脂肪がつかず、まだがっしりした骨格が表面に反映されたマックと違い、あっちのデブは顔から腕から、全身ぷよぷよと太ったぽっちゃりデブだった――腹の部分だけとればマックに断然負けているが。しゃべる調子も、笑顔で上機嫌の大声で語るマックと違い、元々しょぼくれた目をさらに小さく細め、早口で切羽詰まった様子で途切れなく何やら延々語り続けている。妙に弾力性のある甲高い声は大きく、こちらにもよく通るのだが、早口でしゃべる肺活量でも競っているのかという余裕のなさは、その言葉が耳に入ってくるこちらにも息切れを起こさせそうだった。伝えたいことがあるにしてももっとゆっくり落ち着いてしゃべれないのかと思うが、また同卓の連中が一心にしゃべり続けるぽっちゃりデブの顔を見ながら、うんうんと真面目な顔つきをして神妙にうなずいている。大きな円卓に7人ほどが集まっているのだが、バーの他の連中が一人静かに酒を飲むか、あるいは落ち着いた談笑にせよ、マックのような下品な態度にせよ、仲間と笑いさざめいて一幅の陽気なひとときを作り出している中で、その団体の一角が作り出す真面目な空気の雰囲気は異様だった。時々しゃべりまくるぽっちゃりデブの言葉に同意や相槌のかけ声が飛ぶ。このバーに来るといつも見かける、新ユング派と呼ばれる一派のうちの詩人グループだ。


 ――60年前、20世紀前半の心理学者C.G.ユングが提唱していた、人間の深層意識の基底に存在する、国や人種、生活様式が異なるにもかかわらず、神話表現の反映などに共通するイメージ――集合無意識――の元となる原型質の存在が遺伝子レベルで証明された。これは画期的な出来事で、当時の世界中の人々を一時大きな騒ぎに陥れたそうだが、特にドラッグを常習するヒッピーや、芸術家肌の人間に熱狂的に受け入れられた。その後間もなく、脳と脳幹の神経細胞レベルでそのイメージに対応する部分が発見されると、連中はこぞって自分達の内なる無意識のイメージを強化するため、その相当する神経部位の働きを強調する手術を受け始めた。それが新ユング派と呼ばれる集団で、世界中に存在する。何度かそういった連中と関わりを持ったが、連中は、下で物が燃やされ、空に昇っていく煙を見るだけで目をぎょろ付かせ、イッたような表情でそれを指差しながら、「見ろ見ろ! ヤコブの梯子だぜ!」などと熱狂的にのたまう。今や連中にとってはこの世の全てが神話の原型表現の寓意や象徴の嵐のようだった。それでよく仕事や日常生活が務まるものだと思うが、やっこさんたちはそれなりにうまくやって満足なのだろう。逆に、そうした人間意識の原形質の存在を許そうとせず、全てが人間の自由意思によって認識され、行動するべきだという厳格なリベラル連中は、反対に自らその原形質部位を切除するか、薬品で働きを失わせた。そうした連中は逆にいつも硬い、博物館に飾られている100年以上は前の開発黎明初期の角張った、変に人間の顔を模した出来損ないのようなロボットの顔に似た表情をしており、会話をしていても、妙に堅苦しく、およそユーモアというものを解する能力をも同時に失ってしまったようだった。代わりに仕事などで関わる論理能力はすさまじい飛躍を示しはしたが――。俺に言わせれば原形質を強める新ユング派の連中も、まるまるそういったものを去勢してしまったリベラル連中もどっちも阿保だ。前者はいつも熱狂して周りを見ず騒ぎ始める阿呆だし、後者は想像力をほとんど失い、感情的に薄められたでくの棒と化した、痴呆めいた阿保だ。

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