第2場:食事を終えた山本氏は……

 大口で食事を進め、一足先に食べ終えた氏は立ち上がると、後ろの食器棚の、こまごました物を放り込んだ引き出しからアスピリンの小さな錠剤が入った銀シートを取り出し、ペリッとシートを破りながら一粒押し出して手の平に乗せた。テーブルを回り込んで、まだ姿勢正しく、小口でちょびちょびと食べ進めている時子さんの席の後ろの流しに行き、開け放しの食器乾燥機から取り上げたガラスコップに、水道の蛇口から出した水を入れ、手にしたアスピリン錠を口に放り込むと、その水でぐいっと飲み下す。これで今日一日の服用分はおしまいだ。


「ごちそうさま」

 氏は言うと、そのままそそくさと台所から出ていった。朝食と薬を終え、彼にはすることがあるのだ。時子さんもそんな彼に対し、ご飯を口に含み、ほおばったまま軽くうなずいただけだった。氏の食べ終えた食器は流しに持っていかれることもせずにテーブルの上に放置されたままだったが、氏の忙しい現役時からの習慣で、定年退職した彼の時間がたくさん空いた今も、彼女は別にそれに文句を言う風も無く、いつも通り黙って見送り出した。


 氏は、廊下を隔てて、台所と向かい合わせの元の自室に戻った。同じ和室同士、襖で隣り合った部屋は時子さんの居室だ。昔は、今氏が一人で使っている部屋に夫婦並んで布団を敷き、隣の和室は来客用の他、子供たちの遊び、一家団欒の場として使ったものだが、子供達二人が自立して揃って家を出て行くと、そのために空けておく必要もなくなって、今は時子さん一人の部屋として使われているわけだった。しかし、あまり物を持たない時子さんの趣味で人形などがこじんまりと飾られているだけで、いつもこぎれいにさっぱり掃除されているので、昔と同じく、今も来客の折にはその部屋を使用している。2階の子供たち二人の部屋は彼らが出て行ってからもしばらくそのままに残しておいたが、上の慧子が嫁いでからは、もう実家に戻ることはあっても彼女が使うことはないので物置にしている。隆の部屋は相変わらずそのままだが、これも今付き合っている娘さんと入籍すれば同じように片付けることになるだろう。下の隆にも早く身を固めて落ち着いてほしいという気持ちと、今のように時々実家に帰省しては、彼のために変わらず残してある部屋で昔のように過ごして、一時でも落ち着いてほしいという思いがないまぜになっている。2階に上がった折など、今はすっかり物置と化した慧子の部屋と見比べて、昔と違い、今は妻によってすっかりきれいに片づけられてはいるが、息子がこの家に住んでいた時の生活の名残を残す家具や、残された本などの数々を見ると、過ぎ去った、騒がしくはあるが、明るい団欒の日々を思い出すのだった。


 氏は部屋に戻ると、畳の上の布団を三つ折りに折り畳んで場所を空け、箪笥から服を引っ張り出すとパジャマから着替えた。着替えたといっても、青と白の半袖のチェックシャツに、グレーの長ズボンのごく軽いものだ。もはや現役時代のようにカチッとスーツとネクタイを着こなす必要もない。年相応にシックな暗めの色調を選んではいるが、カジュアルな日常着に着替えた氏は、自身の姿を立てられた等身大の姿見に映すと、それを眺めながら腹をぽんぽんと叩いて満足そうに微笑んだ。中肉中背ながらがっしりした体格の氏は、40過ぎから急に腹が出てき、さらに50前にはやがて髪が薄くなりもし、その二つに一時はたいそう悩むところまでいったものの、定年退職し、こうして悠々自適の生活に浸ってみると、それもまた余裕を持って眺めることが出来る。出っ張った腹は恰幅があるともいえるし、髪も生え際が後退したものの、中の地帯の地肌がはっきり見えるところまでは行かず、逆に薄くなったおかげで頑丈で頭蓋骨による精悍な頭の形がそれだけ強く外部に表れ、それをきれいな銀髪で軽く飾り立てていると見る事も出来る。つまりはものは見ようというわけだった。


 氏は、着替えると、どうやら今しがた食べ終えたらしく、立ってカチャカチャとテーブルの上の食器を集め始めている時子さんを、戸が開け放しの台所を横目に素通りして、洗面所に行くと着替えたパジャマを、洗い物を入れる折り畳み式のバスケット籠に放り込んで、いよいよ湧き立つ気持ちで洗面所を出て、そのまま廊下を進んでいった。


 木の板の廊下をそのまま進むと右手に、黒タイル張りの広々した土間に靴がきれいに並べられた玄関のスペースが広がり、左手、玄関から見て真正面に木の戸と階段が並んでいる。奥手側に、上部に小さな四角い曇りガラスの窓がついた木の開き戸があり、その戸口から廊下の方向に沿う形で、むき出しの太い木の建材が狭い廊下を圧するように張り出した階段が、ベランダと元二人の子供たちの部屋がある2階へと続いている。


 氏は軽い足取りで廊下を進んでゆくと、浮き浮きした気分で左奥手の木の戸のドアノブに手をかけ、引き開けた。

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