クラシック愛盤家山本氏の危機

猫大好き

第1場:山本氏の朝の爽やかな目覚め

 その日も、朝7時きっかりに山本氏はぱっちりと目を覚ました。今さらつける必要とてない目覚ましに頼っての事ではない。すでにだいぶ前から地平線の上に上った太陽が高さを増し、その光を強めて、カーテン越しに氏の部屋を爽やかな5月の初夏のまばゆい光で満たした。白と黄、オレンジが入り混じった暖かい陽光に、窓の外にある庭の植木の葉から反射したキラキラした緑の光も加わる。


 山本氏の寝覚めはその日もすっきりしたものだった。目を開くと、規則正しい木の羽目板張りの天井から吊り電灯がぶら下がっているおなじみの光景が目に入り、体には、毎日よく洗われて清潔に保たれた真っ白な枕カバーと布団ののさらさらした質感が皮膚に感じられる。昨日から持ち越す精神や肉体の疲労も無い。細胞の数々がこれから始めようとする一日の活動を期待して、喜び跳ね回ろうとしているようで、体は軽く、すなわち、すこぶる快調というわけだった。


 畳の上に敷いた布団の寝床から離れ、廊下に出ると、台所の方から朝ご飯のいい匂いが漂ってきた。響き渡る、食材を切る包丁が木のまな板を打つトントンとリズムのいい音が、一打ちごとに、いい目覚めのはっきりした意識に、朝の爽やかな空気を刻み込んでいくようだった。


 氏は台所の前を通り過ぎ、洗面所に。そこで顔を洗い、髭を剃って、寝ている間に顔から出た余分な老廃物を落とす。冷たい水が顔の皮膚をきりりと引き締め、さらに水に濡れた皮膚が空気をひんやりと内部に受け入れることで、より朝の清冽感を強めた。耳の後ろや、後ろの髪の生え際の首筋まで水で濡らして洗い、その強い冷涼を感じるのが氏の好みだった。棚にきれいにたたまれて用意されたふかふかしたタオルで顔を拭き、続いて歯を磨く。シャカシャカとテンポよく小気味よい音を立てながら磨き、冷たい水と清涼感ある歯磨き粉を歯ブラシの毛で歯と歯茎の間に沁み込ませる。続いてコップの水ですすぐと口内がさっぱりした。これでようやく寝ている間の汚れを落としきれた感じだ。水を一口飲み、最後に用を足して手を洗うと再び戻り、台所のテーブルの席に着く。


 広々としたテーブルには、すでに白ご飯と焼いた鯵の開きが二人分、向かい合った席に用意されていた。氏と、奥さんの時子さんの分だ。氏が席に着いて待っていると、ほどなく鍋がぐつぐつと煮立ったコンロの火を消し、時子さんがお玉で鍋の味噌汁を木の茶碗に移し替えた。これも二人分茶碗に入れ、順にテーブルの上に置く。山本氏はコンロに近い向かいの角に置かれた茶碗を、身を乗り出して取ると、目の前に置かれた白ご飯と魚に、さらにその味噌汁を加えて、きれいな三角形を形作る。時子さんも自分の分を置くと、氏の向かいの席に着き、いよいよ二人で朝食の始まりだ。二人で箸を親指で挟み、手を合わせ、いただきますをすると、食べ始めた。


 氏は、初めに白ご飯を箸の先にほんの一つまみ取り、口に運んだ。美味い。起きた時から漂っていた魚と味噌汁と炊きたてのご飯の匂いが今まで食欲を刺激し続け、腹がぐぅと鳴っていたのだ。席に着いた時から唾液が口に溢れ出していた。茶碗を手に持ち、これも軽く一口味噌汁をすすり、魚をまた一つまみ。いずれも美味かった。味覚の刺激が食事への心づもりを終えると、箸で大きくご飯をつまみ取り、いよいよ本格的な食事を開始した。


 しばらく黙々と二人で食べ続ける。手に茶碗を持ちながらも、どちらかというと前のめりに、腕と肩の大きな動作で、口を大きく開けて食べ物に食らいつく態の山本氏に対して、奥さんの時子さんの方は、背筋をピンと伸ばし、茶碗をきちんと顔の前まで運び、静かに食べる。目を閉じて味噌汁をすする時など上品なものだ。


 しばらくすると、時子さんが口を開いた。

「そうそう、昨日言い忘れてたけど、慧子からそら豆が送られてきたのよ。良夫さんの実家からたくさん送ったおすそ分けね。足が早いから今夜にでも煮るか焼くかするわね」

「焼いて醤油をかけるといいつまみになるな」氏は大口に放り込んだご飯をもぐもぐと放り込みながら奥さんの方を見やって言った。

「もう、ほどほどならいいけど、お酒は気を付けてくださいね」


 時子さんにたしなめられた。氏は現在定年退職後の68歳だが、65歳の退職直後に心筋梗塞で一度倒れて入院した経験があるのだ。幸いそこまで大事に至らず、手術後すぐに退院でき、後遺症もほとんど無く過ごしてこられたが、それ以来処方された抗血小板薬のアスピリンは今も必須で、この朝食後にもいつも通り飲む予定だ。入院以来喫煙は完全にやめたが、適度な飲酒なら心筋梗塞にはかえっていいと医者に言われたので、酒は飲む量を減らしたものの、毎晩一合を少し切る量を今もたしなんでいる。今口にしている味噌汁と焼き鯵も塩の味付けは控え目だった。


 娘の慧子は、嫁いだ先の良夫さんの家から、旦那さんの実家から毎度大量に送られてくる野菜などをしょっちゅう送ってくる。まだ子供も小さいのでさばききれず、近所の人たちにおすそ分けなどもしているようだ。おかげで送られてきた野菜をさばくためにどんどん料理の腕は上がっているようだが。こちらとしても新鮮な旬の食材をたくさん食べられるのはありがたい。この前は椎茸を送ってきたし、これからの季節はまだまだこれが続くだろう。もう数年前からこの送られてくる野菜がだいぶ楽しみだった。婿の良夫さんも、慧子より一回りは年上だが、いい人だし、共に酒を飲んだことも何度かある。息子で、慧子の弟の隆はまだ結婚していないが、もう数年来付き合っている女性がいて、こちらも気立てのいい素敵な娘さんだった。そのうち入籍するだろう。今妻の時子と二人で挟んでいるテーブルもかつては子供たち二人と家族四人で囲んだもので、その時はちょうどよかった広々した大きさも今はがらんとして、やや寂しくもあるが、子供二人を無事立派に育て上げて送り出し、二人ともうまくやっている安心感もあり、自分の長年の仕事も勤め上げた身として、山本氏の今の生活は安泰で悠々自適たるものだった。

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